ひとつ前の当ブログの続きです。
1972年オフの読売ジャイアンツと南海ホークスの間の「1対2のトレード」ですが、交換相手の山内新一さんは故障あがりで前年0勝。さらに松原明夫さんもそれまで0勝のピッチャーです。代わりに南海が放出した富田勝選手は山本浩二さん、田淵幸一さんと並び「法政三羽烏」と言われた三塁手で、1968年ドラフト1位(全体4位)で獲得した選手です。それをたった4年で出すのも驚きでした。
当時、「長嶋の後釜のサードが欲しい」と川上ジャイアンツ側から持ち掛けられたトレードと言われていましたし、少年時代から筋金入りの「アンチ巨人」の僕もさすがに「これは巨人に騙されたな……」と思いました。
しかし、フタをあけてみれば、山内新一さんは20勝をあげる大活躍。オールスター戦の人気投票でも、それまで3年連続パ・リーグ1位だったプリンス、太田幸司投手(近鉄バファローズ)を上回り1位で選出、大ブレイクを果たしたのです。山内さんは故障のため、肘が曲がりナチュラル・スライダーになるのを、野村捕手兼監督が「それが武器になる」と指摘してピッチングを組み立てたのです。
どうしても速球にこだわる山内新一さんを捕手役にして、打者を打ち取るのに大事なのはコントロールと身を持って体感させるなど、立場、視点を変えて見ることで「気づかせ」たのです。そういったちょっとした「気づかせ」で成績が急向上したのですが、技術面だけでなく、メンタルな部分も大きかったような気がします。名捕手でしかも監督がそう言っているのだから自信を持てたと思うのです。
この1973年のオールスター・ゲーム第1戦で、ロッテの成田文男投手が野村さんとバッテリーを組み、セ・リーグを0に抑える好投を見せたあと、「野村さんがキャッチャーだと何となく安心して投げれる気がしますね。山内がここまで14勝もしたのは野村さんのおかげですよ」とコメントしたのをはっきり覚えています。
また、第2戦で先発した山内投手が3イニングを0に抑え、見事に勝ち投手になり、負けたセ・リーグ監督の川上さんが「うちにいた選手が野村くんという良き指導者の下で活躍するのは嬉しい」と語ったのも覚えています。川上さん、大人のコメントだけれど、内心悔しかったんじゃないかなあ。(ちなみに「ポスト長嶋」として獲った富田勝さんはわずか3年後、長嶋政権によって張本勲さんを獲得するために高橋一三投手とともに日本ハムにトレードされます)
また松原明夫投手(のちカープでも活躍する福士投手ですね)も7勝をあげ、山内さんと合わせて0勝→27勝を生み出したトレードになったのでした。誰もが「損した」と思ったトレードで大成功、前年1972年の江本孟紀さんが東映で0勝→南海でいきなり16勝もあったし、野村さんの「見る目」と「再生」手腕が炸裂したのでした。90年代、ヤクルト・スワローズ監督時代に注目された「野村再生工場」は既に70年代前半に稼働を始めていたのです。(ジャッピー!編集長)