●閑話休題(原罪物語について)
創世記に登場するアダムとエバの物語が、どのような経緯を経て、旧約聖書に編集されたのか、経緯と編集時期の問題については、ここでは触れないこととする。一般にモーセが創世記の編集者とされているが、学者によると、モーセが生きていた時代より、はるか後代の文書であることは間違いないらしい。
原罪物語には、「サタン」が登場するが、文字通り、最初の人類が創造された時の出来事が、伝承されて来た話であるとは考えにくい。「サタン」は、ユダヤ教の内部対立から誕生した宗教思想を具現化したものらしい。イスラエル民族存亡の危機であったアッシリア捕囚とバビロン捕囚が強く影響しているという。(詳しくは「悪魔の起源」エレーヌ・ペイゲルス著)
その説を受け入れるなら、正典にあるアダムとエバの物語を解くには、男性絶対優位のユダヤ教思想を考慮に入れる必要があろう。
創世記に描かれているアダムとエバの原罪物語のほかにも、旧約外典には「モーセの黙示録」、「アダムとエバの生涯」、「ヨベル書」(3,4章)などの「アダム文書群」が存在する。それらも考慮する必要があるが、正典聖書に記述されているアダムとエバに関する記述から、創世記の原罪物語を考察してみたいと思う。聖書霊感説を前提にしている解釈であるから、あくまでも妄想の部類である。
引用している聖句の表現はNWT。
(創世記1:11と2:5の矛盾、1:27と2:22の矛盾等については、ここでは、無視します)。
アダムとエバの創造後、2:16,17で、人に「善悪の知識の木については、あなたは食べてはならない」と神からの「命令」され、「それから食べる日には……死ぬ」と警告を受ける。
この時、エバはまだ創造されていないのだから、この命令を受けたのは「アダム」個人であるが、アダムにだけ有効な命令であるとしたら、固有名詞でなければならない。
しかし、この「人」は、普通名詞と解している。つまり、アダム個人だけに適用されるものではなく、すべての人間に共通の「命令」である。単なる「指示」ではなく、「命令」であるから、違反したら「罰」が与えられることになる。
禁じられた「善悪の知識の木」は、一本だったのか。それとも「命の木」と二本だったのか。
3:22で「今、彼が手を出してまさに命の木からも[実を]取って食べ、定めのない時まで生きる……」とある。善悪の知識の木の「実」と命の木の「実」は、別々の作用をもたらすものだったのであるから、食べることを禁じられていたのは二本の木であったのだろう。
園の真ん中には禁じられた二本の木があったのだが、どちらが「善悪の知識の木」で「命の木」であるかは問題ではなかったのではないかと思う。二本の木がワン・セットになっていたのだろう。
もし、エバが食べた「善悪の知識の木」の実とは、逆の木の方の「実」を食べたなら、その木が「善悪の知識の木」と名付けられ、もう一方の木が「命の木」となったのではないかと思う。
アダムとエバが木の実を食べた後も、3:22で「命の木から実を食べる」なら、「定めのない時まで生きる」ことが可能であることを示唆している。
ということは、もし、アダムとエバが禁じられた木から実を食べることをしなければ、やがて禁じられた木のからも「実」を食べることが許された可能性が高い。神は彼らがその実を食べるのにふさわしい成長を遂げ、自立できるように訓練しようとしていた、と考えることもできる。
―余談1―
かつて(1990年代)に、この話を講演で使おうと思い、資料を探したのですが、発見することができませんでした。60年代のWTで扱われていたので、資料をコピーしておいたのですが、60年代の製本が再版されたので、処分してしまいました。ところが再版された製本には、60年代にも70年代にもいくら探しても、載っていなかったのでした。当時は、自分の記憶違いであろう、と納得させたのですが、今考えると、教理変更に伴い、都合の悪い記事は削除されたか、入れ替えられたのではないか、と疑っています。ほかにも、あったはずなのに、検索に掛からない記事や表現がライブラリーには存在します。
エバはいつ欺かれたと悟ったのか?
テモテ第一2:13で「アダムは欺かれなかったが、女は全く欺かれた」とある。
創世記3:6で「その後、共にいたときに夫にも与えた」とある。
エバが、最初に木の実を食べた時には、一人の時であり、「その後」、アダムが食べた時には、それなりの時間経過があったことになる。
最初の裁判である、創世記3:9以降の記述を見ると、13節で、女は、「蛇が欺いたので食べた」と弁明している。
つまり、女は蛇の誘惑に遭ったときに、その言葉を信じ、食べたが、サタンの言う通りにはならなかったことをすぐに悟ったものと思われる。
それなのに、その後の別の機会に夫にも「与えた」のだ。夫にも自分で木の実を取って食べるよう誘惑したのではなく、エバは自分で木の実を取って、夫に与えている。
エバは蛇に、欺かれたことを知っていたのに、どうして、自分が取って、夫にも与えたのだろうか?
自分がやがて死ぬことを悟った女は、夫を道連れにしようと考えたのではないだろうか?
つまり、エバはアダムに、一緒に死ぬ道を歩もう、と持ちかけたということだろう。
一方、テモテ第一2:13からすると、「夫は欺かれませんでした」。「その後」、女から与えられて、食べましたが、女が2度目に近づいた時に、あるいは、蛇に欺かれたと気が付いたすぐ後であることを示唆する記述はない。あくまでも、「その後」と表現されているだけである。
また「アダムは欺かれなかった」点を考慮すると、女は繰り返し、木の実を取ってアダムに与えて食べるよう誘惑した可能性もある。
創世記3:12で、アダムは、「あなたが与えた女がその木から実をくれたので、食べた」と弁明している。神の命令を知らなかった、あるいは忘れていた、と弁明しているのではない。十分理解していたが、神が与えて下さった女性であるし、その彼女が実をくれたので、食べたのだ、と弁明している。
もちろん、WTが説くように、アダムは神に責任転嫁しようとしたのかもしれない。
しかし、こう考えたのかもしれない。
私は、神の命令は破っていない。なぜなら、直接、木から取って食べたのではない。あなたが与えた女が、与えたから食べただけです。
アダムは、創世記2:17の「その木から食べてはならない」という命令を、自分で「取って食べてはならない」という意味に解釈したのかもしれない。
しかし、3:3のエバの善悪の知識の木に関する認識を見ると、「食べることはもとより、触れてもならない」。禁を破るなら、「死ぬことになる」と認識していたことがわかる。
アダムに命令された2:17では「触れてもならない」という命令にはなっていない。アダムが、触れることも禁じられているとエバに伝えたのでなければ、エバが2:17をそう解釈したのだろう。
では、アダムは、なぜ食べることにしたのか?
創世記3:12では、「あなたが一緒にいるようにと与えた女がくれたから」とも弁明している。
「欺かれなかった」、つまり食べたら死ぬことを理解していたのに、なぜ食べたのか?
アダムは、一人で永遠に生き残るよりも、エバと一緒にいたかった、あるいはエバ一人だけが死ぬことになるのは耐えられない。いっそのこと、自分の分身であるエバと運命を共にしようと考えたのだろうか。
あるいは、自分が直接取って木の実を食べるのではなく、他人から与えられて食べるのであれば、命令違反にはならない。違反に問われたとしても、酌量の余地がある、と考えた可能性もある。
「食べたら、死ぬ」という明確な命令であっても、条件を付与すれば、解釈変更は可能である。実際、「木の実を」ではなく「木から」となっている。それでも、アダムは欺かれなかったのだから、神との合意のない自己流の解釈は詭弁に過ぎないことを多少は自覚していたのかもしれない。
この自責の念、あるいは罪の意識や自己憐憫は、自罰感情に陥れるだけでなく、他罰感情をも生み出す。
その結果、アダムはエバにお前のせいだという感情が無意識下に刷り込まれ、創世記3:16にあるように、男は女を「支配する」ようになったのだろう。弱者を保護するための健全な権威や力の行使ではなく、居丈高に権威と力を振るうよう、歪んだ精神が根付いてしまったのかもしれない。
エバは本当は欺かれた自分が悪いのに、自分と運命と共にしてくれた、とアダムに負い目を感じ、夫を「慕い求める」ようになった。純粋に夫を「慕い」、補い手として指示を仰ぐのではなく、夫を自分の言うことを聞く人間と見下し、「慕う」だけでなく、夫に「求める」ようになったのだろう。
最初は、欺かれて、木の実を食べたとはいえ、欺かれたことを知りつつ、夫にも与え、食べさせた時点で、エバの行動は意図的である。蛇に欺かれて、食べたことは酌量の余地があるが、食べたら死ぬ、とアダムが信じていることを知りながら、食べさせたのだから、確信犯であり、そこには酌量の余地はないだろう。
ここに、たがいに罪の意識で結びつきながら、互いに利用しようとする共依存関係の原型をみることができる。愛と共依存とは別物であるが、日本的愛情は共依存的愛を善とする傾向が強いと思う。実質的には、アダムもエバも同罪であるように思う。
―余談2―
ある時期、アダムの罪だけが強調され、エバの罪が軽く扱われる傾向が強くなった時期が、会衆にありました。それで、アダムの罪とエバの罪とどちらが重いか、という話になり、この話を講演でしたことがありました。エバの罪を強調して話したところ、夫をコントロールしようとする傾向の強い主婦の姉妹たちが少々おとなしくなったことがありました。ところが、地はなかなか変えられないらしく、しばらくすると、元に戻りました。(W)
何故、エバではなく、アダムが木の実を食べた時に目が開かれたのか?
3:7によると、その結果、二人は「裸であることに気付くようになった」。これは物理的な意味で「裸である」ということだけでなく、神の保護が取り除かれ、「無防備の常態」となった、ということを示しているのだろう。
そうであれば、エバだけが罪を犯した状態の時には、まだアダムには、あるいはエバにも神の保護が続いていたことになる。神との良い関係を取り戻すことが可能だったし、1:28「子を生んで多くなり、地に満ちて、従わせよ」という神の当初の目的は、まだ実現可能だったのだろう。
罪を犯していない完全なアダムと不完全になったエバとの間に産まれて来る子供は、アダムの完全さの優位性に支配され、完全な子供が産まれてきたのだろう。それと同じようなことがハルマゲドン後にも生じ、贖いが適用されると生き残った不完全な人間同士から完全な人間の子どもが誕生する、とされていた。
イエスは完全な人間であったので、もし不完全な人間の女性と結婚して子供をもうけたら、イエスの完全な子供で地を満たすことも可能だった。しかし、イエスはその権利を放棄し、贖いとなることによって、アダムの子孫を買い取り、不完全な人間がイエスに対する信仰の従順により、完全になる道を開いた、と教えられていた。
以上は、聖書霊感説を前提とした話であり、事実であるわけではない。原罪に関する一考察に過ぎないので、悪しからず、御容赦を。
現実的な観点から見れば、少なくても動物については雌雄同時に創造されているが、人間については、男が先で、女は男から造られている。男は子供を生ませることは出来るが、生むことは出来ないのだから、先に女を造った方が、子孫繁栄の観点からしても、効率的である。
ユダヤ教の時代背景を考えると、エバが後から造られているのは、古代イスラエル社会は男性優位の構造をもっていたからであろう。女は男の「所有物」の扱いであった。同時に創造されたのであれば、男女が同等になってしまう。男性優位の社会構造を維持するために、女性が後に造られているのだろう。
女が男より禁じられた実を先に食べているのも同様であると思う。男性優位の社会構造を維持するためには、女性の罪を大きくしておいた方が維持しやすいからであるように思う。
死をもたらす危険な木が園の真ん中の目立つところ、最も重要な位置に置かれているのも、ある種の予定調和であるように思う。
この点については、いずれ機会があれば。