マルコ14:17‐25 <最後の晩餐> 並行マタイ26:20‐29、ルカ22:14‐22、参照ヨハネ13:21‐30

 

マルコ14 (田川訳)

17そして夕方になり、十二人と共に来る。18そして彼らが食卓について、食べていると、イエスが言った、「アーメン、あなた方に言う、あなた方の一人で、私と一緒に食べている者が私を引き渡すであろう」。19彼らはい悩んで、一人ずつ順にイエスに、私ではないでしょうね、と言いはじめた。20彼は彼らに言った、「十二人の一人で、私といっしょに(手を)鉢にひたす者だ。21すなわち人の子は、彼について書いてあるように去って行くが、人の子を引き渡そうとしているその者には、禍いあれその者にとっては、生れない方がよかった」。22そして彼らが食べている時に、パンを取り、祝福して割き、彼らに与えて言った、「取れ。これは私の身体だ」。23そしてまた杯を取り、感謝して彼らに与え、皆がそこから飲んだ。24そして彼らに言った、「これは多くの人々のために流される私の契約の血である。アーメン、あなた方に言う神の国で新たにこれを飲む日までは、私は葡萄から作られたものを決して飲むことはない」。

 

マタイ26

20夕方になると、十二人とともに食卓についた21そして彼らが食べていると、言った、「アメーン、あなた方に言う、あなた方のうちの一人が私を引き渡すであろう」。22そこで彼らは非常に思い悩んで、それぞれが彼に対して言いはじめた、「まさか私ではないでしょうね、主よ」。23彼は答えて言った、「私といっしょに手を鉢の中にひたす者、その者こそが私を引き渡すであろう。24人の子の方は彼について書いてあるように、去って行くが、人の子を引き渡そうとしているその者には、禍いあれ。その者にとっては、生れない方がよかった」。25彼を引き渡そうとしていたユダが答えて言った、「ラビ、まさか私ではないでしょうね」。彼に言う、「お前がそう言うのか」。26彼らが食べている時に、イエスはパンを取り、祝福して割き、弟子たちに与えて言った、「取って食べよ。これは私の身体だ」。27そしてまた杯を取り、感謝して彼らに与え、言った、「皆、ここから飲むように、28故ならこれは、多くの人のため、罪の赦しのために流される私の契約の血である。29あなた方に言う、今から後、我が父の国あなた方とともに新たにこれを飲む日までは、私は葡萄から作られたこういうものを飲むことはしないだろう」。

 

ルカ22

14そして時が来ると、食卓に座り、弟子たちもまた彼とともに座った。15そして彼らに対して言った、「私は自分が受難する前にこの過越の食事をあなた方とともに食べるようにしたいと強く欲していた16すなわち、あなた方に言う、神の国において成就するまでは私はもはや過越の食事をすることはしないだろう」。17そして杯を受け取り、感謝して、言った、「これを取り、互いに分ちあえ。18すなわち、あなた方に言う、今から後、神の国が来るまでは、私は葡萄から作られたものを決して飲むことはしないだろう」。そしてパンを取り、感謝して割き、彼らに与えて言った、「これはあなた方のために与えられた私の身体だ。私の思い出のために、これをなすがよい」。20杯についても同様に、食事の後に言った、「これはあなた方のために流される私の血における新しい契約ある。21だがむしろ見よ、私を引き渡す者の手が、私とともに、食卓の上に置かれている22すなわち、人の子は決められたことに従って去って行くが、人の子を引き渡すその者には、むしろ禍いあれ」。23そして彼らは、では彼らのうち誰がこのことをなそうとしているのか、と互いに議論しはじめた。

 

参ヨハネ13

21イエスはこう言って、霊にて混乱した。そして証言して、言った、「アメーン、アメーン、汝らに告ぐ、あなた方のうちの一人が私を引き渡すであろう」。22弟子たちは互いに(顔を)見合わせた。誰のことを言っているのかと、狼狽したのである。23彼の弟子たちのうちの一人がイエスの胸のところで座についていたイエスが愛した者である。24それでシモン・ペテロがその弟子に、誰のことをイエスが言っているのか、たずねてくれ、と合図する25それでその弟子はイエスの胸に寄りかかったまま、イエスに言う、「主よ、それは誰ですか」。26イエスが答える、「私が(パンを)一片(ソースに)ひたして与える者だ」。それで一片をひたし、取ってイスカリオテ人シモンの子ユダに与える。

27そしてその一片とともに、その時に、サタンがその者の中へと入った。それで彼にイエスが言う、「汝がなすことを、すぐになせ」。28これを、座についていた者たちの誰も、何のために彼がユダに言ったのか、わからなかった。29すなわち、ある者たちは、ユダが物入れを持っていたので、イエスが彼に、我々に祭に必要なものを買いに行け、と言っているのか、あるいは貧しい人たちに何かを与えよ、と言っているのか、と思った。

30それで彼はその(パン)片を受け取り、すぐに出て言った。夜だった。

 

 

マルコ14 (NWT)

17 夕方になってから,[イエス]は十二人と共に来られた。18 そして,彼らが食卓の前に横になって食べていた時,イエスはこう言われた。「あなた方に真実に言いますが,あなた方の一人で,わたしと一緒に食事をしている者が,わたしを裏切るでしょう」。19 彼らは悲嘆し,一人ずつ,「まさかわたしではありませんね」と言い始めた。20 [イエス]は彼らに言われた,「それは十二人の一人で,わたしと一緒に共同の鉢に[手を]浸している者です。21 確かに人のは,自分について書かれているとおりに去って行きますが,人のを裏切るその人は災いです! その人にとっては,むしろ生まれてこなかったほうがよかったでしょう」。

22 そして,彼らが食事を続けていると,[イエス]はパンを取って祝とうを述べ,それを割いて彼らに与え,「取りなさい。これはわたしの体を表わしています」と言われた。23 また,杯を取り,感謝をささげてから,それを彼らにお与えになった。それで彼らは皆その[杯]から飲んだ。24 そうして[イエス]は彼らに言われた,「これはわたしの『契約の血』を表わしています。それは多くの人のために注ぎ出されることになっています。25 あなた方に真実に言いますが,の王国でそれの新しいものを飲むその日まで,わたしはぶどうの木の産物をもう決して飲まないでしょう」。

 

マタイ26

20 さて,夕方になってから,[イエス]は十二弟子と共に食卓について横になっておられた。21 彼らが食べている間に,[イエス]はこう言われた。「あなた方に真実に言いますが,あなた方のうちの一人がわたしを裏切るでしょう」。22 そこで彼らはひどく悲嘆し,それぞれみんなが,「よ,まさかわたしではありませんね」と言い始めた。23 [イエス]は答えて言われた,「わたしと一緒に手を鉢に浸す者,それがわたしを裏切る者です。24 確かに人のは,自分について書かれているとおりに去って行きますが,人のを裏切るその人は災いです! その人にとっては,むしろ生まれてこなかったほうが良かったでしょう」。25 彼をまさに裏切ろうとしていたユダが答えて言った,「ラビ,まさかわたしのことではありませんね」。[イエス]は彼に言われた,「あなた自身が[そう]言いました」。

26 彼らが食事を続けていると,イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」。27 また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。「あなた方はみな,それから飲みなさい。28 これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。29 しかしあなた方に言いますが,わたしのの王国であなた方と共にそれの新しいものを飲むその日まで,わたしは今後決してぶどうの木のこの産物を飲みません」。

 

ルカ22

14 ようやくその時刻が来たとき,[イエス]は食卓について横になり,使徒たちも共に[食卓についた]。15 そして[イエス]は彼らに言われた,「わたしは,苦しみを受ける前にあなた方と一緒にこの過ぎ越しの食事をすることを大いに望んできました。16 あなた方に言いますが,それがの王国で成就するまで,わたしは二度とそれを食べないのです」17 それから杯を受け取り,感謝をささげてからこう言われた。「これを取り,あなた方の間で順に回しなさい。18 あなた方に言いますが,今からのち,の王国が到来するまで,わたしはぶどうの木の産物を二度と飲まないのです」。

19 また,[イエス]はパンを取り,感謝をささげてそれを割き,それを彼らに与えて,こう言われた。「これは,あなた方のために与えられるわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」。20 また,晩さんがすんでから,杯をも同じようにして,こう言われた。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています。

21 「しかし,見よ,わたしを裏切る者の手がわたしと共に食卓にあります。22 人のは,定められたところにしたがってその道を行くからです。しかしやはり,彼を裏切るその人は災いです!」23 そこで彼らは,自分たちのうちいったいだれがそのようなことを行なおうとしているのか,互いに論じ始めた。

 

参ヨハネ13

21 これらのことを言ったのち,イエスは霊において苦しまれ,証しをして言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,あなた方のうちの一人がわたしを裏切るでしょう」。22 弟子たちは,だれについて[そう]言っておられるのかと戸惑いながら互いを見まわした。23 イエスの懐の前に弟子の一人が横になっており,イエスはこれを愛しておられた。24 それゆえ,シモン・ペテロはこの者にうなずいて合図をしながら言った,「だれのことを言っておられるのか話しなさい」。25 それで,その者はイエスの胸もとにそり返って言った,「よ,それはだれですか」。26 それゆえイエスは答えられた,「わたしが一口の食物を浸して与えるのがその人です」。そうして彼は,一口の食物を浸してから,それを取ってシモン・イスカリオテの子ユダに与えた。27 すると,その一口の食物[を受けた]あとすぐ,サタンがその者に入った。そこで,イエスは彼に言われた,「あなたのしている事をもっと早く済ませなさい」。28 しかしながら,食卓について横になっていた者のだれも,何のために彼にこう言われたのか分からなかった。29 事実,ある者たちは,ユダが金箱を保管していたので,イエスが彼に,「祭りのためにわたしたちが必要とするものを買いなさい」とか,貧しい人たちに何か与えるようにと命じておられるものと思っていた。30 そこで,その一口の食物を受けたあと,彼はすぐに出て行った。それは夜であった。

 

 

 

「最後の晩餐」は「ユダの裏切り予告」と「主の晩餐の設定」の二つの伝承で構成されている。

この二つの伝承は、「過越」の食卓について食べている時に生じた一続きの話として語られている。

 

ネストレ28版やアメリカ版テクストに応じた諸訳では、「ユダの裏切り予告」(17‐21)と「聖餐式設定」(22‐25)の二つの場面に分けている。

 

RNWTは「最後の過ぎ越し」(12‐21)と「主の晩餐の制定」(22‐26)の場面に分けている。

「過越の準備」の場面に「ユダの裏切り予告」を組み込み、「主の晩餐の設定」と切り離している。「主の晩餐の設定」に「ユダの裏切り予告」を組み込むことを意図的に避けたのであろう。

 

この区別はRNWTだけでなく、共同訳、新共同訳も同様である。

これは、「ユダがパン片を受け取り、すぐに出て行った」(ヨハネ13:30)とする「最後の晩餐」の話との整合性を計るためと思われる。

 

例によって、聖書霊感説信仰から生まれた護教主義的解釈を組み込もうとしているのだろう。

 

ルカは、マルコの順番を変えて、「聖餐式の設定」の方を先に置き、「ユダの裏切りの予告」を後に置いた。

マルコとは異なる「聖餐式の設定」伝承を加味しながら、マルコでは次段に置かれている「ペテロの裏切り予告」の前に、ルカはペテロを護教するいくつかの伝承を挿入している。(24‐30)

 

ルカとしては、「過越の準備」は「聖餐式設定」を見越して、「イエスと十二使徒」のために言われたとおりに準備したのだから、「ユダの裏切り」を「聖餐式設定」の前には置きたくなかったのであろう。

 

むしろ「ユダの裏切り予告」と「聖餐式の設定」と切り離して、「ユダの裏切り予告」(21-23)「ペテロの護教論」(24‐30)「ペテロの裏切り予告」(31-34)と並べた方が、話のつながりが良いと考えたのかもしれない。

 

ヨハネでは、13章から17章までが全部「最後の晩餐」の話となっている。

共観福音書と比べて、異常に長い。

 

しかも、13:2,4に「晩餐」の時の出来事であることを指摘するだけで、「晩餐の食事」に関しても「聖餐式の設定」に関しても何も触れられていない。

 

ただただ、イエスの長い説教がひたすら続いている。

その説教も大半は教会的編集者が原著者の文に付加したもので、護教的キリスト教ドグマをイエスの口に置いたもの。

実際のイエスとはまったく無関係の教会的説教である。

 

 

まず、マルコ・マタイでは「最後の晩餐」における「聖餐式の設定」の前に置かれているが、ルカでは後に置かれている「ユダの裏切りの予告」について。

 

マルコ14

17そして夕方になり、十二人と共に来る。18そして彼らが食卓について食べていると、イエスが言った、「アーメン、あなた方に言う、あなた方の一人で、私と一緒に食べている者が私を引き渡すであろう」。19彼らはい悩んで、一人ずつ順にイエスに、私ではないでしょうね、と言いはじめた。20彼は彼らに言った、「十二人の一人で、わたしといっしょに(手を)鉢にひたす者だ。21すなわち人の子、彼について書いてあるように去って行くが、人の子を引き渡そうとしているその者には、禍いあれその者にとっては、生れない方がよかった」。

 

マタイ26

20夕方になると、十二人とともに食卓についた21そして彼ら食べていると、言った、「アメーン、あなた方に言う、あなた方のうちの一人が私を引き渡すであろう」。22そこで彼らは非常に思い悩んで、それぞれが彼に対して言いはじめた、「まさか私ではないでしょうね、主よ」。23彼は答えて言った、「私といっしょに手を鉢の中にひたす者、その者こそが私を引き渡すであろう。24人の子の方は、彼について書いてあるように、去って行くが、人の子を引き渡そうとしているその者には、禍いあれ。その者にとっては、生れない方がよかった」。25彼を引き渡そうとしていたユダが答えて言った、「ラビ、まさか私ではないでしょうね」。彼に言う、「お前がそう言うのか」。

 

ルカ22

14そして時が来ると、食卓に座り弟子たちもまた彼とともに座った。…21だがむしろ見よ、私を引き渡す者の手が、私とともに、食卓の上に置かれているすなわち、人の子は決められたことに従って去って行くが、人の子を引き渡すその者には、むしろ禍いあれ」。23そして彼らは、では彼らのうち誰がこのことをなそうとしているのか、と互いに議論しはじめた。

 

参ヨハネ13

そして晩餐になり、・・・晩餐から立ち上がり、…21イエスはこう言って、霊にて混乱した。そして証言して、言った、「アメーン、アメーン、汝らに告ぐ、あなた方のうちの一人が私をき渡すであろう」。22弟子たちは互いに(顔を)見合わせた。誰のことを言っているのかと、狼狽したのである。23彼の弟子たちのうちの一人がイエスの胸のところで座についていたイエスが愛した者である。24それでシモン・ペテロがその弟子に、誰のことをイエスが言っているのか、たずねてくれ、と合図する25それでその弟子はイエスの胸に寄りかかったままイエスに言う、「主よ、それは誰ですか」。26イエスが答える、「私が(パンを)一片(ソースに)ひたして与える者だ」。それで一片をひたし、取って、イスカリオテ人シモンの子ユダに与える。

27そしてその一片とともに、その時に、サタンがその者の中へと入った。それで彼にイエスが言う、「汝がなすことを、すぐになせ」。…30それで彼はその(パン)片を受け取り、すぐに出て言った。夜だった。

 

 

マルコの「夕方になり」(kai ophias genomenEs)に対して、マタイは「夕方になると」(ophias de genomenEs)。原文では接続小辞が違うだけ。

ユダヤ教の一日が夕方から始まることを意識している。

 

ルカは「時が来ると」(kai hote egeneto hE Opa)と書き変えた。

ヨハネは「晩餐になり」(kai deipnou ginomenou)と表現している。

 

いずれも、「ユダの裏切りの予告」は「最後の晩餐」の食事をしている時の出来事と読める。

 

マルコの「食卓につく」(anakeimenOn<anakeimai)は三人称複数形の分詞であり、マタイの「食卓につく」(anekeito<anakeimai)は、三人称単数の主動詞としている。

 

マルコは、イエスと弟子たち全員を主役に据えて最後の晩餐を描いているが、マタイは、イエスを主役に置いている。

 

「食卓につく」(anakeimai)の直訳は「下に寝そべる」で、ギリシャやローマにおける食事の習慣を指す語。

長椅子や床に横になりながら食事を摂る姿勢を指し、「食事をする、食卓につく」という意味。

 

ルカの「食卓に座り」(anepesen<anapitO)はマルコ・マタイとは異なる語で、直訳は「下によりかかる」。

背もたれのある椅子に座る姿勢を指す語で、「食卓につく」という意味。

 

強いて言えば、卓袱台で食事を摂るか、テーブルで摂るかで、座布団に座るのか椅子に座るのかの違いが生じるようなもので、「食事をする、食卓につく」という意味ではどちらも変わらない。

 

ルカにとっては、長椅子や敷物の上に寝そべりながら食事をするよりも、「椅子に腰かけて食事をする」方が普通だったのであろう。

 

ヨハネには「晩餐になり」(deipnou genomenou)とあるだけで、聖餐式の場面は登場しない。

過越の食事に関しても12「再び座り」(anapesOn palin)とあるだけで、ユダに(ソースに)ひたした一片のパンを与える場面が登場するだけである。

 

ヨハネの「最後の晩餐」は、イエスが弟子たちの足を洗う場面を中心に、弟子たちに対する長い説教が続く。

 

共観福音書にある聖餐式を重要視する「最後の晩餐」ではなく、むしろ儀式を重視するキリスト教に対する批判を意図した宗教的説教が長々と続いている。

 

「弟子たちの足を洗う」話以外の大半の説話は教会的編集者による加筆であると思われるが…。

 

 

ユダの「引き渡す」(paradidOmi)をNWTは「裏切る」と訳している。

NWTだけでなく、キリスト教会や聖書協会が御用達にしている和訳聖書は、リビング・バイブルを含めすべて「裏切る」と訳している。(岩波訳「売り渡す」、前田訳「引き渡す」、塚本訳「(敵に)売る」)

 

このギリシャ語の原義はpara=diside+didOmi=giveであるから、単語そのものに「裏切る」という意味はない。

 

この語をルターがverraten(裏切る)と訳して以来、独訳の伝統となり、英訳もティンダル・欽定訳経由でbetray(裏切る)が伝統となった。

 

しかし、仏訳はオリヴェタン(1535年)以来、正確にlivrer(引き渡す、届ける)と訳されている。

 

この語に対応するラテン語動詞のtradoも基本的には「引き渡す」の意味である。

新約でこの語に関連した語が登場する場合、ラテン語に翻訳する時には、動詞だけではなく、他の品詞もtradoを語根とする語が使われた。

 

福音書が書かれた時代のギリシャ語「引き渡す」(paradidOmi)にも、キリスト教ラテン語「引き渡す」(trado)にも「引き渡す人」(traditor)にも、もともと「裏切る」という意味はなかった。

だが、三世紀後半の時期から「裏切る」という意味を持つようになる。

 

なぜか。

 

三世紀末から四世紀初めにかけてのローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位284-305年)がキリスト教の大弾圧を断行する。

勅令を発し、集会の禁止、教会の破壊、聖書の焚書を命じ、拒否する聖職者は逮捕、信者の財産は没収され、投獄された。

 

特にラテン語圏では、教会の指導者に対して、棄教の証しとして教会が所有する聖書を「引き渡す」(trado)ように命じた。

 

教会の信者側では、教会の指導者が「(聖書を)引き渡す」(trado)かどうかで、帝国の弾圧に屈して、棄教したのかを見分けることとなった。

 

それで、キリスト教信者たちは、「聖書を引き渡した」教会の指導者を「引き渡した者」(traditor)と呼ぶようになる。

 

その結果、ラテン語キリスト教用語では、「引き渡す」(trado)から派生したラテン語traditor一語で、「裏切り者」を意味するようになった。

 

信者の寄付で生活を維持している教会の指導者でありながら、自分の保身を図り、支配権力に屈し、信者には信仰の重要性を説教するのに、信者の精神的支柱を守らず、聖書を敵に「引き渡し」、信者も、「神の言葉」をも裏切ったからである。

 

同じラテン語「引き渡す」(trado)から派生した英語のtradeは、商取引上の「引き渡す」行為を指し、名詞のtraditionは古代ラテン語のまま、「言葉を引き渡す」という趣旨から、「伝統」の意味となる。

そこに「裏切る」という意味はない。

 

しかし、教会の指導者が聖書を「引き渡した」ことが、キリスト教の広がりとともに、ユダがイエスを「引き渡した」ことと結び付けられ、traditorだけはキリスト教用語として「裏切り者」の意味になって継承されていく。

 

おそらく、イエス=ロゴス=言葉=聖書とする信仰と結び付けられ、聖書を「引き渡す」ことが、イエスを「引き渡す」こととキリスト教的には同義に使われるようになったものと想像される。

 

つまり、四世紀以降のキリスト教文献に「引き渡す者」という語が出て来るのであれば、「裏切る者」という意味で使っていると考えることもできる。

 

しかし、福音書だけでなく新約文書が書かれた当時のギリシャ語の「引き渡す」(paradidOmi)あるいは「引き渡す者」(ho paradidous)という語に「裏切る」という意味はまだない。

 

ユダもイエスを官憲に「引き渡した」ので、「裏切り者」というレッテルを貼られてしまったのであるが、本来の「裏切り者」(traditor)とは権力の弾圧に屈して「聖書を引き渡し」、信者を裏切った「棄教したキリスト教の指導者たち」を指す語である。

 

そういう意味では、「聖書」を正しく教えないキリスト教の宗教指導者たちをキリスト教信者は「裏切り者」と呼んでも良いのかもしれない。

 

数年で教理が変更になるにもかかわらず、「聖書」の唯一の正しい理解を提供していると豪語するWTの統治体を、信者であるJWは「イエスの代理者」とみなすのであろうか、それとも「聖書を引き渡した者」とみなすのであろうか。

 

信仰は自由ですから、自己責任で、どうぞご自由に。

 

マルコの弟子たちは、「十二人の一人」が「私を引き渡す」というイエスの「アメーン」言葉を聞き、「思い悩む」(lypeisthai)。直訳は「苦しむ」、ここでは心理的に「苦しむ」の意。

 

マタイの弟子たちは「非常に思い悩む」(lypoumenoi sphdra)。

マタイはイエスの心理的な「苦しみ」を強調し、副詞(sphdra=exceedingly)を付加する。

マタイは群衆・女性・子供などの社会的弱者には冷たいが、イエスと弟子たちに対しては非常に同情的である。

 

ルカの弟子たちに「思い悩む」様子はなく、23互いに議論しはじめる」(Erxanto syzEtein pros heautous)。

 

ヨハネのイエスは「アメーン」一つでは足りないらしく、「アメーン、アメーン」と二度繰り返し、「あなた方のうちの一人が私を引き渡す」ことを告げる。

 

この「アメーン、アメーン、汝(ら)に告ぐ」という「アメーン」を重ねるイエスの言い方は、ヨハネにしか出て来ない特徴的な言い方である。

全部で25回登場し、原著者の文(8)にも教会的編集者の文(17)にも出て来る。

だが、他の新約文書には出て来ない。

 

NWTは「きわめて真実にあなた(方)に言いますが」。

 

ヨハネの弟子たちは「思い悩む」のでも、「議論する」のでもなく、「狼狽する」(aproumenoi)。

ヨハネの弟子たちには全員、思い当たる節があるようだ。

 

マルコの弟子たちは、一人づつ順にイエスに「私ではないでしょうね」と言う。

 

マタイの弟子たちは、「まさか私ではないでしょうね、主よと言う。

イエス様に対して、「主よ」と呼びかけることを忘れない。

 

ルカの弟子たちは、「誰がこのことをなそうとしているのか」と議論する。

早速犯人探しを始め、互いに罪のあらさがしを始めたようだ。

 

マルコのイエスは、「引き渡す者」が「私といっしょに(手を)鉢にひたす者」(ho embaptomenos met emou eis to tryblion)であることを告げる。

原文は定冠詞付き「ひたす」の中動相の分詞で、「手を」とは書かれていない。

 

マタイのイエスは「私といっしょに手を鉢の中にひたす者」(ho embapsasmet emou en tO trybiO tEn cheira)と「ひたす」を能動相の分詞に変え、「手を」という目的語を付けてくれた。

 

「ひたす」(embaptO=en+baptO)は、en=inでbaptOはバプテスマと同じ語根の動詞で、原義は「中に浸す」。

 

マルコの「ひたす」は中動相であるから、食べ物や何かの自分の外にあるものではなく、自分自身に関する何かを「ひたす」と言っていることになる。

 

マタイはマルコの中動相の文を見て、鉢に「ひたす」のであるから、「手」である、と読み、イエスといっしょに「手をひたす」ことであるとはっきりわかるように、「手をひたす者」と修正してくれたのであろう。

 

マルコもマタイもユダヤ人知識人であるから、ユダヤ教の習慣や律法には通じている。

 

ややかしこまった食事の時に手を洗う鉢(finger bawl)を回すのは、当時のユダヤ人の食事でもごく普通のやり方だったようである。(ビラーベック、第四巻下p616,4c参照)

 

この時代における「食事に関する習慣」について、「鉢にひたす」(embaptO)と言っているのだから、常識的には、食事の際に「水を入れた鉢に手をひたして」、洗うことを指しているのだろう。

 

弟子たちは、誰が「引き渡す者」であるか知らなかったのであるから、イエスが弟子の誰か一人に対してだけ、同じ鉢に「一緒に手をひたした」というのは考え難い。

 

では「私といっしょに手をひたす者」(ho embaptomenos met emou)とは、どういう意味なのだろうか。

 

マルコでは、一人ずつ順にイエスに「私ではないでしょうね」と言うのであるから、やはりイエスが弟子たちと順番に同時に同じ鉢の中で手をひたしているのではないと思われる。

 

おそらくイエスはこれから私がこの鉢で手を洗い、私が手をひたした鉢を回すが、この同じ鉢のいっしょの水に手をひたして洗う者のうちの一人が、私を官憲に引き渡す者だ、という意味で、「私といっしょに」(met emou)「ひたす者だ」と言っているのだろう。

 

それから、「手を洗う水を入れた鉢」を順番に回し、手を洗わせ、食事に備えさせ、その時、弟子たちが一人ずつ順にイエスに「私ではないでしょうね」と言ったのだろう。

 

マルコにもマタイにも「私といっしょに」(met emou)とは書かれているが、「私と同時に」とは書かれていない。

 

マタイはマルコを写しているだけであるが…。

 

マルコの「鉢に」(eis to tryblion)とマタイの「鉢の中に」(en to trybiO)の「鉢」は、基本的には指小辞-ionがついているだけの違い。

マルコの前置詞はeisだから「鉢」を対格で受け、マタイは前置詞をenにしたから「鉢」を与格で受けているだけ。

 

ルカの「引き渡す者」は、イエスといっしょに「鉢に手をひたす」のではなく、21「手がイエスとともに、食卓に置かれている」だけである。

 

ヨハネのイエスは、「私といっしょに手を鉢にひたす者」のではなく、26「私が(パンを)一片(ソースに)ひたして与える者」と告げ、ユダに与える。

 

マルコの「ひたす」(embaptO)には目的語は付いていないが、ヨハネの「ひたす」(baptO)には、「一片」(to psOmion)と言う目的語がついている。

 

「小さな一片」(psOmos)にさらに指小辞-ionを付けたものだが、何であれ食べ物の一片を指す語。

この語だけでは、何の食べ物を指すか定かではない。

 

だが、最後の晩餐の場面であり、パン・苦菜(サラダ)・子羊の肉のいずれかである。

苦菜は子羊と一緒に食べる副菜であり、小さくちぎった食べ物を「ひたして」味を付けて、与えたのであるから、常識的には「パン」であろう。

 

それで、原文では、「一片をひたして」(bapsas to psOmion)とあるだけの文であるが、田川訳は「(パンを)一片(ソースに)ひたして」と( )で補って訳している。

 

NWTは「一口の食物を浸して」。

RNWTは「パン切れを鉢に浸して」。

ヨハネの原文に「鉢に」という句は付いていない。

マルコ・マタイの「鉢に」をヨハネに組み込んだもの。

 

例によって原文を無視した聖書霊感説信仰に基づく解釈を読み込んでいる。

 

ルカでは、ユダが3祭司長たちとイエスを引き渡そうと話し合った」時に「サタンが入る」のであるが、ヨハネでは、ソースをひたした「一片のパン」を口にした時に、27「サタンが入る」。

 

NWTのマルコは「わたしと一緒に共同の鉢に(手を)ひたしている者です」であるが、改訂版のRNWTは「わたしといっしょにパンを鉢に浸している人です」。

「手」から「パン」に変えている。

RNWTだけでなく、和訳聖書はすべて、「食べ物」と解している。

 

共同訳 「私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ」

フ会訳 「私といっしょに食べ物を浸している者が、それである」

岩波訳 「私と共に鉢の中に(自分の食物を手で)浸す者(がそれだ)」

新共同訳 「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」

前田訳 「わたしといっしょに同じ鉢にパンをひたすものだ」

新改訳 「わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です」

塚本訳 「わたしと一緒にひとつ鉢から食べる者だ」

口語訳 「わたしと一緒に同じ鉢にパンを浸している者が、それである」

文語訳 「我と共にパンを鉢に浸す者は夫なり」

Living B 「今わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者が、裏切り者です」

 

NWTは、マタイとの整合性を計り、「手を」を( )付きで入れたのであろうが、RNWTはヨハネとの整合性を計り、「パンを」( )も付けずに本文へ組み込んでいる。

 

マルコの原文に「パン」あるいは「食べ物」という語は出て来ないし、「ひたす」という動詞が中動相の分詞であることからして、「手」以外に解釈するのは無理である。

 

マルコの原文に「パンを」と書いてある信頼できる写本があるなら示してほしいものだ。

 

驚くことに、マタイの原文にははっきりと「私と一緒に鉢に手をたす人」(ho embapsas met emou en tO trubliO tEn cheira)と書いてあるのに、RNWTでは「私と一緒にパン鉢に浸す人」に“改訂”されている。

 

マルコの方を「パンを鉢に浸して」と原文を無視して、“改訂”しているので、マタイの方もヨハネとマルコの整合性を意図して、“改訂”しているのは明らかである。

 

RNWTがNWTの改訂版ではなく改竄訳聖書であること示す個所の一つ。

 

マタイの原文にも「手を」ではなく「パンを」と書いてある信頼できる写本が一つでもあるなら、示してほしいものだ。

 

 

マルコのイエスは、「私といっしょに手を鉢にひたす者」で、「十二人の一人」であることを弟子たちに告げるだけであるが、マタイは23「その者こそが」(houtos)という代名詞を主語に置き、「私を引き渡すであろう」と強調することを忘れない。

 

マルコもマタイも「イエスの受難」が「人の子」に関する旧約預言の成就であることを口にする。

 

マルコには、「人の子は、彼について書いてあるように去って行くが、人の子を引き渡そうとしているその者には、禍あれ。その者にとっては、生れない方がよかった」とある。

 

マタイはマルコを一言一句そのまま写している。

ただし、マタイは前節でユダに関して、「その者こそが」と強調し、ユダと「人の子」と対比させている。

それで田川訳は、マタイの方は、「人の子の方は」としている。

 

マルコの「人の子は」(ho men huios tou anthrOpou)もマタイの「人の子の方は」(ho men huios tou anthrOpou)で原文は全く同じ。

 

マルコはこの個所の「人の子」を旧約預言の成就と書いてあるが、13章までのマルコに、イエスの出来事を旧約の預言成就と解する事には否定的である。

 

つまり、ここでは伝承に手を加えることなく、イエスの受難を旧約の預言成就としている伝承のまま写しているのだろう。

 

マタイはユダに関して「禍あれ」(ouai)と呪いの言葉を浴びせるだけでは満足しないようである。

 

マルコをそのまま写した後に、25彼を引き渡そうとしていたユダが答えて言った、「ラビ、まさか私ではないでしょうね」。彼に言う、「お前がそう言うのか」、という一問答を付加している。

 

他の弟子たちはイエスに22「主よ」(kyrie)と呼びかけるのに対し、マタイのユダは25「ラビ」(rabbi)と呼びかける設定としている。

おそらくこの句はマタイの創作であろう。

 

ルカは、イエスの受難を旧約の預言成就とはせずに、「すなわち、人の子は決められたことに従がって去って行くが、人の子を引き渡すその者には、むしろ禍あれ」。

 

マルコの「彼について書いてあるように」を「決められたことに従がって」に書き変え、イエスの受難を神によって決められていたことと解したのであろう

 

マルコの「その者にとっては、生れない方がよかった」の句をルカは削除している。

 

 

マルコとマタイは続いて、「聖餐式の設定」伝承に移る。

 

マルコ14

22そして彼らが食べている時に、パンを取り、祝福して割き、彼らに与えて言った、「取れ。これは私の身体だ」。23そしてまた杯を取り、感謝して彼らに与え、皆がそこから飲んだ。24そして彼らに言った、「これは多くの人々のために流される私の契約のである。25アーメン、あなた方に言う、神の国で新たにこれを飲む日までは、私は葡萄から作られたものを決して飲むことはない」。

 

マタイ26

26彼らが食べている時に、イエスはパンを取り、祝福して割き、弟子たちに与えて言った、「取って食べよ。これは私の身体だ」。27そしてまた杯を取り、感謝して彼らに与え、言った、「皆、ここから飲むように、28何故ならこれは、多くの人のため、罪の赦しのために流される私の契約の血である。29あなた方に言う今から後、我が父の国あなた方とともに新たにこれを飲む日までは、私は葡萄から作られたこういうものを飲むことはしないだろう」。

 

ルカ22

14そして時が来ると、食卓に座り、弟子たちもまた彼とともに座った。15そして彼らに対して言った、「私は自分が受難する前にこの過越の食事をあなた方とともに食べるようにしたいと強く欲していた16すなわち、あなた方に言う、神の国において成就するまでは私はもはや過越の食事をすることはしないだろう」。17そして杯を受け取り、感謝して、言った、「これを取り、互いに分ちあえ。18すなわち、あなた方に言う、今から後、神の国が来るまでは、私は葡萄から作られたものを決して飲むことはしないだろう」。そしてパンを取り、感謝して割き、彼らに与えて言った、「これはあなた方のために与えられた私の身体だ。私の思い出のために、これをなすがよい」。20杯についても同様に、食事の後に言った、「これはあなた方のために流される私の血における新しい契約ある。

 

 

イエスが制定したとされる、いわゆる聖餐式設定の言葉である。

キリスト教における最重要の教会儀式である。

 

パウロがほぼ同じ言葉(Ⅰコリ11:23-25)を引用していることからして、おそらく最初期のキリスト教においてほぼほぼこの形で伝承されていたものであろう。

 

第一コリントス11:23

23・・・主イエスは、引き渡される夜に、パンを取り、24感謝して割き、言った、「これはあなた方のための私の身体である。私の思い出のために、これをなすがよい」。25杯についても同様に、食事の後に言った、「この杯は私の血における新しい契約である。あなた方は飲むたびに、私の思い出のために、これをなすがよい」

 

イエスの受難後、キリスト教会が作られて間もなくキリストの死を自分たちの救済のための死、と解釈するキリスト教ドグマが確立し、教会で聖餐式の儀式が始まったのだろう。

 

おそらく、元には実際のイエスの話があるのだろうが、聖餐式の儀式を正統化していくために、過去のイエスの話を聖餐式設定の場面に読み込んでいるのだろう。

 

パウロ版には、「私の身体」には「あなた方のための」という救済を意味する言葉が付与されており、「私の血」には「新しい契約」という救済を保証する言葉が付与されている。

 

マルコ版の「私の身体」に関しては、「パンを取り、祝福して割き、彼らに与えて言った、「取れ。これは私の身体だ」とあるだけで、「あなた方のための」という信者と救済とを関係づけるような言葉は付いていない。

 

「血」に関しては、「杯を取り、感謝して彼らに与え、皆がそこから飲んだ。そして彼らに言った、「これは多くの人々のために流される私の契約の血である」、とあり「私の契約の」という救済と関係づける言葉が付与されている。

ただし、「キリスト信者」に限定しているのではなく、「多くの人々のために」である。

 

もしかすると、マルコ版のイエスの言葉は、もともとイエスが直接口にした言葉を伝承しているのかもしれない

 

死を覚悟したイエスが、最期の食事の時、弟子たちに、この食事のことを思い出す度に、死にゆく私の身体と私が流す血を思い出してほしい、というような趣旨のことは言ったのかもしれない。

 

それがキリスト教の救済信仰と結び付き、「多くの人のために流される血」とか「新しい契約」といったドグマ的表現が加わり、聖餐式を「感謝して」と祈るキリスト教グループと「祝福して」と祈るキリスト教グループとに分かれていったのだろう。

 

マルコの時代にすでに異なる仕方で聖餐式を執り行うキリスト教が存在していたと思われる根拠は、マルコが「五千人の供食」(6:30-44)と「四千人の供食」(8:1-10)の二つの供食伝承を取り上げていることから推察できる。

 

詳しく知りたい方は過去記事で。

 

 

 

 

 

パンの方の「祝福して」と祈るのは、食事のはじめの祈りであり、ぶどう酒の方の「感謝して」の祈りは食事の終りの祈り、であるとする解釈は、全く根拠のない学説に従がったもの。

 

パウロ版の第一コリントスでは、パンの祈りに関しても「感謝して」という祈りで始めており、ぶどう酒に関しても、「同様に」としているのであるから、「感謝して」と祈っていたことになる。

食事のはじめが「祝福して」と祈り、食事の終りは「感謝して」と祈る、とする学説に根拠はない。

 

マルコ版では、「パンを割き」は、「彼らが食べている時に」とあるのだから、すでに食事は始まっており、食事の最初という設定ではない。

「杯」の方に関しても、「感謝して彼らに与え、皆がそこから飲んだ」のであるから、食事の最後の祈りというわけではない。

 

マルコは、イエスの受難が「多くの人のために」なされる「身体」であり、「私の契約の血」であるとしているが、パウロは「あなた方のための」「身体」であり、「血における新しい契約」であるとしている。

 

元はイエスの受難に関して「多くの人のために」とあったのであろうが、パウロが「あなた方のために」と言い換えたのであろう。

 

パウロという人は、いつでも自分のことしか考えない人であり、せいぜい広げても自分と同種のキリスト信者のことしか頭にない。

意図的に改変したというよりも、無意識のうちに「あなた方のために」と言い換えて、キリスト信者に限定してしまったのであろう。

 

マルコの「私の契約の血」(to haima mou tEs diathEkEs)の「私の」(mou)も「契約の」(tEs diathEkEs)も定冠詞付き「血」(to haima)にかかる。

「私の契約」の「血」、つまりイエスが契約した「血」という意味ではなく、「イエスの血」であり「契約の血」であるという趣旨。

「イエスの血」が「神とイエスとの契約」に関わっているという意味ではない。

 

パウロの「私の血における新しい契約である」(hE kainE diathEkE estin en tO emO haimati)とは、定冠詞付き「イエスの血」(tO emO haimati)よって、有効となっている(estin en)定冠詞付き「新しい契約」(hE kainE diathEkE)という趣旨。

 

もともとは「契約」とあったものに「新しい」を付加したのは、おそらくパウロであろう。

 

マタイは「多くの人のため、罪の赦しのために流される私の契約の血である」。

マルコの「多くの人のために流される私の契約の血である」に「罪の赦しのために」(eis aphesin hamartiOn)という句を付加し、キリストによる贖罪信仰を追加した。

 

マルコは、最後に「アメーン、あなた方に言う」というイエス独特のアメーン言葉で、弟子たちに約束する。

「神の国で新たにこれ(ぶどう酒)を飲む日までは。私は葡萄から作られたものを決して飲むことはない」と。

 

マタイは、マルコの「アメーン」を削った。

理由は不明。

通常ならマタイの方が「アメーン」を付けたがるのに…。

 

マタイはマルコの「神の国」を「我が父の国」に言い換えた。

マタイは「神の国」という言い方をほぼ一貫して避けている。

 

マタイはマルコにはない「あなた方とともに」という句を付加した。

 

マルコでは、イエスが「神の国」で「多くの人たちとともに」楽しくぶどう酒を飲む日が来ることを待っている姿が想像されている。

 

マタイでは、「あなた方とともに」という句が付加されたため、イエスは「我が父の国」では、仲間のキリスト信者たちだけとしか、ぶどう酒を飲まないことになった。

 

「こういうもの」(touto)という代名詞も付加したため、「ぶどう酒」だけでなく「葡萄から作られた一切の飲物」が「我が父の国」(=天国)に行くまでは、飲めなくなってしまった。

 

ルカは、「聖餐式の設定」の場面も、前後を逆転させ、マルコでは「聖餐式」後に置かれているイエスの約束の言葉を「聖餐式」の前に置いた。

 

ルカはマルコの「アメーン、あなた方に言う」(amEn legO humin)の「アメーン」の代わりに、接続小辞として理由を示すgarを置き、「すなわち、あなた方に言う」(legO gar humin)という言葉で、まず「神の国において成就するまでは、私はもはや過越の食事をすることはしないだろう」と宣言する。

 

そしてぶどう酒の「杯」を受け取り、感謝して、その杯を互いの間で回すように指示し、再び「すなわち、あなた方に言う」(legO gar humin)という言葉で、今度はマルコでは聖餐式後にある言葉を宣言する。

 

マルコの「神の国で新たにこれを飲む日までは」を「今から後、神の国が来るまでは」と修正し、「私は葡萄から作られたものを決して飲むことはしないだろう」と未来形で告げる。

 

マルコでは単に「ぶどう酒」を飲まない、という句だったのに、ルカでは「ぶどう酒」だけでなく、「過越の食事」もしないということになった。

 

「神の国において成就するまでは」(heOs hotou plErOthE en tE basileoa tou theou)、「神の国が来るまでは」(heos hotou he basileia tou theou elthE)という限定なのであるから、ルカのイエスは「神の国において成就した」暁には、「神の国」で再び「過越の食事」をするつもりなのであろうか。

 

「神の国において成就するまでは」(heOs hotou plErOthE en tE basileoa tou theou)という句の動詞(plErOthE)は非人称的三人称単数形で、厳密には、主語がついていない。

 

つまり、何が成就すると言いたいのか、この文だけでは意味がはっきりしない。

 

一応文脈から判断して、「過越の食事を弟子たちと共に食べることを強く欲していた」のだから、「過越が成就する」と補うものであろう。

 

しかし、そうすると、ルカは、現在行われているユダヤ教の過越祭は不完全なものであって、いずれ神の国において本物の過越祭が実現する、と考えていたことになる。

 

そのような信仰や思想は、ユダヤ教文献にも当時のキリスト教文献に出て来ない、という。

 

それで護教的聖書学者のクロスターマン先生は、「過越が表現しているところの(真の)意味が実現するまでは」という意味だと説明しておられるが…。

 

ルカのイエスは、「過越」(pascha)に関する謎の言葉を弟子たちに告げ、「ぶどう酒」も「過越の食事」も摂らないことを宣言し、聖餐式を設定する。

 

ルカ22

19そしてパンを取り、感謝して割き、彼らに与えて言った、「れはあなた方のために与えられた私の身体だ。私の思い出のために、これをなすがよい」。20杯についても同様に、食事の後に言った、「これはあなた方のために流される私の血における新しい契約である。

 

ルカは、ここではマルコとは異なる「聖餐式の設定」伝承に従がっている。

パウロ版の「聖餐式の設定」伝承と共通する表現や言葉がマルコより多い。

 

第一コリントス11

23・・・主イエスは、引き渡される夜に、パンを取り、24感謝して割き、言った、「これはあなた方のための私の身体である。私の思い出のために、これをなすがよい」。25杯についても同様に、食事の後に言った、「この杯は私の血における新しい契約である。あなた方は飲むたびに、私の思い出のために、これをなすがよい」。

 

マルコ14

22そして彼らが食べている時に、パンを取り、祝福して割き、彼らに与えて言った、「取れ。これは私の身体だ」。23そしてまた杯を取り、感謝して彼らに与え、皆がそこから飲んだ。24そして彼らに言った、「これは多くの人々のために流される私の契約のである。

 

マルコでは、パンについては「感謝して」で、杯の方は「祝福して」である、ルカはパンについては「感謝して」であるが、杯の方は「同様に」としている。

 

パウロ版は、ルカとまったく同じく、パンについては「感謝して」であり、杯に関しては「同様に」である。

 

マルコには「これは私の身体だ」(touto estin to sOma mou)とあるだけで、「私の身体」(to sOma mou)に、ルカのように、「あなた方のために与えられた」(to hyper humOn didomenon)というキリスト信者に限定する修飾句は付いていない。

 

パウロ版は、「これはあなた方のための私の身体である」(touto mou estin to sOma to hyper humOn)とあり、ルカと同じく「あなた方のため」(to hyper humOn)とするキリスト信者に限定する修飾句が付いている。

 

ルカとパウロ版には、「私の思い出のために、これをなすがよい」(touto poieite eis tEn emEn anamnEsin)という全く同じ句が付いているが、マルコにはない。

 

「杯についても同様に、食事の後に言った」(hOsautOs kai to potErion meta to deipnEsai legOn)という句も、ルカとパウロ版は全く同じ表現で付いているが、マルコにはない。

 

ルカは「私の血における新しい契約」(hE kainE diathEkE en tO hamati mou)で、パウロ版は「私の血における新しい契約」(hE kainE diathEkE estin en tO emO haimati)。

定冠詞付き「私の血」をthe blood of mineと表現するか、the my bloodと表現するかの違いで、どちらも同じ意味である。

 

ルカが、「聖餐式の設定」伝承をマルコではなく、パウロ版と同じ資料を写しているのは明らかであろう。

 

 

聖餐式の後、場面はオリーヴ山へと移り、マルコのイエスは「ペテロの裏切り予告」をする。