逃げでもいい。


このままどこまでも走り続けたい と思った。



目を閉じて 耳を塞ぎながら 


友達にも親にも私の気持ちをわかってもらえるわけない。


話せないことだらけなんだから。



だったら、誰にも本当の自分を見せないでも大丈夫なくらい、強くなるしかないんだ。


今の現実と自分を 少しでも許せるように、少しでも好きになれるように、私は仕事探しに奔走した。



誰とも話したくないから、ちょうどいい。

朝から本屋や図書館、ファミレスにこもり、履歴書を書いて面接の予定を入れた。




職種はとにかく 「何かを作る仕事」 。



それなら時間が私に味方をしてくれるはずだ。


「つくる仕事は特別だ」と、子供のころから父に聞かされていた言葉が


いつの間にか私にとって定説になっている。



父は、女の子に高学歴は必要ない という古い考えを持っていて、


目につくところで私が勉強していると、怒るような人だったが、


仕事に対してはそれなりに頷けるような哲学を持っていた。



どの仕事でも、一人前の仕事ができるようになるまでは時間と経験が必要だが、

中でも 「作る仕事」 は、特別らしい。


まず、正しい技術を学んで手足のように自身の体の一部にしなければならない。


でも、それでまだスタートの準備ができただけのこと。



最終目的はその手足を使って「作る」ことなのだから、

高度な技術を身につけて道具を自由自在に使えるようになっても、高々何かを作るための準備が、やっと出来ただけなのだ。



本当に何かを 「作れる」 ようになるまでには、一生懸命向き合ってもなお、膨大な時間がかかるのだ という。




こんな私にも、時間だけはある。


実益に結びつきにくい芸術家ではなく、


仕事として「作る」ことができる「商業アート」を選び、


いくつか応募し面接を受けた結果、


私は、小さな編集スタジオのアシスタントに、アルバイトとして採用された。







「どんな仕事?」



「…簡単なパソコン入力のアルバイトだよ」   



「職場に男は?」



「いないこともないけど、私のいる部署は女の子ばかり」



「ふうん… 土日は休み?」


「そのはずだけど…」



「土日は絶対、あけろよ」



「はい…」



仕事が決まってから、その夜初めて竜也と会った。


車を出すなり、竜也は私の仕事についていろいろと訊いてきたが、


思ったよりさらっと認めてくれたのでほっとした。


私の嘘にも気付いていないようだった。



私が竜也とまだつきあっている最大の理由は、このまま「弄ばれた」と思ったまま別れると、


私に深く残ってしまった、精神的な傷を癒やすチャンスがなくなるからだ。



もちろん、言い出すのが恐い、という気持ちもあるし、もしかするとまだ彼に愛情だってあるのかもしれない。


進路についても「結婚」という逃げ道を置いておきたいのかもしれない。



でも、心の底から湧きあがる本心は、竜也に馬鹿にされたまま…どこかで私は抜け目ない彼に劣等感を抱いていたのだろう… この笑えないゲームを終わりにしたくない というものだった。



勝てなくても、一矢報いて、彼に私を認めさせたかった。 




でも今は、そんなこと、どうでもよく思えた。


今なら彼を許せる。


彼に別れを告げて、前に踏み出すのだ。 



竜也にとって痛くも痒くもなかったとしても、「仕返しをした」 と自分自身を納得させない限り、


本当の自信をとりもどすことはできないし、心にトラウマや傷が残るだろう。



だけど、新しい道を歩きだした今なら、もしかするとキレイに忘れられるかもしれない、と思えたのだ。





「でも…私、忙しくなるかもしれないのよ」


私は切り出した。



「あ、そうだ!」


竜也は、私の言葉が全く聞こえていないように言った。




「この前、ゆみのお父さんと会ったんだ」



「え?」


私が予想もしないことだった。




「ゆみに言うか迷ったんだけど。 お父さん、工房の経営うまくいってないみたいだね」



そんなこと、前からわかっている。 腕はいいらしいが、商才のない父だったから、いつも生活ぎりぎりで貧乏だった。




「この不景気で資金繰りが上手くいかなくて、会社をたたもうかと思ってるって言ってたから、…」



嫌な予感がした。続きを聞くのが恐かった。 




「資金を貸した」



体の力が抜けていく気がした。




信号が赤になり、竜也は私の方を向きなおった。



「でも、どうせ結婚するんだから、いいよね」



私は竜也の乾いた笑顔を、茫然と見ていた。


いつの間にか雨が降っていた。



フロントガラスをつたって流れる雨に、赤いライトが乱反射して、竜也の顔を赤く浮き立たせていた。


















なんで笑うの?



私が意識を失うと何なの?



そういえば以前にも、竜也に怪しい薬を飲み物に混ぜられて、記憶がないことがあった。



その時も彼は、笑うだけで、何があったか答えてくれなかった。



だけど、一週間前お酒を飲んだ時は、自分がしたことをちゃんと把握している。


確かに多少大胆になったかもしれないけど、そんなに取り立てて言うほどのことでもないはずだ。




ただ、竜也が愉快そうに笑うのが、不気味だった。


彼はこんな風に笑うタイプではないのだ。


狂気さえ感じる。




… 一体 私に 何をしたの?




問い詰めようと思って、言いとどまった。



何をされたとしても、意識も記憶も無いのだから、まだいいと思った。


彼は私の体を 私よりも よく知っている。


これ以上ないってほど、恥ずかしい姿も見られている。


今さら、意識が朦朧としている時 何をされたか なんて、知ってどうするの?


どうせなら、いつも意識を無くしてから罰を与えてほしかった。


今は、もうたくさん。 知らずにいられるなら、知りたくない。








卒業式の日がやってきた。



高校生活 最後の日。



歴史ある校舎にも、そのデザインに憧れて入学を決めた制服にも、


「学生」にも、 もう戻れなくなる日。




大正ロマンの講堂から並木道に送られ、門をくぐると、私は社会に出る。




いつかは皆、社会に出る。




でも、社会がこんなにも広く 自由だと思えるのは、きっと、私が挫折を味わったからだ。




今 私を迎え入れてくれる扉は、皆無でもあり無限でもある。



詰らないプライドなんて もうない。 どんな仕事でもできる。



順調だった過去の私の幻影たちと、数年先に再会する時、 恥ずかしくない生き方をしていたい。




それが 今のたったひとつの希望。











門を出ると、意外な出来事があった。



クラスメイトの修一が、話がある、と声をかけてきたのだ。



修一とは高校1年と3年で同じクラスになり、竜也に出会う前、少しだけ気になる存在だった。


言葉を交わしたのは、1年の文化祭のとき以来。 



クラスの出し物で芝居をすることに決まり、


ロミオ役とジュリエットの役に、投票でなぜか修一と私が選ばれたのだ。






「ずっと前から…君が気になってて…」


修一は斜め下を向いて話し始めた。




受験が終わると、突然カップルが増える。 



きっと彼も羽を伸ばしたかった、ただそれだけのこと…。相手だって、私じゃなくてもいいはず。




私はそう判断したが、こっそり占いで相性を調べたこともある相手からの告白に


心はときめいた。





ロミオの衣装を着て、分厚いレンズの眼鏡をはずした修一は、


クラスの女の子たちが歓声を上げるほどかっこよかった。



修一と私をはじめ、クラスメイトの冗談で選ばれたようなミスキャスト達の芝居も、


日を重ねるとともに熱が入り、結局、学年で1位に選ばれた。






「迷惑かもしれないけど…合格したら…言おうって決めてたから」




修一は眼鏡をかけていなかった。



1年のときよりもずっと身長が伸びて、あごの下に剃り残した髭がまばらに見えた。


その下で突出した喉仏が上下している。



3年のときも同じクラスだったが、こうしてちゃんと彼を見たのは久しぶりだ。


彼もこの2年間で、大きな変化を遂げていたのだ と思った。




反面、竜也に比べると、やはりまだ少年の輪郭を残した修一は、


不器用で もどかしくもあった。




(竜也にもこんな時期はあったのかな?)




修一に対して失礼なことを考えながら、


彼がずっと私に渡そうと思っていた、という 詰襟の第2ボタンを受け取った。




私の掌にボタンがそっと置かれると、急に胸がしめつけられた。 



ボタンが彼の温もりでまだ温かくて、思っていたより重かったからだ。


それだけじゃない…。


懐かしさにも似た、後悔にも似た、複雑で膨大な感情がどっと溢れだしたのだ。



泣きそうだった。



しかし いつもなら簡単に 勝手に溢れる涙は、目頭を燃えるように熱くするだけで、


零れることはなかった。





「ダメなの」




私は身の丈に合った恋愛を一からやり直したかった。



ときめきも、胸の痛みも、こんなもどかしさも、切なさも経験せずに、


その先の、ずっと簡単で、重く生々しいものに、一足飛びに飛び越してしまったのだ。




――  もう、戻れないのかな?




大人になると、経験できないだろう、こんな恋愛に、私はもう 戻れないのかな?





修一の胸に飛び込んでしまえばいい。


きっと受け留めてくれる。 彼も男だから。


『 男はやさしい 』 のだから。





「ごめんなさい。私…ダメなの」






私はボタンを修一の手に返し、走って逃げた。



修一の傷ついた視線を感じた。












竜也の運転はいつもより心持ち荒く、横顔は無表情だった。  



青みを帯びた漆黒の髪  血の気のない白い顔  涼しげな目。


唇だけが血のように赤い。


旨そうにくゆらせているタバコの紫煙が、魂を吹き込まれたの物の怪のように まったりと上昇してゆく。



私に罰を与えるときの竜也。




一見、気品に満ちた美しいその顔立ち その唇から、何度、冷たく残酷な命令を言い渡されたことだろう。



そしてその罰の一部始終を、この男はこの血の気のない表情のまま、厳かに最後まで見守ってきた。



今彼が何を考えているのかが気になる。


裏切りへの怒り?  私への失望? それとも今から私に下す罰? 




竜也は黙々と運転し続けている。


恐ろしい威圧感がびりびりと空気を伝わってくる。 身震いがした。




私は助手席で背筋を伸ばしたまま、両手をひざの上にそろえて身を固くしていた。


心臓が早鐘を打っている。



(たいしたことしてないじゃない?


 これくらいのことで怯えるのなら、復讐なんかやめてしまって、彼の言いなりになった方がいいんじゃないの?)



私の中で私が言う。



確かにそう…。 彼をもっと動揺させたい 傷つけたい 失望させたい 私の前で泣いて謝らせたい、


彼に私を認めさせたい。


でも、その過程で彼にどんなことをされる?


また罰を与えられるに決まってる。 


私は耐えられるの?


肉体的な痛みならまだいい。


誰にも言えないような恥辱。  


こんなことされるくらいなら女なんてやめてしまいたいと心は思うのに、体は応えてしまう矛盾 嫌悪感。


心が壊れそうな複雑な感情。



誰にわかるの?




恐怖は後悔となり、指先は氷のように冷たくなって震えだした。 



やっぱり私には無理なのだ。 復讐なんて器じゃない。


何ひとつ竜也に勝てることなんてないのに。



そうだ…あやまってしまえばいいんだ。


『許して  もう絶対あなたを裏切らない』 って…


言ってしまえば 楽になる…





「怒ってるなら 私を好きにすればいいわ」





自分の唇からほとばしった言葉に 私自身が驚いた。


(今 何て言った?)




「あなたが望むこと なんでもしてあげる」


私の潤んだ目は竜也をじっと見つめている。




竜也も驚いた様子で運転しながら私を見た。


私は竜也の左腕に両腕をまわして、体を預けた。




(これは誰?) 


『私』が驚いている。




「うらやましかったのよ」


大粒の涙がぽたぽたと零れおちた。



「なにが?」


驚いたせいか、竜也は稚拙な受け答えをした。




「浩子さんみたいな女性の方が竜也にお似合いだもの」



(何言ってるの?) 心の中の私は思った。




「何言ってるの?」 竜也も同じことを言った。




私の口からするすると滑らかに言葉が出る。


まるで別の場所に別の脳があるみたいに。



「私、あの日 テントの中で、ずっとあなたを待っていたの。


でも全然来ないから 外へ出てみたら…


あなたと浩子さんは何だかいい雰囲気で…  だから私も…」




「武井の誘惑にのったんだな?」


竜也が私の言葉尻を拾った。




私はようやく 『私』 が何を言わんとしていたかを理解した。


思わず笑い出しそうになったが 『私』 に制御された。



また、武井は男として、酔った私から誘惑されたなど言えなかったのだ と悟った。


ほんと。  『男はやさしい』。




「お酒飲んでぼうっとして、何をされたか覚えてないの」




「俺のせいか…」



竜也は車を道の端へ寄せて停めた。



「誤解するな」



彼は私に向き直った。 


私はすっかり彼を責めるような目で見ていた。



「浩子になんか全く興味ない。


あの時は俺も飲みすぎてしまった。 お前から目を離してしまって…」


竜也は私を強く抱きしめた。



「悪かったと思ってる」



竜也に謝られると心が気持ちよかった。もっともっと謝らせたかった。




その夜 何度も竜也に抱かれた。


竜也は、私の体から他の男の臭いを消し払うかのように、時間をかけて細部まで愛した。


低く穏やかな声で指示されるポーズ。 


私の心は、映画の中の出来事のように、遠くからその姿を見る。


なされるがまま、裸体を明るみにさらけ出す私は 人形だった。



「儀式」が終わると、納得したのか 竜也は少し明るくなった。



「ゆみは俺と二人のとき以外は絶対酒を飲むなよ」



「私も お酒、強くなりたい」



「飲ませたのが間違いだったけど…お前は意識をなくすと…」



竜也は途中で言うのをやめて笑った。