結局、何が言いたいのか分からんが、言いたいことを言う。 | 大阪弁天町の漢方薬局「廣田漢方堂薬局」のブログ

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人の病気は、「気」の不調から来ており、その不調を調えて、スムーズに巡るようにすれば、あらゆる疾患を治すことは本当に可能なのか?

 

東洋医学の勉強に没頭していた時、いや盲信していた時期と言った方が適切か・・・

 

「気」さえ順調に巡らせることができるようになれば、津液や血も自ずと巡るようになるため、気血津液の盈虚通滞はなくなり、あらゆる疾患を治すことができると信じていた時期がある。

 

というかそう教わっていた。

 

しかし自分が臨床を行うようになり、実に様々な臨床経験を積むことで、それはとてもじゃないが正しいとは思えなくなった。

 

たとえば一貫堂医学での解毒証体質に用いる荊芥連翹湯。

 

一貫堂が唱える「毒」は現代風にいうと「炎症性体質」ということになると自身は考えている。

 

炎症性体質は、アレルギーや炎症など免疫系の不具合で、花粉症、副鼻腔炎、リンパ節炎、アトピー性皮膚炎、接触性皮膚炎、喘息など、粘膜・皮膚系の炎症性・アレルギー性疾患を起こしやすい体質のことであり、それらの物質が皮膚・粘膜表層に蓄積しやすく、何らかの刺激によって容易に炎症・アレルギーが起こりやすくなり、上述のような症状に悩まされる。

 

荊芥連翹湯はそれらの状況に対し、皮膚・粘膜表層にたまった「毒」=「炎症性物質」を血管やリンパを介して掃除して、刺激によって各症状が出現、悪化しないようにすることのできる方剤である。

 

この炎症性体質には「気滞」が関わっており、その気を巡らせれば、炎症性体質から離脱できるのか?

 

ならばなぜ、黄連解毒湯という解毒剤に、四物湯という活血薬が合方された温清飲がベースになっており、そこに荊芥(去風解表、透疹、止痒、止痙)や連翹(清熱解毒・清心火、解毒消瘡、消癰散結)などの生薬が配合されているのか?

 

すべての病が「気」から生じているのなら、肝気や肺気を操作する生薬がメインでもよいはず。

 

そんな疑問が自分の中でフツフツと沸き上がり、

 

なぜその生薬でなければならないのか?

 

なぜその生薬を配合したのか?
 

その理由を調べては見るものの、答えが見つからなかった。

 

ただし、実際の臨床では荊芥連翹湯は大いに応用できる方剤である。

 

 

また別の視点では、僕自身は何事においてもとにかく「考えすぎる癖」がある。他人なら気に留めもせず、サラっと流してしまうような事でも、心のどこかに引っかかり、とにかくそれを考えてしまう。

 

自分の兄弟にもそのような性格の者がいることから、これは遺伝的体質であろうと思うのだが、とにかくこれが災いの元になる。

 

考えすぎて、頭が疲れてしまうのである。そして常に「気が張った」状態になってしまう。

 

これが「気滞」を生み出し、それによって自律神経系のバランスが乱れ、常に緊張傾向となって、不眠、不安、易怒などの精神神経症状を作り出す。

 

これを紛らわせるために、「飲酒」に走るのだが、また身体が生まれつき弱いこともあり、「飲酒」によってさらに体調を崩し、胃のムカつきや胃もたれ、全身の倦怠感が慢性的に続き、眠るために飲酒するので、アルコールが抜けると目が覚めて、また寝るために飲酒するという悪循環を延々と繰り返すような生活習慣となる。

 

仕事でもずっと座りっぱなし、常に物事を考え、考察し、対処法が何かないかと思案する毎日であり、このままでは心身ともに持たないことは明白であるため、それを少しでも軽減させるため、空手や運動、ストレッチ、呼吸、食事療法など、できる限りのことは行うが、ここでも「考えすぎる性格」が災いし、それらを気軽にやればいいものの、いちいち考えて凝りに凝ってしまう。

 

この状態を抜け出すためには「気が張った」状態から離脱し、「気をほぐす」必要があるが、自分の性格や環境からそれを実践するのはほぼ不可能。

 

そこで漢方に気をほぐす効果を求めることになるのだが、抜群に自身に合うのは「柴胡加竜骨牡蠣湯」。

 

こいつを服用し出してから、性格的にも大らかになり、些細なことに考える癖が軽くなり、心身ともに気がほぐれる作用を実感できるくらい効いている。

 

そのおかげでアルコールからも離脱でき、毎日、アルコール量換算で40g~60g摂取していたものが、10g未満で済むようになった。

1本あたり7%濃度のアルコール飲料を0.7%の微アルコール飲料数本で済むようになったのは、自分にとって驚くべきことである。

 

もちろんそれによって不眠、不安、易怒の自律神経系の興奮状態から離脱できているし、飲酒量が減ったことにって胃の不調や倦怠感もなくなっている。

 

つまり身体の調子は抜群に良くなっている。

 

しかも変わらず運動やストレッチ、呼吸や食事療法は継続しているので、ここまで話をすれば、「気」の巡りをスムーズにすれば、すべての病は治せるという話に通じると思いきや、そうではない。

 

体調は良いにもかかわらず、中年になって初めて、ドライスキンで身体の痒みが起こる、顔面は何らかの原因でかぶれ、寒暖差、飲食によって酒さかと思うほどの赤みが出て痒み、火照りが出るし、空手でケガしたところは数か月経っても治らない。

 

体調が良くなっても、新たな疾患がどんどん出てくるのである。

 

こういう事例からわかることは、いくら気の巡りが良くなったとしても、それは結局、限局的で、例えば加齢に伴う肌環境の老化、修復力の低下に伴うケガの治癒力低下などは、どうすることもできないということ。

 

逆に言えば、相談者が「顔面の痒みやほてり」を何とかしてほしいと言ったときに、平素の生活習慣でどれだけ自律神経系のバランスが乱れるような状況があっても、飲酒や運動不足があったとしても、それが主訴を引き起こしている原因にはなっていない可能性を十分に考えながら問診や体表観察をすべきという証左となる。

 

 

と結局何が言いたいのか分からんようになっているが、漢方の臨床を行う上で、実に様々な問診内容、舌、脈、患部の状態、その他体表観察を行うと思うが、「主訴」と一切関係のない症状や所見は確実に存在し、それを無駄に主訴の病因病理に組み込むと間違った判断にしかならない。

 

有機的整体観念に囚われて、すべてがつながっているなどという絵空事を盲信するのではなく、冷静に客観的に主訴がどのように起こり、経過して現在に至るのかの1点にのみ重点を置くことが重要であると考える次第である。

 

このような考えに至ると、結局、Aという状態には〇方剤、Bという状態には△方剤と、各種の病態に合わせて漢方の方剤数が増えるという自分が一番嫌いな西洋医学的な治療法になる矛盾が出てくるのが、実に悔しい部分でもある。(実際はそうじゃないと思っていますがね・・・)

 

おしまい。