マルコ14:32-42 <ゲッセマネの祈り> 並行マタイ26:36-48、ルカ22:39-46

 

マルコ14 (田川訳)

32そしてゲッセマネという名の場所に来るそして彼の弟子たちに言う、「私が祈っている間、ここに座っているように」。33そしてペテロヤコブヨハネ一緒に連れて行く。そして驚愕困惑しはじめた34そして彼らに言う、「私の精神死ぬほどひどく苦しんでいる。ここにとどまって、目を覚ましていよ」。35そして少し先に進み、地面に伏し、できることならこの時が自分から過ぎ去ってくれるように、と祈っ36そして言った、「アバ父よあなたには何でも可能です。この杯を私から取り去って下さい。かし私の欲することではなく、あなたの欲することを」。37そして来て、彼らが眠り込んでいるのを見つける。そしてペテロに言う、「シモンよ、眠っているのか。いっときも目覚めていることができないのか。38あなた方は目覚めて、祈りなさい。試みに陥らないように。張り切っていても、肉体は弱い」。39そして再び離れて、同じ言葉を言った。40そして再び来て、彼らが眠り込んでいるのを見つけた。彼らの目は重くなっていたからである。そして、彼に何と答えてよいのか、わからなかった。41そして三度来て、彼らに言う、「あとは眠って、休むがよい。[目標]は遠い。時が来た。見よ、人の子は罪人らの手に引き渡される42起きなさい。行こう。見よ、私を引き渡す者が近づいてきた」。

 

マタイ26

36その時、イエスは彼らとともにゲッセマネと呼ばれる場所に来る。そして子たちに言う、「私が離れて、むこうで祈っている間、この場所で座っているように」。37そしてペテロと、ゼベダイの二人の子らを連れて行き、苦しみ困惑しはじめた38その時、彼らに言う、「私の精神はひどく苦しんでいる。ここにとどまって、私とともに眼を覚ましていよ」。39そして少し先に進み、顔を地面に伏し、祈って言った、「わが父よできることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかしむし、私の欲することではなく、あなたの欲することを」。40そし弟子たちのもとに来る。そして彼らが眠り込んでいるのを見つける。そしてペテロに言う、「あなた方はこのように私とともにいっときも目覚めていることができないのか。41目覚めて、祈りなさい。試みに陥らないように。霊は張り切っていても、肉体は弱い」。42再び、二度目にまた、離れて、祈って言った、「わが父よ、もしも私がこの杯を飲むことなしにこれを過ぎ去らせるわけにはいかないのであれば、どうかあなたの御旨がなりますように」43そして再び来て、彼らが眠り込んでいるのを見つけた。彼らの重くなっていたからである。44そしてまた彼らを残して行き、度また同じ言葉を言って祈った45その時、弟子たちのもとに、彼らに言う、「あとは眠って、休がよい。見よ、時が近づいた。人の子は罪人らの手にわたされる46起きなさい。行こう。見よ、私を引き渡す者が近づいてきた」。

 

ルカ22

39そして出て行って、いつものように、オリーヴ山に行った。また弟子たちも彼に従って行った。 40その場所に来ると、彼らに言った、「試みに陥らないように、祈りなさい」。41そして彼は彼らから石を投げてとどくほどのところまで離れて、膝まづき、祈って42言った、「父よ、御心なら、この杯を私から取り去って下さい。しかしむしろ、私の意思ではなく、あなたの意思が成りますように」。45そして祈りから立ち上がり、弟子たちのもとに来ると、彼らが苦しみの故に眠っているのを見出した。46そして彼らに言った、「何故眠っているのか。起き上がり、祈れ。試みに陥らないように」

 

 

マルコ14 (NWT)

32 こうして彼らはゲッセマネという所に来た。そして[イエス]は弟子たちにこう言われた。「わたしが祈りをする間,ここに座っていなさい」。33 それから,ペテロとヤコブとヨハネを一緒に連れて行かれたが,ご自分はぼう然とされ,かつひどく苦悩し始められた。34 そして彼らに言われた,「わたしの魂は深く憂え悲しみ,死なんばかりです。ここにとどまって,ずっと見張っていなさい」35 そして,少し進んで行って地面に伏し,もしできることなら,その時が自分から過ぎ去るようにと祈りはじめられた。36 そしてさらにこう言われた。「アバ,よ,あなたにはすべてのことが可能です。この杯をわたしから取り除いてください。それでも,わたしの望むことではなく,あなたの望まれることを」。37 それから来て,彼らが眠っているのを見て,ペテロにこう言われた。「シモンよ,あなたは眠っているのですか。一時間見張っている力もなかったのですか。38 あなた方は,ずっと見張っていていつも祈り,誘惑に陥らないようにしていなさい。もとより,霊ははやっても,肉体は弱いのです」。39 それから[イエス]は再び離れて行き,同じ言葉で祈られた。40 そしてもう一度来て,彼らが眠っているのをご覧になった。彼らの目は重く垂れていたのである。そのため彼らは[イエス]に何と答えてよいか分からなかった。41 それから,[イエス]は三度目に来て,彼らに言われた,「このような時に,あなた方は眠って休んでいる! もう十分です! 時刻が来ました! 見よ,人のは裏切られて罪人たちの手に渡されます。42 立ちなさい。行きましょう。見よ,わたしを裏切る者が近づいて来ました」。

 

マタイ26

36 それから,イエスは彼らと共にゲッセマネと呼ばれる所に来て,弟子たちにこう言われた。「わたしがあちらへ行って祈りをする間,ここに座っていなさい」。37 そして,ペテロとゼベダイの二人の子を連れて行かれたが,ご自分は非常に悲しみ,かつひどく苦悩し始められた。38 それから彼らにこう言われた。「わたしの魂は深く憂え悲しみ,死なんばかりです。ここにとどまって,わたしと共にずっと見張っていなさい」。39 そして少し進んで行き,うつ伏してこう祈られた。「わたしのよ,もしできることでしたら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。それでも,わたしの望むとおりにではなく,あなたの望まれるとおりに」。

40 それから弟子たちのところに来られたが,彼らが眠っているのを見て,ペテロにこう言われた。「あなた方は,わたしと共に一時間見張っていることもできなかったのですか。41 ずっと見張っていて絶えず祈り,誘惑に陥らないようにしていなさい。もとより,霊ははやっても,肉体は弱いのです」。42 [イエス]は再び,二度目に離れて行って,こう祈られた。「わたしのよ,これが,わたしが飲まないでは過ぎ去ることのできないものでしたら,あなたのご意志が成るようにしてください」。43 それから再び来て,彼らが眠っているのをご覧になった。彼らの目は重くなっていたのである。44 それで彼らを残してまた離れて行き,三度目の祈りをして,もう一度同じ言葉を語られた。45 それから弟子たちのところに来て,こう言われた。「このような時に,あなた方は眠って休んでいる! 見よ,人のが裏切られて罪人たちの手に渡される時刻が近づきました。46 立ちなさい。行きましょう。見よ,わたしを裏切る者が近づいて来ました」。

 

ルカ22

39 外に出ると,[イエス]はいつものようにオリーブ山に行かれた。そして弟子たちもそのあとに従った。40 その場所に来ると,[イエス]は彼らにこう言われた。「誘惑に陥らないよう,祈っていなさい」。41 そしてご自身は,彼らから石を投げれば届くほどの所に離れ,ひざをかがめて祈りはじめ,42 こう言われた。「よ,もしあなたの望まれることでしたら,この杯をわたしから取り除いてください。しかしやはり,わたしの意志ではなく,あなたの[ご意志]がなされますように」43 その時,ひとりのみ使いが天から現われて彼を強めた。44 しかし彼はもだえはじめ,いよいよ切に祈られた。そして,汗が血の滴りのようになって地面に落ちた。45 やがて[イエス]は祈りを終えて立ち上がり,弟子たちのところに行かれたが,彼らが悲嘆の末にまどろんでいるのをご覧になった。46 それで彼らにこう言われた。「なぜあなた方は眠っているのですか。誘惑に陥らないよう,身を起こして祈っていなさい」。

 

 

 

マルコ・マタイでは、ペテロたちに、イエスが祈っている間、「目覚めているように」と三度指示するが、三度とも彼らは眠ってしまう。

 

ルカは、ペテロたちの居眠りが、一度だけの出来事としている。

 

イエスは弟子たちと共に、オリーヴ山のゲッセマネと呼ばれる場所に来る。

 

マルコ14

32そしてゲッセマネという名の場所に来る。そして彼の弟子たちに言う、「私が祈っている間、ここに座っているように」。33してペテロヤコブヨハネ一緒に連れて行く。そして驚愕惑しはじめた34そして彼らに言う、「私の精神死ぬほどひど苦しんでいる。ここにとどまって、目を覚ましていよ」。

 

マタイ26

36その時、イエスは彼らとともにゲッセマネと呼ばれる場所に来る。そして弟子たちに言う、「私が離れてむこうで祈っている間この場所で座っているように」。37そしてペテロと、ゼベダイの二人の子らを連れて行き、苦しみ困惑しはじめた38その時、彼らに言う、「私の精神はひどく苦しんでいる。ここにとどまって、私とともに眼を覚ましていよ」。

 

ルカ22

39そして出て行って、いつものようにオリーヴ山に行った。また弟子たちも彼に従って行った。 40その場所に来ると、彼らに言った、「試みに陥らないように、祈りなさい」。

 

マルコの書き出しは、「そして…来る」(kai erchontai…)。

このkai+現在形の動詞を無人称の三人称複数で文を始める言い方は、アラム語の影響を受けたもの。

イエスのロギアに関しては、伝承のまま写していると思われるが、導入句はマルコらしい文体となっている。

 

マルコの「ゲッセマネのという名の場所」(chOrion hou to onoma gethsEmanE)に対して、マタイは「ゲッセマネと呼ばれる場所」(chOrion legomenon gethsEmanE)。

マルコは「場所」にかかる形容句を定冠詞付き「名」(to onoma)を使った関係代名詞句にし、マタイは、「呼ばれる」(legomenon)という受動分詞を使っている。

マルコの方がちょっと気取った言い方であるが、意味に違いはない。

 

ルカは、ゲッセマネとは言わず、「いつものように」(kata to ethos)「オリーヴ山」(to oros tOn elaiOn)に行く。

ルカのイエスが、祈りのために、「山」(to oros)に向かうのは、「いつものこと」である。(5:16、6:12、9:18,28、21:37、22:32)

 

ネストレは27版からゲッセマネ(Gethsemane)をGethsEmaniと綴っているが、ギリシャ語諸写本(シナイ写本、エラスムスが利用した小文字写本等)は、-iではなく-eiとしたGethsEmaneiと綴っている。D写本はGEsamaneiと綴っているそうだ。(KI=GethsEmanei)

これは、古代ギリシャ語の母音のe,E,u,oi,uiが、現代ギリシャ語ではすべてiの発音に相当するとみなされているので、ネストレが-iに修正してくれたもの。

 

「ゲッセマネ」の由来はアラム語のgeth shemAnI(油搾り機)に由来するもので、そのままギリシャ語に音写されたもの。

 

ゲッセマネ(Gethsemane)の-eの綴りは、ラテン語訳のウルガータがGethsEmaniと-iの綴りとしていたものを、ルターがGethsEmaneと綴ったことから、西洋語諸訳の伝統となったもの。

ただし、-eとする綴りも、エウセビオスの「地名辞典」にGethsEmaneとあるそうで、古代からあったもの。ルターがどの綴りを参照したのかは不明。

 

いずれにせよ、ゲッセマネとは、オリーヴ山のどこかにオリーヴ油を搾る場所があり、そこを指しているのだろう。

 

マルコのイエスは、「彼の弟子たちに」(tois mathEtais autou)と属格の代名詞をつけ、ここに座っているように指示し、「ペテロとヤコブとヨハネを一緒に連れて行く」。

 

マタイも同じ内容であるが、「弟子たちに」(tois mathEtais)には、代名詞の「彼の」(autou)を付けず、この場所で座っているように指示し、「ペテロ」と「ヤコブとヨハネ」ではなく「ゼベダイの二人の子らを」(tOn petron kai tous duo huious zebedaiou)とペテロを主役に置いた表現にしている。

 

マルコのイエスは「驚愕、困惑しはじめた」(Erchato ekthambeisthai kai adEmonein)が、マタイのイエスは「苦しみ困惑しはじめた」(Erchato lypeisthai kai adEmonein)。

 

マルコの「驚愕する」(ekthambeomai)は「驚く」(thambeomai)に接頭語ek-(外に)を付けて強調したもの。

マタイは、マルコの「驚愕する」というのはおかしいと思ったのか、「苦しむ」(lypeisthai)という語に変えてくれた。

 

マルコのイエスは「私の精神は死ぬほどひどく苦しんでいる。ここにとどまって、を覚ましていよ」と「彼ら」(ペテロ・ヤコブ・ヨハネ)に言い、「できることならこの時が自分から過ぎ去ってくれるように」と間接話法で祈る。

 

マタイのイエスは、「私の精神はひどく苦しんでいる。ここにとどまって、私とともに眼を覚ましていよ」と「彼」(ペテロ)に言い、「わが父よ、出来ることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかしむしろ、私の欲することではなく、あなたの欲することを」と直接話法で祈る。

 

「私の精神」(he psychE mou)の「精神」(psychE)は、基本的には「生命」を意味する。

ただし、生き物の生命は息によって維持されるから、「息」と言う意味も持つ。

つまり「私のpsychE」とは、「息ある私、命ある私」という意味であるから、その人の人格そのものを指す。

NWTは「私の魂」。RNWTは、単に「私」。

NWTは「霊」と「魂」を区別するために、psychEを一貫して「魂」と訳していたが、RNWTでは、「霊魂」を区別する必要はなくなったようだ。

 

マタイは、マルコの「死ぬほど」(thanatou)を削除し、「私とともに」(met emou)を付加した。

マルコの「目を覚ましていよ」(grEgoreite)と、マタイの「眼を覚ましていよ」(grEgoreite)は同じ動詞の命令形。

 

田川訳がマルコとマタイで「目」と「眼」に異なる漢字を当てたのは、特に意味はないように思える。単なる校正のチェック不足であろう。一語一語原文と比較すると、同様の漢字、平仮名の表記違いに時々気付く。

 

ルカのイエスは、祈っている間、弟子たちに「目を覚ましていよ」とは言わずに、「試みに合わないように、祈りなさい」と言う。

 

イエスは、弟子たちのところから少し進み、祈る。

 

マルコ14

35そして少し先に進み、地面に伏し、できることならこの時が自分から過ぎ去ってくれるように、と祈った。36そして言った、「アバ父よあなたには何でも可能です。この杯を私から取り去って下さい。しかし私の欲することではなく、あなたの欲することを」。

 

マタイ26

39そして少し先に進み、顔を地面に伏し、祈って言った、「わが父よできることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかしむしろ、私の欲することではなく、あなたの欲することを」。

 

ルカ22

41そして彼は彼らから石を投げてとどくほどのところまで離れて、膝まづき、祈って42言った、「父よ、御心ならこの杯を私から取り去って下さい。しかしむしろ、私の意思ではなく、あなたの意思が成りますように」。

 

マタイは、マルコの間接話法と直接話法が混在する文を、直接話法だけのすっきりとした文に修正してくれた。

 

しかし、マルコとマタイでは、イエスの神信仰の概念が微妙に異なっている。

 

マルコの「アバ、父よ」(abba ho patEr)は、アラム語の「父」を意味する語、とギリシャ語の「父」を繰り返したもの。マタイは、「わが父よ」(pater mou)。

マルコの「父」(ho patEr)には定冠詞が付いており、マタイの「父」(pater)には定冠詞が付いておらず、属格の代名詞が付いている。

 

マルコのイエスは、「神」という絶対的存在に対して「父」として祈っている感じであるが、マタイのイエスの方は、「神」を「自分の父親のような存在」として話かけている感じ。

「父」をどのようなイメージで描くかは、人により異なるが、マタイのイエスは、マルコのイエスより神と近しい存在である。

 

マルコのイエスは、「できるなら、この時が自分から過ぎ去る」ように祈るが、「あなたには何でも可能です」と「神の信」を表明し、「この杯を取り去ってくれる」ように、繰り返し、祈る。

マルコのイエスには、ただひたすら、出来るなら受難を回避したいという強い願いがある。

 

それに対し、マタイのイエスは、「できるなら、この杯を私から過ぎ去らせてくれるように。しかしむしろ、私の欲することではなく、あなたの欲することを」と祈る。

マタイのイエスにも、受難を回避したいという願いはあるが、「もしできるなら」(ei dynaton)と言うことにより、自分の願いよりも神からの使命を優先させる意思の方が強いことを示す。

受難が避けられないのであれば、マタイのイエスには「受難」という神からの願いを喜んで受け入れる意思があることになる。

 

マルコのイエスも、「しかし、私の欲することではなく、あなたの欲することを」とマタイのイエスと同じ言葉で祈る。

しかし、マルコのイエスは、マタイのイエスとは異なり、「受難」を神からの使命として受け入れる意思の表明として祈っているわけではない。

 

マルコのイエスも、「できることなら」(ei dynaton)という言葉で、「この時が過ぎ去ってくれるように」祈るが、「アバ、父よ、あなたには何でも可能です」という言葉が続いている。

つまり、マルコの「できるなら」とは、単に神の意志に選択を委ねるというだけではなく、イエスの願望が成就することを期待する希求の言葉である。

 

できるなら、「神の欲する」ことが成就するように、というのではなく、できるなら「イエスの欲する」ことが成就するように、懇願しているのである。

 

それ故、「アバ、父よ、あなたにはすべてが可能です」と、「神の信」を信頼の証しとして祈るのである。

 

マルコとマタイのこの違いは、どこから生じるのか。

 

マルコが「しかし」(all ou)という単に逆接の接続詞で否定文をつないでいるのに対し、マタイが「しかしむしろ」(plEn ouch hOs)と「むしろ」という比較を示す副詞を付加して、否定文をつないでいることに起因している。

 

マルコのイエスは、「受難」を回避することを強く欲しながらも、しかし、「私の欲すること」ではなく、「あなたの欲する」ことをと祈るのである。

そこには、神は私の「神の信」のすべてを御存知であり、「私の欲すること」と「あなたの欲すること」は同じであるに違いない、という「確信」と「信頼」がある。

 

マルコのイエスは、「むしろ」あなたの欲することが成就するように、などとは願っていない。

「むしろ」、「この時」が「この杯」が、「過ぎ去ること」を「取り去られること」に対して、絶対的に神の信を信頼し、ただひたすら確信を持って祈っているだけである。

 

だからこそ、十字架での、「エローイ、エローイ、ラマ、サバクタニ」という慟哭と絶望の言葉がイエスの最期の言葉になるのである。

 

ルカのイエスは、「御心なら、この杯を私から取り去って下さい。しかしむしろ、私の意志ではなく、あなたの意思が成りますように」と祈る。

 

ルカのイエスは、マタイのイエスと同じく、「しかしむしろ」(plEn mE)と比較の副詞を付加して否定文をつなぐ。

 

ルカのイエスにも、「受難」を取り去ってほしいという願いはあるが、自分の意志ではなく、神の意志が優先されることを願い、祈る。

 

その結果、ルカにおける「イエスの受難」は、回避されるべき事案ではなく、「御心の成就」となり、「神の意志」であり、「イエスの意思」であることとなった。

 

イエスは最初の祈りから、弟子たちのもとに戻る。

 

マルコ14

37そして来て、彼らが眠り込んでいるのを見つける。そしてペテに言う、「シモンよ、眠っているのか。いっときも目覚めていることができないのか。38あなた方は目覚めて、祈りなさい。試みに陥らないように。張り切っていても、肉体は弱い」。

 

マタイ26

40そして弟子たちのもとに来る。そして彼らが眠り込んでいるのを見つける。そしてペテロに言う、「あなた方はこのように私とともにいっときも目覚めていることができないのか。41目覚めて、祈りなさい。試みに陥らないように。霊は張り切っていても、肉体は弱い」。

 

ルカ22

43…(NWT:その時,ひとりのみ使いが天から現われて彼を強めた。)

44…(NWT:しかし彼はもだえはじめ,いよいよ切に祈られた。そして,汗が血の滴りのようになって地面に落ちた。)

45そして祈りから立ち上がり、弟子たちのもとに来ると、彼らが苦しみの故に眠っているのを見出した。46そして彼らに言った、「何故眠っているのか。起き上がり、祈れ。試みに陥らないように」。

 

理由は後述するが、NWTはルカの43-44節を本文に組み込んでいるが、田川訳は削除している。

 

マルコの「彼ら」とは、前節の34「彼ら」と同じであり、33ペテロ・ヤコブ・ヨハネ」=32「彼の弟子たち」の三人を指しているのだろう。

マルコにおける「弟子たち」あるいは「彼の弟子たち」とは、一番弟子であるペテロ・アンドレアスの兄弟たちとヤコブ・ヨハネの兄弟たちを中心としている。

 

マタイのイエスは、「弟子たち」のもとに来る。この「弟子たち」とはペテロたち三人を指すのか、「十二使徒」を指すのか、はっきりしない。

「ペテロに言う」に続く、イエスのロギアにおける動詞が複数形であるから、マタイが言うところの「弟子たち」、つまりペテロを代表とする「十二弟子たち」に対して言ったという設定なのだろう。

 

ルカは、初めからペテロたち三人と「弟子たち」とを分けてはおらず、「弟子たち」とは「十二使徒」を指している。

 

祈りから戻って来たマルコのイエスは、ペテロに「シモンよ、眠っているのか。いっときも目覚めていることができないのか」と単数形の動詞で言い、「あなた方は目覚めて、祈りなさい。試みに陥らないように」と複数形の動詞で繰り返す。

 

マルコとしては、単数形の動詞での批判は、ペテロに対するもので、複数形の動詞での批判は他の二人の弟子たち、あるいは十二人に対するものであろうか。

おそらく、ペテロに言った、という設定で始めたので、単数形の動詞にしただけで、批判の対象としては弟子たち全員に対するものであろう。

 

マタイのイエスも、ペテロに言うが、初めから複数形の動詞で「あなた方はこのように私とともにいっときも目覚めていることができないのか。目覚めて、祈りなさい。試みに陥らないように」と言う。

マタイとしては、イエスの言葉は「弟子たち」全員に対するものであるが、ペテロを代表者として言っている、という設定なのであろう。

 

あるいは、マルコの単数と複数の動詞が混在する文を「弟子たち」全員に対する言葉と解釈して、文法的に複数形の動詞に統一してくれただけかもしれない。

 

マルコのイエスもマタイのイエスも、弟子たちの二度目の居眠りに、理解ある言葉を添える。

「霊は張り切っていても、肉体は弱い」(to men pneuma prothymon he de sarx asthenEs)

NWT「霊ははやっても、肉体は弱いのです」。

 

「張り切っている」(prothymos)の字義は、方向を示す接頭語pro-+thymos「心の思い」「志向」で、「思いをそちらの方向へと向かう」という趣旨。

 

個人的にはこのNWTの訳も良い訳であると思う。

しかし、RNWT「心は強く願っていても、肉体は弱いのです」。

口語訳や新共同訳も「心」と訳しているが、それなら他のpuneumaも「心」と訳すべき。

 

マルコ1:10、12でイエスの上に「霊」が鳩のようになって下って来たのも、「霊」が駆り立てて、荒野の誘惑に行かせたのも、イエスの「心」の働きとすべきであろう。

 

それは「聖なる力」としておきながら、こんなところだけ原文のpuneuma(霊)を「心」と訳すのでは、原文無視の改竄訳と言われても仕方のないところであろう。

RNWTでは、「霊」も「魂」も「心」も区別する必要がなくなったようである。

 

おそらく、マルコはイエスのロギアに関しては伝承のままに写しているのだろう。

 

ルカのイエスは、眠っている弟子たちにとがめるような言葉をかけることは一切しない。

ただ、複数形の動詞で、「なぜ眠っているのか。起き上がり、祈れ。試みに陥らないように」としか言わない。

 

何故なら、45「彼らが苦しみの故に眠っている」のを見出したからである。

マルコでは、彼らが眠り込んでいるのは、40目が重たくなっていたからである」。

 

ルカは、イエスが死ぬほど苦しんでおり、弟子たちに目を覚ましていよ、と指示したことは削除している。

ルカは、弟子たちがイエスの指示を心に留めることもなく、眠たくなったのでお気楽に眠り込んでいたのではなく、「苦しみ故に」(apo tEs lypEs)眠っていたことにすり替えたのである。

 

ほとんどの聖書には「弟子たちの居眠りが苦しみの故」とする45節の前に、それが仕方のないことであることを示唆するかのように、43,44節が付加されている。

NWTは本文として組み込んでいるが、田川訳は後代の付加として、ブランクにしている。

 

この二節は古い大文字写本(P69、P75、ABWほか)には入っていない。

入っているのは、大文字写本では、シナイ写本の第一写記や、DLなど。ほかには、後世の数は多いが重要ではないビザンチン系の写本ばかりである。

 

中世後半から宗教改革期以後しばらくは、43、44節が入っている読みが標準テキスト(Textus Receptus,1516)とみなされていたので、二十世紀以前の訳では本文に入っている。

 

しかしながらlectio diffilisiorの原則を持ち出すまでもなく、この二節が原文ではないことは明明白白。

 

ネストレもこの二節を二重括弧で括り、「原文ではないことが確実である」ものとして扱っている。

ただし、長年の教会の伝統ではこれを入れて読んで来たから、読者の便宜のために入れておく、という伝統的キリスト教信仰に忖度したご親切な保守的な配慮を施してくれている。

 

この「み使いが天から現われて、イエスを強めるが、イエスは苦しみ、いよいよ切に祈り、血の滴りのような汗を流す」という二節は古代末期に付加された、信心深さを煽るための創作物語である。

 

付加した古代の写本家は、イエスの苦しみが深ければ深いほど、弟子たちの苦しみも深くなり、キリスト信者のペテロたちに対する同情と、神とイエスの贖いに対する感謝も深くなると考えたのだろうか。

 

二十一世紀の現代訳でも、この二節を本文に( )も無しに組み込んでいる聖書は、全面的に信頼できる訳の聖書とは言えないのではなかろうか。

 

ちなみに、この二節を本文に組み込んでいる和訳聖書は……

共同訳、フランシスコ会訳、前田訳、新改訳、塚本訳、口語訳、文語訳、リビングバイブル等。

ほぼすべての和訳聖書が本文に組み込んでいる。

[  ]付きなのは、新共同訳と岩波訳だけ。

 

口語訳はRSVをアンチョコにして英語から和訳しているが、RSVが本文から削除しているにもかかわらず、口語訳は本文に組み込んでいる。

 

もちろん、NWTもRNWTも何の断りもなく、堂々と本文として扱っている。

WTでは、神は苦しみの杭からイエスを解放するのではなく、み使いと祈りを通してイエスを強めた事例として取り上げている。(WT92/04/15ほか多数)

 

ルカは、マルコの三度にわたるペテロの居眠り事件を一度の事件にするだけでなく、「苦しんだ故」の結果であることにして、居眠りペテロの評判の回復を図ったのである。

 

マルコとマタイでは、ペテロたちの居眠り事件は、三度繰り返される。

 

マルコ14

39そして再び離れて、同じ言葉を言った。40そして再び来て、彼らが眠り込んでいるのを見つけた。彼らの目は重くなっていたらである。そして、彼に何と答えてよいのか、わからなかった。そして三度来て、彼らに言う、……

 

マタイ26

42再び、二度目にまた、離れて、祈って言った、「わが父よ、もしも私がこの杯を飲むことなしにこれを過ぎ去らせるわけにはいかないのであれば、どうかあなたの御旨がなりますように」43そして再び来て、彼らが眠り込んでいるのを見つけた。彼らの重くなっていたからである。44そしてまた彼らを残して行き、度また同じ言葉を言って祈った

 

マルコのイエスは、再び離れて、「同じ言葉」を言う。

つまり、ペテロたちに「目を覚ましていよ」と言い、「受難の回避」を希求する懇願を祈るのである。

イエスは「神の信」を信頼し、自分の欲することの成就を確信しつつ、「この杯を私から取り去って下さい」と死ぬほど苦しみながら、三度、祈るのである。

 

そのイエスを目の前において、ペテロたちは三度とも眠り込んでいるのである。

 

マタイのイエスも三度同じことを繰り返すが、受難の回避を祈るのではなく、受難の決意を強めるために祈りを繰り返す。

最初の祈りは、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、むしろ私の欲することではなく、あなたの欲することを」というものだった。

可能なら、受難を回避したいが、神の欲することを優先するという祈りである。

 

二番目の祈りは、「もしも私がこの杯を飲むことなしにこれを過ぎ去らせるわけにはいかないのであれば、どうかあなたの御旨がなりますよう」と祈る。

「この杯を飲むことなしに行かないのであれば…」、つまり受難が回避不能であることを前提に、御旨がなることを望む祈りに変化している。

 

マタイでも弟子たちは三度眠り込んでおり、イエスも三度また同じ言葉で祈るが、受難を神の御旨として成就させるイエスの決意は強くなって行くようである。

 

マルコでは、受難を回避したいというイエスの願いは強くなるのに、マタイでは受難を受諾する決意が強くなるのである。

 

マルコのイエスは、三度目に来て、弟子たちに「謎」のような言葉を告げる。

 

マルコ14

41そして三度来て、彼らに言う、「あとは眠って、休むがよい[目標]は遠い。……

 

マタイ26

44……三度また同じ言葉を言って祈った。45その時、弟子たちのもとに来て、彼らに言う、「あとは眠って、休がよい……

 

マルコのイエスはペテロたちに、「あとは眠って、休むがよい。(katheudete to loipon kai anapauesthe)[目標は]遠い(apechei)」。

 

マタイは、「あとは眠って、休むがよい」だけで、「[目標は]遠い」(apechei)を削除している。

 

NWTは「このような時にあなた方は眠って休んでいる!もう十分です!」。

 

どういう意味だろうか。

 

参考までに、他の和訳聖書を見てみる。

 

共同訳 「まだ眠っているのか。休んでいるのか。もうよかろう」。

フ会訳 「もう眠って休みなさい。終わった」。

岩波訳 「なお眠っているのか、また休んでいるのか。事は決した」。

新共同訳 「あなた方はまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい」。

前田訳 「まだ眠っているのか、休んでいるのか。よろしい」。

新改訳 「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です」。

塚本訳 「もっと眠りたいのか。休みたいのか。もうそのくらいでよかろう」。

口語訳 「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう」。

文語訳 「今は眠りて休め、足れり」。

Living B 「まだ眠っているのか。それだけ眠ればたくさんだろう」。

 

田川訳 「あとは眠って、休むがよい。[目標]は遠い。」

NWT 「このような時にあなた方は眠って休んでいる!もう十分です!」

 

田川訳は、眠っている弟子たちをイエスが気遣う趣旨に訳しているが、NWTは弟子たちを咎める趣旨に訳している。

 

疑問文にし、弟子たちに対する批判と解しているもの。

共同訳、岩波訳、前田訳、新改訳、塚本訳、リビングバイブル。

 

平叙文に訳し、弟子たちに対する気遣いと解しているもの。

フランシスコ会訳、文語訳、

 

命令文に解しているもの。

文語訳、田川訳。

 

NWTは平叙文であるが、!を付けており、弟子たちに対する批判と解しているようである。

 

話の流れからすると眠り込んでいた弟子たちを咎める意味に解する方が素直に通じる。

 

問題は、「あとは」「このような時に」「まだ」「もっと」などと訳されているto loiponという定冠詞付きの副詞。

 

「あとは」(loipon)の字義的な意味は「残り」。

軽く副詞的に用いる時には、「あとは」「残りは」「以後は」といった意味に用いる。

 

確かにこの場面で「あとは眠るがよい」と読むなら、前後関係がうまく繋がらないように思える。

 

「眠って、休むがよい」(katheedete kai anapauesthe)は、「眠る」という動詞の二人称複数能動現在形と「休む」という動詞の二人称複数中動現在形がkaiで並べられているもの

 

形からすれば、平叙文(新共同訳)にも、疑問文(ルター以来)にも、命令文(ティンダルから欽定訳の英語訳、ルイ・スゴン以来の仏語訳)にも、訳すことができるもののようである。

 

ただし、「あとは(今から後は)」という副詞と一緒に用いるのであれば、常識的には命令文の意味に解するものであろう。

 

つまり、「あなた方は眠るがよい、休むがよい」。

 

とすれば、もう決定的な事柄は終わったのだから、あとは安心して眠りなさい、という慰めの意味に解するか。(エルサレム聖書、ティンダル)

 

あるいは、あれだけ言っても眠り続けているのだから、もう勝手にしろ。そんなに眠りたければ、あとはもうずっと眠っていなさい、という皮肉の意味に解するか。

 

もう一つは、伝承の言葉ではなく、教会で受難物語を読み上げる時に、集った信者たちに語りかけた慰めの言葉が本文に紛れ込んだと解するか。

 

これをどう解するかは、次の「遠い」とも関連する。

 

主な和訳聖書は以下の通り。

 

共同訳 「まだ眠っているのか。休んでいるのか。もうよかろう」。

フ会訳 「もう眠って休みなさい。終わった」。

岩波訳 「なお眠っているのか、また休んでいるのか。事は決した」。

新共同訳 「あなた方はまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい」。

前田訳 「まだ眠っているのか、休んでいるのか。よろしい」。

新改訳 「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です」。

塚本訳 「もっと眠りたいのか。休みたいのか。もうそのくらいでよかろう」。

口語訳 「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう」。

文語訳 「今は眠りて休め、足れり」。

Living B 「まだ眠っているのか。それだけ眠ればたくさんだろう」。

 

田川訳 「あとは眠って、休むがよい。[目標]は遠い。」

NWT 「このような時にあなた方は眠って休んでいる!もう十分です!

 

「遠い」(apechei)を「十分である」の意に解するもの。

共同訳、新共同訳、前田訳、新改訳、塚本訳、口語訳、文語訳、リビングバイブル、NWT。

 

「終了した」の意に解するもの。

フランシスコ会訳、岩波訳。

 

田川訳だけ、「[目標]は遠い」と他の訳とまったく異なっている。

 

「遠い」(apechei)の原義は、apo+echO=haveだから、他動詞なら「~から離して持つ」。普通は「切り離す」の意味に用いる。

 

ヘレニズム的ギリシャ語では、「~から離して自分の側で持つ」という意味に転じ、「手に入れる」という原義とは逆の意味でも使われるようになる。

 

自動詞の意味にも用い、その場合は「離れている」「遠くにある」の意。

 

この語自体は、新約でも20回登場している(Mr7:6、Mt6:2,5,16ほか)が、ここ以外の19箇所は上記の意味で使われている。

 

問題はこの「遠い」(apechei)が、非人称的単数の能動現在形の自動詞で使われていることにある。

文法的には、弟子たちを主語において解することはできないことになる。

 

この語にNWTほかの「もう十分です!」などという意味はない。

 

これは、ヴルガータがこの語をsufficitとラテン語訳にした時、「もう十分である」と訳したことに由来する。

ルターも、es ist genugとヴルガータを踏襲し、ティンダルもit is enoughと訳したため、独訳、英訳、他多くの和訳聖書も「もう十分である」「もうそれでよかろう」とヴルガータの伝統が継承された。

 

二十世紀初めに多くのパピルスから、この動詞が商売用語として領収書などに、ヘレニズム的ギリシャ語の他動詞として「手に入れる」という意味で使われていることが発見された。

「(私は)確かに~を受領しました」という意味で一人称で書くものだけでなく、三人称で「○○は~を確かに受領しました」とする「領収済」の印としてこの動詞が用いられていた。

 

この発見を基に、主語をユダに想定し、「彼は約束の金をすでに受領した」という意味とする仮説が発表された。(J.de Zwaan, 1905)

しかしながら、ここは他動詞ではなく、無人称単数の自動詞であるから、文法的に無理がある。

 

フランシスコ会訳「終わった」、岩波訳「事は決した」の訳は、その学説をもじったもので、やはり無理がある。

 

結局、原文は自動詞であることは間違いないのだから、「離れている、遠くにある」という意味にしかならない。

 

主語が二人称複数なら、「あなた方は、離れている」という意味だから、「相変わらずペテロさんたちは、このようなイエスが危機的な状況に置かれていても、何も理解しないで、イエスの福音から遠く離れている」という皮肉に読むことができる。

 

しかし、ここは無人称単数の自動詞である。

ただ「事柄」を主語において、何となく「事柄は遠い」と読むことはできる。

 

とすれば、「あなた方にとっては、事は遠いのですね、呑気でいいですなぁ」という皮肉に解することはできそうである。

 

あるいは、疑問文に読んで、「事は遠いとでもいうのですか」と解するか。(エヴァンス)

 

マタイはマルコの「遠い」(apechei)という無人称単数の自動詞の意味が理解できなかったらしく、削除している。

 

ルカは、「あとは眠って、休むがよい」も「遠い」も削除している。

 

マルコのこの個所には多くの写本に異読がある。

 

カイサリア系(Θ、W、13、565)及び西方系の写本には、ここに主語として「目標」(telos)という語を入れている。

ただし、telosには「目標、目的」という意味だけでなく、「到達点、終点、終末」という意味もあり、意味ははっきりしない。

 

マルコにおけるカイサリア系の重要性は高く、西方系(D、古ラテン語系等)も一致しているのであれば、原文である可能性が十分にあると考えられる。

 

田川訳が、「目標」を[ ]付きで入れたのは、以上の理由からである。

 

「遠い」(apechei)という無人称単数の自動詞をどう解釈するか。

① そもそもどこかの段階で文が崩れてしまい、原文がわからなくなっている、という可能性。

 マルコ前資料の段階で崩れていたのであれば、マルコがそのまま写したことになるし、マルコ後に崩れたのであれば、写本の初期段階で崩れたことになる。

 

② 一種の欄外の註が本文に紛れ込んだものする可能性。

 受難物語は、キリスト教会のごく初期から、毎年その時期になると教会で朗読されていたと思われる。その際、朗読者が信者に対して慰め的注釈として、かつてゲッセマネではペテロたちが居眠りをして叱られたが、今はもうキリスト教会は長く続いて行くのだから、信者たちは落ち着いて休むがよい、という注釈を欄外に書いていたが、それが本文に紛れ込んだという可能性。

 

③ 原文がもともとこれをペテロたちに対する皮肉として言っている、という可能性。(エヴァンス)

 その場合はかなり舌足らずとなるが、マルコのペテロたち批判からして、最も可能性が高いように思える。

 

マルコのイエスは、「遠い」(apechei)と謎の言葉を残し、逮捕される覚悟を決める。

 

マルコ14

41……時が来た。見よ、人の子は罪人らの手に引き渡される42起きなさい。行こう。見よ、私を引き渡す者が近づいてきた」

 

マタイ26

45……見よ、時が近づいた。人の子は罪人らの手にわたされる46起きなさい。行こう。見よ、私を引き渡す者が近づいてきた」。

 

マルコは「時が来た。見よ」(Elthen he hOra idou)の順。

マタイは「見よ、時が近づいた」(idou Eggiken he hOra)と逆の順。

 

田川訳マルコは「引き渡される」(paradidotai)でマタイは「わたされる」(paradidotai)であるが、原文はどちらも全く同じギリシャ語。

田川訳の表記の違いは、校正の見落としであろう。

 

NWTマルコは「裏切られて…渡されます」で、マタイは「裏切られて…渡される」とparadidomiという一語の動詞を、「裏切る」と「わたす」の二重に訳している。

 

この語に「裏切る」という意味は、もともとはなかった。

 

なぜ、「裏切る」という意味で使われるようになったかは、「最後の晩餐」伝承の中で詳しく説明してある。