先生に最初に会った日のことはあまり覚えていない。
何となく、これまで苦しんできたのですね、という意味のことを言ってもらい、ぐっときた覚えがある。「自分は異常なんじゃないか!?」と思っていたことがあったので、その事だったらいいな、と思った。でも、確認する勇気は無かった。
何度目かの時、初めて「憑いている」という言い方をされた気がする。私自身も、「私の中に何かが居る!」そして切実な「出て行ってくれ!」という気持ちに襲われた。その猛烈な実感を得てしまっては、先生の言葉を否定することは、私を否定することだった。
私がこれまで感じてきた、根拠やいわれの無い痛みや不快感、不安感は、理由があったのだ。「私はきっと異常なのだ」という自己否定から、そうでない、と言ってくれるものを見つけてしまったのだ。初めて、私は自分の感覚を信じてもいい、というレイヤーに出会ったのだ。例えそれが「非科学」という括りに入れられ、胡散臭いといわれるレイヤーでも、その安心感は常に自分を否定し、律してきた自分を確実に癒すものだった。
しかし、その安心感、目に見えないものを受け入れる覚悟は、簡単にできたものではない。自分の実感を否定するのは、自分を否定することにつながり、受け入れることは・・・大人としてのエチケットに反するような気がした。科学や理性、そういったものに立脚する仕事をしていた当時、まるで二重生活を送っているような気分だった。
最終的には、私は生きていくために、自分の実感を信じることにした。精神的に自分が生き残れるのなら、肉体に影響が及ばないように世間に対して上手く距離をとるくらい何でもないのではないか?むしろ、現状に耐えかねて、肉体を傷つけるよりも、よほど周りの人の幸福を奪わないだろう。
そう思った私は、大人としての理性とかたしなみ、エチケットのようなものを密かに踏みしめた。
心が生きていけるなら、自分の実感を信じてあげたかった。例え親であっても、私の実感を経験することはできない。私だからこそ実感できることだ。それを否定しては、私はまた毎日自分の異常を疑いながら生きていくことになるのだ。