●「大いなるバビロン」とは、本当に「偽りの宗教」の表徴なのだろうか?

 

黙示録の原著者は、何を「大いなるバビロン」と称して、何を言いたかったのだろうか?

それを理解するために、関連する事柄を整理してみたい。

 

原著者の文にも、編集者Sの文にも「大いなるバビロン」という表現や「獣」という表現が登場する。だが、ここでは原著者の文だけを取り上げ、編集者Sの文は考慮しない。

 

また、黙示録を終末預言と解するのではなく、あくまでも原著者が書いた時代に限定しての考察である。

 

「大いなるバビロン」という表現は、黙示録に四回(14:8、16:19、17:5、18:2)登場するが、16:19は編集者Sの文である。

 

「大いなるバビロン」という表現ではなく、「彼女」という表現でも登場する。

JWにはおなじみの18:4「わたしの民よ、彼女の罪にあずかることを望まず、彼女の災厄を共に受けることを望まないなら、彼女から出なさい」という文であるが、編集者S文であり、原著者の意図とは無関係の文である。

 

NWTでは、「大いなるバビロン」とは訳されていないが、原文のギリシャ語では、「バビロン」に「大いなる」という形容が付されて用いられている箇所は、黙示録で上記の四か所の他に二箇所、18:10,21に登場する。


NWT「気の毒だ、気の毒なことだ、大いなる都市よ、強力な都市ともあろうバビロンよ、あなたの裁きが一時のうちに到来したとは!」(18:10)「大いなる都市バビロンはこのように、速い勢いで投げ落とされ、二度と見出されることはない」(18:21編集者S)

 

黙示録において「大いなるバビロン」に関する最初の言及がなされるのは、14:8「倒れた、倒れた、大いなるバビロンが。(この町は)その淫行の激情の葡萄酒をすべての民族に飲ませたのである」(田川訳)という表現で登場する。

NWT「彼女は倒れた!大いなるバビロン、あらゆる国民に自分の淫行の怒りのぶどう酒を飲ませた者は倒れた!」。

 

NWTは、「大いなるバビロン」を「彼女」という人称代名詞で受けており、文の最初に持って来ているので、象徴的な女性というイメージを抱きやすい。

しかし、原文では、最初に「倒れた」という動詞が二回繰り返されている。

 

田川訳は、原文に忠実に「倒れた」という動詞を二回繰り返し、「大いなるバビロン」という語を、「町」という普通名詞で受けている。

 

「大いなるバビロン」という表現の原文のギリシャ語は、KIでもネストレでも、babulOm he megalE(=Babylon the great)であるが、いずれも女性名詞となっている。

女性名詞であるなら、「彼女」で受けるのが正しいのではないかと思われる方もおられるかもしれない。

しかしながら、「都市」や「町」の名前は、女性名詞であるというだけのことである。

つまり、ここで「大いなるバビロン」という表現は、象徴的な女性を指して使っているわけではない。

文字通り「バビロン」と呼ばれている都市の名前を念頭に、「大いなる」という形容詞を付けて呼んでいるのである。

 

実際babulOm he megalE(=Babylon the great)という読みではなく、babulOm he polis he megalE(=Babylon the city the great)と「都市」「町」という語が付いた読みを採用している写本もある。


NWT18:10,21で「強力な都市、バビロン」と訳している原文も、同じ表現であり、 polisという女性名詞がつけられている。

その箇所を「大いなるバビロン」とも「大いなる都市、バビロン」とも訳さず、「大いなる」と「バビロン」を切り離して訳している。

おそらくNWTの意図は、「大いなる都市(polis)」(女性名詞)と言えば、当時は「ローマ」を指すことを気付かれたくなかったからだろうか。

 

14:8では、「その淫行の激情の葡萄酒をすべての民族に飲ませた」とあるだけで、宗教との関係を示唆する表現はどこにもない。

しかしながら、WT的解釈によると、霊的な「淫行」とは、「真の崇拝からの背信行為」であり、「エホバ以外の神々への崇拝に加わること」あるいは「宗教が政治と関系を持つこと」とも定義されている。

それ故に「あらゆる国民に自分の淫行の怒りのぶどう酒を飲ませた者は倒れた」と言われると、「大いなるバビロン」が神との関係を離れさせ「偽りの宗教」あるいは「政治」と関係を持たせ、あらゆる国民を神の怒りの対象にさせた、と読ませたいのかもしれない。

 

しかし、「大いなるバビロン」が、現実に存在した「町」「都市」を指す比喩表現であるのなら、「淫行」とは、宗教や神とは無関係に、単に人々を「堕落させた」という意味に解することも可能であろう。

 

14:9以降は、16章の最後まで、ハルマゲドンに関する記述も含め、すべて編集者Sの文である。黙示録の原著者の意図とは、無関係であるだけでなく、正反対のサディスト趣味の文であり、考察しないこととする。

 

その後、「大いなるバビロン」は、「緋色の獣」と密接な関係にある存在として登場する。17:3「女」(大いなるバビロン)は「緋色の獣」の上に座っている。

 

まず、「獣」に注目して、その実体を探ってみる。

 

17:3に登場する「七つの頭と十の角」を持っている「緋色の獣」は、13:1「海からの上る獣」と同じく、「十の角と七つの頭」を持っている。

 

13:11子羊に似た二つの角を持つ「地から上る獣」は、「最初の獣」=「海から上る獣」(七つの頭と十の角を持っている獣)の持っていたすべての権力を行なう」のであるから、実質的には同じ質のものを指しているものと思われる。

 

そして13:16-18「地から上る獣」には、獣の「像」に霊が与えられることが許され、獣の「彫像」の数字を持たない者は、誰も売り買いできないようにさせる」とあり、「獣」の数字を計算すると「666」になり、その数字は「人物の数字」である、という。

 

前の記事で詳述したが、ヘブライ語読みで「皇帝ネロ」を計算すると、666となり、黙示録の原著者は、ローマ皇帝「ネロ」を「獣」と同一視、していることが理解できる。

「獣の像」と「獣の彫像」とは、実質的には同じものを指している。

「獣の彫像」を持たない者は、誰も「売り買い」できないようにさせる、というのであるから、「獣の像」「彫像」とは、「ローマ帝国」が発行する「貨幣」のことであった。

 

 

 

 

13:15で、「獣」が自分の「像に霊を与える」、「ものを言う」ようにさせ、「像を拝礼」させようとする、というのは、「貨幣経済の興隆」を意図して支援するということを意味するのであろう。

 

つまり、「獣」とは、「貨幣」に信用保証する権威を持っている存在であり、「実物経済」から「貨幣経済」の移行を積極的に支援し、「貨幣」の流通を発展させようとしている存在である。 

とすれば、「ローマ帝国」を指していると考えるのが自然であろう。

 

黙示録の原著者は、ローマ帝国の「貨幣経済がもたらす暴力性」と「弱肉強食性」故に、「獣」と表現し、「龍が権威を与えた」と表現しているのかもしれない。

 

 

 

 

13章に登場する「海から上る獣」と「地から上る獣」が実質的には同じものを指しているし、17章に登場する「緋色の獣」と「海から上る獣」のどちらも、「七つの頭と十の角」を持っており、同じものを指しているのだろう。

 

つまり、黙示録の原著者は、「獣」=「ローマ帝国」「ローマ皇帝の残虐性」という表象を様々な表現でくり返し描いているものと思われる。

 

 

黙示録の原著者が、ローマ帝国の貨幣経済について批判的であることを考慮すると、「地の王たち」とは、WTが解釈するような「天の王たち(=天的クラス)」ではない。

「地上の王たち(=この世の政治支配者たち)」を指しているのでもない。

ローマが主導する地中海資本主義経済に関わっている属州の権力者たちを指すのであろう。

 

 

また、13章には、13:3「獣の頭の一つが屠られて死んだが、その死の打撃は癒された」とあるだけで、「七つの頭と十の角を持った獣」の実体に関する詳しい説明はない。

 

しかし、17章には、詳しく説明されている。

17:9「七つの頭」は「七つの丘」であり、「七人の王」でもある。

17:12「十の角」は「十人の王」のこと。

17:15「淫婦が座っている水」とは「諸民や群衆」であり「諸民族や諸言語」である。

17:18「女(大いなるバビロン)」とは、「大いなる町」のことであり、「地の王たちの上に王権を持っている」。

 

 

「大淫婦」「大娼婦」と称される都市(polis)「大いなるバビロン」は「七つの丘」であり「大いなる町」であるという。

ここで「丘」と訳されているギリシャ語は、orosという語であるが、NWTは「山」と訳している。

古代ギリシャ語では「山」と「丘」を区別しない。NWTが「山」と訳したのは、「山」=「崇拝」という概念と結び付け、宗教的な意味合いを持たせたかったからであろう。

 

ローマの町(polis)は、ローマ建国神話の昔から「七つの丘の町(polis)」と呼ばれており、都市(polis)ローマ成立前に七つの丘に人が定住したと伝えられていた。

黙示録が書かれた時代に、「七つの頭」は「七つの丘」である、と言われたら、誰でも「ローマの町(polis)」を考えたことだろう。

ラテン語の多くの文献にも残されているという。(Vergilius,VI,782;Horatius,Carmen Saeculare 7など)

 

つまり、「獣」が「七つの頭」=「七つの丘」を持っているという表現されているのであるから、「獣」は、「ローマの町(polis)」を指していることは明白である。

さらに、「七つの頭」は「七人の王」でもある、というのだから、「頭」とは歴代の「ローマ皇帝」の暗喩としても描かれている。

つまり、「頭」と一体となっている「獣」とは「ローマ帝国」を指していることは明らかなように思える。

 

「大いなるバビロン」に関しても、「地の王たちの上に王権を持つ」「大いなる町」であると説明されており、「水の上に座して」いるとも、説明されている。

そして、「水」とは「諸民や群衆」であり「諸民族や諸言語」であると説明されている。

 

黙示録の原著者の時代のローマ帝国における「地中海資本主義経済」を念頭に読み解くと、「地」とは地中海経済を支える属州の「土地」、「水」とは地中海経済を支えている属州「諸言語を話す諸民族」を指している、と考えることができる。とするならば、属州に対して「その上に座し」「王権を持っていた」のは、やはり地中海資本主義経済の覇者として君臨していた「ローマ帝国」である。

ここでも黙示録の原著者は、「ローマ帝国」を指して、「大いなるバビロン」と呼んでいたことになる。

 

「地から上る獣」も「海から上る獣」も地中海資本主義経済におけるローマ属州の「地」であり「海」であると考えるなら、どちらもやはり「ローマ帝国」を指している、と考えることができる。

 

黙示録の著者は、13章に登場する「地から上る獣」「海から上る獣」も「大いなるバビロン」も「緋色の獣」もすべて、「ローマ帝国」の表徴として用い、地中海資本主義経済に君臨するローマ帝国批判を展開していたのであろう。

 

また、「七つの頭」である「七人の王」に関して、17:10「五人はすでに倒れ、一人は(今)存在しており、もう一人はまだ来ていない」と説明している。

 

「七つの丘」で知られる「大いなる町」である「ローマの町」を「七つの頭」=「七人の皇帝」になぞらえているのであるから、この「頭」という表現は、「ローマ帝国」の皇帝を指していると考えるのは自明なことのように思う。

文字通り解釈すると、原著者の時代には、すでに最初の五代の皇帝は死んでおり、今は、六代目で、まだ七代目には、なっていない、ということになる。

 

しかし、続けて17:10「もう一人はまだ来ていない。そして来る時は、短い間しかとどまらないことになっている」と説明しており、原著者は、「まだ来ていないもう一人の皇帝」つまり七代目のローマ皇帝が「短い間」しか権力を握らなかったことを知っていることになる。

 

13章で、「ローマ帝国」という「獣」の代表として「獣の数字」666=「皇帝ネロ」を登場させているのであるから、「緋色の獣」とは、「ローマ帝国における暴虐的支配」の表徴であり、その「七つの頭」とは「皇帝ネロ」を含む「七人の皇帝」の表徴であろう。

 

 

また、「獣」には、「十の角」があり、17:12「十の角」は「まだ王位を得たことのないが一時の間、獣とともに権力を得る王たち」のことであると説明している。

 

 

「五人はすでに倒れた」とあり、「獣とともに権力を得る王たち(複数)」が、「一時の間」しか「王位」を得ない,と表現されている。そのことからすると、この「十の角」とは「五代目皇帝」以降の皇帝継承者抗争を指し、今存在するとされている六代目皇帝とはなれなかったものの、「獣」の皇帝のように権勢をふるったいわゆる「四皇帝年」のことを指しているのかもしれない。

 

つまり、「十の角」とは、「皇帝ネロ」の死後一年間に次々と皇位が濫立した時の皇帝継承者を指していると考えることができそうである。

 

 

そして、17:11「(かつて)存在し、(今は)おらぬ獣が八番目である」と説明している。

17:10では、「五人の皇帝」が倒れ、今が「六代目の皇帝」の時代であるかのように表現しているが、七代目の皇帝の時代も「八番目の獣」つまり「八代目の皇帝」の時代も知っていることになる。

さらに「八番目の獣は七人の中から出る」と説明しているのであるから、原著者は「八番目のローマ皇帝」が「獣」のような支配をしていた時代に黙示録を書いたことになる。

 

「獣」の「頭」がローマ皇帝を指しているとすれば、13章の「海から上る獣」の頭の一つが13:3「屠られて死んだ」という表現は、自然死や病死ではなく、「意図的に殺された」ことを示しているのだろう。「屠られて死んだ」という表現は、暗殺された皇帝「ネロ」にぴったりであると思われる。

 

さらに続けて13:3「死んだのを(見た)。そしてその死の打撃は癒された」とあるのは、一時「獣」が死んでいる時代を経過したが、「その死の打撃は癒され」、再び暗殺された「ネロ」のような「獣」支配が今行われている、と言いたかったのであろう。

ネロ自身が復活すると言っているのではない。

ネロの再来を思わせるような支配が復活すると言っているのだろう。

そのことを17:8「獣は(かつて)おり、(今は)おらず、やがて冥府から上って来る」と繰り返し表現しているのかもしれない。

 

つまり、八代目皇帝は五代目皇帝「ネロ」と同じように「獣」のような支配者であることを原著者は知っていたのである。

 

17:10「五人は倒れ、一人は(今)存在している」と、原著者が八代目の皇帝の時代にいながら、六代目の皇帝の時代に存在しているかのように書いたのは、「獣」支配の皇帝が17:8、11「滅亡へと至る」ことを強く願っていたからなのであろうか。

あるいは「ネロ」の支配が暗殺によって「滅亡へと至る」ことになり、一時の混乱期を経て、ヴェスパニアヌスの比較的穏やかな時代を迎えたように、今のドミティアヌスの時代もこのままでは「ネロ」と同じように暗殺によって「滅亡へと至る」ことを知っていたからなのだろうか。

 

もし、原著者がドミティアヌスの暗殺を知っていたのであれば、黙示録の著作年代は96年以後ということになるが、八番目の王までしか登場しないことからすると、やはりドミティアヌス帝の時代に書かれたものだろうと思う。

 

 

 

ここで取り上げた黙示録原著者の表現が、本当に歴代のローマ皇帝にあてはまるのか、関係する皇帝に関して確認してみる。(ウィキペディアからの抜粋)

 

ユリウス=クラウディウス朝

1 Octavianus Augustus  (前27-後14) オクタヴィアヌス(アウグスツス) 自然死

 

2 Tiberius (14-17) 37年3月16日 ティベリウス 自然死

 

3 Gaius Caligula  (37-41) ガイウス(カリグラ) 暗殺

 

4 Claudius  (41-54) クラウディウス 暗殺

 

5 Nero (54-68) ネロ 自害

  皇位継承者の暗殺だけでなく、母親、妻、恩師や元老院議員をも暗殺、処刑したり、暴君として知られている。64年に発生したローマの大火の犯人をキリスト教徒に仕立てて迫害したことでも有名。

 

   四皇帝時代 皇位偕称者(68-69) Galba暗殺、Otho自害、Vitelius戦死、Vespasiunus。

   ガルバ、オトー、ヴィテリウスの三人が皇位を濫立し、内乱状態となり、最終的にヴェスパニアヌスがヴィテリウスを戦死させ、軍隊を立て直し、帝位に就く。

 

フラウィス朝

6 Vespasianus  (69-79) ヴェスパニアヌス 自然死

   ネロ以前、及び一年ほどの四皇帝時代の浪費と混乱により、破綻していたローマ財政を健全化するために改革した。国勢調査を実施し、徴税を行ない属州からは泥棒と呼ばれたが、暴君ではなかった。

 

7  Titus  (79-81) ティトゥス 病死

   ユダヤ戦争においてエルサレムを陥落させた将軍として、JWの間では知られている皇帝。ヴェスパンニアヌスの子で死亡した父の後を継いでローマ皇帝となるが、僅か二年で被災地の救済活動中に病死。歴史家のスエトニウスは、マラリアによる熱病、あるいは弟ドミティアヌスによる暗殺の可能性があるとも書いている。

 

8 Domitanus  (81-96) ドミティアヌス 暗殺

   兄ティトスが重病に伏すと、野心をあらわにし、兄が生存中に帝位を掌握した。そのためドミティアヌスが兄の死を早めたと噂された。ネロ配下の将軍の娘と結婚したが好色家としても知られ、度々愛人たちを引き連れていたという説や次期ローマ皇帝らの元老院議員たちと男色関係にあったという説もある。ネロと同じく、暴君として知られ元老院議員や騎士階級たちを度々告発しては処刑していた。占星術によって死を予告され、暗殺を警戒したが、元老院や元側近らの計画によって自邸内で暗殺された。

 

ネルヴァ=アントニウス朝

9 Nerva  (96-98) ネルヴァ 自然死

 

10 Traianus  (98-117) トラヤヌス 自然死

 

11 Hadrianus  (117-138) ハドリアヌス 自然死

 

 

ネロ以降で黙示録が書かれた時代までに暗殺されたローマ皇帝は、69年の四皇帝年混乱期を除けば、五代目「ネロ」と八代目「ドミティアヌス」だけである。

 

 

 

結論

黙示録の原著者は、「大いなるバビロン」という表現を「ローマ帝国」の表徴として用いているものであり、「バビロンを起源とする偽りの宗教の世界帝国」を表すと考えるのはかなり無理があるように思われる。

 

黙示録の原著者が、なぜローマを「バビロン」というあだ名で呼んでいるのかに関して、田川訳の註では「本物のバビロンの町(ユーフラテスの中流にあり、この時代にもまだ実在していたメソポタミアの最重要都市)を指しているわけではない。ローマをバビロンと呼ぶのは、かつてカルディア人の王朝がバビロンを拠点にして、中近東全域を征服した世界帝国(いわゆる新バビロニア)であり、しかし、またそのバビロニア帝国はかなり短命で、やがてペルシャ帝国によって滅ぼされたので、どんなに強大な世界帝国といえどもいずれは脆くも滅び去るさ、という思いを込めてそう呼んでいるのであろう」と解説している。

 

 

以上が、「大いなるバビロン」と「緋色の獣」に関する田川訳「黙示録」の註と解からの理解のまとめである。