あるライターの書いた安楽死についての記事を読んでいて、非常に筋の通っていない気色悪さを感じました。

なんというか、自己欺瞞のお手本のような、自分をごまかすことに人生を費やしてきた人が、悪あがきを肯定するためにここまでやっちゃうんだ、という狂気を感じましたね。

 

・安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること

 

 

内容を要約すると、アシュリー事件という「重度障害児の介護負担を減らすために障害児が成長しにくいようにする療法」を知ったライターが、各国で合法化されていく安楽死、自殺幇助とそれに伴う臓器提供に警鐘を鳴らすというもの……

 

ではなく

 

寝たきり全介助の娘の介護に自分の人生を費やしてきた後悔と憤りを抑えつけるために、どんな状態でも生きることが絶対的に素晴らしく、介護することされることは非常に豊かで尊いものだと断定して自分を騙すための記事です。

私の主観ですけどね。

 

そう思う理由はいくつかあります。

 

①娘のこと『ある』と表現している。

私にはアシュリーと同じような障害像の娘がある。 

私には寝たきりで全介助の娘がある。 

 

文中でこう表現しているのです。

一度なら誤記とも思えますが、二度書いているということはこの人は「娘という人間がいる」ではなく「娘という物体がある」と認識していることを表しているのでは、と思えるのです。

安楽死や障害児に手を加えることを忌避するこの人自身が、障害児のことは「人間ではなく物」と思っており、そのことに気付いていないか、気づいていてそれをおかしいと思っていない、ということかなと。

 

正直、障害をもった娘のせいで私の人生はひどくお粗末なものになった、だからこそ日本も早く安楽死の制度を導入すべきだ、と言う方が納得です。

この人の記事は言い分と感情が合致してないんですよ。

そこが気持ち悪い。

 

 

②自分の主観が双方向の共通認識だと思っている。

介護し介護される関係性の中には、とても豊かな、豊饒と呼びたいようなものがあるということを感じてきた。 

 

文中でこう書いています。

介護と豊かさがつながるというのが私には正直理解できません。

認知症の祖母の厄介さを知っていて、介護施設に勤務してので「介護制度をつかさどる国の闇と施設を利用する家族の本音と介護の実態」を私は知っています。

介護に豊かさがあるのであれば、介護施設なんて存在しないんですよ。

 

介護という重責、被介護者という重荷を背負って人生を棒に振ることは豊かで尊いことなんだ! ということにしておかないと、自分が犠牲にしてきた人生の後悔、恨みを受け止めきれないんでしょうねこの人は。

 

私は介護を美化する偽善者が大嫌いです。

介護している自分を正当化して他者にそれをプッシュしようとするヤツは悪党だと思います。

介護が必要な人は「邪魔だけど死なないうんこ製造機」なんですよ。

どんなに綺麗事並べても突き詰めればこれです。

 

 

③否定・拒否したい割に安楽死に詳しすぎる

この人は安楽死についてものすごく詳しいと思います。

それが私には、安楽死に心惹かれてる人に見えてしかたないんです。

 

本当は娘に安楽死してほしかったんじゃないの?

あなたこそ安楽死制度を利用したかったんじゃないの?

今になって海外で容認されてきた安楽死が羨ましいから否定したいんじゃないの?

 

こう思えてしかたないのです。

以前の記事でも書きましたが、攻撃したい対象というのは大体羨ましい対象なんですよ。

この人の執拗な安楽死否定は、もう娘の安楽死を求めてやまない自分をごまかすために狂気を纏ったような気迫のようなものを感じます。

この人はものすごく矛盾している。

 

 

④倫理を説く割には、臓器提供で助かる人の話が一切出てこない

死にたい人の死が生きたい人の生になる、というのは何もおかしなこともない、矛盾もない筋の通ったものに私は思えるのだけど、そのことをこの人は「おぞましい」と書いている。

死にたい人を無理やりにでも生きさせるのはおぞましくないのだろうか?

 

この人は、死にたい人を見たことがあるのだろうか?

死にたいと思ったことがないのだろうか?

この人は、死を求める自分が恐ろしくて死を忌避してるだけなのではないのだろうか?

 

すごく端的に言えば、この人は娘に早く死んでほしかったんじゃないでしょうか。

でもそれを望むことを許せない自分を正当化するために、安楽死を攻撃してるのではなかろうか?

私にはそう見えます。

 

 

確かに安楽死と臓器提供が絡むのは、ある種の危険を伴います。

臓器はお金になりますからね、お金の周りには悪党が集まりますから、臓器のために安楽死を強要させられたり騙されて安楽死という方法で殺される人も出てくるでしょう。

 

ですが、そんなのは今に始まったことじゃないでしょう。

安楽死の制度があろうとなかろうと、毎日どこかで誰かが自殺して、どこかで誰かが誰かを殺してるんですから。

殺す手段に苦痛が伴わないだけむしろ優しいのではないかと思います。

臓器提供のシステムがあろうとなかろうと、臓器は世界中で売買されているでしょうし。

そもそも毎日動植物の命を食って生きてるのに、人間の命や臓器を犠牲にして生き残るのが良くないって、人間はそんなに偉くて尊いか?

 

この人の言葉にはあちこちに欺瞞と偽善がへばりついていて、非常におぞましい。

安楽死よりも、抑圧の正当化に必死な方がよほど狂っていると思う。

 

 

ちなみに私は安楽死賛成です。

生まれることを選べないのに死ぬことも選べないなんて不条理じゃないですか。

いつでも死ねる、という安心感があってこそ生きやすくなるのではないかと思うのですよ。

最後の手段があるかないか、というのは安心感が段違いです。

だからみんな保険に入るわけですしね。

 

安楽死積み立て基金があればいいのにと常々思います。

死ぬために必死で働いて、その過程でまぁもうちょっと生きてもいいかなってなる人もいると思うんですよねぇ。

だからこそ、障害のある娘の介護を正当化するために安楽死を侮辱するこのライターが私は嫌いです。

この記事すごい長いですけど、言いたいことはたった一文だと思うんですよ。

 

『障害のある娘の介護に人生を奪われた私は、安楽死制度が羨ましい』

 

これをごまかすために、この人は9000文字も費やしているのです。

これを狂気と言わないのは無理です。