看脚下(かんきゃっか)とは、「自分の脚もとをよく見よ」という意味の禅の言葉です。

 禅寺の玄関にはよく「照顧脚下(しょうこきゃっか)」と書いた扁額が掲げられております。
 これは、「脚もとをよく見て用心せよ」という意味です。


 実はワタクシ先月、お恥ずかしい事に、うっかり転んで左頬骨と左肋骨にヒビを入れてしまったのです。
その時に思い出したのが、この言葉でした。

「ああ脚もとが見えてなかったのだなあ…」
「でも護られた、ありがとう。」

こう感じました。


 「照顧脚下」という言葉は、意味が転じて、「履物をそろえなさい」ということのようですが、
その隠された意味としては、履物をそろえると同時に、
「ここで本来の自己に立ち返ってから道場にお入りなさい」
こういう事なのだそうです。


 南北朝時代の日本の禅僧、孤峰覚明(こほうかくみょう)は、ある僧から、

「禅の祖師である達磨が西のインドから中国に渡ってきた真意は何か」

と問われ、
「照顧脚下」と答えたそうです。
 もちろん達磨大師は禅の教えを伝えに来ているのですから、禅の真髄とは何か?を問われているわけです。

 それは今、この脚もとを見よという。つまり、そのままの自分こそが禅の真髄である、と迷いなく言っているのです。

 自分の脚もとを見るのは難しいなあ…私はつくづく思います。

 私たちは、人のことについてはよく見えます。
 特にニュースを観ながら、政治家やマスメディア、行政や司法、官僚などの無神経さや横暴さや無策ぶりには思わず怒りがこみあげて来る事、しばしば。

 ただ、通常では有り得ない転び方をして以来、そのような怒りがこみあげる時、私はふとこの言葉を思い出します。


 看脚下。
それでは自分自身はどうなのだろう?
自分のことはおざなりになっていはしまいか?
その象徴的な出来事が、骨折です。

 自分の事をよくよく観察してみれば、自分こそホメラレタこたぁしてないんだなあ…これが。
つくづく思います。

 外ばかりよく見えていても脚もとは覚束ないものです。

 人を見る前に、先ず自分を見つめる。
「看脚下」にはこうした自戒の意味も含まれています。


 今月に入り、「人財育成サポーター」としての活動を始めました。
厳密には、
「人財を育成出来る人を育成するサポーター」です。
ただ、食べていけるまでには暫く待つ必要があります。
 そこで、他に収入源を得るために面接を受けたり、はたまた娘の就職を紹介して下さる方が現れたので、その話を伺ったりと、身辺が慌ただしくなって参りました。


 いずれにせよ、先ずは第一歩です。
 ただし、その一歩は雑念や妄想の混じっていない一歩である事が大切なのでしょう。

 人様から請われ、なすべき事のある幸せや、ただ生きていられる事に感謝しながら、
先ずは自分の履物をきちんとそろえ、無心に歩み始めたいものです。



 とは言え、ワタクシは凡人ですので、無知ゆえの残酷さを露呈する御仁については、いずれ、ワタクシなりのシニカルさでもって本能の声に従い、怒らせていただく事にいたします。


「日本の機能を、止めるな。」
(被災地岩手の友からのメッセージ)


新博多駅の壁にあるMyBOSSの描いた葉っぱの絵

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