クリスチャンは組織を離れては実を結べないのか?(ヨハネ15章より)

 

JWは、WTの組織を離れているクリスチャンは、真のクリスチャンではないので、「実」を結ぶことは出来ない、あるいは結んでいるように見えているとしても、神に是認される「実」ではないと考えている。

 

その根拠として取り上げられる聖句は、いくつかあるが、第一に思い浮かべるのは、ヨハネ15:1-10にある「ぶどうの木」の譬え話であろう。

また「実を結ぶ」ということに関しては、共観福音書の「種まき人」の譬え(マルコ41-20、マタイ131-23、ルカ84-15)を思い浮かべるであろう。

 

JWにとって「実」を結ぶとは、愛を示すことや世から離れていることだけではなく、「宣教奉仕」が重要な「実」の一つであると理解している。

 

その刷り込みがあるので、「真のぶどうの木」の譬え話を読む時に、JWは無意識に、「実」の中には「王国伝道」が含まれている、ことを前提に読むことになる。

 

まず、田川訳とNWTを比較してみる。

 

「私は真の葡萄の木、私の父は農夫である。私の中の枝で実を結ばぬものはすべて、父がこれを取り除く。そして実を結ぶものはすべて父が清める。ますます多くの実を結ぶためである。すでにあなた方は、私があなた方に語った言葉の故に、清い。私の中に留まりなさい。私もあなた方の中に留まっている。葡萄の枝は、葡萄の木の中に留まっていない限りは、自分で実を結ぶことができない。それと同様に、あなた方も、もしも私の中に留まっていないとすれば、(実を結ぶことが)ない。私は葡萄の木、あなた方は枝である。私の中に留まり、私もその中に留まる者は、その者は、多くの実を結ぶ。私なしではあなた方は何もなすことができないからである。もしも私の中に留まらない者がいれば、枝のように外に投げ出され、枯れた。そしてそれらは集められて火の中に投げ入れられ、焼かれる。もしもあなた方が私の中に留まり、私の発言もあなた方の中に留まるならば、あなた方が何かを欲することがあれば、求めなさい。そうすればあなた方に生じるであろう。この点において、(すなわち)あなた方が多くの実をもたらすという(点において)、私の父が栄光化されたのである。そしてあなた方は私の弟子となるであろう。」(田川訳)

 

「わたしは真のぶどうの木,わたしのは耕作者です。2 []は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされます。3 あなた方は,わたしが話した言葉のゆえにすでに清いのです。4 わたしと結びついたままでいなさい。そしてわたしはあなた方と結びついた[ままでいます]。枝がぶどうの木にとどまっていないなら,それだけでは実を結ぶことができないのと同じように,あなた方もわたしと結びついたままでいないなら,[実を結ぶことが]できません。5 わたしはぶどうの木,あなた方はその枝です。わたしと結びついたままでおり,わたしが結びついた[ままでいる]人,その人は多くの実を結びます。わたしから離れては,あなた方は何も行なえないからです。6 わたしと結びついたままでいないなら,その人は枝のようにほうり出されて枯れてしまいます。そして人々はそうした枝を寄せ集めて火の中に投げ込み,それは焼かれてしまいます。7 あなた方がわたしと結びついたままでおり,わたしの言ったことがあなた方のうちにとどまっているのであれば,どんなことでも自分の願うことを求めなさい。そうすれば,それはあなた方のためにそのとおりになります。8 あなた方が多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示すこと,これによってわたしのは栄光をお受けになるのです。」(NWT)

 

田川訳の「中にとどまる」をNWTが「結びついている」と訳しているのが気になるかもしれないが、どちらの訳も、主旨に大差はない。どちらも、「イエスの中にとどまる」、あるいは、「結びついて」いないなら、実を産み出すことは出来ない。だから、「真のぶどうの木」であるイエスと結びついていないなら、切り捨てられるぞ、脅している説教である。

 

この「中にとどまる」という表現は、イエスの言葉としているように見せかけながら、実はイエスを奉じる組織の中にとどまる、ということを意識している。

単に「イエスの言葉」や「イエスの教え」であるのであれば、信者は、心の中に「イエスの教え」や「言葉」を取り入れ、自由に活動すればよいのであり、「枝」である信者が必ずしも「ぶどうの木」と物理的に結びついている必要はない。自らも「イエスの言葉をその中にとどめて」、「真のぶどうの木」として生きて行けばよいはずである。

 

しかし、イエスだけが「真のぶどうの木」であり、その中にある、あるいはそれと結びついている「枝」だけが「信者」であるという。つまり「真のぶどうの木」である「わたし」とは、「イエスの言葉」や「イエスの教え」と称して信者に語る存在であり、「組織」を指していることになるであろう。

 

イエスは、自分を奉じる宗教組織の存在を前提に信者に向かって説教することがあったのだろうか。イエスをキリストとして奉じたのは、イエス自身ではなくイエスの弟子たちであるから、イエス自身がキリスト教の宗教組織を前提に説教を語った可能性はありえないように思う。

 

また、この譬話の説教は、最後の晩餐でユダを含め弟子たちの足を洗い、謙遜さの手本を示した後の場面である。イエスは「世の支配者が来ようとしているが、彼は私に対して何の力もない」と宣言され、「立ちなさい。ここから行きましょう。」(14:31)と出発しようとした場面に続いている。この逮捕直前の長い説教は、17章の最後まで続く。そして、18:1の「これらのことを言われてから、イエスは弟子たちとともに外に出、……園のあるところに行く」と場面が展開する。

 

この15-17章の最後の晩餐後、裏切りが実行される直前に、イエスは長い説教をして弟子たちを強めた、とされる。もしこの説教の場面をそっくり省いて、1431と18:1を繋いで読むと、話がスムースに繋がる。

 

そうでないと、イエスは「立ちなさい。行きましょう」と弟子たちに言ってから、立ったまま、思い出したように部屋の中で、15-17章の長い説教をした。「行きましょう」と言ったのに、その説教が終わると改めて「これらのことを言われてから」、「弟子たちと共に外に出た」ことになる。

 

 15章の「真の葡萄の木」の譬え話は、イエス自身による話というよりも後代のキリスト教組織が、自組織以外のキリスト信者を排除する目的で、イエスが語ったという構図で創作した、信者に対する説教話のようである。

 

内容的にも、切り取られた「ぶどうの枝」とは剪定作業をモチーフとしているが、矛盾する箇所がある。剪定作業は、良いブドウを収穫するために、実が結ぶ前に間引きをし、特定のぶどうの枝に栄養が行き届くようにするためである。ぶどうの木に枝が残されるか切り落とされるかは、「実を結んでいる」かどうかによって決まるのではない。剪定されてしまえば、枝から切り離されてしまうのだから、必然的に「実」を生みだすことは不可能である。逆に、実を生みだす方の枝となった方が剪定されていたのであれば、切り落とされた方の枝が「実を結んでいた」であろう。

 

枝に残っている方を初めから、イエスと結びついている、という前提で正当化している譬話である。わたしは「真のぶどうの木」と「真の」と言っている時点で、「偽物」の存在を前提としているのは明らかである。「実を結ぶ」ことと本当に「イエスの言葉の中にある」かどうかとは直接関係している話ではない。

 

JWは、「実」=「宣教」という概念があるので、組織を離れて「宣教」という「実」を結ぶことは不可能である、考えている。この譬話は、「実を結びつづけること」と「宣教を続けること」とを結びつけたものではない。「組織にとどまること」と「イエスの言葉の中にあること」を結びつけるためのものである。「真のぶどうの木」と結びついている「枝」であることと「宣教に携わること」と無関係である。

 

結局、この譬話は、イエス自身が語ったものではなく、教会的編集者の手による創作文であろう。

 

 実際のイエスが語ったのではない可能性が高い言葉を、聖書におさめされているから、神の言葉であると信じて組織に従うと言うのは、神の僕、イエスの追随者ではなく、単なる組織の奴隷に過ぎないように思う。それでも、聖書の正確な知識を隠す組織が神の組織であると信じるのであれば、どうぞご自由に。

 

 

 

 語句の字義からの詳しい論拠を知りたい方は、田川訳の訳と註をご覧ください。