雷で目が覚めた。眠れなくなったのでブログでも。


仕事の忙しさが一段落ついた。しかし、今回もあまりにハードだったので、仕事が忙しくなる前に何をしていたのかサッパリ思い出せない。それどころか、おそらくハードワークの反動で鬱陶しい気分になりそう。どこか遠くへ行ってしまいたい・・・。


最近、親戚の不祝儀があり、両親が上京した。旅館に泊まっている母と落ち合うと、「面白い本があるのよ」と渡されたのが佐藤愛子の「私の遺言」電車の中で読むために買ったらしい。


佐藤愛子はそれほど好きではなかったので、そう言ったのだが「これはいいから!」と押し付けられて読むことになった。ご存知の方も多いやも。佐藤愛子が北海道に購入した家で起こった一連の出来事の顛末記であり、霊的な世界に関する体験記(?)でもある。今ひとつ、私にこの本を薦めた母の気持ちは分からない。母自身はこういった世界をどのくらい受け入れているんだろう?母の気持ちは分からないが、結局私はハマって、次々とこの人の本を読むことになる。


死の哲学ではないが、人間が死んでいくにはそれなりのプロセスがあったほうが良い、という意見に共感できた。エネルギーを使い果たして、死を受け入れて、大きな流れに参加していくためのプロセス。そして、どうも、私たちが霊的に一人で生きているのではない、という点を、私は積極的に受け入れたいと思った。


親戚の喪の席で、全くの偶然だったのだけど、親族としては両親よりも、亡くなった人に近い親族席に座ることになった。これは、祖母のいるべき席だ。祖母と亡くなった親戚はいとこ同士で、曽祖父にゆかりのお寺の大黒様だったことを考えるとかなり近い肉親だ。老齢で参列できなかった祖母に代わって、並んでいる気がした。そして、私にとってさほど近い親戚とはいえないが、涙が出て止まらなかった。


通夜振る舞いの時、私は初めて父と伯母の子供の頃の話を聞いた。東京のお寺に疎開(?考えてみると妙な話だ。祖父の出征中の話か?)していたとき、焼夷弾が落ちてお寺が焼け落ちた話だ。父は5歳くらいだったらしいが、焼夷弾が落ちてくる様子は本当にきれいなんだ、と言っていた。


そして、焼け落ちたお寺の灰が軒の高さまで積もっていたそうだ。それをじっと見つめていた曽祖父の話も聞いたように思う。私は目の前に、見上げんばかりのまだ熾き火のはぜる灰を見上げている父の姿が目に浮かんだ。瞼に浮かぶ情景そのものがこもった熱を発しているようだった。その頃の話、お寺の井戸が独特の雰囲気があって怖かったことや、得度したばかりの親戚の話、父の子供の頃の話など初めて聞いた。


通常、通夜振る舞いの時は生ものを絶つそうなのだが、曽祖父であった人が(僧侶なんだが)「生きているものがしっかり食べろ」という方針だったらしく、魚も肉もしっかりとある。・・・かえって、「生きるためにいただく」ということを突きつけられるような気もした。そうそう、祖母も父も、こういう合理的?なのか生きるものにバトンタッチしていくことをマナーとしているような人たちである。


「私は後、○○と○○と、何人送らんといかん。」と伯母が指を折る。もう何十年かしたら、私も指を折る立場になるんだろうなあ。それなりに、順番に送られているところが、恵まれた一家というべきなのかも。


最初、母は「東京で催眠療法に行きたい」と言っていたので、やはり「この母にしてこの子あり」だ。私が行ったところを紹介したけれど、今ひとつ乗り切れなかったようだ。「お茶のときに上がるのを直したい」らしい。まあ、私が最初に行ったときは「ジャンクフードをやめたい」だったから、大して高尚な動機でもない。


次は、催眠療法に行った時の頃を書いてみたい。


雷は遠くへ去ったようだ。この夏、かみなりと共に縁ができた人も、遠くに行ってしまった気がしてならない。雷を呼び戻すことは、できないかな。










安野光雅さんの「君は大丈夫か」を読む。


題名に惹かれて購入。今まで安野さんの本を手にはとりつつ、何となく買わずにいることが多かったのだけど、今回はレジまでたどり着いた。安野さんは、文中で言っている通り「皮肉」やさんなんだろう。その皮肉の出方がこれまでしっくりこなかったのが買わなかった原因だと思った。


今回は、斜に構えたものの言い方と、その背後にある安野さんの考え方が一致していたので、気持ちよく読み進められた。


君は大丈夫か?「大丈夫だとは思うが、君の心にあえて聞いておきたい。」と続きを補ってみた。


私は人の悪意が本当に怖い。けれど、悪意は確実に存在するものだ。人の個性を重んじ、人間を中心に世の中を進める方針ならば、悪意の存在も認め、それに抗うことの必要性をもっと声を大にして言ってもいいんじゃないか。


強い水流の中に身をおくと、抗いようのないすごい力が身体を押し流そうとする。水流に意思がないのは十分承知でも、「私を押し流そう」という意思が胸を圧迫するようだ。流れの中にいる私など意にも介さず、流れを継続させることだけが存在意義のような容赦のなさだ。


この容赦がなさこそが私が恐れるものだ。


直接私が「悪意」の標的となったことは、多分ない。けれど世の中にはきっと沢山の「悪意」があって、それに抗っているひとが沢山いる。戦いの最中は、敵から目を離せないかもしれない。だから横で戦っているはずの(もしくは戦って守る対象である)後進に向かって「君は大丈夫か」と声をかけているのでは。そんな気がするタイトルだった。


「好き」の反対は「無関心」で、心が飢えていく。焦点の合わない過剰な愛情もまた飢え。刹那の関係もまた。


背中にあいていた穴は埋まったように思う。最近は、背中を思っても、黒い穴は開いていないように感じる。肩甲骨の下あたり。何かが入り込む隙間。しびれの起点。心のバスタブに栓がなくて、お湯を入れても入れても溜まることなくて、疲れるイメージはもう実感としては浮かばない。私は内から食まれることはなくなってきた。


私は自分自身を取り戻したのだと思う。私が要らないといったから、誰かが持っていっていた半分。心と身体の乖離はかなり埋まった。先生のところで左半分を取り戻したと思ってからしばらくの間、戻ってきた自分自身を抱きしめた。それは女性性だったかもしれないし、感じる主体としての「こころ」だったのかも知れない。


私は何かを感じている実体を「じぶん」と感じられるようになったし、受け止められる感情の幅も広がったように思う。自分と他人の感情の間に境界を引くことが可能になった。


なんとなく「大丈夫なんじゃないか。」と思う。

私はよく揺れるほうだと思う。


先生のところに行くようになって、色々と変わったことはあるけれど、足首の不調が減った。座っていると、足首に巻いてくる感覚があったり、どんなに暑くても、足首をさらしては不安で眠れなかったり、奇妙な疼痛が走ったり。そういう諸々の不快感が軽減した。


大学の頃に「○○は、いつもよろよろしている!」と言われたことがある。どうやらまっすぐに歩いていなかったらしい。「だって。つまづくんだもの。」としか答えようがない。つまづいたり、突然カクンとなってくじいたりする。


左足には負傷が多く、捻挫やころんで膝を打ったり、そんな後遺症で調子が悪いのだと思っていたけれど、最近そういうことが全く無いので、ありがたい。階段を踏み外さなくなったもの幸せのひとつだ。


さて、「揺れる」だが、会社で座っていると、「あ。地震?」と思うことがよくある。確かに、くらんくらんと周囲が揺れている。脳の中心棒がしなっているような、そんな感じだ。貧血などにようたちくらみは、なじみの感覚だが、それではない。世の中に満ちているものがそのまま揺れるような感じだ。でも、揺れていないらしい。Hiーnetを見ても異常なし。以前は、多分その時点で視界が歪んでいたと思う。今は、精神としての自分・・・五感としての自己?・・・はstableなので、何かと接触したのかな?と想像したりする。


歩いていて、携帯が鳴った!と思って取り出すと着信していない。どうも、地下鉄の振動や、スピーカーの音声で服やカバンが揺れたのを携帯と勘違いしているようだ。そういうことがよくある。これはことさら言わないだけで、他の人も経験のあることなんだろうか。一人で音や振動に不快がっていることも多いので、私は自分のことを「振動に敏感な人」だと思っている。


(ついでに言うと、時々「東京にはもう地震が来たんじゃないだろうか。」と思うことがある。そして、誰かがそれを抑えたに違いない。と密かに思っている。この思い込みには根拠はないけれど。。)


好きな楽器は弦楽器。弦の振動にはいつまででも耳をすましていたい。弦の振動と共に、心が調律されるように感じるから。そして、振動から空間の広がりを感じられるからだ。


ある時から先生が「波動」という言葉を私に対して使い始めたと思う。考えてみると、これまで「波動ってなんですか?」と聞いたことは無いように思う。何となくそういうものなのね、と思ったからか、先生の文脈ではそういう説明がつくのか、まあ説明がつくというのはいいことだ、と流したせいなのか。


多分、説明されても分からないと思った為ではないだろうか。実感(もしくは納得)できるまで温めておけばいいや、と思ったのだと思う。


今、この文章を書くにあたって、自分なりに考えたことはこうだ。


世の中のすべての粒子は振動しているそうだ。高校の教師も、科学館の研究者もそう説明してくれたので本当なんだろう。つまり、私自身ぶるぶると振動しているわけだ。電磁波について説明をしてもらったとき、私は自分の身体が振動して、音をだしているところを想像した。


世の中を満たすものの中で、私の身体は、ラジオのように振動を発しているようだ。それを情報として受け取れるセンサーがあることは大して不思議ではない。波動の高い低いについては実感できないけれど、豆腐やこんにゃくがプルプルしているのと、楽器の共鳴函が振動しているのとではやはり違う。そういうイメージなのかもしれない。いい音だしているかどうか。そういうことなんだろうか?


正直言うと、まだ「波動」がなんであるかを受け入れる素地は私には無い。ただ「調子いい。」で済ませている。最近、「調子がよくなった」(すごい符丁だ。ずばり「pitch」がいいらしい。この場合「tune」ではないだろう)ので、「いい・悪い」のコントラストがはっきりとしてきた。この「調子」を精査することで、私にも「振動」する世界についての知見が深まるに違いない。