マルコ10:17-31 <ある金持ちとの会話>2 並行マタイ19:16-30、ルカ18:18-30

 

 

金持が立ち去った後、物語はイエスと弟子たちの会話に展開する。

 

マルコ10

23そしてイエスはまわりを見まわして、自分の弟子たちに言う、財産を持っている者が神の国に入るのはいかに難しいことであろう」。24弟子たちは彼のこの言葉に驚いたイエスは答えてまた彼らに言う、「子らよ、神の国に入るということは、いかに難しいか25金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいくらいだ」。

 

マタイ19

23イエスは弟子たちに言った、「アメーン、あなた方に言う、金持が天の国に入ることは難しい。24もう一度あなた方に言う、金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいくらいだ」。

 

ルカ18

24イエスは彼を見て、言った、「財産を持っている者が神の国に入って行くのはいかに難しいことであろう。25金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいくらいだ」。

 

マルコの23節は物語における一つの結論の文である。

「ある金持ちとの会話」の元伝承は、「金持ちが神の国に入るのは難しい」という帰結の物語だったのであろう。

 

24節以降は、23節の結論の言葉を受けて、続いている。

しかし23節の結論とは論点が微妙にずれて行く。

 

23節で、イエスは「弟子たち」に、「財産を持っている者が神の国に入るのは難しい」と言う。

「弟子たち」は、その結論の言葉に「驚く」。

 

23節はあくまでも「難しい」と言っているだけで、「金持ちは神の国に入ることはできない」と言っているわけではない。

 

しかし、24節では「神の国に入るということは、いかに難しいか」と言っている。

財産家に限らず、「人が、神の国に入ること自体が難しい」という趣旨になっている。

 

つまり、「財産家の救済」の問題から「人間の救済」の問題に論点がすり替わっているのである。

 

とすれば、24節以降は、元伝承にマルコが付加したものということになる。

ただし、24節以降はすべてマルコの創作による編集句というわけではなさそうである。

 

というのは、23節の論点を25節で繰り返すのであるが、異なる論旨となっているからである。

 

25節の「金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいくらいだ」、という駱駝の比喩は、事実上「金持が神の国に入ることは不可能だ」という趣旨である。

 

普通の人が「神の国に入る」(キリスト信者になる)ということ自体が、非常に難しいのに、金持が神の国に入ることなど不可能である、と言っていることになる。

 

この論点のずれは、「針の穴の譬え」にある。

 

とすれば、「金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいくらいだ」というイエスのロギアはおそらく、マルコがこの伝承に組み込んだものであろう。

 

信者の私有財産の放棄を救済の条件として説き勧めるエルサレム教団に対する批判を展開するために、この伝承とは無関係な格言のような単独伝承をマルコが採用したのであろう。

 

 

WTは、「針の穴」の例えを誇張法による強調と解説している。

*** 洞‐2 569ページ 針の穴 ***

この例えは,富んだ人が神に仕えはじめるだけでなく実際に王国に入ることがかに難しいかを誇張法によって強調していました。―テモ一 6:17‐19; ルカ 13:24。

 

「いかに難しいか」を」誇張したもので、不可能だと言っているのではない、という解釈。

 

しかしながら、23節は、「金持の救済」に関するロジックであったものが、25節では、金持だけでなく、「人間の救済」のロジックとなっているという論理のすり替えに関しては無視している。

 

 

マルコのイエスは「救済の条件」として、十戒遵守には無関心であるが、「財産放棄による貧しい人々の救済」に関しては重要視している。

 

マタイのイエスは、十戒と王たる律法の遵守を「救済条件」とし、「財産放棄による貧しい者たちに対する施し」に関しては、「完全な者」となるためのステップ・アップとしている。

 

ルカのイエスは、十戒遵守に加えて、出家して私有財産の放棄し、教団生活に入り、原始共産主義の生活に従がうことを「救済条件」に設定した。

 

 

「弟子たち」は、再びイエスの言葉に驚きを示す。

 

マルコ10

26彼らはますます驚嘆して、互いに言った、「では誰が救われることができよう」。27イエスは彼らを見つめて、言う、「人間のところでは不可能でも、神のところでは不可能ではない。何故なら、神のところでは一切が可能であるからだ」。

 

マタイ19

25弟子たちは聞いて、ひどく驚嘆し、言った、「それでは誰が救われることができましょう」。26イエスは見つめて、彼らに言った、「人間のところでは不可能だが、神のところでは一切が可能である」。

 

ルカ18

26これを聞いた者たちが言った、「では誰が救われることができよう」。27彼は言った、「人間のところでは不可能なことも神のところでは可能である」。

 

「驚き」の動機は、元来は奇跡的行為に対する動機であるので、「救済」に関する議論の動機としては違和感が生じる。

 

もしかすると、元伝承には「弟子たち」の「驚き」の動機に関連する奇跡的行為が書かれていたのかもしれないが、マルコの編集により、「驚き」だけが残ったのかもしれない。

 

マルコの「では誰が救われることができよう」という「弟子たち」の疑問は、「神の国に入る」ということが、人間にとって難しく、金持には不可能であると言うのであれば、それでは、「神の国に入る」人間は存在するのか、という疑問である。

 

「では」の原文はkaiであり、基本的には順接の接続小辞である。

田川訳では、kaiは日本語として違和感があるとしても一貫して「そして」と訳している。

しかし、さすがにここだけは「そして」と訳す気になれなかった、と註記している。(『訳と註』p338)

 

「人間の救済は不可能である」という趣旨に「驚嘆して」いるのに、「誰も救われることはできない」という趣旨の文を順接で「そして」でつなぐと、「驚嘆して」いる理由が意味不明になる。

 

「弟子たち」はイエスの言葉を理解できなかったので「驚嘆して」いるのに、イエスの言葉と同じ趣旨のことを繰り返す、というのであれば、イエスの言葉を理解しているのに、なぜ驚嘆しているのだ、という矛盾を生じさせことになる。

 

マタイもマルコのkaiを不自然に思ったのであろう。

「そして」ではなく、「それでは」(ara)という接続小辞に変えている。

 

「弟子たち」の「誰が救われることができよう」という疑問、イエスに対する質問は、どういう条件であれば人間が「神の国に入る」ことが可能なのか、人間が神の国に入ることを可能にする条件は存在するのか、という疑問でもある。

 

弟子たちのこの疑問は、「救済」が人間の側の行為や努力によって可能であることを前提にしている

 

つまり、「弟子たち」は「律法遵守」や「貧しい者」となって人々に対する救済努力をすることなどによって、「神の国に入る」ことは可能である、と考えていることになる。

 

マルコのイエスは、彼らを見つめて、「弟子たち」の考えを否定する。

この物語に登場するユダヤ人の財産家と重ねているのだろうか。

 

弟子たちに、「人間のところでは不可能でも、神のところでは不可能ではない。何故なら、神のところでは一切が可能であるからだ。」と告げる。

 

マルコは、単に「人間には…神には…」という与格表現ではなく、「人間のところでは(para anthropois)…神のところでは(para tO theO)…」と、「ところでは」(para)という前置詞をつけて表現している。

 

この言い方は、単純に「人間」と「神」という個の対比を表現しているのではない。

 

この言い方は七十人訳や、新約以後のキリスト教文献に多く見られるだけでなく、ユダヤ教キリスト教に関係のない当時のギリシャと文献にも見られるという。

 

paraという言葉通りの「空間的な意味」であり、「ある人物ないし神的存在の空間的ないし精神的領域において生じることが可能」といった趣旨を表現している、と指摘している。(H.Riesenfeldt)

 

KIでもpara=besideを字義訳しているし、英訳でもwith men…with God…を当てている。

 

単に、「救済」に関して、人間の能力と神の能力を対比させ、「人間にとっては不可能なことであっても、神にとっては可能である」と言っているわけではない。

 

「救済」に関して、「人間の側の問題」と「神の側の問題」とを対比させているのである。

 

どういう違いが生じるのか。

 

「救済」されるかどうかの「問題」は、当然「人間の側」の問題であり、「神の側」の問題ではない。

「救済」に関する「神の側」の問題とは、人間を「救済」するかどうかの専任事項の問題である。

 

「救済」に関して「人間の側では不可能」であるが、「神の側では不可能ではない」というのであるから、「救済」に関して「人間の側から」条件を求めるのは不可能であるが、「救済」に関して「神の側」からは「誰を救済」するかに関して不可能はない、という趣旨になる。

 

マルコのイエスはさらに「何故なら、神のところ(para tO theO)では一切が可能であるからだ」と付け加える。

 

「救済」に関して、「神の側」からは不可能ではない、という言葉を受けてその理由を説明しているのだから、「人間の側において」「神の国に入る」条件をいろいろ提示しても、救済を獲得するのは不可能である。

もちろん、「神の能力からすればすべてのことが可能である」ということではあるが、その一切は、「神の側において」のみ、可能なことである。

「誰を救済するか」は神の側の問題であり、神にとっては「一切が可能である」、つまり「すべての者を救済することも可能だから」である、という趣旨になる。

 

マルコのイエスは「弟子たち」に、「救済は人間の行為によってもたらされるものではなく、神によってもたらされる行為であり、人間の意志や行為が関与しているものではない」。

「人間の側」から「救済条件」を提示して救済を獲得しようとするのは不可能であることを指摘した後、さらに「何故なら、神の側からでは、人間の側からの救済条件にとらわれることなく、一切が可能であるからである」と答えるのである。

 

「弟子たち」はいろいろと人間側の行動規範や条件を要求して救済される人間を限定させようとするが、神の側ではそのような人間側の御都合などは無関係である。

「一切の者」を救うことも神の側には可能なのだ、ということである。

 

「持ち物を売って貧しい者」となり、イエスに従がってくるなら、天に宝を持つことになる、と「人間の救済」を限定しようとしていた「弟子たち」に対して、「一切の者」を救うことも神の側には可能なのだ、とマルコのイエスは答えたのである。

 

ここには、「神の国に入る」ための人間の条件を要求する「弟子たち」に対するマルコの批判が込められているのだろう。

 

 

マタイはマルコの「神のところでは不可能ではない」という句と「何故なら」という接続詞を削除し、「人間のところでは不可能である」という文と「神のところでは一切が可能である」という文を逆接につないだ。

 

その結果、マルコの含みのある文が、マタイでは、単に人間の側の能力と神の側の能力の対比という構図となった。

「人間にとっては不可能なことでも、神の能力からすれば不可能なことなどは一切ない」という趣旨に読むことになる。

 

 

ルカは、マルコでは「弟子たち」がイエスに質問している言葉を、「これを聞いた者たち」に変え、不特定多数の者たちがイエスに対して質問したことに設定変更した

 

マルコでは弟子たちがイエスの言葉に驚嘆し、「無理解」であることをさらけ出すのであるが、ルカは弟子たちに否定的な感情を抱かせるマルコの要素を消そうとしたのであろう。

 

 

マルコでは、人間が人間側の救済条件に関与しようとする「弟子たち」に対する批判を含むイエスの言葉に無理解のまま、21「持ち物を売り、貧しい人々に与えよ」というイエスの言葉にペテロは自慢げに呼応する。

 

マルコ10

28ペテロが彼に言いはじめた、「御覧なさい、私たちはまさに切を捨て、そしてあなたに従ってまいりました」。

 

マタイ19

27その時、ペテロが答えて、彼に言った、「御覧なさい、私たちはまさに一切を捨てて、あなたに従ってまいりました。そうすると、私たちにはどういうことがありましょう」。

 

ルカ18

28ペテロが言った、「御覧なさい、私たちはまさに自分のものを捨てて、あなたに従ってまいりました」。

 

 

マルコでは、28節から「弟子たち」という表現が、「ペテロ」となるが、ペテロのセリフにある「私たち」という主語はかなり強調されている。

マルコの「言い始めた」という未完了過去表現はアラム語由来の物語の言い方を踏襲しただけで、「言った」という意味と同じ。

 

「言った」のはペテロであるから単数である。それなら、セリフの主語も単数となるべきところである。

しかしながら、マルコは、「私たちは」という主語を置き、「一切を捨て」という動詞は単数で受けている。

そして「あなたに従がって来た」は複数の動詞で受けている。

 

つまり、ペテロは「一切を捨て」てきたことを自慢しながら、「悩みつつ立ち去った」金持とは異なり、我々「弟子たち」は「イエスに従がって来たのだ」と見下している感じに描いているのである。

 

ペテロが主役となっているこの節は、財産家のユダヤ人と弟子たちとの対比をなしている文である。

資産家は去ったが、弟子たちは従がって来た、という対比を示している。

 

この箇所のすべてが、マルコの創作による編集であるのか、元伝承の一部を組み込んでいるのか、判断できないが、元伝承はおそらくペテロの名が冠されて流布されていたのだろう。

 

マタイもルカもマルコを写しているのであるが、マタイはマルコの論旨を無視する文を付加している。

 

 

マルコのイエスは、ペテロの自慢に対して、格言的な言葉で反論する。

 

マルコ10

29イエスは言った、「アーメン、あなた方に言う、家や兄弟や姉妹や母や父や子どもたちや畑などを私の故に、また音の故に、捨てた者で、30今この時において家々や兄弟や姉妹母たちや子どもたちや畑などを百倍も、迫害とともにではあるが、受けることなくまた来るべき世で永遠の生命を受けることのないは、いないであろう。31だが多くの最初の者が最後の者となり、最後の者が最初の者となるであろう」。

 

マタイ19

27そうすると、私たちにはどういうことがありましょう」。28イエスは彼らに言った、「アメーン、あなた方に言う、あなた方私に従って来た者たちは、再び生れる時には、すなわち人の子がその栄光の座に座る時には、あなた方もまた十二の座にすわって、イスラエルの十二の支族を裁くであろう。29して、家々や兄弟や姉妹や父や母や子どもたちや畑などを私の名前の故に捨てた者はみな、その百倍を受け、そして永遠の生命を受け継ぐだろう。30だが、多くの最初の者が最後の者となり、最後の者が最初の者となるであろう」。

 

ルカ18

29彼らに言った、「アメーン、あなた方に言う、家やや兄弟や両親や子どもたちを神の国の故に捨てた者で、30この時においてその幾倍をも受けることなく、また来たるべき世で永遠の生命をけることのない者は、いない」。

 

 

マルコのイエスは、二つの格言的ロギアを弟子たちに告げる。

マルコの29節は構文がきちんと取れていない。

構文の主軸は、否定の不定代名詞に関係代名詞をつけた「…捨てたところの者で、受けない者はいない」という二重否定の構文である。

ところが「受けない」という否定文にもう一つ仮定の接続詞をつけている。

つまり、「もしも…を受けることにならないで、…を捨てた者はいない」という文である。

 

意味としては、単純化すると「誰でも…捨てた者は、必ず…受ける」という趣旨であるが、原文は肯定文ではなく、仮定の二重否定文である。

 

二重否定であるから、お前さんたちはそう主張するが、お前さんたちだけではあるまい、というニュアンスを含んでいることになる。

 

それに仮定の接続詞をつけているのだから、仮に、お前さんたちがそう主張するとしても、という意味を含んでいることになる。

 

つまり、ペテロが自分たちはすべてを捨ててイエスに従がって来たのだ、と自慢しているのに対し、そういう人たちはほかにもいるし、直接あなた方の知らないところにも、大勢いるのだ。その人たちもみな十分な報いを受けることになるだろう、という趣旨となる。

 

「弟子たち」が求める救済条件を満たさなければ「神の国に入る」ことができないと主張していることに対する批判が、マルコに仮定の二重否定の構文を取らせたのであろう。

 

ペテロをはじめとする「弟子たち」の福音に対して、「あなたたちだけじゃない」、ほかのどんな人でも、「私の故に」捨てた者に、報いを「受けることのない者はいない」はずだ、とマルコは反論しているのであろう。

 

 

マタイは27bに「そうすると私たちにはどういうことがありましょう」という句を付加した。

金持の若者は、財産を捨てて、イエスに従がって来なかったが、我々ペテロをはじめとする弟子たちは、まさに一切を捨ててイエスに従がって来たのですよ。

金持とは違う我々には、どんな御褒美が待っているのですか、と質問するのである。

 

その答えとして、マタイのイエスは「イスラエルの十二氏族を裁く」権威を約束するのである。

 

このイエスの言葉はルカ22:30bと一致する。

しかし、ルカでは、最後の晩餐の場面での言葉であり、マタイの場面とは異なっている。

 

つまり、「十二氏族を裁く」というQ資料にあったイエスのロギアをマタイは金持との会話の場面で採用し、ルカは最後の晩餐の場面で採用したと言うこと。

 

マタイがこの句を付加したことで、マルコの「家や兄弟などを…捨てた者は…」という句の意味とは異なる意味を持つことになった。

 

マルコでは、ペテロの自慢気な発言に対して水を差し、イエスに従がっているのはペテロ一派だけではないので、どんな人でも必ずその報いを受ける、と言っている。

 

それに対してマタイは、ペテロ讃美にすり変えたので、「イエスの名前の故に一切を捨てて、イエスに従がって来た」、「ペテロをはじめとする十二使徒たち」には将来特別な権威の座が用意されており、百倍が補償されている事にした。

 

マタイのペテロ崇拝が、ペテロをはじめとする「十二使徒」を特別扱いすることにさせたのである。

 

ルカは、ほぼそのまま写しているが、三者三様に異なる表現がある。

 

マルコ10

29や兄弟や姉妹やや子どもたちや畑などを私の故にまた福音の故に、捨てた者で、30今この時において家々や兄弟や姉妹や母たちや子どもたちや畑などを百倍も、迫害とともにではあるが、受けることなくまた来るべき世で永遠の生命を受けることのない者は、いないであろう。

 

マタイ19

29…家々や兄弟や姉妹や父や母や子どもたちや畑などを私の名前の故に捨てた者はみな、その百倍を受け、そして永遠の生命を受け継ぐだろう。

 

ルカ18

29…家やや兄弟や両親や子どもたちを神の国の故に捨てた者で30この時においてその幾倍をも受けることなくまた来たるべき世で永遠の生命を受けることのない者は、いない

 

 

マルコでは、「捨てるもの」に関して「・兄弟・姉妹・子どもたち・畑など」であるが、「受けるもの」に関して「家々兄弟・姉妹・母たち・子どもたち・畑など」。

 

「受けるもの」に関して、「家」と「母」が複数形であり、「父」は除外されている。

 

「捨てるもの」とは、「私の故に・福音の故に」であるから、現在の生活を想定している。

通常、「家」「母」「父」も一人であるから、単数となっている。

 

「受けるもの」とは「キリスト信者」として「受けるもの」を想定しているので、信者としての「家」つまり「教会」であるので各地にあるキリスト教会という趣旨であるから複数。

 

「兄弟」「姉妹」「母たち」「子どもたち」も、信者として大勢の「兄弟」「姉妹」「母たち」「子どもたち」を「受けるもの」であるから、「母」もキリスト信者の「母」という趣旨で複数にしたのであろう。

 

「受けるもの」に「母」は複数形にして「母たち」としたのに、「父」に関しては「父たち」と複数にせず、「父」を除外している。

 

なぜか。

 

おそらく、すべてのキリスト信者にとって、「父」とは、ユダヤ教から「受け継いだ」ただ一人の「神」であるから、「父たち」と複数にもせず、当然のこととして「父」を省いたのであろう。

 

マルコのイエスは「迫害とともに受ける者は」としているが、イエスの生前にキリスト信者に対する「迫害」は生じていない。

キリスト教が存在していなかったのであるから、当然である。

 

とすれば、このイエスのロギアも当然イエスが語ったものではなく、イエスの死後に、キリスト教会によって創作され、「弟子たち」と称する者たちにより流布された伝承ということになる。

 

 

マタイはマルコの二重否定の文を肯定文に修正しただけでなく、マルコの「私の故に・福音の故に」を「私の名前の故に」と変えた。

 

マルコにとっては、「イエス自身」の存在と「福音」は同じものであるので、「私の名前の故に」ではなく、「私」と「福音」を同義に扱っている。

マルコでは、イエスの「私」を「福音」・「私の言葉」で言い換えられている。(8:35,38.10:29)

マルコにとって「福音」とは、かつてイエスが生きて来たのと同じ生き方をすることなのであろう

 

マタイは、「福音の故に」という句を削除し、「私の故に」を「私の名前の故に」と言い変えた。

「イエス自身の故に」というのではなく、「イエスの名前を信じる故に」つまり「キリスト信者である故に」という趣旨になった。

 

マタイにとって、報いを「受ける」かどうかは、キリスト教信者であるかどうかで決定する問題となったのである。

 

マルコが「捨てるもの」リストと「受けるもの」リストとの表現を微妙に異なるものとしていることも、マタイは無視した。

 

マルコの「捨てるもの」リストの単数の「家」を金持好みのマタイらしく複数の「家々」とし、「受けるもの」に関しては、「その百倍を受ける」ことにした。

 

現世ではrichな「家々」と暮らしを捨てても、「キリスト信者」になれば、現世でもその「百倍」もrichな「暮らしができるし、天国にて「永遠の生命」を得ることは神によって「受け継ぐ」ことが保証されていることなのですよ、という趣旨になった。

 

マタイが、権力志向の人間や政治志向の支配者たちに好まれるわけである。

 

マタイはマルコの「迫害とともに受ける者は」という句を削除した。

マタイの時代には、「迫害」を想定する状況にはなかったということだろう。

 

 

ルカは、「捨てるもの」のリストにマルコにはない「妻」を加えている。

「家族」を捨てるのであれば、「妻」が入っていないのはおかしいと思ったのだろうか。

 

マルコがせっかく「夫婦は一体であり、神が結ばれたものを人が離してはならない」(10:8)として、夫婦を一人として扱っているのを、ルカは引き離すことにしたのである。

 

その一方で、マルコの「兄弟」は残しているのに、「姉妹」は削除した。

「兄弟」の中には「姉妹」も含まれているから、構わないという姿勢なのだろう。

ルカの男尊女卑の指向が見える。

 

ルカは、マルコの「私の故に、福音の故に」を「神の国の故に」に変えた。

マタイほどではないが、ルカは「福音」(euangelion)という名詞を徹底的に避けようとしている。一度も「福音」(euangelion)という語を用いていない。

ギリシャ語として違和感があるからであるが、動詞表現(euangelizothai)でしか用いない。

 

ルカにとっての「福音」とはマルコとは異なり、「イエスの生き方に関する良い知らせ」ではなく、「神の国に関する希望と救済」を意味しているのだろう。

 

ルカは、マルコの「百倍」(hekatontaplasiona)を「幾倍」(pllaplasiona)に変えた。

字義的には「多重倍」で、数倍、数十倍という感じ。

マルコの現世で「百倍」は言いすぎであろうと考えたのだろうか。

 

ルカはマルコの文法的にすっきりしない文を整った二重否定の文に修正してくれている。

 

 

マルコのイエスは、最後に「多くの最初の者が最後になり、最後の者が最初のものとなる」という謎めいた言葉を弟子たちに語る。

 

前節の仮定の二重否定構文による弟子たち批判とを、「だが」(de)という逆接の接続詞で繋いでいる。

 

マタイは、このイエスのロギアをそのまま写している。

同じロギアを次の物語の結論にも採用している。

マタイ20:16「このように最後の者が最初の者に、最初の者が最後の者になるであろう」。

 

ルカは、このイエスのロギアを削除している。

しかし、同じロギアはルカにも登場する。

ルカ13:30「そして見よ、最後の者が最初の者となり、最初の者が最後の者となるであろう」。

 

つまり、マルコの「最初の者が最後に…」というイエスのロギアは単独伝承として流布していた可能性が高い

 

三者三様に異なった話の結論として、用いられている。

 

マルコは「金持との会話」の結論として。

 

マタイはマルコの並行としてそのまま結論として置いているだけでなく、「葡萄畑の労働者の譬え」の結論として。

 

ルカは「狭い戸口から入れ」伝承の結論として。

 

おそらく、イエスが「最初の者」と「最後の者」が同じ結末を迎えるとは限らないとする一種の格言が広く伝承されており、各地で単独伝承として保存されていた。

マルコにもQ資料にも届き、それぞれの福音書著者が自分の主張に合う位置に置いたものだろう

 

元来、本当にイエスが言ったものなのか、言ったとしても、どういう時に、どういう意図で言ったのか、などは不明。

 

想像するのは勝手だが、新たな福音書を創作することになるだけであろう。

 

 

マルコの場合、「弟子たち」は金持とは違い一切を捨てイエスに従がって来た、と自慢しているのに対し、イエスは、弟子たち以外にも、「私の故に、また福音の故に」従がってきたイエス信者は大勢おり、彼らもキリストの報いを洩れなく受けるであろう、という趣旨の文に逆接でつながれている。

 

「金持のとの会話」伝承の論議が、金持の救済の可否の問題から人間の救済の可否問題にすり替わり、弟子たちがさまざまな救済条件を設定していた状況をマルコは批判的にとらえていた。

 

とすれば、「最初の者」とは「ペテロをはじめとする弟子たち」を想定しており、「最後の者」とは弟子たちには加わらなかったものの「イエスに従がっているキリスト信者たち」を想定しているのだろう。

 

つまり、「最初の者が最後になる」というマルコのイエスの言葉は、ペテロをはじめとする弟子たちに対する皮肉である。

 

ペテロさんたちよ、あなた方は自分たちがイエスの一番弟子であると主張し、「最初の者」であると自慢しておられますが、あなた方の多くの者が、あなた方が自分たちに従がって来ないからといって仲間ではないとして退けた「最後の者」(救済に値しない者)とみなされるかもしれませんぜ。

むしろ、あなた方が退けた「イエスの故に、福音の故に」従がっている「最後の者」の方が、「最初の者」となってキリストの救済を最初に受けるかもしれませんぜ、という趣旨であろう。

 

 

マタイの方は、ペテロをはじめとする「弟子たち」の優位性を示す「イスラエルの十二の支族を裁く」という文に続けて、イエスの二つのロギアを置いている。

 

マタイは、ユダヤ人に対するキリスト信者の優位性を念頭に置いているのである。

 

一切を「私の名前の故に捨てた者」はみな、その百倍を受けるとは、キリスト信者となったペテロをはじめとする弟子たちを想定して、ユダヤ人よりその百倍をうけ、永遠の生命受けることはキリスト信者に「受け継がれ」ている、という趣旨である。

 

マタイにおける「最初の者」とはユダヤ人を指し、「最後の者」とは「キリストの名前の故」に捨てた者たち、すなわち「キリスト教信者」を指している。

 

マタイとしては、救済の希望は、最初はユダヤ人に与えられたが、最後にはキリスト信者に継承されることになった、と主張したいのであろう。

 

確かに、神からの報いや「永遠の生命」の約束は、「最初の者」であるユダヤ人に与えられたが、多くのユダヤ人は救われるとしても「最後の者」となり、神によって最後に報いと約束が受け継がれた「最後の者」である「キリスト教信者」が、ユダヤ人に換わって「最初の者」となるであろう、という趣旨であろう。

 

同じロギアをマタイは、次の「葡萄畑の労働者の譬え」の結論でも用いているが、この伝承にはマルコにもルカにも並行記事はない。

 

つまりQ資料でもマルコ資料でもなく、マタイのオリジナル資料。

 

マタイはこの伝承の結びに「最後の者が最初となり…」というロギアを置いているが、そのおかげで「譬え」本体の趣旨とはまるで違う解釈を持ち込むことになっている。

 

マタイはマルコにあった「最初の者が最後となり…」のロギアを気に入り、再び「譬え」の結論に付加したのであろう。

 

本来の「葡萄畑の譬え」の骨子は、その日の仕事にあぶれた労働者もその日に生きていけるだけの賃金をもらえるようにしたい、という労働者の切実な日常の思いを表現したものである。

 

マタイは、単に最初の者と最後の者の順番が逆転する、ということだけを抜き出して強調しようとした。

 

マタイは、ここでも「最初の者」をユダヤ人に想定し、「最後の者」をキリスト信者に想定し、キリスト信者のユダヤ人に対する優位性を描こうとしているのである。

 

ただし、20章では、19章とは逆にして、「最後の者が最初に…最初の者が最後に…」と「最後の者」を最初に持って来ている。

 

マタイは「最初の者が最後となり…」という逆転のロジックが気に入ったので、解釈はそのままで、20章では逆にして組み込んだのだろう。

 

マタイは、この逆転のロジックがずいぶんお気に入りだったようで、25章の終末預言に関する譬話の中にも織り込んでいる。

 

「愚かな処女と賢い処女の譬え」や「タラントの譬え」、「羊と山羊の譬え」でも逆転のシナリオに仕立てている。

 

ただし、25章の方は、「ユダヤ人」vs「キリスト信者」という構図ではなく、同じキリスト信者の間でも、「最初に招かれた者」vs「最後に招かれた者」という構図である。

 

「最初」に招かれた者たちよりも「最後」に招かれた者の方が優先されるということは、十分に生じ得ることである、というロジックに仕立てている。

 

 

ルカの場合は、「金持との会話」物語に、「最初の者が最後となり…」というイエスのロギアは登場しない。

マルコの文を削除している。

 

しかし、「狭い戸口から入れ」(13:22-30)伝承の結論にはマルコと順は逆だが、このロギアを置いている。

 

マタイにも同趣旨の「狭き門・狭い道」伝承(7:13-14)があるが、言葉遣いは全く異なる。

話の前後関係も違う。

 

マタイの「狭き門」の個所には「最後の者が最初となり…」のロギアは付いていない。

 

つまり、ルカにおける「最後の者が最初となり…」というロギアは、Q資料由来ではないということになる。

 

ルカが、マルコから削った文を「狭い戸口」の結論に置いたのか、単独伝承として流布していたものを採用したのか定かではない。

 

おそらく、「最初の者が最後となり…」とするバージョンと「最後の者が最初になり…」とする両方のバージョンが、単独伝承として広く拡散されていたものであったのかもしれない。

 

それらが各著者のもとに届き、ルカは、マルコの並行では省き、「狭い戸口」には組み込むことにしたのであろう。

 

しかしルカは、マルコの趣旨に用いているのでも、マタイの趣旨に用いているのでもない。

 

ルカが、誰を「最初の者」と想定し、誰を「最後の者」と想定しているかは、文脈が明らかにしている。

 

ルカ13「28…汝らはアブラハムイサクヤコブまたすべての預言者神の国にいるのを見ながら、汝ら自身は外に放り出されているということになろう、と。29して東から西から、北から南から来たって、人々神の国で食卓につくだろう。30そして見よ、最後の者が最初の者となり、最初の者が最後の者となるであろう」。

 

ルカは、アブラハムを先祖に持つ「神の国にいる」ことを信じているユダヤ人と「神の国で食卓につく」東西南北から来る人々とを対比させている。

 

ルカは、最初に神に選ばれた「ユダヤ人」を「最初の者」に想定し、キリスト信者として集められた東西南北の人々、つまり「異邦人」を「最後の者」に想定しているのである。

 

最後に集められた「異邦人のキリスト信者」が最初に選ばれた者として、「神の国で食卓につく」ことになる。

 

「ユダヤ人」は「神の国」を約束された「最初の者」かもしれないが、先祖にアブラハムがいるから自分たちも「神の国」にいられると信じるだけで、キリストを退け、「狭い戸口」から入るために競わなかった。

 

それゆえ、「ユダヤ人」は「最初の者」であるかもしれないが、「最後の者」となる(救済されることはない)、という趣旨で使っている。

 

 

聖書霊感説信仰の「聖書」=「神の言葉」信者には、イエスが語ったとされる同じ言葉を、三者三様の意味に読むことはありえないことなのだろう。

 

しかしながら、どうやら「神」は三枚舌で「神の言葉」を語るようだ。