これまでにないくらい元気。
先生のところに駆け込んで、辛い状態を解決してもらってから、ものすごい活動量をこなしている。よく自分がばらばらにならないと思うくらいハード。しかも、仕事だけでなくプライベートでも。
活動量として過去にもこの程度はあったと思うけど、精神的に磨耗していない。すごい。私、元気になった。それだけでなく、人と会っている時に、ふっと力を抜けるときがある。それも新鮮な驚き。
たくさん人に会い、移動をしても、精神が高ぶりすぎて死にそうにならない。自分の頭の働きをちゃんと感じられる。どうしてなんだろう。不思議。
さて、前回のブログを読み返しながら、ふと、霊的世界が「ある」として、それが「見える」かどうかが、霊的世界観の受容のために重要なことだろうか?と思った。つまり、見えたり、感じたりする人、それ以外の人は「ねえ、アタシにも憑いてる?」と聞くレベルに留まるしかないのか、という疑問。
「見える人」が霊的世界に窓を開くから、その世界がある訳ではなかろう。ということは大多数には「見えない」のが当たり前。そもそも、それは「目で見ることは叶わない」世界なのだ。それでなぜいけない?
私はブログの最初に「踏み絵を踏んだ」と書いた。でも、霊的世界の存在についてはどこかでとっくに肯定していたはず。であれば・・・多分その肯定した存在を道具にこの世界の事象を測ること、それが私にとっての「踏み絵」だったのではないか。
ある人のことを、「憑いていそうで怖い」と判断すること。それは自分の調子の悪さを霊的な影響で納得するのとは事情が異なる。それこそが、1つの踏み絵なのかもしれない。この踏み絵は簡単に踏んでいいものではなさそうだ。
元気になって、自分の周りが静かになって、少し怖いと思うことがある。とても元気で、どこまででも自分の力を伸ばしていきたい気持ちになる時には特にそう思う。私は、危ないほうに近寄りたがる性質だ。憑かれたりして、抑制が働かなかったら、エネルギーをもてあまして、傍若無人に人を傷つけたりして我儘し放題の人だったかもしれないし、家出とか、冒険に出かけて命を落としたり、そういうこと、したかもしれない。
私が以前、「なぜ、私には憑くのだろう?」という質問をしたとき、先生は「憑かれやすい体質だから」とか「家系的に」とか、そういう説明を先生はしなかった。
うる覚えだけど、私にとって意味のあるブレーキのようなものだ、という内容だった。もし、私が若い頃に霊的な干渉をうけずに自分の力のままに振舞っていたら、短く散っていた、そんなイメージの回答だったと思う。
このところ元気になって、その事を思い出す。現実世界に多くの気力を割くことができるようになって、色んな事が変わった。仕事で少しづつでも成長していると感じることができるし、自分が世界とは異質なものだという感覚が減って、社会に適応していける気がする。(これは身体と精神の乖離がなくなったから?)
話がそれたけど、元気になって、頻繁に憑かれていた時期のこの世ならぬ感覚は薄れてきた。それはネガティブでも慣れ親しんだ感覚が無くなってしまうのだから、ちょっとした感傷を伴う。だから、私には「憑かれる状態」はわかるけれど見えたり、憑いたものを離す力はない、というちょっとした疎外感(?)を感じたりする。
だからこそ、自分の状態を霊的に推測するだけでなく、他人との関係も霊的な推測を当てはめてみたりする。けれど、やっぱり霊的世界は「見えないのが普通」なわけだし、そもそも、自分には自分の中にその世界への「窓」があるはずだ。
私は、先生に何かデカイのを外してもらったときに、戻ってきた人を感じた。それは、私の半身だと思っている。このところ、私はその半身と手をつなぐ。見えないけれど、見えるように、心に思い描くよりも鮮明に、私は誰かと手をつなぐ。(まさに同行二人だ。)この存在こそが、個人が持つ「窓」なのかもしれない。だとすれば、「見えない」ことは、私にとって、霊的世界を受容する妨げにはならない。「見える」人が側にいることは心強いけれど、その人たちだけが窓になるわけではない。
私は、できるだけ誠実に、自分のなかの「窓」から感じる感覚を大事にしたい。現実世界のルールに沿いつつ、自分が感知したことを確かめ、感応していきたい。誰かから感じた悲しみを共感してあげたい。そして、ここが大事だと思うけれど「喜び」を共感することは多分すごく大事だ。悲しみに共感することは、別の何かを引き入れることにつながるから。
見えることに頼ってはいけない。けれど、自分の半身(とりあえず「自分」なので、別に未来をささやいたりはしない。けれど、誰よりも濃いつながりのものだ)と向かい合いつつ感じた世界を、他の人とのコミュニケーションに当てはめてみたい。元気になった今、私がしたいことはそれだ。