日本語を母語とする人が、「あれ?これってどうなんだっけ?」てなる疑問の代表的なものの1つが「ら抜き言葉」だと思う。動詞を可能の形にした時に、「ら」が抜ける現象。

時々、「『帰れる』は『ら抜き言葉』ですか?」というような質問を見かける。似たような質問は結構ある。結論から言うと、「帰れる」は正しい形であって「ら抜き」ではない。なぜそうなるのか、ルールを理解していればすぐわかるんだけど、意外と忘れてる人が多い。忘れてるとモヤモヤする。スッキリさせた方がいい。

まず確認。「国語文法」では「れる、られる」は「助動詞」とされていて、「受身、自発、可能、尊敬」の4つの意味がある。1つの形に4つの意味があるというのはなかなか厄介。

手元にある国語文法の本によると、「主な接続のしかた」のところに「れる」は五段・サ変の動詞の未然形につく。「られる」はそれ以外の動詞の未然形につく。」とある。

行かれる(五段)
見られる(上一)
変えられる(下一)
来られる(カ変)
される(サ変)

こうなるかな?

ここで、「行かれる」なんだけど…。どうだろう。我々世代(四十代)で、「行く」の可能の意味で「行かれる」と言う人は少数派ではないかな。親世代だと…言う人もいるかな…という感じ。自分自身の感覚では「行く」の可能は「行ける」なんだけど、「国語文法」では「行ける」は「可能動詞」で、「行く」とは別の動詞ととらえるらしい。「行く」を「可能の形」に変形したものは「行かれる」であると。

でも、やはり現代で可能の意味で一般的に使われているのは「行かれる」ではなく「行ける」の方だと思う。あと、「される」もどうなのかな…。国語文法は専門ではないのでよくわからない…。

そんなわけで、日本語を母語としない人のための「日本語文法」では、「行く」の可能の形は「行ける」と教える。グループ1(五段)のルールとしては、「~u→~eる」となる。

買う→買える
行く→行ける
話す→話せる
持つ→持てる
死ぬ→死ねる
遊ぶ→遊べる
読む→読める
帰る→帰れる

続いて「グループ2」(上一、下一)のルールは「~る→~られる」なので、

 見る→ 見られる
変える→変えられる

となる。

最後に「グループ3」(カ変、サ変)

来る→来られる
する→できる

こうなる。「する」の可能の形も「できる」と教える。この辺は「日本語文法」の実用性重視の面が出てると思う。

ここでグループ1~3の変化を再度確認。「ら」が入ってるかどうかに注目すると…元々「ら」が入ってるのは、グループ2(上一、下一)と、「来られる」だけということがわかる。グループ1(五段)と「できる」は最初から「ら」がないので「ら抜き」になりようがない

最初の質問に戻ると、「帰れる」が「ら抜き」ではないかと悩んでしまった人は、「変えれる」とごっちゃになってしまったのだと思う。

「帰る」と「変える」は、どちらも「かえる」で、辞書形(終止形)が全く同じ。でも、「帰る」はグループ1(五段)で「変える」はグループ2(下一)なので変化の仕方が違う。グループ1(五段)は「~u→~eる」なので「帰る→帰れる」だけど、グループ2(下一)は「~る→~られる」なので「変える→変えられる」。この「ら」を抜いて「変えれる」と言う人もいて、それが所謂「ら抜き」。

グループ1(五段活用)は最初から「ら」がないから「ら抜き言葉」にはならない。

これを知っていると、頭のモヤモヤがちょっとすっきりすると思う。

文法の授業って、好きな人はあんまりいないと思うけど、こういう時に役に立つので、やっぱり必要だと思う。


おまけ。最初に「動詞を可能の形にした時に『ら』が抜ける現象」と書いたけど、ここポイント。上にも書いたように、国語文法では、助動詞「れる、られる」は「受身、自発、可能、尊敬」の4つの意味がある。どの意味になるかは場面や文脈で判断する必要がある。でも、「ら抜き」が起こるのはこのうち「可能」の意味の時だけ。

「開ける」という動詞で見てみる。

親にトイレのドアを開けられた。(受身)
ジャムのふたはかたかったけど、何とか開けられた。(可能)
先生が窓を開けられた。(尊敬)

「自発」の例が思い浮かばない…。

とりあえず上記の3つの例文で「ら抜き」が起こるかどうか確認。「可能」の時は「開けれた」という人もいるけど、「受身」や「尊敬」の時は「開けれた」と言う人は多分いないと思う。

つまり、「ら抜き=可能」ということ。「れる、られる」は4つも意味があるけど、もしそれが「ら抜き」になっていたら、場面や文脈を判断するまでもなくそれは「可能」ということがわかる。だから、そういう意味では「ら抜き」は便利なものなのではないか、もしかしたら今後この形が広く認められ、正しいとされる日が来るかもしれない…というのを大学の授業で聞いた。その受け売り。

 

さらに、今の教科書的なルールとしては、グループ1(五段)は「読める、読まれる」のように、「可能」と「受身、尊敬、自発」で形が違っているのに対し、グループ2(一段)は「見られる」「食べられる」一つで「可能、受身、尊敬、自発」全ての意味を表している。「見られる」が「ら抜き」で「見れる」となれば、「見れる、見られる」のような区別ができることによって、グループ1(五段)と同じシステムになる。今まで2つのグループで違っていたシステムが、1つに統合される方向に変化しているのではないか…という見方もあるらしい。