●「イエス・キリストの召された者」とはどんな人?(ローマ1:6より)

 

WTは、人間が此の世に生れて来た目的は、まことの神を探し求めるためであると教えている。確かに、有名なパウロのアレオパゴスでの講話の中で、「一人の人からすべての国の人を造ったのは……彼らが神を模索して本当に見出す」ためである、と説教している。(使徒17:26-27

パウロはローマ1:5-6でも、自分の使徒職は、「イエスの名に関してあらゆる国民の間に信仰の従順があるように」するためであるとしている。

 

この言葉は、ローマ書の冒頭のパウロの挨拶にある一文である。大抵のJWの人は、巡回訪問の目的に関して、ローマ1:11-12が読まれるのを耳にしたことがあるだろう。そこには、パウロがローマの信者たちに会うことを切望しているのは、霊的な賜物を分け与えるためであり、相互に励まし合うためである、とある。

WTは、1世紀には、キリスト教の信仰を統括する統治体が存在し、パウロは統治体の任命によって、諸国民への使徒として巡回奉仕をしていた、と漠然と信じている。巡回奉仕の目的が、ローマ1:11-12を用いて説明されるためであろう。

しかし、続く、13節を読むとわかるように、パウロは、ローマに訪問したことは一度もなく、志したが、実現しなかったと述べている。

 

ローマ1:1-6は、ローマのキリスト信者たちに対するパウロの挨拶の部分である。

この書の冒頭あるのは、「パウロ」という自分の名前である。それに「キリスト・イエスの僕」と自己紹介を加え、「召された使徒」と自分の「肩書き」述べている。まだ一度も訪問したことのないローマの信者たちに、自分を「使徒」と紹介している。

「使徒」と紹介したので、「使徒」の説明するため「神の福音のために選び分かたれた者」と同格でつなぎ、今度は「福音」という言葉を関係代名詞でつなぎ、説明する。その中に「神の子」という表現を使ったので、さらに同格で説明句を並べ、神の子と自分たちの信者との関係を説明する、という具合にづらづらと文を繋いでいる。

つまり、冒頭の「パウロ」という語以外は、すべて「パウロ」に掛かる説明句で構成されており、1-6節は文法的には、一文である。

 

そのことを念頭に、ローマ1:5-6の田川訳とNWTを比較してみる。本当に神はすべての人がクリスチャンとなることを人間の人生の目的と設定しているのだろうか。

 

その神の子を通じて我々は恵みと使徒職を受けた。それはキリストの名のために、すべての異邦人のところで、信の従順へといたらせるためのものである。あなた方もまたそれら異邦人の中にあって、イエス・キリストの召されたものである」。(田川訳)

 

わたしたちは、その名に関してあらゆる国民の間に信仰の従順があるようにと、この方を通して過分のご親切と使徒職とを受けたのであり、それら諸国民の間にあって、あなた方もまた、イエス・キリストのものとなるために召された者たちなのです。)―」(NWT)

*NWT( )の最初は4節後半から。最初の―(ダッシュ記号)2節の前についている。ダッシュ記号と( )については、凡例の説明がないので不明だが、( )は挿入句であることを示している可能性があり、ここのダッシュ記号の間にある、2-6節までの文は、直前の「パウロ」に掛かる文であることを示しているのだろうか。

 

取り上げたい個所は三箇所。

 

1:5 我々は恵みと使徒職を受けた

この複数の「我々」は、「パウロ個人」を指している。「使徒職を受けた」と言っているのだから、ローマの信者たちを含めた「我々」ではない。パウロは自分が「使徒」であることを神から与えられた「恵み」だと思っているので、ここで同義語として並べている。(コリ①310、ロマ1515ほか参照)この「恵み」をパウロは固有名詞的に使っている。

ところが、NWTは、「わたしたち」と「過分のご親切と使徒職」を切り離し、間に「その名に関して……この方を通して」という説明句を入れ、「過分のご親切と使徒職を受けた」につないでいる。

そのため、「わたしたち」という複数形は「著者の複数形」であり、実質的にはパウロ個人を指しているということには気が付きにくい。むしろ、ローマの信者たちも、過分のご親切により、使徒職を受けたのだ、と読みこむことになる。

これは、1世紀のクリスチャンはすべて天的クラスであり、すべてのクリスチャンが「使徒」たちと同じく天的な希望を持っていた、という教理と調和させようとしたものだろう。

また原文の「キリストの名のために」をNWTは「その名に関して」と訳し、「信仰の従順」に掛かる形容句と解しているが、文法的に間違い。

原文では、「使徒職」の後に、「信の従順へといたる」「すべての異邦人のところで」「その名のために」と形容句が三つ並んでいる。この三つの形容句は、文法上、すべて「使徒職」にかかるのであり、「その名のために」だけが、「使徒職」に掛かるのではない。そう解すると、後の二つの形容句が宙に浮くことになる。

NWTは原文の順番を無視して、「使徒職」に掛かる形容句の「その名に関して」を最初に訳し、「あらゆる国民の間に」「信仰の従順があるようにと」とつなげることにより、「従順がある」にかかる副詞句として訳している。

 

 

1:5  信の従順

この「信」は、神あるいはキリストの「信」という意味なのか、人間の「信」なのかはっきりしない。神の「信」であるとすれば、神が持っている「信」、つまり神が人間に対して信実の態度を貫いた、人間はそれを従順に受け入れねばならぬ、という意味となる。人間の「信」という意味であれば、人間は神、キリストに対して「信実」であるべきであり、その信実は従順を伴うものである、という意味になる。人間の「信」であるとすれば、信者が持つべき「神に対する信実という従順」と言うべきところを「信の従順」と省略して言ったのだろうか。

 

しかし、第二コリントス10:5では、「キリストの従順」を「キリストに対する従順」という意味で用いているので、ここもおそらく、人間の「信」ではなく、神あるいはキリストの「信」であり、「神あるいはキリストの信実に対する人間が持つべき従順」という意味だろう。

 

NWT「信仰の従順」。「信仰」と訳しているので、「人間が持つべき信仰」という意味で使っているのだろう。神は信仰の対象であり、神が何かを信仰しているとは考えにくい。それゆえ、この「信仰」とは、WT組織の唱える教理を信じること、という趣旨なのだろう。

 

1:6 イエス・キリストの召された者

パウロの属格表現「の」はとにかく分かり難い。ここは「イエス・キリストによって召された者」の意味なのか、「あなた方はイエス・キリストのものである。そしてイエス・キリストによって召された者である」という二つの表現を縮めたものなのか、はっきりしない。

口語訳「召されてイエス・キリストに属するものとなった」と属格「の」を「に属する」と限定的に訳している。

ここはおそらく、まだ「クリスチャン」(christianos)という語を知らなかったのか、用いていないので、その代わりに「イエス・キリストの者」という意味で用いているのだろう。つまり「召されてクリスチャンとなった者」という趣旨だろう。

 

NWT「イエス・キリストの者となるために召された者たち」。原文にはない「なる」という動詞を補っている。目的を表わす形容句と解しているため、「なる」という動詞を補うことにより、クリスチャンになる目的は、人々を「イエス・キリストのもの」とすることであるという趣旨になる。同時に主語の「あなた方もまた」の前に「諸国民にあって」という副詞句を全体に掛かる修飾句としている。つまり「諸国民の間にあって、あなた方もまた」と原文の順番を逆にすることによって、神が持つ人間に対するご意思は、すべての人を「イエス・キリストのもの」とすることである、と読みこませようとしているだろう。

原文では、あなた方も我々パウロたちも、異邦人の中にあって、イエス・キリストのために召された者である、つまりクリスチャンになった者である、と言っているに過ぎない。

 

6節を、KIは、en hois este kai humeis kletoi iesou xristou=in which-ones you-are also you called(ones) of-Jesus Christとしており、「イエス・キリストの」が単なる属格であることを示している。este=you-areであり、「する」(make)とはしていないことがわかる。

英訳は、among which [nations] you are those called be to belong to Jesus Christ-。最後のダッシュ記号は、4節後半からの挿入句であることを示すものであると思われるが、原文が挿入句であるわけではない。WTの解釈を持ち込んだもの。6節冒頭のen hois=in whichは、関係代名詞で、5節の「すべての異邦人……」(en pasin……)の文と同格でつないでいる。

 

5節の「信仰の従順があるようにと」(eis hupakoen pisteos=into obedience of-faith)をin oreder that there might be obedience of faithと訳したものだから、目的を達成させる必要が生じた。それで、次の6節で、単なるbe動詞に使役の意味を持たせて辻褄を合せて作文したのだろう。そもそも、前置詞のeis=intoin order that……と目的の意味に限定して読み込んだのが原因だろう。

 

 

以上を比較考慮すると、1世紀のクリスチャンはすべて使徒職という使命を神から受けてクリスチャンになったわけではないらしい。「イエス・キリストに召された」とは、天の王国でキリストとともに支配するように「召された」という意味ではなく、「イエスをキリストとする信仰に神から招待されて、クリスチャンとなった」という意味であるようである。

 

 NWTが「それら[諸国民の]間にあって、あなた方もまた、イエス・キリストのものとなるために召された者たちなのです」と訳したのは、WTの教理を原文に読み込むために、原文の属格を「ものとなるため」と訳し、人間がクリスチャンとなるのは、神の目的であるかのように作文したものであることがわかる。

 

 ローマ書は、パウロがコリント騒動の渦中にある時に書かれたものである。使徒職にこだわったのも、ローマの信者たちに自分の「使徒」としての権威を認めさせようとの意図があったのであろう。

 ローマ1:12でパウロが、ローマ訪問の目的を「互いの中にある信仰によって、つまりあなた方と私の信仰によって、互いに呼びかけあうということである」としている。

 ローマの信者の「中にある信仰」とパウロの「中にある信仰」とは必ずしも同一の信仰であるとは限らない可能性がある。だからこそ、相互に「呼びかけあう」(parakaleo)必要があるのであろう。同じ信仰を持っていたのであれば、「呼びかけあう」必要はなく、むしろ「強化する」となるであろう、と思う。

パウロが、すべての信者が同一の信仰を持つことを意図していたわけではないことは、ローマ1415章の食べ物や日に関する記述からも明らかである。

「信」から出ることが重要であるとしている。(ローマ14:23

 

  WTの教理に基づく「信仰の従順」があるかどうかよりも、神の信をもって人間として神に愛される生き方をすることに従順であることの方が大切なようである。「信の従順へといたる」とは、イエスのような生き方をすることにあるのだろうと思う。そのような生き方をする人が、「イエス・キリストの召された者」なのであろう。