泣きたいときには泣いてもいい。
涙がおさまるまでうんと泣いていい。


怒りが沸いたら、その怒りを味わい尽くせばいい。



「自分より困っている人達はたくさんいるから…」
そうやって耐えようとする心は美しい。


けれども、
泣きたいときに泣けず、怒りたいときに怒れないのでは、いずれ心が過労をおこしてしまうし、その過労を長引かせてしまう。


それでも我慢する人は我慢し続ける。
耐える心は美しい。


けれども心を病んでしまったら、我慢した分回復には時間がかかってしまう。


だから、泣きそうな人が傍にいれば、
傍らに寄り添って思いきり泣かせてあげて下さい。

怒る人がいたら、抱えたものを吐き出させてあげて下さい。



…けれども、だからと言って、あなたが何とかしてやろうと思う必要はありません。


と、いうよりも、してはいけません。


自分が何とかしてあげる、とは、他人の心にたいしては通用しないのです。


よりキツイ書き方をしますと、
あなたが何とかしてあげる事は、
相手の心の強さを否定しているのと同じ事です。


あなたに出来るのは、黙ってその人の傍にいることです。


そして、泣いている相手や怒れる相手が立ち直り、
回復するのを生き生きとイメージしながら祈ることです。


昔、祖母から、地獄と極楽には共に山のようなご馳走が置いてあると教えられました。
私はこども心に、「どうして地獄には悪い人が行くのに、ご馳走があるのだろう」とよく思ったものです。


地獄では長い長い箸が渡されます。
そして、それでご馳走を食べようとする人達が、箸が長すぎて食べ物が口に入らぬと怒り呪いながら暮らしているのです。


一方、極楽でも渡される箸は地獄と同じように長い長い箸なのだそうです。

ところが極楽では、
ご馳走ののった円卓を皆で囲みながら、先ず、自分の向かいにいる人の口にご馳走を入れるのです。

食べさせてもらった人は「ありがとう」と言いながら、お返しに長い箸でご馳走を相手の口に運びます。

だから、極楽では皆が幸せに暮らしています。

祖母は、「だから地獄に行っちゃダメだ」と締め括っていましたが、

条件や出来事は同じでも、受け止めを変える事で運命を変えられる事の例えとして、よく話される事です。



しかしだからと言って、直ぐにそれを人生に活かせる人もいれば、そうでない人もいるのです。

今は未曾有の災害の中にある方にとっては、特に難しいし、それを求めるのは酷なことでしょう。


私は長いこと、自分の心の中に地獄を抱えて生きて参りました。

幼児期からの殴打、二度のレイプ体験、父親の自殺、DV、

いろんな体験をしてきましたが、その都度我慢をして参りました。

しかしその分段々と感情を失い、長いこと心が病みました。


長い長い時間です。


多くの説教やアドバイスがありました。

そのこと自体はありがたい事です。

しかしそのほとんどが、心の傷口に塩を塗られるようにヒリヒリするものでした。


そして決まって私は、私の弱さを責め続けました。
「生まれて来てごめんなさい。」
そう思った事もありました。


世の中には、他人を赦し、受け入れる事が不得意な人もいれば、自分自身を赦し、受け入れる事が難しいと感じる人もいます。

私はどちらかと言えば後者に近いのでしょう。


「地獄は私の心が生み出している。」
頭ではわかっているのです。
わかっていながら、なかなかそれを払拭しきれない自分を赦す事が出来ず、悪循環に陥っておりました。


今ではこう思います。

地獄を見る人見ない人、地獄を直ぐに抜け出せる人時間がかかる人。

それは、その人それぞれの心の個性なのだと思います。
あるいは、心の旅路や道程の違いです。


だから、それが出来ない自分や大切な人を、どうか責めないで下さい。
あるがままに、「ただ」受け入れる事は難しいのです。



自分と大切な人、
大切な時間を失わないためにも、
「ただ」感情を味わう事、
「ただ」傍らに寄り添う事、


なかなか簡単な事ではありません。
けれども大切な事なのです。

差し出がましい提言だと思われるかも知れませんが、これらの事を覚え、実践してみませんか。


今は気の張っている方が多いですが、いずれはこの智恵が必要になる時が来るでしょう。