私がここ数カ月気に入って読んでいるブログに共感性について書いた記事があり、それを読んだ時妙に合点がいくような感じがしました。
ここでは共感性の高い人2パターン、低い人2パターンに分けていて、おそらく私は共感性が低く、自分の理屈でしか物事理解しようとしない自己中なタイプに分類されると思います。
というのも、私は本当に昔から他人の気持ちというのがわからないのです。
自分が体験したことになぞらえないと物事が理解できないのです。
理解できないとどれだけ説明されてもすり抜けてしまって残らない。
○○が嫌だと言われても、それがなぜ嫌なのか、なんでそんなに嫌なのかが納得いかないと、相手がそれを嫌だという状態を認識できないんです。
情報として残りはするんですが、すぐにアクセスできるデータベースに入ってないので、会話などですぐに出てこないため、後になって「あぁそういえばこれ嫌いって言ってたな」となることが多く、そういう部分を無神経だと言われることが多いです。
心が無い、他人を道具だと思ってるからそうなる、誰も大事にしてない、誰のことも好きじゃない、そんな風に言われてきました。
これはある意味では合ってます。
少なくとも「世間一般の普通という観点から見たら」私は心が搭載されていない冷血人間でしょう。
そもそも共感性が高かったら「死ね」という言葉は使えないと思うんですよね。
私は、私にとって必要なく、私が理解できない基準で他人の行動を阻害する人間はいつ死んでもいいと思っています。
極端な例えですが、通勤時間に駅のホームでスマホ見ながらだらだら歩いている人は即刻死ねと思ってます。
その行動が他人の邪魔になることが理解できないorわかった上で他人の邪魔をしてでもスマホを優先したい、という人間はこの世界にいない方がいい、と考えています。
絶対ないでしょうがこの国の独裁者になったら健常者の駅構内での歩行速度を決める法律を作るでしょう。
こんなことを冗談ではなく考えている人はおかしい、と世間一般では言うでしょうから、みんな思ってても主張はしないんですよね。
が、私は主張してしまうのです。私の思想が間違ってないと思っているからです。
こんな生き方は共感性が高かったら無理なハズなんですよ。
そりゃ普通の人からしたら「物騒なサイコパス」に見えるでしょう。
私からすると、自分にとって必要ないどころか邪魔な人間がいなくなって欲しいと思わない人の方が理解できないんですけどね。
とはいえ実行はしないので、周りからすればただ発言が過激なだけのチキン野郎、という認識でしょう。
それは正しいです。
私は勝てないケンカはしたくありません、卑怯で姑息な小物です。それでいいと思っています。
が、社会的にはそういうわけにはいかず、誠実で真っ当な人間のフリをしなければなりません。
なので仕事中は気を付けているのですが、家に帰ってくると自分を「上手く」取り繕う気力が残ってないため、私の卑怯で姑息で自分勝手な側面が出てきます。
家では妻に対して「優しくて思いやりのある人を演じる」必要が出てきます。
しかしもうそこまでする余裕はありません。
なので私は「優しくない、思いやりの無い、他人の気持ちがわからない、自分がされて嫌だったことを平気でやるクズ」という認識をされています。
これも概ね正しいです。
が、もうこれ以上自分をクズだと、ダメなやつだと思うのにうんざりしてきました。
自分が普通ではない、他人より劣っているダメなやつだということに納得いく理由を探し、自分を発達障害なのではないか? と思っていましたが、なんかそれもピンとこず、もやもやしていました。
でもこの記事を見たとき、私は単に共感性が低いだけなのでは? と思えたのです。
劣っているとか普通じゃないとかダメなクズとかじゃなくて、他人の気持ちが理解できなくて物事を理解するのに自分の理屈に当てはめる必要がある『という性質』なだけなのでは、と。
いやまぁ、それを世間一般ではクズと言うのかもしれませんが。
でもですよ、私のそういう性質を「クズと称する人」もその思考自体が割とクズなのでは? と思うんですよ。
私をクズだと称する人が正しいとして、私が本当にクズだとしたら、その人もクズなので、そのことで私が自分を否定的にとらえる必要もないのでは……? と思ったわけです。
周りもクズで私もクズならみんな同レベルだし、周りから劣ってるから人一倍がんばらなきゃいけないと考える必要もないな! と思いました。
別に私はクズでもカスでもゴミでも畜生でもなんでもいいです。
私ができない『他人の気持ちを理解する』ということが、私の努力が足りないせいではなく「そもそもその機能が搭載されていない」であれば、本当に気が楽。
わからないことをわかるための方法もわからないし、他人の気持ちを理解したフリができるのであれば他人の気持ちが理解できるでしょうし、私にはいわゆる思いやりのある人のフリはできませんでした。
そういう人は孤立して孤独に死んでゆくものだと思っていて、どうにかしてそうではない優しい人にならなければと、現状の自分ではダメだと思い続けてきたのですが、もうやめます。
私は私以外にはなれないし、優しい人のフリはできない。
他人の気持ちはわからないし、納得しないと理解しない共感性の低い自己中ですが、もうそれでいいです。
それが良いか悪いかは知らないしどうでもいい。
そう思えて、ちょっと気持ちが楽になりました。