![]() | わたしのせいじゃない―せきにんについて (あなたへ) レイフ クリスチャンソン 岩崎書店 このアイテムの詳細を見る |
私の学級経営で欠かせない授業があります。
「わたしのせいじゃない」
この本はスウェーデンの作家であるクリスチャンソン氏がかいた絵本です。
教師・母親・父親・そしてすべての日本人は、この本を持っていても良いのではないかというくらいに感じる一書です。私の大切な宝物、大切な授業のパートナーとなっています。
この本、持っていた方が良いですよ!
どんなふうに授業をしているかというと、
①1ページ1ページを噛みしめるように読み聞かせながら、子どもたちには「感じたこと」をマインドマップでかかせる。
②本の最後に出てくる「世界的、人類的な課題」を表した写真については、かなりゆっくり見せて、子どもたちの思考を促す。
③最後に感じたことを文章化してもらい、感想を交流する。
こういう流れで45分間の授業をします。
来週の火曜日(1月26日)、私の勤務する香取小学校では「道徳地区公開講座」という東京都教育委員会が推し進めている授業を行います。学校公開なので、私の本気授業を見るチャンスでもあります!ご希望の方はどうぞいらしてください。
この時に行う授業に向けて、私のクラスでは道徳3部作の連続授業を計画・実行中なのです。
第1回「わたしのせいじゃない」・・・責任について
第2回「人間とはなんだろうか?」・・・人間と動物のちがい、脳の発達
第3回「人間とはなんだろうか?」・・・人間の可能性、敬虔
この3回を通して、子どもたちの心に秘められている「道徳性」を引き出していきます。
実はこのシリーズ授業は、井上が20代の若手教師時代に開発しもので、同じ内容で大人向けに1時間の講演をしたこともあります。つまり小学生だけでなく、大人でも目を開くことができるように組み立てた内容になっています。
ご都合のつく方は、ぜひご参加ください。
26日には第3回目の「人間の可能性」をテーマにして授業します。
第1回目の「わたしのせいじゃない」の中で子どもたちが書いた文をいくつか紹介します。
「ぼくは5年の時、いじめに近いことをやっていた。そして『やっただろ』と言われても、他のやつがやったんだ、『オレじゃない』と言っていた。自分が逆の立場になったらなど考えずにやっていた。そして言い訳を言って、そこからぼくはにげていた。自分が暴言をはいた責任なども考えずに言っていた。そして今はいじめとは小さな戦争だと思った。大きな国が小さな島に攻めに行って、村の人たちを殺してしまうのと同じだと思った。」
「5年生のときに、いじめに近いことをやっていたけど、自分はかんけいないとか思うんじゃなくて、同じ人として、いじめや戦争をやめなくてはならないと思いました。国語で水爆などの勉強をしたけれど、全世界の人がやってないから知らない、関係ないなんて思わず、関係ないんじゃなくて同じ人間としていじめや戦争をやめなくてはならないと思います。」
「『~だから自分のせいじゃない』と無関心になってにげたりするのはいけないことだから、ぜったいにやってはいけないことだし、やっても楽しくないからやりたくない。」
「感じたことは、責任を持って行動すれば、この本のような大きないじめはなくなると思いました。主人公の『私』のように、みんなが『私のせいじゃない』と言っても、ずーっといじめの終わりがないと思いました。なので、一人一人が責任を持って行動すれば、豊かな街になると思いました。」
「この本を読んで、責任とは本当にみんながやっていたから自分もやり、それをみんながやったからといって、本当に責任は少しでもやった人はないのか気になった。本当にやった側よりやられた側に責任があるのか知りたいです。5年の時にけんかをした時、ぼくはやっていないと言って責任からにげていたと思いました。」
「私は『わたしのせいじゃない』という本を読んで、今まで『私のせいじゃない』と軽く言っていたけど、実はものすごく重い言葉でした。本の中で、男の子が一人泣いているのに、だれ一人自分のやってことに責任を感じていないし、やった人は男の子の気持ちを全然考えていないと思いました。これからは、人の気持ちをもっと考えて行動していきたいと思います。」
「ぼくは、この本を読んで、みんながぶったからぼくもやるじゃなくて、みんながやるからぼくがわたしが止めないと、そのうち大変なことになるから、『わたしのせいじゃない』ではなく、『みんなが悪い』と思えば、そうだよ、ぼくたちが悪いって、きっと気づくと思います。」
「ぼくは、この本を読んで、みんなでなぐったんだからあやまればいいと思います。でも、みんなあの子が悪いとか、なぐったのにみんな責任を感じていない。この子たちは泣いている子はどうでもいいと思っている。みんなおこられるのがいやで言い訳をしていると思いました。ぼくはだれがなぐった責任をとるんだろうと思いました。」
「ぼくはスウェーデンの本の『わたしのせいじゃない』を読んで、人が変だからといって、その子に暴力をふるったりするのはおかしいと思います。みんな『関係ない』とか『私はみてないから知らない』とか言っていても、その子が暴力をふるわれたら、すぐに『大丈夫?』とか『どうしたの?』とか言えばいいと思います。変だからといって、暴力をふるったりする人たちは無感情なのかな?と思います。飢え死とかする人がこの世界に何万人、何億人もいるなら、1人でも多くすくってあげたいです。」
「世の中には1日に少ししか食べ物を食べられなかったり、きたない水しか飲めない人たちがたくさんいて、家があり、きれいな水が飲め、毎日ご飯を食べられて、快適な生活が送れるのはすごい事だと思いました。今は、その人たちに出来る事は募金くらいしか思いつかないけど、将来、その人たちのために何か出来たらなと思います。」
「『私のせいじゃない』と言っていても、心の中では『私のせいかも』と思うこともあると思います。そういう人は、『私のせいじゃない』と言って、現実から逃げているだけだと思います。
あと、『私が始めたわけじゃないから』とか『私がやったわけじゃないから』というのは、ただの言いわけで、その事に加わったのには変わりないと思います。
それに、後ろの絵を見て、『知らない人の事だから』というのはまちがっているような気がしました。『知らない人』だとしても、同じ地球にいるのだから、みんな平等なはずです。それなのに国の違いや地域の違いによって、生活や健康か健康じゃないかの違いが出ていておかしいと思いました。
私はよく給食を残しますが、これからは残さないようにしたいと思います。
あと、物語の方で、いじめられている子は、他の子と違うからというだけでいじめられ、『その子がいけない』とか『しょうがない』と言われ、かわいそうと思いました。違っているからと言って、いじめるのは間違っています。それに私は、みんな本当は違っているものだと思います。いつもみんなのまねをしているだけ、自分で自分の個性を消しているんだと思います。」
「自分がそのことを始めていなくても、その悪いことを自分でもやると、自分も関係して自分のせいになるので、自分でやることは必ず責任を持たなくてはならないと思った。」
「この本は、すごいなぁと思いました。理由は、こんな本をかくなんて・・・と最初は思ったけど、この人は、この世の無責任な人に、なにかを伝えたかったと思います。そのなにかはよくわからないけど、たぶん『自分でやったことに責任をもて』って感じのことを言いたかったのかなぁと思いました。これからは責任をもっていろんなことをやりたいと思います。」
「私はこの本を読んで、一人一人が責任をとらないと、いじめは終わらないと思いました。みんながやっているから自分もやるのではなく、みんながやっているから自分が止めないと、自分にとっても、いじめられている人にとっても、一生心に残ってしまうのではないかと思いました。
また、いじめられている人は、いじめられていくたびに、心の傷が深くなっていきます。その心の傷は一生治らない傷にもなってしまうため、いじめは絶対にしてはいけないことだと思いました。」
「『最初はわたしじゃない』とか『みんながやったから私もやった』とか、みんな人まかせだと思う。無責任。逆の立場になったらかわいそう。その場からにげてる。」
「私は責任についてもう一度勉強して、『私は関係してない』とか『私はやってない』という発言が一番無責任だと思いました。この世界に無責任な人がいるかぎり、戦争やテロなどは絶対になくならないと私は思います。」
「ぼくは『責任』と言うのは、『責任もって~』といわれてものをこなしていればいいと思っていました。だけど、『責任』は、もっとちがうことで、寄付や世界の役に立つことをして、はじめて『責任』になるんだなぁと思いました。」
「ぼくはこの本を読んでこう思いました。この物語は一人の男の子が泣いていて、みんなは自分勝手に『私はしていない』や『私のせいではない』と言っていて、自分が悪くないと言っていました。その所をぼくは『私のせいではない』というよりも、『私もやっていた』と言った方がいいと思いました。
そしてもう一つ、みんながその男の子の見た目やへんな考え方がちがうなどの、逆に自分が悪いというのではなく、その男の子が悪いという言いわけをしているみたいと思いました。そこをぼくは見た目や考え方がないと思いました。なぜなら男の子の見た目や考え方よりも、そのけんかを止めないみんなが悪いと思いました。
最後にぼくは写真を見ましたが、これはそれをした人が自分が本当に悪くないと最後の警告みたいのをあらわしたかもしれないと思いました。」