摺針峠を下ってきて上矢倉へとすすんで来ました。ここからが鳥居本になりますが、ここから宿場になるのは江戸時代に入ってからになります。それ以前は南隣りの小野の集落が東山道以来宿駅の役目を果たしてきました。

鳥居本が宿場になるに際して、当時の旧鳥居本村、南の百々村、西方寺村と北の上矢倉村を合わせて一宿となりました。南北10町(約1km)の細長く伸びた宿になりました。

鳥居本の地名はかって多賀大社の鳥居に由来すると言われています。朝鮮人街道や、北国街道の分岐、彦根城下に通じる要衝として栄え、大いに賑わった。天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、宿内家数293軒、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠35軒、人口は1448人の宿場でありました。

 

 

 

 

 

 

            鳥居本宿の地図

 

        国道8号線から中山道に入る手前にある彦根市モニュメント

 

            右側にある中山道碑

 

        このあたりが松並木になっていたと言われている?

 

              道は鳥居本へ

 

            鳥居本宿にある旧家

 

         明治天皇小休所碑がある有川家住宅

 

赤玉、神教丸本舗万治元年(1658)創業。多賀大社延命長寿の神の教えによる(神教丸)は下痢、食あたり、腹痛などの妙薬

 

           赤玉神教丸本舗前にあった珍しい水がめ

 

         赤玉神教丸本舗横の路地を通って上品寺へ

 

法海坊の寺、上品寺。浄土真宗本願寺派の寺。法海坊は釣鐘勧進のため江戸へいき、新𠮷原の遊女花里、花扇姉妹ら多くの人々の帰依、協力を得て、江戸で釣鐘を造り、自ら大八車でここまで運んできた。

 

            釣鐘堂脇には法海坊旧跡碑がある

 

赤玉神教丸本舗前の升形の中山道。このあたりに鳥居本の地名由来の多賀大社の鳥居があった。

 

            鳥居本宿の街並み

 

旧旅籠、米屋と自然斎。現在は鳥居集会所になっている。旧旅籠の主人、岩根治右エ門は井伊直弼より号(自然斎)をたまわった絵付師。

 

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