ソチ五輪でぜひ見たいと思う浅田真央さんのプログラムは、ラフマニノフのピアノ前奏曲Op3-2だ。
 しかもバンクーバーの時のオーケストラバージョンではなく、私はピアノソロの原曲で是非見たい。
 高橋大輔さんのプログラムならば、彼の世界観を最大限に表出するのはコバの曲だと直観している。

 大人になり、浅田真央さんの人生には様々な出来事が降りかかった。

 人生はおもちゃ箱のようなものだ、と誰かが喩えたけれど、ここ数年の浅田真央さんのそれから出てきたおもちゃとは、きっと簡単に解くには難しいパズルだったのかも知れない。

 北米大陸のあの舞台で鳴らした警鐘は、今、彼女が身を置くフィギュアスケートの世界が、深い迷走と破滅への道をひた走る事を暗示していたかのようだ。

 それでも今彼女は、幾多の困難に耐え、逃げずに立ち向かっている。

 高橋大輔さんも多くの辛酸を舐めてきた人だ。
 トリノでの挫折、選手生命の危機に直面するほどの大怪我、柔らかな彼の感性が曇る時が沢山あったと察する。
 それでも彼も逃げない事で、人間としての強さを手に入れた。


 私は長年フィギュアスケートのファンであり続けたけれども、残念ながらアスリートの競技としてのフィギュアスケートにはもう魅力を感じてはいない。

 それでも浅田真央さんと、高橋大輔さんの演技には、いつまでも見続けたいと思わせる華を感じる。
 それは、つい見てしまわずにはいられない、というやむにやまれぬ熱情に近い。


 レークプラシッド五輪の渡部絵美さんや、アルベールビル五輪の伊藤みどりさんを通じ、フィギュアスケートの世界でアジア人が闘う事の孤独をいろいろ感じ取ってきたけれど、その事を教訓にいかに日本スケート連盟が選手を沢山育てたとしても、フィギュアスケートが国際的な連盟のさじ加減がものを言う採点競技であり、北米対ロシアの対立構造や利権構造の根深さを思えば、その事を熟知し、日本人選手の為に立ち回れなければ、多くの才能を守る事は出来ない。

 そして何より、日本人選手達の自己効用感を高めるアプローチの出来るコーチが存在しなければ、たとえ才能はあっても、真に強い選手は育たないだろう。


 採点競技ならではの難しさを内包した世界にあって、浅田真央さんのひたむきさや、高橋大輔さんの独自の世界観と表現力は類い稀な才能であり、魅力なのである。

 それはもはや、採点のさじ加減によっていかようにも操作できるフィギュアスケートの世界の持つあざとさを超える程に感動を与える貴重な宝であり、奇蹟なのだ。


 私は特にもう一度、浅田真央さんの輝きを「鐘」で見たい。

 本人が意識しようがしまいが、あのプログラムには彼女の持つ華が象徴されていると思う。

 もちろんこれは、競技としてのフィギュアファンをやめる一ファンのささやかな願いに過ぎない。
 浅田真央さんと高橋大輔さんの引退の時期が、私のフィギュアスケートファンの卒業時期である。


 もちろん彼らに触発された後の世代の日本人スケーター達が、公正な審判の下で伸び伸びと才能を発揮出来る日が訪れたならば、私は再び観るかも知れない。


 けれどもその道程は険しい。
 スケーターの優れた才能に、彼らを心身両面において支え伸ばせるコーチ、自国の選手を守る立場の連盟の調和があって初めて実現するのである。

 だが、多分今日のフィギュアスケートの世界では、連盟と連盟の奴隷であるジャッジに愛された者が選ばれるようになっている。

 つまり無理が通れば道理が引っ込む世界の中において「正統な努力」は否定され続けるのだ。


 ダフ屋から法外な価格でチケットを買い、会場で観る。
その裏で、利権者がほくそ笑む。

 ギャンブル依存の者が大金を使い、それがある外国の軍事資金に消えていく。

 悲しいけれども、フィギュアスケートの世界もそれに似ている。


 誰が真のチャンピオンであり、チャンピオンシップを備えているのか知りたいならば、音楽も、歓声も、解説も一切消して演技を見てみると良い。

 本当の実力者の演技からは、自然と音楽が心の内から沸き起こって来るはずだ。