皆さんこんばんは。今回は、「信仰生活における(実を結ぶために)重要な土作りと草刈り」について書かせて頂きます。過去記事で、信仰における苗半作について書かせて頂きましたが、土作りに草刈りも農業においては欠かせない重要な作業です。なぜなら、これらを疎かにしては、種をまいたり、苗を植えても雑草の勢いに負けたり、豊かな実を結ぶことは難しくなってきたり、結んだとしても本来の数よりも少なくなってしまうからです。最近少しづつ流行ってきている自然農法では、草刈りすらしないという人もたまに見かけますが、これらの方法では害虫の住みか(益虫ももちろんくるが)となって虫食いの被害に合う可能性が高くなりますし、雑草に負けて枯れてしまう可能性も高くなります。健康のために自然農法で少しでも自給自足をしたり、趣味でする分にはいいかもしれませんが、仕事として草刈りすらしない、耕すことすらしないでは、成功するのは難しいでしょう。ちなみに自然栽培をする人でも、土を耕す派と、耕さない派で意見が別れている時がありますが、某の経験からしてもやはり土は耕したほうが栽培しやすく、管理もしやすくなりますし、病害虫に侵されにくくなるなど、作物が良く育ちやすくなります。また、畑を耕して畝をつくることにより排水性も良くなり、過湿による根腐れ、枯れる等をしにくくなります。何より聖書を読むと、旧約聖書 イザヤ書 二十八章 二十四節(某訳)  「 種を蒔き、耕す者は一日中耕すだろうか。彼は土地を開いて馬鍬を引き、工夫するではないか。」、旧約聖書 創世記 二章 十五節主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」とある通り、かつての古代イスラエルでも農業において土を耕していたことがうかがえますし、土を耕して作物を育てるのが基本的なんだと思います。こういった身近なことからも聖書を読めば答えが分かりますし、聖書こそが真理だなと感じます。だから、何か悩みがあって問題がある場合等にも、聖書を読むのは有効だと思いますよ。また、耕したとしてもある程度すると(特に夏場)雑草はすぐに生えてきますので草刈りを定期的にすることも大切です。これらの作業のように信仰生活における、土作り(畑を耕す)に草刈りも重要です。
まず、農業においても、種や苗を雑草だらけで耕されてない場所に、撒いたり定植することは基本的にはありません。定植する前に畑を耕して土作りをきちんとして、雑草を処分してから定植をします。なぜなら、上記でも触れた通り、そのような場所に種を撒いたり、定植しても雑草に覆い尽くされて枯れたり、根腐れしたり、病害虫に侵されやすくなるからです。これらのことと同じように、信仰生活においても実を結びづらい環境や状況、周りに誘惑が多い状況等(周りに雑草だらけ、信仰からそれる可能性が高くなる)から脱却する土作りが大切です。そうしなければ、新約聖書 マタイによる福音書 十三章 二十二節(某訳)に「それから、茨の中に蒔かれた種とは、御言葉を聞くが世の思い煩いと、富と虚偽が御言葉をふさいで実らない人である。」と書かれているように、茨の中に蒔かれた種のような状況になってしまう可能性が高くなります。分かりやすく例えると、信仰を持つと決めたとしても、東京などのいわゆる都会と言われる誘惑だらけの場所に住むのは、やはりあまり適切ではないと思います。男性からすると、田舎に比べて都会に住む女性はやはり露出が多い服装をしてる人が多いですし、ありとあらゆる娯楽も多いですよね。某は女性ではないので、女性の気持ちは詳しくは分かりませんが、女性からしてもやはり都会のほうが誘惑が多いのではないでしょうか。某は信仰を持つ前は、関東に住んでいましたが、信仰を持ってからは東京からは離れました。なぜなら、やはり誘惑が多いですし、某にとっては信仰生活には適していないと感じたからです。それと、信仰を持つ前は、田舎は不便だし娯楽も少ないし、都会のほうが好みの女性が多くて楽しいからまだ帰りたくない、もっと遊びたいし楽しみたいという考えでした。もちろん、神の御意志により都会に残る人もいるかもしれませんし、家庭の事情や経済的な事情により、なかなか簡単には動けない人もいることかと思います。そのような場合は出来る限りのことをするしかないと思いますが、可能ならば誘惑が多い場所からは離れるべきだと個人的には感じます。ちなみに、上記聖句では、新共同訳聖書では富の誘惑とありますが、原語から調べてみると誘惑ではなく、虚偽(詐欺、欺瞞、偽り等)という意味です。これは明らかに、真の聖書福音と預言を聞きはしても、大多数の人間が聖書を自分達の都合の良いように私的解釈して、世に蔓延る偽りの福音に心を奪われていることを指していると思います(例、律法廃止論や福音を信じるだけで救われる等)。あと、誘惑とは何も外部からばかり入ってくるのではなく、内部から、いわゆる身内から来る可能性もあります。例えば、聖書を読んだことがある人なら分かりますが、かの有名なソロモンも最初は神に従順でしたが、異教徒の妻達によって晩年は堕落してしまいました。恐らくソロモンも最初は思い煩いがあったのだろうと思います。しかし、後に神よりも妻達を愛してしまい完全に心を奪われて、まさに茨や雑草にふさがれて実を結べなくなったような状態、作物でいえば根が腐れて枯れたような状態になったと言えます。ですが、ここでソロモンが信仰からそれるような誘惑をしてくる妻達を、きちんと注意し、何度言っても聞かないなら離婚するなどすれば、後に堕落することはなく、神を一番に愛し続けていて、状況は違ったのではないかと個人的には思います。聖書を読んでいる人なら分かると思いますが、悪魔は身内の人を利用して、信仰から脱落させようと様々な攻撃をしてきます。いわゆる人間の人情を逆手にとって攻撃してくるのです。某も人のことを偉そうに言える立場ではありませんが、人情にかられて神よりも家族を愛してしまい、信仰が薄くなり離れていく人も何度か見てきました‥。もちろん家族なのですから、愛する気持ちも分かりますし、滅んで欲しくない、簡単に離れたくないという気持ちは分かります。某もかつてはそういった葛藤にかられ、思い煩っていた時期がありました。しかし、神の選びがある以上、人間にはどうすることもできませんし、限界があります。例えるならば、大学受験や就職活動だって同じですよね。親や家族は、自分の息子や家族に、有名な大企業等に採用されて欲しいと願いますが、採用するかどうかの決定権は、企業側にあります。それと同じように、天の国に入り、誰を神の民として採用するからは神によって決められます。それに、信仰を持つと決めたからには、家族よりも神を第一に愛さなけれはなりません。もちろん、これは家族を蔑ろにしろという意味ではなく、どちらかを選ばないといけない究極の選択を迫られた時には、真のキリスト者は神を選ばなければならないという意味です。そうできない者は、新約聖書 マタイによる福音書 十章 三十七節に書かれているように、神の民として相応しくないということになります。だからこそ、家族が信仰生活の邪魔をしてくるとか、信仰を持つことにより日々家族との激しい衝突があるなどして信仰生活に支障が出る場合には、家族と離れることや、離婚などもせざるを得ないことになる可能性も人によってはあると思いますし、勇気ある決断をすることも重要です。確かに簡単な話ではありませんが、そういった決断を怠り、いつまでもズルズルと引きずって思い煩っていては、アダムやソロモンのように神よりも、妻や家族との生活を重要視して完全に堕落して背教することになりかねません。あと、信仰の妨げになる物や趣味などがあれば遠ざける、処分することも大切ですね。例えば、遊技(ゲーム)が好きな人がいて、家に遊技の機器があったとします。遊技好きだと一日中してしまう人も中にはいたりしますが、毎日一日中していては信仰どころじゃないですよね。信仰を持つと決めたからには、時間を無駄にしないためにも、そのようについつい遊技をやって夢中になりすぎる場合には思いきって処分することも重要です。もちろん、遊技を一切するなと言っている訳ではありません。たまに息抜きにする程度ならいいかもしれませんが、どんな趣味であれ、信仰生活に支障をきたすほど夢中になるのは危険であるし、新約聖書 ヨハネの手紙 一 二章 十五節、新約聖書 ヤコブの手紙 四章 四節に書かれているように、世を愛して世の友となり、神の敵になってしまう可能性があることを忘れてはなりません。こういった信仰生活のために身の回りの整理をする、新たな環境をつくる土作りが重要です。それと、土作りをしたとしても時間がすると新たな雑草が生えてきたり、土の状態も変わってくるものです。これは信仰生活においてもそうで、新たな場所に身を置き、身の回りの整理をしたとしても、新たな問題や誘惑がやってくる場合があります。例えるならば、新しく中学や高校に入学するとか、就職したり、引っ越し等で新しい出会いなどがありますよね。ここで、どのような人に出会うか、周りの環境等、どう選択するか等で今後の人生は大きく変わってくる場合があります。例えば、中学生、高校生になると思春期に入り、多くの人間は周りの影響を大きく受けます。小学生や中学生までは比較的真面目だった人でも周りの影響を受けていつのまにか性格も悪くなって不良になっていたりなんてこともあるでしょう。某の経験でもそのような例をたくさん見かけてきました。これは、信仰生活においても同じで周りの影響を受けて堕落し、神よりも世を愛して、世にのみこまれて完全に脱落する可能性もあります。旧約聖書 申命記 十三章 二節~四節に、「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、 その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。」と書かれているように、そういった神から引き離そうとする誘惑をされた場合はきっぱりと断る必要がありますし、悪魔は一人でも多くの人間を地獄に道連れにしようとしているので、身の回りの多くの人間を使って誘惑したり、攻撃してくる時があります。まさに農業でいえば、土作りをしたとしても次から次へと雑草を生えさせて、実を結べないようにし、あわよくば完全に枯れさせようとしてくることです。だから、土作りをしたとしても油断はできず、畑をきちんと管理(自己点検)して、雑草が生えてきたら定期的に草刈り(信仰の妨げとなる身の回りの誘惑や物を断つ等)をすること等が重要となってきます。それと、草刈りをしたことがあって雑草に詳しい人ならわかると思いますが、雑草は刈られたとしても、成長点や根が残っていればすぐにまた生えてきます。特に地下茎と言われている種類の雑草は地下で茎を伸ばし、成長していくのでいくら地上の雑草部分を刈ったとしてもきりがありません。だからこそ、草刈りにおいてはきちんと成長点まで刈る(地際まで)、出来るならば根まできちんと刈る、根本的なことが重要になります。これは、病気においても同じことが言えますよね。現代の日本で取り入れられている西洋医学では、対処療法といって症状を抑えることばかりを重視しており、肝心のなぜこのような病気になったのか、どこからきているのか等、根本的な解決は蔑ろにされていますよね。もちろん全ての医者がそうだとは言いませんが、ほとんどの医者は症状にあわせてとりあえず薬を渡すのが一般的でしょう。しかし、それでは薬でごまかしてるに過ぎず、根本的な問題がきちんと改善されてなければ、すぐに症状がぶり返してまた病院に通うはめになりかねませんよね。ちなみに、ついでに言いますが、薬の危険性は聖書からも暴かれています。興味がある方は、こちら「真の聖書福音と預言黙示録十八章から分かる薬の危険性 前編をご覧ください。上記で触れたことと同じように、信仰生活においても問題は根本的に解決する(雑草を根から断つ)ことが重要になってきます。遊技で例えるならば、一時的には遊技をすることを我慢できたとしても、やはり家の中に、遊技の機器があるとついつい少しくらい息抜きで良いではないかと手を伸ばしてしまい、いつの間にか時間を忘れるほど、夢中になってしまうなんてことも考えられます。だからこそ、夢中になって信仰の妨げになる可能性がある場合は、いっそのこと、遊技の機器を処分して、根本的に解決することも大切だと思います。某もかつては遊技が大好きで、夢中な時は一日中やる時もありました。しかし、信仰を持つと決めてからは遊技をするきも失せましたし、手元に残していてはまた夢中になり時間を無駄にする可能性もあると思い、全て処分しました。だから、絶対そうしろとは言えませんが、信仰を持つと決めたからには、そういった娯楽や趣味がある人は、根本的に対処することも時には必要だと感じます。また、信仰生活における土作りや草刈りをしない人は、新約聖書 マタイによる福音書七章二十六~二十七節(某訳)しかし、我の言うこれらのことを全て聞くだけで行わない者は、自分の家を砂の上に建てた愚か者とたとえられる。雨と強い風が吹き、また洪水が打ち寄せて来るとその人の家は倒れ、倒れかたが大きかった。と書かれている砂の上に家を建てた愚かな人ととも似ているなとも思います。農業において、種を蒔き、苗を定植して後はほったらかしなんてのはあり得ません。そんなことをすればほとんどは、雑草に負けて枯れたり、病気になったり害虫に食いつくされたりしてしまいます。生命力が強い個体は生き残り、実を結ぶ場合もありますが、やはり実を結んだとしてもわずかな場合がほとんどです。だから、信仰生活においても、畑で豊かな実を結び完全な者となって神に収穫して頂くには、きちんと土作りをし、雑草に負けないように日々の草刈りを怠らないことが大切です。そして、作物が成長して豊かな実を結ぶには肥料を入れることも欠かせませんね。ここで言う肥料、聖書から読み解く、信仰における肥料とは、愛ある戒めに指導等だと個人的には思っています。それらなくしては成長して豊かな実を結ぶことは難しいですし、一人では愛ある戒めに指導も貰えず、自己満足して雑草に負けてしまい、枯れてしまう可能性が高くなるでしょう。だから、やはり信仰における兄弟姉妹達と交流することは大切です。某が自信を持って勧めるのは「真の聖書福音と預言」であり、こちらにある兄弟姉妹達との交流です。それについては詳しくは某の過去記事ミカエル氏のブログ 真の聖書福音と預言をオススメする理由をご覧ください。
最後に、世の悪化により既に知っている人もいると思いますが、国民の人権を剥奪するカルトじみた憲法改悪が間近に迫っています。憲法が改悪されてから信仰を持とうとしても正直遅いですし、信仰を持つならまだ自由がある今の内に信仰を持つに越したことはありません。 憲法が改悪されたら、新約聖書 ヨハネによる福音書 九章 四節 (某訳)に「我は、我を派遣した方の働きを日中の間(光がある内に)でしなければならない。夜が来ると誰も働くことができないと書かれているように兄弟姉妹達も働くことが出来ない状態になっていて、ネットでの交流すら出来なくなっている可能性もおおいに考えられます。まだ、世に希望を抱いていたり、政治家や活動家などから救世主が現れることを期待してる人もいるようですが、人間から救世主なんて現れませんし、新約聖書 使徒言行録 四章十二節 (某訳)に「そして、他の誰によっても救いはない。天下で我々人間の間に救いを与えるのに必要な名は他にないからだ。」と書かれているように、救世主は、人間を造られた創造主たる神である主イエス・キリストしか居られません。そのことにどうか早く気づいてください。それに、何より主イエスはイスラエルの神であり、日本は古代イスラエル人によって建国されたのであり、現代のイスラエルです。聖書にキリストの教えは西洋由来ではありませんし、日本人こそ信仰を持ち、主イエス・キリストに立ち返るべきなのです。そのことについてまだ知らなくて詳しく知りたい人は、こちら「真の聖書福音と預言古代イスラエルと現代イスラエルをご覧ください。某は一人でも多くの人が目を覚まし、主イエスに立ち返って救われることを祈っています。

以上。