相談に来られる人たちで、自分の努力が報われないことを嘆く人や、できるかぎりの努力をしてみたが解決の緒(いとぐち)が見つからない、と苦しみを訴える人は多い。

 努力して努力して、後一息というときに思いがけない不運が生じる。あるいは、コツコツと努力を続けているのに誰も認めてくれない。
 それに対して、努力もせずに派手なことをする人に皆は注目したり、ほめそやしたりする。
 問題解決のために「できる限り」の努力をしても駄目、という人もある。
 息子がノイローゼになった。あちらによい先生が居られるときくと飛行機に乗っても相談に行く。よい施設があるときくと、巨額の金を費やしてもいれてやる。漢方薬も試みた、果はおまじないの類にまで頼ってみたが駄目であった。これだけ努力しても解決策がないというのはどうしてなのか、と嘆きは深くなる一方である。

 確かにいくら努力しても報われないとか、不運としか言いようがないとか、そのような人が居られることは事実で、まったくお気の毒なことである。
 あるいは、努力しても努力しても解決の緒さえ見つからぬときもある。

 しかし翻って考えてみると、

「努力すればうまくゆく」

などということが本当に正しいのか、なぜそうなのかわからなくなってくる。


 私は来談される沢山の人たちのお話を聴いていて、人間が自分の努力によって、何でも解決できると考える方がおかしいのではないか、と思いはじめた。
 
 このように考えると気がついたことは、努力しても解決がないと嘆いている人は、そのために、

「自分の努力が足りないならだ」

と不必要に自分を責めたり、

「こんなに努力しても解決しないのは、××が悪いからだ」

と考え、他人や組織やいろんなものを憎んでみたり、要するに自分の苦しみを倍加させている、ということである。
「努力によって、ものごとは解決する」という考えのために、自らを不必要に苦しめているのだ。
 
 こんなことを考えていたとき、頭書の言葉に出会った。
 これは実はクリシュナムルチの言葉である。クリシュナムルチは最近に亡くなったインド生まれの宗教家・哲学者である。深い洞察に満ちた言葉を多く残しているが、そのなかで、

「ものごとは努力によって解決しない」

というのは、私の好きな言葉である。

 子どものためにできる限りの努力をした、などという人に会うと、この人は、解決するはずのない努力をし続けることによって、何かの免罪符にしているのではないか、と思わされることがある。
 それは、何の努力もしないで、

「ただそこにいる」

ということが恐ろしいばかりに、努力のなかに逃げ込んでいるのではないか、と感じられるのである。

 努力などせずに、子どものために父として母として、「そこにいること」、
これは凄く難しいことだ。
それよりは、飛行機に乗って偉い先生を訪ねて行く方がよほど楽である。

 あるいは、こんなことも考えられる。「努力によってものごとは解決する」と単純に考える人は、「解決」の方に早く目がゆきすぎて、努力に腰がはいらないのである。

 野球の守備で併殺をしようと、ちらりと走者を見たばかりにエラーをしてしまうのとよく似ている。
 大事なのは、まず球を受けとめることなのだが、心は、結果としての併殺、あるいは観客の拍手の方に行ってしまうので、せっかくの努力もミスに終わってしまう。人生では、このようなミスをしていても気づかずに、努力しても報われないなどと嘆くことになる。

 頭書の言葉が随分と好きになったので、よく口走っていたら、

「それにしては、あなたはよく努力するじゃないの」

と言われたことがある。
それに対して、私は

「努力によってものごとは解決しない、とよくわかっているのだけど、私には努力ぐらいしかすることがないので、やらせて頂いている」

と答えたことがある。
他にすることがないのでやっているが、別に解決を確信しているのではないのだ。

 努力によってものごとは解決しない、と知って、一切の努力を放棄して平静でいられる人は、これは素晴らしくて、何の言うこともない。努力とか解決とかいう次元は、この人にとって関心事ではない。 しかし、われわれ凡人は、努力を放棄して平静でなど居られない。いらいらしたり、そわそわしたり近所迷惑なことである。そんな状態に陥るくらいなら、努力でもしている方が、まだしもましである。それにひょっとして解決でも訪れてきたら、嬉しさこの上なしである。
 こう考えて、まあ努力でもさせて頂こうかとやっていると、解決が簡単に訪れないからといって、怒る気も嘆く気も起こってこない。
 解決などというのは、しょせん、あちらから来るものだから、そんなことを「目標」にせずに、せいぜい努力でもさせて頂くというのがいいようである。

【河合 隼雄「こころの処方箋」(新潮文庫)より引用】