亀井勝一郎は言った。


「恋の味を痛切に味わいたければ、失恋か片思いしかない」


と。


蓋し名言だと思う。



 船山 馨の「石狩平野」には多佳子という自由奔放で気の強い女が出て来る。



 沢山の色恋を重ねながら遍歴を繰り返す。だが気位はあくまでも高く、それでいてサバサバした優しさのある女でもある。
 だから主人公の鶴代は、まったく正反対の生き方をするこの女に親しみの念を持っている。


 そんな気位の高い多佳子だが、大東亜戦争のただ中、
腐れ縁の如く長く続いた山師の男と、最後は別荘に火を放ち心中するのだ。


 首を吊ろうとして紐が切れ、ぶざまな格好で泣いている山師の男を、多佳子は高笑いした後にこう言う。


「よござんす。私も一緒に死んであげます。」



 私は赤が嫌いである。
しかし、どうしても惹かれずにはいられなかった忘れられない赤がある。


 アイベン・アールの「グローリー」というタイトルの赤い木の絵である。
 シルクスクリーンを最初目の当たりにした時、


自分の中に得体の知れぬ強烈な情熱が燻っている事を瞬時に悟ったのだ。



 人間は宇宙の如くどこまでも奥の深い生き物である。



今年で齢43。



色恋に溺れる時は訪れるだろうか。



ただ一つ言えるのは、


「失楽園」のような色恋はごめん被りたいという事だ。



 だが船山 馨の描写する多佳子には、Eternal Optimizmとでも言うべき、あっけらかんとした在り方を感じて、どうにも惹かれて止まぬ。


 多分、歳を取り老女となり、この世のあらゆるしがらみや執着を手放す潔さの一方、死ぬまで女であり続ける生き方に対する憧れを感じているからであろう。



 一休は晩年に、森女という若い女に溺れた。
これもまたよし、である。
人間の奥深くに眠った淫靡さを感じる。



もっとも、淫靡さを開放するにはそれ相応のバイタリティというものが必要だ。



私はせいぜい、惚れた男の服の袖を掴みながら歩ければ、それで充分幸せな女なのである。


もちろんそれが片恋でも…

せめてそれくらいはゆるしてもらいたいかしら。


あとは、
幸せに生きてさえいてくれれば。


恋の苦しさや胸の痛み、切なさを味わい尽くした果ての、境地なんだろうなあ。




そーですか、枯れかかってますか…



でもセクシーな殿方にはやはり魅力とトキメキを感じるものですよ。



ただだからと言って、おいそれと簡単には恋に落ちなくなってきただけのこと。