金曜の夜、ケータイが鳴った。


浩子さんからだ。



「竜也くんとうちの夫が喧嘩してるの。ゆみちゃん、何か知らない?」




竜也と同じ部署で働く同期生は、竜也を含め男ばかりの5人だ。


5人はプライベートでもとても仲がよく、家族や彼女を同伴して、よく小旅行やバーベキューなどを企画し出かけた。


竜也と私もよく参加したが、そのうち数回は、竜也に卑劣な罰を与えられ、辛い思い出になっている。



その同期社員の中で、竜也が一番仲がいいのが、武井だった。


仲間内で唯一の妻帯者でもあり、3歳になる子供もいた。 



浩子さんは、武井の妻だった。






「え? 喧嘩?…」



浩子さんは、豪快で面倒見のいい気さくな人だが、


私にこうして電話してくることは 一度もなかった。



若いころから結婚するまでホステスをしていたという彼女は、大抵のことは


笑って受け流すことができる女性だった。


だが、さすがに今は動揺を隠せないようだった。



「今日の夜、うちのダンナが竜也くんを連れて帰ってきたのね。


で、二人で何か話してたの。 


そしたらいきなり、竜也くんがうちのダンナを殴って…


ゆみちゃんなら、何か知ってるかなと思ったんだけど。」



「私は…」



「あ、何か話があるみたい。 後で電話するね。」





あのことだと思った。



その前の週の土曜日、私たちは、以前にも何度か来た河原でキャンプした。


しばらく従順に命令を守っていたから、竜也は満足げだったし、特に彼から罰を受けることもなかった。



鉄板焼きは美味しかったが、彼らとの集まりは、私にとって気を遣うものだった。


同期生の彼女もたちも含めて 年齢が一番近い人でも、5歳年上で、社会人。  


浩子さんも 姉さん女房で、私と8歳も離れていた。



その上、勉強しかしてこなかった私は、知らないことが多く、話題に乏しかった。



竜也の監視の目を抜きにしても、決して楽しいとはいえず、


自然、私は竜也のそばで大人しくしていることが多かった。



「竜也くん、いいわねぇ。若い彼女にぴったりくっついてもらって」


竜也は冷やかされると嬉しそうに笑った。



よほど機嫌がいいのか、竜也は私にビールを勧めた。 


未成年だが味ぐらいは知っている。 しかし、自分がどのくらい飲めるのかなんて、試したことなかった。



私は少しずつ、コップの3分の1ほど飲んだ。 美味しいと思った。


だが、すぐに顔が火照りだし、自分でもわかるくらい、真っ赤になった。


知らなかったが、私は極端に酒に弱い体質だった。



「これだけしか飲んでないのに? 可愛いわぁ」


浩子さんをはじめ、みんなに大笑いされる中、私は目がまわって足が立たず、


竜也がテントへ運んで行ってくれた。





しばらくして目が覚めると、辺りはすっかり暗くなっていた。


私は風にあたりたくて、テントを出た。  まだ頭がふらつく。




竜也はまだ数人でテーブルを囲み酒を飲んでいた。 


なにやら真面目に話しこんでいるようだ。


竜也はかなり酒が強い。 まともに相手をできるのは浩子さんぐらいだった。




私は水音にさそわれて、ふらふらと河原の上流へ上っていき、水辺で休んだ。



「ゆみちゃん? 大丈夫?」



武井だった。


私に気がつき、心配して様子を見に来たのだ。


武井は、竜也と対照的だった。


無口だが、穏やかで優しかった。


誕生日も私と同じ、9月生まれのおとめ座。 一緒にいると安心できた。 



武井は、冷たい河原に座りこんでいた私を かかえて起き上がらせた。



私はよろけながら立ち上がると、武井に抱きついた。


「ゆみちゃん、どうしたの?気分悪いの?」



わからない。 抱きしめてほしくなったのだ。



私は武井の掌を取って私の頬に当て、潤んだ目で武井を見上げた。


武井は竜也と同じく、180cmを超える長身だったが、竜也よりも胸板が薄かった。


私は154cm。   見上げるような形になる。



酒のせいで頭がぼうっとする。


足に力が入らず、武井が支えた。



「キスして…」


私は微笑んだ。 不意にからかってみたくなったのだ。



「うふふ…」


笑いながら唇を舐めて見せた。




武井は何も言わなかった。 動揺し、興奮しているのがわかった。



火照った唇に武井の冷たい唇がふれた。


「ん…」 と思わず、声が出た。 敏感になっている唇には刺激が強かった。



快感を感じながらも、武井がキスするとは…と私は、鈍い頭の中で驚いていた。



私は武井の胸に顔をうずめ、 しばし浅い眠りに落ちた。




数秒、数分のことだったかもしれない。



荒い呼吸と、早い鼓動で眠りから連れ戻された。



その短い時間で何があったのか分からないが、武井は別人のようになっていた。



彼は私に上を向かせ、もう一度キスをした。 今度は激しいキスだった。


そして唇を首筋へと滑らせながら、右手は胸の中心を捕らえて揉みあげた。



「はぁ…」


私は吐息をはきながら腰をくねらせた。



酔って火照ったからだには、十分すぎる快感だった。



私は夜の心地よさを初めて知った。




月明かり  青い夜  樹木の葉こすれ  水の音 



甘美な眠り  罪の芳香




武井は片手で私のスカートをたくし上げて、手を潜らせ、やさしく触りはじめた。


私は自分から足を少し開き、身を任せていた。





その時、 樹木を向こうから、仲間たちの大きな笑い声が聞こえた。


我に返った武井は手を止め、私は武井の胸にしなだれかかった。



私はそのまま、また眠りに落ちていった。



武井は私を抱いてテントに連れていった。








どうやら、武井は良心の呵責に耐え切れず、 一週間後のその日、


竜也を呼び出して私に何をしたかを言ったのだ と思った。



ケータイが鳴った。 浩子さんからだ。



私がキスをねだったことは逃れようのない事実。


覚悟して電話に出た。




「ごめんねー。 うちのバカがゆみちゃんにひどいことしたみたいで」


「…私、酔ってて…」


「ほんとにごめんなさいね。竜也くんにも謝ったし、ちゃんと叱っておくから」


「…ごめんなさい」


「ううん、悪いのはうちのダンナ。 ゆみちゃんは気にすることないから。」




私は、浩子さんみたいな女性を いい女って言うのじゃないか、と思った。


竜也は、「化粧が濃くてスレてて、もう女じゃない」と、悪い見本みたいに言った。


ヘビースモーカーで、酒やけした声。 派手な化粧、派手な服装。



だからどうだっていうのだろう。





正直、武井に対しては罪悪感はない。


妻と子供がいるのに、誘惑に負ける方が悪いのだ。



優しいお兄さんだけど、違う顔も持っていた。



竜也と同じような…。



彼も痛い目をみればいい。 








竜也が深夜、車を飛ばしてやってきた。



私の家を出て20メートルほどの、 いつもの待ち合わせの場所に行くと、



竜也は車の外に出て待ち構えている。 



「乗れよ」  



私は言われるまま大人しく乗った。









私は、卒業を目前に控えていた。



9割が進学する私の高校で、同級生たちはつぎつぎに進路が決まっていった。


私はダメもとで国立の志望校を受けてみたが、発表を待たなくても結果は判っていた。


私立も短大も受験しない私は、このまま社会に出れば、高卒ということになる。



私は生まれて初めて、大きな挫折を味わった。





子供のころから優等生を気取っていたので、


親戚や地元の人が、いい結果を期待して訊いてきた。



「いい彼氏ができちゃって、結婚するみたいよ」


母の言葉は追い討ちをかけた。


私は、自分を見つめていた。





竜也に出会ったことで、私の人生は180度変わった。


社会的にも、プライベートでも  私のプライドはズタズタだった。



誘惑してきた竜也は、計画通り大学から一流会社へ就職し、


誘惑された私は 目標を見失っている。



悪イ ノハ 誰?


ソシテ 愚カ 者ハ 誰? 



きっと今なら 竜也も、心から 私を優しく慰めることができるだろう。



強がりを言ったところで、客観的に見て 私にはもう竜也しかいないことは顕著だ。



逆に強がれば強がるほど、 自分の無力さを…彼には抗えないことを 


トラウマのように傷跡のように 心に刻みつけたということ。  彼は喜ぶだろう。 




負け惜しみを言った瞬間が、本当に負けを認めたときなのだ。 





残された最後の体裁や、言い訳、 プライド、 



それらを守るためには


「結婚」 ――― 彼の思惑どおり。 




しかも「行き場」を無くして そういう結果に導いたのも 彼自身なのだから


竜也には愉快で仕方がないことだろう。


私が落ち込めば落ち込むほど 彼は嬉しいに違いない。



私は鏡のむこうの私に微笑みかけた。






その日から私は、自分から進んで竜也の好きそうな清楚な服を着るようにした。


白のシャツの上に、たっぽりとしたニット



透けない素材の白いロングスカートに、ブーツ。


  

車で迎えに来た竜也は、スカートが透けないかをチェックした後、


かわいい、と言って喜んだ。



私は静かに助手席に座った。



「私…どうしたらいいの…」



か細い声でやっとそれだけ言うと、行き場のなかった涙がぼろぼろと溢れてきた。 



目もとに手やると、涙は震える指を伝って零れ落ちる。


竜也は少し驚いた様子だったが、私を優しく抱きしめた。



「俺がいるじゃん。 ずっと 守ってあげるから」



「私だってがんばってきたのに…」



「わかってる。 その分、俺が幸せにする」



「竜也は頭がいいもの…私なんかふさわしくない…」



「俺がゆみの人生を狂わせたんだから。悪いと思ってる。」


竜也は声はどこか得意気にも聞こえた。



私は竜也の胸にそっと顔をうずめた。



「私、働きたい。 

今のままじゃ…私…恥ずかしくて…結婚なんかできない」



「今のままのゆみでいいんだよ」




「竜也に私の気持ちなんか、わかんない」


私は涙声で、竜也の胸を軽く叩くようにして言った。




竜也は黙っていた。


迷っているようだった。



「ごめんなさい。私、竜也に…


 …嫌われたくないのに」




「すぐ辞められるアルバイトなら、いいよ」



意外と答えは早かった。




「ありがとう。大好きよ…」







まずは、働かなきゃ何も始まらない。 


まだ狭い世間しか知らない私が、竜也に勝てるはずがない。




客観的に見て、彼にとって私は、普通の恋人ではない。


数百万にのぼる金をかけ、時間をかけ、手取り足取り育ててきた分、


それ以上の存在であるはずだ。


そう簡単に私を手放すわけがないだろう。



彼の弱点は私自身




彼は どこまで我慢できるのだろう?




それを知るためには まず、彼の期待どおりの女を演じ、喜ばせる必要があった。