どんな人が幸せな人なのか?を定義しようとする試みは、心理学や社会学、大脳生理学などの観点から様々に行われているけれど、要素の一つとして
「自分の好きなことがわかっていて、好きなことだけをして生きている」
というのは重要なものだと思う。
自分自身はと言えば、様々な場面で選択を迫られた時に、往々にして、機能性や合理性を基準にしてしまう傾向にあったのかな、とこれまでの人生を振り返っている。
もちろんその選択肢に機能性や合理性を見いだしても、結局は選択しなかった、という事も沢山ある。
例えば情にほだされた、とか、波風を立たせたくない、などの理由がそうだ。どちらかと言えば、選べない事への言い訳なのかも知れない。
ずいぶんと前から自分は、「好きでないことは出来ない人間」なのだという事はわかっていたけど、
子供の時から自分にとっての「好きなこと」を否定されたり、けなされたり、或いはさせて貰えない事がごく当たり前だった人間にとっては、もはや「好きなこと」が何なのかを考えた時点で同時に「好きなこと」イコール「叶わないこと」「手に入らないこと」なのだと判断しているのだろうと思う、恐らく無意識的に。
機能的、合理的、情、周りの空気、どんな動機であれ、人生の選択に「好きだから」という要素がなければ、どんなに周りからみて幸せそうに見える人間でも、幸せとは限らないのだと思う。
何でもかんでも感謝、笑顔、とのべつまくなしに語り、陰を見ようとしない人にはわからない感覚かも知れない。
ガラケーからの投稿w
「自分の好きなことがわかっていて、好きなことだけをして生きている」
というのは重要なものだと思う。
自分自身はと言えば、様々な場面で選択を迫られた時に、往々にして、機能性や合理性を基準にしてしまう傾向にあったのかな、とこれまでの人生を振り返っている。
もちろんその選択肢に機能性や合理性を見いだしても、結局は選択しなかった、という事も沢山ある。
例えば情にほだされた、とか、波風を立たせたくない、などの理由がそうだ。どちらかと言えば、選べない事への言い訳なのかも知れない。
ずいぶんと前から自分は、「好きでないことは出来ない人間」なのだという事はわかっていたけど、
子供の時から自分にとっての「好きなこと」を否定されたり、けなされたり、或いはさせて貰えない事がごく当たり前だった人間にとっては、もはや「好きなこと」が何なのかを考えた時点で同時に「好きなこと」イコール「叶わないこと」「手に入らないこと」なのだと判断しているのだろうと思う、恐らく無意識的に。
機能的、合理的、情、周りの空気、どんな動機であれ、人生の選択に「好きだから」という要素がなければ、どんなに周りからみて幸せそうに見える人間でも、幸せとは限らないのだと思う。
何でもかんでも感謝、笑顔、とのべつまくなしに語り、陰を見ようとしない人にはわからない感覚かも知れない。
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