●パウロが「優秀な使徒」と揶揄したのはなぜか?(第二コリントス11:3-5より)

 

WTは、パウロの権威と使徒職の正統性を疑ったコリントの信者たちを「優秀な使徒たち」と呼んだ、と説明している。(洞-1,p726ほか)

果たして、本当に「使徒たち」とは無関係に、ただの信者たちを「お偉い使徒たち」(田川訳)と嫌味を言ったのだろうか。

パウロがどのような意味で「お偉い使徒たち」と述べたのか、第二コリント11:3-5を比較してみる。

 

田川訳

蛇がエヴァを姦略を持って誘惑したのと同様に、あなた方の思いがキリストへの純真、純潔から離れ落ちてしまうのではないかと、私はおそれているすなわち、もしも来る者が(来て)、我々が宣べ伝えたのとは違うキリストを宣ベ伝え、すでに受けた霊とは異なる霊をあなた方が受け、すでに教えられた福音とは異なる福音を受けるとすれば、あなた方はそれを平気で我慢するだろうか。何故なら、我々はそのお偉い使徒たちと比べていかなる点も劣るところはないと思うからだ。

 

NWT

しかしわたしは、へびがそのこうかつさによってエバをそのこうかつさによってたぶらかしたように、あなた方の思いが何かのことで腐敗させられて、キリストに示されるべき誠実さと貞潔さから離れるようなことになりはしないかと気遣っているのです。現状では、だれかが来てわたしたちが宣ベ伝えたものとは別のイエスを宣ベ伝えても、あるいはあなた方が受けたものとは別の霊を受け、あなた方が受け入れたものとは別の良いたよりを[受け]ても、あなた方は[その者]を容易に忍んでしまうからです。わたしは、あなた方の優秀な使徒たちにただの一事といえども劣っていないと考えているのです。

 

「すでに教えられた福音」とは、パウロがコリントの人たちに伝えたパウロのキリスト教を指しており、「異なる福音」とは、パウロのキリスト教とは「違うキリスト」を宣ベ伝えるキリスト教のことを指している。

 

「来る者」とは、現在分詞男性単数形で定冠詞が付いている。パウロの頭の中には、特定の男性を想定しており、3節にあるエヴァをたぶらかした「蛇」を想定しているのだろう。

パウロは、自分のキリスト教以外のキリスト教を受け入れることを、キリストの純真、純潔から離れることであり、神とは「異なる霊」つまり「蛇の霊」を受けることになる、と言っている。

 

NWTは「だれかが来て」としているので、実際にパウロのキリスト教とは異なるキリスト教を伝道している人や組織が来て、という意味になる。

 

しかし、パウロは、「異なる霊」を受けたキリスト教を受け入れたコリントスの信者が現にいると言っているのではなく、「もしも、……異なる福音を受けるのであれば……」と言っているのだから、コリントの信者たちに対する危惧を表明しているだけである。実際に、コリントスの信者たちがパウロのキリスト教とは異なるキリスト教を受け入れた人々が存在していたわけではない。

 

パウロは、懸念を表明しているだけであることは、NWTでも「現状では、……別のイエスを宣ベ伝えても……」と訳していることからも明らかである。実際に「異なる霊」を受けた「異なる福音」を受け入れたコリントスの信者たちが会衆にいたと言っているわけではない。あくまでも仮定の話である。

 

しかし、「あなた方の優秀な使徒たち」と属格の「あなた方」を付けると、単なる懸念ではなく、実際に教会の中に異なる福音を受け入れた信者が存在していなければ成立しない文である。

 

「あなた方の優秀な使徒たち」と訳している箇所の原文は、to(_)n huper lian apostolo(_)nで原文に「あなた方の」という二人称属格の代名詞があるわけではない。定冠詞の複数属格(to(_)n)を「あなた方の」と訳したものである。KIでも、ton=of-theとしているだけである。ところが英訳で、YOUR superfine apostlesと大文字のyourで二人称複数形にしている。この定冠詞が男性形であるのは、「使徒たち」(apostolo(_)n)が男性形であるから、自動的に男性形になるだけであり、「彼らの優秀な使徒たち」だから、会衆の中にいた「あなた方の優秀な使徒たち」の意味になるわけではない。明らかに会衆の中に、パウロの使徒職と権威に対して反対している信者が存在していたとするWTの解釈を訳に読み込んだものである。口語訳・新共同訳「あの大使徒たち」だけでなく、新改訳や文語訳も同様に、二人称には解していない。

 

仮に、コリントスにパウロの使徒職と権威に反対する信者たちが存在していたとしても、パウロが、自分の使徒職と自分のキリスト教を宣教されたコリントスの信者たちを同列において皮肉を言うはずがない。

パウロは繰り返し、コリントスの信者たちに、言うことを聞かないなら、「罰する」(10:6)「実際に遂行する」(10:11)「遠慮しない」(13:2)「厳しく対処する」(13:10)と繰り返し脅している。パウロは、福音を宣教する側と福音を受ける側とを明確に異なる立場として見ている。パウロから福音を受けた信者たちが、パウロと同等の「使徒」と同格に比較される存在であると考えていたとは考えにくい。

 

コリントスの信者たちは、パウロの使徒職と権威を他の使徒たちのそれと比較していたのであり、パウロは他の使徒たちと比べて、自分の使徒職と権威がコリントスの信者たちから低く見られること、あるいは自分の使徒職と権威に疑念を抱かれることに対して「おそれていた」のである。コリントスの信者たちの信仰を「気遣って」いたのではない。、パウロのキリスト教をコリントスの信者たちが受け入れなくなることを「おそれている」だけだったのだろう。

 

また、もし、実際にコリント会衆の信者たちがパウロのキリスト教とは違うキリスト教を受け入れていたとすれば、パウロの時代からキリスト教は一枚岩ではなく、さまざまなキリスト教が伝播し、存在していたことになる。エルサレム教会の「使徒たち」はパウロとは異なるキリスト教も承認していたことになり、1世紀の統治体はキリスト教を統治してはいなかったことになる。

 

「使徒」という語は、字義的には「遣わされた者」という意味であり、「イエスによって直接任命された特別の権威をもつ者」という趣旨で使われている。いわゆる「十二使徒」以外にも、ガラテア1:17では、イエスの肉の兄弟で、エルサレム会衆の指導者となった「ヤコブ」や使徒14:14では、「バルナバ」と「パウロ」が「使徒」と呼ばれている。

 

パウロは、少なくても第二回宣教旅行の時には、まだ自分を「使徒」とは呼んでいない。その時期に残っている資料は唯一第一テサロニケ書簡だけであるが、自分は「使徒」であるなどという自己主張はおくびにも出していない。

 

しかし、第三回宣教のこの時になると、パウロがむきになって自分を「使徒」と自己主張するようになる。パウロは自分のキリスト教よりもエルサレムの「使徒たち」のキリスト教の方が権威があると思われたせいで、むきになって、自分も彼らと同等の権威のある「使徒」であると言い立てたのだろう。(ガラテア2:8参照)

 

あるいは、イエス自身の発言を引き合いに出してパウロを批判した信者たちに対して、自分は復活したキリストに直接会い、キリストから直接任命された権威ある「使徒」だと開き直ったのだろう。(第二コリントス1223、13:3参照)

 

そしてローマ書ではその自己主張が常態化し、初めて出会う教会で自己紹介する時に「使徒」という称号を使い、書き送っている。

 

いずれにしても、「優秀な使徒」を、パウロの「神権的権威」に対して批判的な成員であると解釈することには無理がある。

 

パウロ自身は、エルサレムの統治体を構成する「十二使徒」の権威に服するような組織作りをしていた証拠はなく、むしろ聖霊を注がれている人たちによる階級のない自発的運営によるキリスト教会を作りたいと思っていたようである。(第一コリント9章参照)

 

パウロがエルサレムの使徒たちから任命された「諸国民の使徒」であったわけではなく、パウロが自ら「使徒」という語を「称号」として使っていることを考慮するならば、「優秀な使徒たち」との皮肉は、エルサレム教会の「十二使徒たち」、キリスト教の権威である「使徒」に対する皮肉であると思われる。

 

パウロとしては、「使徒」たちが宣教するキリスト教だけが福音なのではなく、自分の宣教するキリスト教も「使徒」たちと同等の権威を持つキリスト教であり、福音である、と主張したかったのであろう。

それなのにコリントスの信者たちの中には、生きているイエスについてはほとんど言及せず、復活したキリストだけが重要だと説教するパウロのキリスト教に、疑念を抱く者たちがいた。実際にコリントスの信者たちの中には、生きている時のイエスについて知っている信者たちもいたのであろうし、使徒たちを知っている信者たちもいたであろう。

 

生きているイエスを知っていた使徒たちと自分を比較されたパウロは、コリントスの信者たちに腹を立て、彼らを「優秀な使徒たち」という嫌味な呼び方をして、対抗心を示したのであろう。