マルコ10:17-31 <ある金持ちとの会話>1 並行マタイ19:16-30、ルカ18:18-30
マルコ10 (田川訳)
17そして彼が道に出て行くと、一人の者がかけ寄ってきて、膝まづき、彼に問うた、「良い先生、永遠の生命を受け継ぐためには、何をすべきでしょうか」。18イエスは彼に言った、「何故私を良い者と呼ぶのですか。神のほかに、良い者はいない。19あなたは戒命を御存じでしょう、殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽証をたつるなかれ、奪うなかれ、汝の父と母を敬え、という」。20彼は言った、「先生、そういうことはすべて若い頃から守ってきました」。21イエスは彼を見つめ、いつくしんで、言った、「一つあなたに欠けています。行って、お持ちのものを売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば天に宝を持つことになるでしょう。それから私に従っておいでなさい」。22彼はこの言葉に対し顔をくもらせ、悩みつつ立ち去った。大きな財産を持っていたからである。
23そしてイエスはまわりを見まわして、自分の弟子たちに言う、「財産を持っている者が神の国に入るのはいかに難しいことであろう」。24弟子たちは彼のこの言葉に驚いた。イエスは答えてまた彼らに言う、「子らよ、神の国に入るということは、いかに難しいか。25金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいくらいだ」。26彼らはますます驚嘆して、互いに言った、「では誰が救われることができよう」。27イエスは彼らを見つめて、言う、「人間のところでは不可能でも、神のところでは不可能ではない。何故なら、神のところでは一切が可能であるからだ」。28ペテロが彼に言いはじめた、「御覧なさい、私たちはまさに一切を捨て、そしてあなたに従ってまいりました」。29イエスは言った、「アーメン、あなた方に言う、家や兄弟や姉妹や母や父や子どもたちや畑などを私の故に、また福音の故に、捨てた者で、30今この時において家々や兄弟や姉妹や母たちや子どもたちや畑などを百倍も、迫害とともにではあるが、受けることなくまた来るべき世で永遠の生命を受けることのない者は、いないであろう。31だが、多くの最初の者が最後の者となり、最後の者が最初の者となるであろう」。
マタイ19
16そして見よ、ある者が彼のもとに進み出て、言った、「先生、永遠の生命を得るにはどういう良いことをすべきでしょうか」。17彼はその者に言った、「なぜ私に良いことについてたずねるのですか。良い者は一者のみである。もしも生命に入りたいのであれば、戒命を守りなさい」。18彼に言う、「どの戒命ですか」。イエスは言った、「殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽証をたつるなかれ、19父と母を敬え、またおのれの如く汝の隣人を愛すべし、という」。20若者は彼に言う、「そういうことはすべて守りました。なお何が欠けているのでしょう」。21イエスは彼に言った、「もしも完全な者になりたければ、行って、あなたの所有物を売り、貧しい者にお与えなさい。そうすれば天に宝をもつことになりましょう。それから私に従っておいでになるがよい」。22若者はこの言葉を聞いて、悩みつつ立ち去った。大きな財産を持っていたからである。
23イエスは弟子たちに言った、「アメーン、あなた方に言う、金持が天の国に入ることは難しい。24もう一度あなた方に言う、金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいくらいだ」。25弟子たちは聞いて、ひどく驚嘆し、言った、「それでは誰が救われることができましょう」。26イエスは見つめて、彼らに言った、「人間のところでは不可能だが、神のところでは一切が可能である」。27その時、ペテロが答えて、彼に言った、「御覧なさい、私たちはまさに一切を捨てて、あなたに従ってまいりました。そうすると、私たちにはどういうことがありましょう」。28イエスは彼らに言った、「アメーン、あなた方に言う、あなた方私に従って来た者たちは、再び生れる時には、すなわち人の子がその栄光の座に座る時には、あなた方もまた十二の座にすわって、イスラエルの十二の支族を裁くであろう。29そして、家々や兄弟や姉妹や父や母や子どもたちや畑などを私の名前の故に捨てた者はみな、その百倍を受け、そして永遠の生命を受け継ぐだろう。30だが、多くの最初の者が最後の者となり、最後の者が最初の者となるであろう」。
ルカ18
18そしてある長老が彼に問うて言った、「良い先生、永遠の生命を受け継ぐためには、何をすべきでしょうか」。19イエスは彼に言った、「なぜ私を良い者と呼ぶのですか。神のみのほかに、良い者はいない。20あなたは戒命を御存じでしょう、姦淫するなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、偽証をたつるなかれ、汝の父と母を敬え、という」。21彼は言った、「そういうことはすべて若い頃から守ってきました」。22イエスは聞いて、彼に言った、「あなたにはなお一つ残っています。お持ちのものをすべて売り、貧しい人たちにお配りなさい。そうすれば天に宝を持つことになるでしょう。それから私に従っておいでなさい」。23彼はこれを聞いて、困惑した。非常な金持だったからである。
24イエスは彼を見て、言った、「財産を持っている者が神の国に入って行くのはいかに難しいことであろう。25金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいくらいだ」。26これを聞いた者たちが言った、「では誰が救われることができよう」。27彼は言った、「人間のところでは不可能なことも神のところでは可能である」。28ペテロが言った、「御覧なさい、私たちはまさに自分のものを捨てて、あなたに従ってまいりました」。29彼らに言った、「アメーン、あなた方に言う、家や妻や兄弟や両親や子どもたちを神の国の故に捨てた者で、30この時においてその幾倍をも受けることなく、また来たるべき世で永遠の生命を受けることのない者は、いない」。
マルコ10 (NWT)
17 [イエス]が出かけようとしておられると,ある人が走り寄って来てその前にひざまずき,こう質問した。「善い師よ,永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」。18 イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません。19 あなたはおきてを知っています。すなわち,『殺人をしてはいけない,姦淫を犯してはいけない,盗んではいけない,偽りの証しをしてはいけない,だまし取ってはいけない,あなたの父と母を敬いなさい』などです」。20 その人は言った,「師よ,わたしはそれらをみな若い時からずっと守ってきました」。21 イエスは彼を見つめ,愛を感じて,こう言われた。「あなたには一つのことが欠けています。行って,あなたが持っている物をみな売り,貧しい人たちに与えなさい。そうすれば,天に宝を持つようになるでしょう。それから,来て,わたしの追随者になりなさい」。22 しかし,彼はそのことばのために悲しくなり,悲嘆しながら去って行った。多くの資産を有していたからである。
23 ひととおり見回してから,イエスは弟子たちにこう言われた。「お金を持つ人々が神の王国に入るのは何と難しいことなのでしょう」。24 しかし,弟子たちはその言葉に驚いてしまった。イエスはそれにこたえて再び彼らに言われた,「子供たちよ,神の王国に入るのは何と難しいことなのでしょう。25 富んだ人が神の王国に入るよりは,らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」。26 彼らはいよいよ驚き入ってこう言った。「実際のところ,だれが救いを得られるのでしょうか」。27 イエスは彼らをまともに見て言われた,「人には不可能でも,神にとってはそうではありません。神にとってはすべてのことが可能なのです」。28 ペテロが彼に言い始めた,「ご覧ください,わたしたちはすべてのものを後にして,あなたに従ってきました」。29 イエスは言われた,「あなた方に真実に言いますが,わたしのため,また良いたよりのために,家,兄弟,姉妹,母,父,子供,あるいは畑を後にして,30 今この時期に百倍を,すなわち家と兄弟と姉妹と母と子供と畑を迫害と共に得,来たらんとする事物の体制で永遠の命を得ない者はいません。31 しかしながら,多くの最初の者が最後に,最後の者が最初になるでしょう」。
マタイ19
16 さて,見よ,ある人が彼のところに来て,こう言った。「師よ,永遠の命を得るために,わたしはどんな善いことを行なわなければならないでしょうか」。17 [イエス]は彼に言われた,「なぜあなたは善いことについてわたしに尋ねるのですか。善い方はお一人だけなのです。しかし,命に入りたいと思うならば,おきてを絶えず守り行ないなさい」。18 彼は言った,「どの[おきて]ですか」。イエスは言われた,「ほかでもない,あなたは殺人をしてはならない,姦淫を犯してはならない,盗んではならない,偽りの証しをしてはならない,19 [あなたの]父と母を敬いなさい,そして,隣人を自分自身のように愛さねばならない」。20 その青年は言った,「わたしはそれらをみな守ってきました。まだ何が足りないのですか」。21 イエスは言われた,「完全でありたいと思うなら,行って,自分の持ち物を売り,貧しい人たちに与えなさい。そうすれば,天に宝を持つようになるでしょう。それから,来て,わたしの追随者になりなさい」。22 このことばを聞くと,青年は悲嘆して去って行った。多くの資産を有していたからである。23 しかしイエスは弟子たちにこう言われた。「あなた方に真実に言いますが,富んだ人が天の王国に入るのは難しいことでしょう。24 再びあなた方に言いますが,富んだ人が神の王国に入るよりは,らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」。
25 それを聞くと,弟子たちは非常な驚きを表わして,「いったいだれが救いを得られるのでしょうか」と言った。26 イエスは彼らの顔をまともに見て言われた,「人にとってこれは不可能でも,神にとってはすべてのことが可能です」。
27 その時ペテロが答えて言った,「ご覧ください,わたしたちはすべてのものを後にして,あなたに従ってまいりました。実際のところ,わたしたちのためには何があるのでしょうか」。28 イエスは彼らに言われた,「あなた方に真実に言いますが,再創造のさい,人の子が自分の栄光の座に座るときには,わたしに従ってきたあなた方自身も十二の座に座り,イスラエルの十二の部族を裁くでしょう。29 そして,わたしの名のために,家,兄弟,姉妹,父,母,子供,あるいは地所を後にした者は皆,その幾倍も受け,また永遠の命を受け継ぐでしょう。
30 「しかし,多くの最初の者が最後に,最後の者が最初になるでしょう。
ルカ18
18 また,ある支配者が彼に質問してこう言った。「善い師よ,何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」。19 イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとりの方,神のほかには,だれも善い者はいません。20 あなたはおきてを知っています。『姦淫を犯してはいけない,殺人をしてはいけない,盗んではいけない,偽りの証しをしてはいけない,あなたの父と母を敬いなさい』」。21 すると彼は言った,「わたしはそれらをみな若い時からずっと守ってきました」。22 それを聞いてから,イエスは彼に言われた,「あなたには足りないことがまだ一つあります。あなたの持っている物をみな売って,貧しい人々に配りなさい。そうすれば,天に宝を持つようになるでしょう。それから,来て,わたしの追随者になりなさい」。23 これを聞いて,彼は深く悲しんだ。彼は非常に富んでいたからである。
24 イエスは彼をじっと見て,こう言われた。「お金を持つ人々が神の王国に入って行くのは何と難しいことなのでしょう。25 実際,富んだ人が神の王国に入るよりは,らくだが縫い針の穴を通るほうが易しいのです」。26 これを聞いた者たちは,「果たしてだれが救いを得られるのでしょうか」と言った。27 [イエス]は言われた,「人には不可能な事も,神にとっては可能です」。28 しかしペテロは言った,「ご覧ください,わたしたちは自分のものを後にして,あなたに従ってまいりました」。29 [イエス]は彼らに言われた,「あなた方に真実に言いますが,神の王国のために,家,妻,兄弟,親,あるいは子供を後にした者で,30 この時期にいずれにしても何倍も得,来たらんとする事物の体制で永遠の命を得ない者はいません」。
この物語は構造が複雑で、多くの解釈者が異なる説明をしている。
24前半と後半に分けるが、17-31までを一つの伝承物語と解するもの。(M,Goguel)
17-22までが元来の物語で、23-27が第一の付加。28-31を第二の付加と三部構成と解するもの。(E.Klostermann,R.Bulutmann)
17-24前半までが元来の伝承で、24後半―27と28-31はマルコによる二つの付加と解するもの。(N.Walter)
などなど。
マルコに届いた元伝承にマルコの編集句が追加されているだけでなく、「金持ちに対する会話」伝承とは無関係の教団伝承や独立伝承も組み合わされて、一つの物語を構成している。
その中に、マルコよる律法主義批判だけでなく、弟子たち批判や教団批判も織り込まれている構造となっている。
WTは「富んだ若い支配者の質問」として解説されるが、聖書霊感説信仰を前提に、共観福音書を合成して解釈したもの。
マルコでは、単に「ある者」とあるだけで、「若い」とは書いていない。
マルコに登場する「富んだ者」を「若者」にしたのはマタイであり、ルカは「長老」とした。
「長老」(archOn)という語は、祭司長、律法学者と並ぶサンヘドリンの構成員を指す語としても使われている。(ルカ23:13ほか)
WTは、三者を合成して、「富んだ若い支配者」として解説しているのである。
*** 索86‐14 富んだ人 ***
富んだ若い支配者(マタ 19章。マル 10章。ルカ 18章)
福音書著者三者三様の人物設定であるので、事の真偽を特定しようとしても意味はない。
まず、前半の「ある富んだ者」とイエスとの会話に関して考察する。
マルコ10
17そして彼が道に出て行くと、一人の者がかけ寄ってきて、膝まづき、彼に問うた、「良い先生、永遠の生命を受け継ぐためには、何をすべきでしょうか」。18イエスは彼に言った、「何故私を良い者と呼ぶのですか。神のほかに、良い者はいない。19あなたは戒命を御存じでしょう、殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽証をたつるなかれ、奪うなかれ、汝の父と母を敬え、という」。
マタイ19
16そして見よ、ある者が彼のもとに進み出て、言った、「先生、永遠の生命を得るにはどういう良いことをすべきでしょうか」。17彼はその者に言った、「なぜ私に良いことについてたずねるのですか。良い者は一者のみである。もしも生命に入りたいのであれば、戒命を守りなさい」。18彼に言う、「どの戒命ですか」。イエスは言った、「殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽証をたつるなかれ、19父と母を敬え、またおのれの如く汝の隣人を愛すべし、という」。
ルカ18
18そしてある長老が彼に問うて言った、「良い先生、永遠の生命を受け継ぐためには、何をすべきでしょうか」。19イエスは彼に言った、「なぜ私を良い者と呼ぶのですか。神のみのほかに、良い者はいない。20あなたは戒命を御存じでしょう、姦淫するなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、偽証をたつるなかれ、汝の父と母を敬え、という」。
マルコでは「ある者」がイエスにかけ寄り、膝まづき、質問する。
「ある者」がイエスに対して、敬意を抱きながら旧約律法に関する解釈を質問するという構図である。
彼が外見からして財産家であったことは、去って行った時の描写からわかるし(22節参照)、ユダヤ人であることは、イエスの18「あなたは戒命を御存じでしょう」という質問から明らかである。
マタイでは、「ある若者」(20,22)が、イエスのもとに「進み出て」質問する。
マタイの構図は、ラビ的な師匠である「イエス」のもとに、弟子となろうとする「若者」が頭を垂れて「進み出て」、師匠の教えを請う構図となっている。
ルカでは「ある長老」が質問するという設定である。
「長老」(archOn)の語義は「支配者」で、通常は王侯君主を指す語。
行政当局の高級官僚(使徒16:19)にも用いられるが、ユダヤ人に関しては「長老」と同義語として用いられている。(ルカ23:13ほか)
ルカは、ユダヤ人共同体の「会堂司」(archisunagOgos)も「会堂の長老」(archon tEs sunagOes)と呼んでいる。
この伝承もユダヤ人であることは明白であるから、ルカとしてはユダヤ人の中でも「地位の高い長老貴族の一人」と想定しているのだろう。
もちろんマルコの「財産家のあるユダヤ人」という設定を、ルカが「財産家の長老」に再設定しただけである。
マルコでは、「良い先生、永遠の生命を受け継ぐためには、何をすべきでしょうか」と尋ねる。
マタイでは、「先生、永遠の生命を得るにはどういう良いことをすべきでしょうか」と尋ねる。
ルカでは、「良い先生、永遠の生命を受け継ぐためには、何をすべきでしょうか」と尋ねる。
マタイはマルコの「良い先生」の「良い」を削除した。
ルカはマルコをそのまま写していることがわかる。
マルコの「受け継ぐ」という言い方は、ユダヤ教伝統の表現。
神がイスラエル民族に与えたものを、遺産として代々継承する、という趣旨。
この言い方は旧約に多く登場し、カナンの地を武力で排除し、征服した時にも、「カナンの地を受け継ぐ」という言い方をしている。(創世48:6、民数32:32ほか多数)
それが領地や相続財産だけでなく、ユダヤ教の宗教的な救済にも適用されるようになる。
キリスト教においても、「神の国を受け継ぐ」、「永遠の生命を受け継ぐ」という言い方で「受け継がれた」。
マルコの言い方からして、この伝承に関してユダヤ教の背景を持つキリスト信者の強い影響力があることが理解できる。
マタイの方が律法学者としてのイエスを描きたいはずなのだが、マルコの方がユダヤ教由来の表現をしている。
おそらくマルコは、元伝承のままの表現を写しているのだろう。
それに対して、マタイは「永遠の生命を得るには…」に変えた。
マルコの「受け継ぐ」という言い方は、「永遠の生命」とはあくまでも神の側からの人間への一方的な提供であることを示している。
見るからに財産家であることを示しているユダヤ人の「何をすべきでしょうか」という問いに対する答えは、神の側からの示される指示であり、人間の側に救済の条件を交渉できる余地はない。
しかし、マタイの「得る」となると、「永遠の生命」とは、神の側の全面的な主導権が失われ、人間側の行為によって人間の救済が獲得可能であることが前提となる。
マタイにおける「どういう良いことをすべきでしょうか」という彼の問いは、神が求める「良い」とする条件を満たす行為を人間が行なうなら、人間は「永遠の生命」という神からの救済を獲得できることになる。
マタイは既にユダヤ教由来の表現を離れており、ユダヤ教が神の相続物として継承した「救い」をキリスト教が「受け継いで」いることは既成事実であると考えているのだろう。
それを前提に、キリスト教信者はキリスト教信仰に基づく「良い行為」によって「救い」を獲得できると考えていることを示している。
マルコのイエスは、ある財産家の「良い先生」という呼称に対して、「良い者」と呼ばれることを拒否し、「良い者」と絶対化出来得る存在は、「神」だけである、と答える。
マタイはマルコの「神のほかにいない」(mE heis ho theos)という表現を「一者のみ」(hues estin)と「神」という語を使わない表現に修正する。
ユダヤ教律法学者と同様に、ヘブライ語だけでなくギリシャ語でも、「神」という言葉を発音することも記すことを避ける配慮をしているのである。
マタイのおかげで、「天国」はキリスト教における「救い」の専売特許としてすっかり有名になったが、ユダヤ教に根ざしている「神の国」という表現を「天の国」に修正したのも「神」という語を発音することを避けるユダヤ教信仰に基づく配慮なのであろう。
続いて、マルコのイエスは、「あなたは戒命を御存じでしょう」と言い渡す。
この財産家が「永遠の生命を受け継ぐ」という言い方で近づいていることからして、イエスが戒命を知っていることを前提に質問していることからして、この者が外見からしてユダヤ人であることが理解できる。
マルコのイエスは、十戒の第五戒以降を引用する。
ただし、「汝の父と母を敬え」の第五戒を最後においている。
「殺すなかれ、姦淫するなかれ」の順の読みをしているのがアレクサンドリア系。
「姦淫するなかれ、殺すなかれ」と逆の順の読みをしているのが、カイサリア系といわゆるビザンチン系。
モーセの十戒のヘブライ語テキストは、「殺すなかれ、姦淫するなかれ」の順であるが、七十人訳で二種類の読みがあり、A写本が「殺すなかれ、姦淫するなかれ」の順。
B写本が「姦淫するなかれ、殺すなかれ」の順。
パウロ(ローマ13:9)やアレクサンドリアのフィロンは「姦淫するなかれ、殺すなかれ」の順。
マタイやヨセフス(『古代史』3・92)は「殺すなかれ、姦淫するなかれ」の順。
マルコの本文としては、アレクサンドリア系の読みが原文であるとしたら、カイサリア系の写本家が七十人訳のB写本系統の写本を見て、それにそろえて書き直したのだろう。
逆ならば、アレクサンドリア系の写本家が七十人訳のB写本を見て、それにそろえたことになる。
順番が違うだけで意味に違いはないが、これだけ異読が多いと、どちらがマルコの原文であるかは決め難いようである。
マルコは、接続法アオリストにして、否定辞をつけた命令形で書いているが、十戒の禁止命令は、直接法未来形に否定辞を付けて表現するのが、ヘブライ語旧約聖書の言い方である。
十戒は旧約律法の中でも最も有名なものであるから、普通はヘブライ語的な言い方をはずれることはしない。
マルコがギリシャ語でも旧約の言い方を踏襲しなかったのは、ユダヤ教的な言い方に厳密に従がう気がなかったからであろう。
そのことは、第五戒を最初ではなく、最後に持っていることからも、推察できる。
「殺すなかれ」が第六戒、「姦淫するなかれ」が第七戒であるから、厳密にヘブライ語テキストに従がうつもりならば、「汝の父と母を敬え」の第五戒を最初に持って来たはずであろう。
マルコのイエスは、財産家のユダヤ人に、十戒の知識の有無を確認したのであるが、マタイのイエスは、「もしも生命に入りたいのであれば、戒命を守りなさい」と十戒に対する服従を指示する。
マタイが、ユダヤ教の戒命を非常に重視していることを示している。
マタイにとってのキリスト教はユダヤ教を踏襲するものであっても、ユダヤ教を批判するものであってはならないのである。
マタイにはパリサイ派以上にユダヤ教の戒命遵守の指向がある。
マルコのイエスは、この財産家のユダヤ人に、あなたがユダヤ教知識人であるのなら、ユダヤ教の戒命ぐらい良く御存じなのでしょう。
それならその戒命をご自分の御理解通りに守ればよろしいんじゃないですか、とそっけなく答える。
どうぞご自由、と、このユダヤ教信者の財産家を突き放している感じである。
マルコのイエスは律法遵守が救済をもたらす、という思想には否定的であるようだ。
マルコのイエスのこの姿勢は、おそらく、実際のイエスを反映させているのだろう。
マルコは、十戒の戒命に関して、接続法アオリスト形で否定辞を用いた命令形で書いているが、マタイは十戒の七十人訳の文にぴったりと合わせて、直接法未来の否定命令文としている。
ユダヤ教重視のマタイはマルコのユダヤ教伝統に批判的な箇所は即座に修正を加えてくれている。
マタイは、マルコの「奪うなかれ」を削除している。
七十人訳における第十戒は「奪うなかれ」ではなく、「貪るなかれ」である。
おそらくモーセの十戒にマルコの句とぴったり一致する句が七十人訳に見つからなかったからであろう。
ルカも、マタイと同じくマルコの「奪うなかれ」を削除している。
しかし、マタイはマルコにはない19「己の如く汝の隣人を愛すべし」というレビ19:18を付加している。
「愛の掟」(「神への愛」と「隣人への愛」)、「もっとも重要な二つの律法」の一つとして有名な律法である。(マルコ1228-34、マタイ22:34-40、ルカ10:25-28)
当時のユダヤ教会堂では、どれを誰がどう数えたのか知らぬが、律法全体には613の戒命がある、と教えられていたそうだ。(『イエスという男』p36より)
WTにも出典は明示していないが、「地の民に613のおきてを負わせた」と註解されている。(WT95/08/15p14)
イエスはその旧約律法を「二つの愛の掟」に体系化させた、とキリスト教では解説される。
しかし、実際にはイエスが体系化したものでも、キリスト教において体系化されたものでもないようである。
以下は、田川健三著『イエスという男』からの引用。
『…ユダヤ教法体系に仕える律法学者たちの間では、律法の戒めの中での価値水準を整理し。「大きな戒め」と「小さな戒め」に分類する作業は、すでに常識として定着していた。
最重要の戒めを基準として、他の戒めすべてをその基準の上にのせてはかろうとしたのである。
当時のユダヤ教では、十戒と並んで最も重要な戒命として常に指摘されていたものである。
イエスより20-30年前のラビに関する話が伝えられている。
ある異邦人がラビ・シャンマイのところに来て、自分が一本足で立っている間に律法全部を述べてくれたらユダヤ教に改宗してもいい、からかい半分に言ったので、シャンマイは怒って、棒の先でこれを追い返した。そこでこの異邦人はシャンマイと対立するもう一人のラビ、ヒレルのところに来て、同じことをたずねた。ヒレルは答えて言う、「自分にとっていやなことは、隣人に対してもなさぬがよい。これが律法のすべてであり、他はすべてその解釈に過ぎぬ。行って、このことを学ぶがよい」
後二世紀初めのラビ・アキバも「おのれの如く汝の隣人を愛すべし。これこそ、律法の中で最も重要で、かつ包括的な基本の戒めである」と同じような言葉を残している。…』
(『イエスという男』p36より)
律法に愛着を持つマタイとしては、どうしてもここに十戒だけでなく、ユダヤ教において最重要とされる律法をイエスの口に置いておきたかったのだろう。
マルコでは、つれない答えをするイエスに、「財産家のユダヤ人」は律法遵守の過去歴を訴える。
マルコ10
20彼は言った、「先生、そういうことはすべて若い頃から守ってきました」。21イエスは彼を見つめ、いつくしんで、言った、「一つあなたに欠けています。…
マタイ19
20若者は彼に言う、「そういうことはすべて守りました。なお何が欠けているのでしょう」。
ルカ18
21彼は言った、「そういうことはすべて若い頃から守ってきました」。22イエスは聞いて、彼に言った、「あなたにはなお一つ残っています。…
マルコに「若い頃から」とあるので、マタイはこの財産家を「若者」に設定したのであろうが、「若い頃」から現在に至るまでという趣旨であるから、マルコでは、現在は「若者」ではないことになる。
それで、マタイはマルコの「若い頃から」という句を削除し、「そういうことはすべて守りました」と答え、若者となった今に至るまで、ユダヤ教律法に服従してきたという趣旨にしたのだろう。
マルコでは、十戒を「若い頃から守って来た」と答える彼に対して、イエスの方から「一つあなたに欠けている」(hen soi husterei)と指摘する。
ユダヤ教社会の中で教条主義的に十戒を遵守してきたところで、それがどうした、というのがマルコのイエスの態度である。
むしろ、「あなたに欠けている一つのもの」(hen soi histerei)、それが問題の本質であるとマルコのイエスは指摘するのである。
それに対して、マタイの方は、イエスの方から「若者」に「欠けているもの」を指摘するのではない。
「若者」の方から、謙虚にイエスに自分に「欠けているもの」を教えてくれるよう申し出た、という設定にした。
「私になお何が欠けているのでしょうか」(mou ti eti husterO)とイエスに質問するのである。
「なお」(eti)というマルコにはない強調語も加えて質問する。
マタイはマルコのイエスが示す「十戒の遵守」がどうした、という否定的な態度を払拭したい。
むしろ、「十戒の遵守」や「王たる律法の遵守」こそ、何より重要だと主張したい。
その上で、「なお」(eti)という強調語を付け加えた。
さらに十戒に付け加えるものがあれば何か、という趣旨である。
ルカは、マルコの「一つあなたに欠けている」(hen soi husterei)を「あなたにはなお一つ残っている」(eti hen soi leipei)に変え、マタイと同じように「なお」(eti)という語を付加した。
ルカもマタイと同じく「なお」という強調語を置き、マルコの「欠けている」を「残っている」と書き変えた。
その結果、十戒を守ることも大切だが、それ加えて、重要な事柄がまだ残っている、という趣旨になった。
おかげで、マルコの十戒を守ることを大切にしているのは結構なことですが、あなたには本質的に重要な一つのことが欠けているのですよ、というマルコのイエスの強い皮肉が消えてしまったのである。
マルコのイエスは「ユダヤ人の財産家」に律法では遵守義務のない、私有財産の売却と慈善の施しを促す。
マルコ10
21イエスは彼を見つめ、いつくしんで、言った、「…行って、お持ちのものを売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば天に宝を持つことになるでしょう。それから私に従っておいでなさい」。
マタイ19
21イエスは彼に言った、「もしも完全な者になりたければ、行って、あなたの所有物を売り、貧しい者にお与えなさい。そうすれば天に宝をもつことになりましょう。それから私に従っておいでになるがよい」。
ルカ18
22イエスは聞いて、彼に言った、「…お持ちのものをすべて売り、貧しい人たちにお配りなさい。そうすれば天に宝を持つことになるでしょう。それから私に従っておいでなさい」。
マルコのイエスは「お持ちのものを売り」(hosa echeis pOlEson)、「貧しい人々に与えなさい」と言っているが、NWTのように「あなたが持っているものをみな売り」と言っているのではない。
原文の関係代名詞(hosa)を強調形と解し、「みな」と訳しているのだろうが(KI:as many (things) as、英訳sell what things you have)、原文としているKIにも英訳NWTにも「みな」という語はない。
また多くの解説者が述べるように、「イエスの弟子となろうとするのであれば、すべてのものを売って貧しい者たちに与えよ」という普遍的な倫理規定を示している、とか「私有財産をすべて共有化せよ」というのがイエスの思想だ、という共産主義を正当化するものでもない。
逆に、文字通りにイエスの言葉に従がうなら、人間は生きていけないのだから、イエスは非論理指向の極端な人間だ、と言われる筋合いのものでもない。
かと言って、何でも精神化して説教にしたがる宗教家のように、現実の財産のすべてを売れと言っているのではなく、そのような精神を抱いて慈善活動に励め、という趣旨の説教とするための実例だ、というのでもない。
イエスが告げているのは、あくまでも見るからに金持であることを示すような外観をしているユダヤ人の財産家に対してである。
ユダヤ人一般を対象にしているのでも、イエスの弟子になろうとするすべての人を対象にしているのでもなく、すべての金持ちを想定してこのユダヤ人に語っているのでもない。
あくまでも、この物語に登場する一人の財産家であるユダヤ人に対して、「持っているものを売り、貧しい人たちに与えなさい」と言っているだけである。
「すべての持ち物を」と言っているのではない。
単に「持ち物を」(echeis「持つ」という動詞の能動現在二人称単数の不定詞形:直訳「あなたの持っているところのもの」hosa echeis)と言っているだけで、「すべての」とは言っていない。
「すべての持ち物を」(panta hosa echeis 直訳「あなたが持っているところのすべてを」)と言っているのはルカだけである。
ルカがマルコのイエスの活動に「すべて」という語を足して強調するのは良くあること。(3:16、20、21、ほか)
「みんな」といって事を自己主張を正当化したがる共依存者の口癖のような、ルカの口癖のようなもの。
おかげで、ルカのイエスの言葉は非現実的になり、精神論的説教と解されることになる。
マルコにルカを読み込んでいるのは、NWTだけではない。
NWT 「持っている物をみな売り…」
共同訳 「持っている物を売り払い・・・」
フ会訳 「持っているものをことごとく売り…」
岩波訳 「自分の持っているものをすべて売り払って…」
新共同訳 「持っている物を売り払い」
前田訳 「持ち物をみな売って…」
新改訳 「あなたの持ち物をみな売り払い…」
塚本訳 「持っているものをみな売って…」
口語訳 「持っているものをみな売り払って…」
文語訳 「汝の有てる物をことごとく売りて…」
和訳聖書はすべて「みな売って」の趣旨に訳している。
「みな」を入れていないものでも「売り払い」と訳すことにより、「すべてのものを売る」という趣旨に読ませている。
田川訳は「すべての持ち物を」という意味に読ませないために「お持ちのものを」と訳したのだろう。
マルコは「貧しい人々に与えなさい」(dos tois ptOchois)。
マタイは「貧しい者に与えなさい」(dos ptOchois)。
ルカは「貧しい人たちに配りなさい」(diados ptOchois)
マルコには定冠詞が付き、マタイとルカには定冠詞がない。
定冠詞(tois)が付いているのでマルコは特定の人を念頭に置いていることになる。
マルコとマタイには、接頭語がなく(dos)、ルカは分配を意味する接頭語(dia)が付いている。
ルカの接頭語付きは、単に「人に与える」(dos)というのではなく、複数の人に分配するという趣旨になる。
そのほかはマタイもルカもほぼそのままマルコを写していることが理解できる。
当時の社会において、人間の分をはるかに超えた富を所有する財産家というのは、一人の人間がまっとうに働いて得ることができる収入以外の手段で、はるかに超えた金品や資産を得ていることになる。
現代でも同様であるが、資本を担保に大量の労働力を集中させ、労働者に分配すべき富は一部にとどめ、残りの莫大な富を資本家が吸い上げることにより、築き上げられるものである。
巨大な財産家であることそれ自体が既に不当な所得を得ているとも言えるものであるから、自分の持っているものと言っても、本来その財産家に属しているものではない、「貧しい人々」はいつも財産家から搾取されるだけの弱い存在であるとマルコのイエスは考えているのだろう。
それゆえ、財産家が自分の持ち物を売って、生活に困っている人たちに与えなさい、と言っても、略奪したものを略奪された故に貧しくなった人々に戻しなさい、と言っているだけのことであろう。
何も、世の中の誰でもみな洗いざらい一文無しになって荒野で禁欲的修行者になれ、と言っているわけではない。
この社会で必要以上に大金をため込んでいるような資産家は、不当な利得で富を築いているのであるから、それを手放して、それを必要としている貧しい人々に与えなさい、というのがマルコのイエスが主張する話の根幹である。
マタイはマルコの文に「もしも完全な者になりたければ」という句を付加した。
マタイは、十戒や隣人愛の戒命、つまりユダヤ教の原則となる戒命を遵守するのが「天の国に入る」ことの基本条件である。
その上で「完全な者」、つまりもしもそれ以上に頑張って、宗教的に特別な上の段階の「宗教者」になりたいのであれば、「所有物を売って、貧しい人に与えなさい」という説教に仕立て直したのである。
「完全な」(teleios)という形容詞は、本来は「神」に関してのみ使われる語。
旧約に多く出て来る表現で、人間に対して用いる場合は、神がそうであるように人間も完全であれ、と言われる。(申命記18:13ほか)
マタイ(もしくはマタイ教団)では、私有財産を放棄して、出家して教団生活する者が「完全な者」であり、より「神」の特質を反映させていると考えているのだろう。
JWのベテル崇拝にも共通の信仰を感じるが、出家信者の方が、「救済」の可能性が高いというマタイの律法学者意識が「もしも完全な者になりたければ」という句を付加させたのだろう。
このある財産家ユダヤ人とイエスとの会話は、何らかの形でイエスが語ったロギアを元にしているのであろう。
しかしながら、「持ち物を売り、貧しい人々に与えよ」、という私有財産の放棄が「救済」の条件であるかのようにして伝承したのは、エルサレムの教会の手によるものと思われる。
エルサレムの初期キリスト教会が関係していると考えるのは、イエスの言葉が、エルサレム教会の原始共産主義の姿勢と一致していることにある。(使徒2:44-45)
ルカの編集による使徒5章に登場するアナニアとサッピラの伝承は、脚色を加えながらエルサレム教会の実態を伝えているものと思われる。
使徒行伝におけるアナニアとサッピラに対するペテロの態度は、ここの物語で救いに関して「持ち物を全部売り、貧しい人々に与えよ」と指示するルカのイエスと共通している。
マルコは、「みな」とは書いていないので私有財産の完全放棄を要求しているわけではないが、この伝承には、何らかの形で、信者に財産放棄を要求しながら、創始したエルサレム教会の実態が関係しているのであろう。
マルコのイエスから「持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい」と提示された「財産家のユダヤ人」は、悩みつつ立ち去る事となった。
マルコ10
21「…そうすれば天に宝を持つことになるでしょう。それから私に従っておいでなさい」。22彼はこの言葉に対し顔をくもらせ、悩みつつ立ち去った。大きな財産を持っていたからである。
マタイ19
21…そうすれば天に宝をもつことになりましょう。それから私に従っておいでになるがよい」。22若者はこの言葉を聞いて、悩みつつ立ち去った。大きな財産を持っていたからである。
ルカ18
22…そうすれば天に宝を持つことになるでしょう。それから私に従っておいでなさい」。23彼はこれを聞いて、困惑した。非常な金持だったからである。
「天に宝を持つ」「私に従がってきなさい」という表現から、この句はイエス自身の言葉に基づくロギアではなく、初期キリスト教団により流布された伝承であることが想定される。
初期エルサレム教会では、自らの教会員を「貧しい者」と呼び、貧しさは一種の徳であり、富める者の救いは難しいと考えられていたようである。(マタイの山上の垂訓、及びその並行を参照)
「貧しい人々に与えよ」というイエスの言葉に顔を曇らせ、悩みつつ立ち去ったこの財産家のユダヤ人は「弟子たち」とも微妙に重なる。
というのは、前段で、イエスに近づこうとした「子どもたち」を叱りつけた「弟子たち」に対して、イエスは「弟子たち」を叱りつけ、「子どもを受け入れよ」と指示されている。
しかしながら、イエスの弟子たちは「神の国はこのような者たちのものだからである」というイエスの言葉に無理解であった。(13-16)
まず「貧しい人々に与えよ」、「そうすれば天に宝を持つようになる」、「それからイエスに従がいなさい」というここのイエスの言葉は、「神の国に入る」というのであれば、まず「子どもたちを受け入れよ」、それなくして「神の国に入る」ことなどありえない、とするマルコのイエスに通じるのである。
イエスに「いつくしまれ」(NWT「愛を感じ」られ)ながらも、自分の財産の一部も「貧しい人々」に与えようともせず、イエスの言葉に「顔をくもらせ、悩みつつ立ち去った」財産家のユダヤ人はイエスに無理解なマルコの「弟子たち」にも通じるのである。
マルコはここに「弟子たち」批判を織り込もうとしているのだろう。
それでもマルコは、信者の財産放棄を完全否定しているわけでもなく、教団生活に献身する者を批判しているわけではなさそうである