一年前には、私が「着物を着る」なんて思いもしませんでした。
しめつけられて動きを制限され、
歩きにくいし
汚さないようにいつも気を使い
苦手な「決まり事」や「作法」がたくさんあり
なにより、「似合わない」
「何のメリットもない」と思い込んでいたのですが
実家のタンスの肥やしになっていた着物と帯を見て
「何てキレイなんだろう」と思い、今年の夏以降に虫干しがてら一枚一枚点検しました。
「わ〜、これ着たい」と思った着物の、上になる左前に大きなシミがあったり、帯の後ろから一番見えるお太鼓のところに傷があったり
母や叔母や着物の持ち主が、好きでよく着たものだから汚れがあるのでしょう。私も同じ好みだということ。DNAかな?
沖縄で紅型染めをしていたり、名古屋にもどって絞り染めを習ったりしていたので
染める人の苦労や、着物に使うための反物の厳しい審査も少し知っています。
「この染めは、いったい何回繰り返し型を置いて染めたんだろう」とか
「このズレのない刺繍は人間業ではないなぁ」と思ったり。
「このデザインや色の配置は、私では思いつかない」と思ったり。
丈の長い洋服のコートを作るときに裾が引きつれないようにするのが結構大変なのですが
それより丈の長い着物の裾をひきつれることなく、数ミリ裏の色の違う布を見せるなんて、本当に「神業」だと思います。
そんな着物や帯を、「私には似合わないから着ない」といずれ捨てることになっていたかもしれないと思うとゾッとします。
他のものはずいぶん断捨離したのですが、着物や帯など、やはり「良いもの」は「活かしたい」という気持ちが強くなります。
ここしばらく、何にもワクワクできなかったのですが、
「どんな風に色を組み合わようか?」とか
「どんなところに着ていけるだろうか?」とか
想像すると、楽しい気持ちになってきます。まだ、ちゃんと着付けもできていないんですけど・・・。
そういえば、私が体調改善教室を始めたのも
「やりたことがあるのに体調が悪くてあきらめたなんてもったいない」「キレイなのに歩き方に癖があってもったいない」
「病院で、いつも体調不良を年齢のせいだと言われ、あきらめてるなんてもったいない」
という気持ちでした。「もったいない」「活かして欲しい」という気持ち。その人の中にある「良いもの」を活かせるお手づだいができたらなぁと思って、教室を始めたことを、着物を通して思い出しました。
人にはいろいろ使命があるようです。パッパと捨てて、新しいものを作り出したい人は、「創りたい」という使命があるのでしょうね。うらやましい気もしますが、私の場合は「活かしたい」が使命のようです。