●野獣の「印」と「666」とは何か?ーーー啓示13:16−18

 

  WTの解釈によると、「666」という野獣の名は、「はなはだしい不完全さ」の象徴であり、「野獣」は「人間の政府」の象徴である、と説明されている。

 

*** 啓 28章 195–196ページ 32–34節 二匹の凶暴な獣と戦う ***

32 ヨハネは今や,サタンが神の女の胤の残っている人たちを最大限苦しませるため,自分の見える組織の政治的な部分をどのように操るかを見ます。(創世記 3:15)ヨハネは元に戻って「野獣」そのものを描写します。またそれは,すべての人,すなわち,小なる者と大なる者,富んだ者と貧しい者,自由な者と奴隷を強制して,その右手や額にを受けさせ,また,その印,つまり野獣の名もしくはその名の数字を持つ者以外にはだれも売り買いできないようにするここが知恵の関係してくるところである。そう明な者は野獣の数字を計算しなさい。それは間の数字なのである。そして,その数字は六百六十六である」― 啓示 13:16‐18。

 

33 野獣には名がありますが,その名は666という数字です。六という数字はエホバの敵と結びつけられています。レファイムのフィリスティア人の男は「異常な大きさ」の男で,その『手の指と足の指は六本ずつ』ありました。(歴代第一 20:6)ネブカドネザル王は政治上の役人を単一の崇拝において一致させるため,幅6キュビト,高さ60キュビトの黄金の像を立てました。神の僕たちが金の像を崇拝するのを拒んだところ,王は彼らを火の炉に投げ込ませました。(ダニエル 3:1‐23)六という数字は,神の見地から見た完全性を表わす七に達しません。ですから,六が三つ重なっていることは,甚だしい不完全さを表わしています

 

34 名は当人がどのような人かを明らかにします。それでは,この数字はその獣がどのようなものであることを明らかにしていますか。ヨハネは,それが「人間の数字」で,霊者の数字ではないと言っていますから,その名は野獣が地的なもので,人間の政府を象徴していることを確証するのに役立ちます。六が七に達しないように,六の3けたの数字である666は,惨めにも神の完全な基準に達しない,この世の巨大な政治体制を表わす,適切な名です。この世の政治的な野獣は666という数字の名のもとに最高の権威を持って支配する一方,大政界,大宗教,および大企業はその野獣を人類を虐げるもの,ならびに神の民を迫害する者として機能し続けさせています。

 

 

  WTの解釈は、黙示録に関する事柄は、すべて「主の日」=「イエスが王として臨在する時」、つまり1914年以降の期間に成就する預言の書であるという前提にした解釈からの説明であり、その実態は、「この世の巨大な政治体制」である、としている。

 

  しかしながら、黙示録の原著者は、「主の日」という表現を「イエスの再臨の日」という意味で用いているのではなく、言語的には、「日曜日」の意味で用いている可能性が高いことについて、以前の記事で詳しく述べた。

 

  それで、黙示録が「主の日」に関する「預言」であるかという視点ではなく、原著者がどのような意図で、「666」という数字を野獣の名、印、として考えていたのかを田川訳と比較して考えてみたい。

 

 

16そしてすべての者が、小さい者も大きい者も、富める者も貧しい者も、自由人も奴隷も、右手の上か額の上に自分に(獣の)彫像(=貨幣)を与えるようにさせる。17そして獣の彫像、その者の名前ないしその者の名前の数字を持たない者は、れも買うことも売ることもできないようにさせる18ここに知恵がある。知性のある者は獣の数字を数えるがよい。それはある人物の数字である。そしてその数字とは六百六十六である。」(田川訳)

 

 

 

  NWTが「印」(mark:英)と訳している語を、田川訳では「彫像」と訳し、(=貨幣)と非常に限定的な意味に解していることに目がとまる。

 

  「しるし」というと、WTが「聖霊」で油注がれていること象徴として取り上げる「証印」(啓示7:2-5)と同じ意味に混同されるかもしれないが、それとは別の語。「証印」と訳されているギリシャ語は、sphragisであり、手紙や書類の「封印」の意味で使われる語で、こちらは編集者Sに属する語である。

 

  WTとしては、どちらの語も「聖霊」あるいは「神の是認」の象徴の意味に解したいのであろう。

 

  ここで「印」「彫像」と訳されているギリシャ語は、charagmaという語で、charassO(削る、彫る)という動詞に中性名詞語尾(-ma)を付けたもの。KIでもengravingを字義訳にあてており、字義的には「削ったもの、彫ったもの、彫り込んだもの」を指す。

 

  しかしながら、彫像や彫刻などではなく、小さな像を指すこともあるが、実際には碑文や印鑑などに刻まれた刻字や記号を指すことが多い。

 

  人間の顔などを模写したものであれば、大きい像でも小さい像でも、eikOnという語を使うのが普通。実際、15節の「野獣の像」(the image of the wild beast:英)という表現の「像」はeikOnという語を使っている。原意は「似ているもの」の意である。

 

  charagmaの方は、碑文や印鑑などに刻まれた刻字や記号だけでなく、それを押した印影、印を押した文書や家畜や奴隷などに押す焼印を指すのに用いられた。また貨幣を指すこともあった。貨幣は、人物や人名を刻んで作った原版から鋳造されるので、字義通り「彫ったもの、彫り込んだもの」だからであろう。

 

  田川訳がこの個所でcharagmaという語を「貨幣」の意味に限定しているのは、charagmaを持たない者は、「だれも売り買いできない」とあるのだから、「貨幣」そのものを指す、と解するのが最も自然であるからである。

 

  黙示録が書かれたローマにおける地中海資本主義経済を念頭に、その根本を支えていたのは「貨幣経済」の発展であり、charagma(貨幣)であった。黙示録の原著者は、著書である黙示録を通してローマ帝国における貨幣経済を批判しているという理解である。

 

  このcharagmaという語は、啓示の中ではこれ以後、14:9,11,16:2,19:20.20:4に登場し、NWTの表現を借りれば、「野獣の印」を受ける者には、「神の憤り」(14:9)や「悪性のかいよう」(16:2)が生じ、「責め苦」(14:11)や「火の湖」(19:20)に投げ込まれるが、「印」を受けなかった者はキリストと共に千年の間王として支配する(20:4)、という。

 

  啓示における13:16,17以外のcharagmaという語は、偶像と関係した崇拝と結び付けられて、使用されており、「印」を受ける者と受けない者との明暗が明確に対比されている。

 

  神が特定の人間だけを救い、それ以外の人間を徹底的に残虐に滅ぼす、という思想は原著者のものではなく、偏執的にユダヤ主義に凝り固まっている編集者Sの思想である。

 

  原著者の思想には、他民族排除の思想は全くなく、神によって最後に救済されるのは世界中のすべての民族、すべての原語の者たちである(5:9、7:9、14:6、21:3,4他)、というのが原著者の思想である。

 

  つまり、編集者Sは、ここで(13:16,18)原著者の文を読み、それを真似しながら、他民族排除のユダヤ主義思想を原著者の文に織り交ぜようとしたのである。

 

  13:16「右手か額の上に自分にcharagmaを与える」という原著者の表現を編集者Sは「貨幣」を指しているとは理解せず、「偶像」と解したのであろう。それで原著者の真似をして14:9では、「そのcharagmaを額か手に持つ」と表現し、偶像崇拝の痕跡を持つ者は「神の怒りのぶどう酒を飲むことになる」(14:10)と排他的ユダヤ主義の主張を書き込むことにしたものと思われる。

 

  原著者は、charagmaという語を「貨幣」に刻まれている「皇帝の像」と「名前」だということを強く意識して用いている。

 

  そして、その数字は「人間」(NWT)、つまり「ある人物」(田川訳)の数字であり、「計算する」(NWT)と666になると原著者はヒントを述べている。

 

 

  WTは、この個所の「人間」という語を「不完全」の意味であると解しているが、このギリシャ語anthroposは、文字通りの「人間」「人物」という意味であり、この語に「人間の不完全さ」という抽象的な意味はない。

 

  啓示では、他に4:7、9:7、18:13、21:17に出て来る。4:7に登場する「人間のような顔を持つ第三の生き物」や、9:7の「人間のような顔を持つ蝗」や、21:17の「天使の尺度」と同等とされている「人間の尺度」も「不完全さ」の象徴なのだろうか?

 

  啓示の註解では、ヨハネは,それが「人間の数字」で,霊者の数字ではないと言っているので、「甚だしい不完全さ」を象徴する証拠であるかのように論じている。しかしながら、啓示21:17では「人間の測り」とは同時に「み使いの測り」でもあったと述べている。要するにヨハネは「人間の数字」と「み使いの数字」は同じであると述べているのであり、「人間の数字」は「霊者の数字」ではない、としているのはヨハネではなく、WTである。

 

  13:18のこの個所だけを取りあげて、「人間」(anthropos)=「不完全」の意味に解するのは、あまりにも我田引水な牽強付会のように思われる。

 

  聖書に忠実を真理の基本と主張するのであれば、原著者が「人間の数字」であり、「名前の数字」を数えてみろ、というのであるから、その言葉に素直に従がい、啓示が書かれた時代に存在する「名」の数を計算して666になる人物がいないか確かめてみれば良いだけであるように思う。

 

  古代ギリシャ語の人間だったら、名前の数を数えろ、と言われたら、すぐに名前を構成する文字を数字に換算して、合計いくらになるか足し算して「計算する」ことであろう。

 

  ギリシャ語には限らないが、古代の地中海世界や中近東の言語はアラビア数字のような特別な文字は存在しておらず、普通の文字を同時に数字としても用いていた。

α=1、β=2、γ=3……ρ=100、σ=200…というように、普通の文字を同時に数字としても用いたのである。後世では、α‘=1、β’=2、γ‘=3のように右肩にダッシュ記号を付けて数字だとわかるように表記したが、たとえばギリシャ語でμαρια(マリア)なら、40+1+100+10+1=152となる。

 

  2世紀末のエイレナイオスは「異端論駁」5・30・3の中で、666になる名前として、Ευανθασ(5+400+1+50+9+1+200)と、Λατεινοσ(30+1+300+5+10+50+70+200)と、Τειταν(300+5+10+300+1+50)という名前をあげている。

 

  残念ながら、この三つの名前は黙示録のこの個所には当てはまらないので、長い間「黙示録の666」は「謎」だと思われていたようである。

 

 

  しかしながら、この「666」には異読があり、4世紀末から5世紀のC写本では「616」と読ませている。

 

 

  1830年代になり、これはヘブライ文字で書いた名前のことではないか、と気付いた学者がおり、ローマ史上の有名な人物の名前をヘブライ文字で表記して、その数字を数えることにしたところ、何人もの学者がこれはネロのことだと気付いたそうである。

 

  「皇帝ネロ」(Caesar Nero)をヘブライ語の言い方で書けば、Qesar Neronとなり、ヘブライ語の文字をヘブライ語の数字で数えると、100+60+200+50+200+6+50=666となる。

 

  黙示録の原著者はヘブライ語を第一言語とするユダヤ人であり、ここでローマ帝国の最も悪名高いネロの名をあげたのである。これはヘブライ文字の数字遊びであるから、主としてユダヤ人の間で流行っていたのであろう。それゆえ、「ここに知恵がある。知性のある者は……数えるがよい」と付け加えたのであろう。

 

  この「666」という数字が「皇帝ネロ」を指すことは、C写本の異読が「616」と50少なくなっていることからも確かであるように思える。というのは、Neroという綴りはラテン語綴りであり、ギリシャ語綴りには語尾にnが入るのでNeronとなる。つまり、C写本の写本家は「皇帝ネロ」をヘブライ語綴りにし、ギリシャ語ではなく、ラテン語の綴りで数えたので、616とν(50)を省いた計算をしてしまったのであろう。

 

  つまり、C写本の写本家またはその元となった写本家は、「獣」と称された「ある人物」が「皇帝ネロ」を指していることを確信していたので、「616」と読んだのであろう。

 

 

  NWTでは、「それはすべての人を……強制して、その右手や額に印を受けさせる」と訳しているが、田川訳は「すべての者が……右手の上か額の上に自分に彫像を与えるようにさせる」と訳している。

 

  その箇所の原文は、poiei pantos……hina dOse autois charagma epi tEs cheiros auton tEs dexias e epi tOn metOpOn autOnであり、KIの字義訳によると、it-is-making all(ones)……in-order-that they-should-give to-them engraving upon the hand of-them the right or upon the forehead of-them となっている。

 

 

  KIの字義訳からも明らかなように、この文の主語はpantos(all ones)であり、冒頭に使役動詞のpoiei(it-is-making)が、三人称複数能動で付いているが、意味上の動詞はdOsE(they-should-give:与える)であるのに、「すべての者が」という主語を間接目的語の「すべての者に」と変えてしまっている。

 

  さらに、原文にはautois(字義的には「彼らに」であるが「自分に」という意)という語が付いており、「自分で自分に与えるようにさせる」という能動の趣旨であるのに、「強制して、受けさせる」と受動の意味に訳している。

 

  これでは、つかまえられて、その人の右手か額に無理矢理「印」が付けさせられる、という意味に解されてしまうが、原文が言わんとしているのは、直接的な強制ではなく、(獣は)「すべての人々が彫像を自分で自分に与える」ということが起こるようにさせた、という趣旨。

 

  NWT訳が原文に忠実な字義訳だと主張するのであれば、人参嫌いな息子に母親が「息子が自分から進んで(autois)人参を食べるようにさせた(poiei)」という文を、「母親は息子をつかまえて人参を無理矢理口に押し込んで食べさせた」というのが原文に忠実な訳であると主張するようなものである。

 

 

  この箇所「彫像」(charagma)という語を「貨幣」と解するとこの箇所の意味がはっきりと理解できる。「彫像」=「貨幣」に権威を与える「獣の数字」は「皇帝ネロ」を指しているのだから、「獣」は「ネロ」を象徴とする「ローマ帝国」を指していることが理解できる。

 

  つまりここで、黙示録の原著者が言わんとしていることは、「ローマ帝国が無理矢理強制して、貨幣経済の興隆を強要させた」、という趣旨ではなく、「ローマ帝国支配下の人々が、自らすすんで喜んで、皇帝の像が刻んである貨幣を持ち歩くようにさせた」、ということである。

 

  黙示録の原著者は、単にローマ帝国の腐敗と特権階級に対する批判を目的に書いたのではなく、ローマ時代における地中海古代資本主義における貨幣経済の批判を意識したものであることを理解して読むと、「地からの獣」や「海からの獣」、また「大いなるバビロン」という表現で原著者が何を言いたかったのか、理解できるように思う。