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中国語学習者、Congziのブログ

京都で中国語の通訳案内士をしている、Congziです。このブログでは、これまで集めた中国語書籍の翻訳を投稿しています。中国史や中国文学が中心ですが、タイトルを見ておもしろそうだった本もあり、内容は雑多。ご自由に立ち読みしていってください。

老北京的廟会
(雍和宮廟会、白塔寺廟会)
姜尚礼著
文物出版社2004年12月出版
 
 いつも廟会(寺社の縁日)に話が及ぶ度に、必ず寺社の廟のことが思い浮かんだ。中国で最も古い廟は先祖を祀る場所であり、神のために廟を立てるということに至っては、周代以後のことであった。古代の文献から知られることは、周代の宗廟の傍らには廟会があった。『考工記』はこう言う。「匠は国の左に祖、右に社を建てた。朝に面して後ろは市であった。」祖とは宗廟、社とは社稷であり、市はすなわち交易をする場所であった。交易の地と宗廟、社稷は既に関係があった。六朝以後、仏教寺院、道教宮観が日増しに増加し、そして仏寺、道観に付随する廟会が次第に盛んになった。
 
 北京は古い都市であり、三千年余りの歴史があり、また元、明、清の三大統一封建王朝の都で、政治、経済、文化の中心であった。その寺廟、宮観の建設は自ずと見ものであった。許道齢が編纂した『北平廟宇通検』の不完全な統計によれば、北京には千座に近い寺廟があり、寺廟の多さは実に中国全国のトップであった。
 
 北京に現存する最も古い寺廟は、西晋時代に建てられた潭拓寺である。昔の北京の人々の、久しく伝えられた民間の諺に、「先に潭拓寺があり、その後北京城ができた」というものがある。北京は寺廟が甚だ多いとは言うものの、然るに決して全ての寺廟で廟会が行われているわけではない。1930年までの統計によれば、城内には尚20ヶ所の廟会があり、郊外には16ヶ所、合計36ヶ所あった。これらの廟会に所在する廟宇は明代に建てられたものが多くを占め、清代がこれに次いだ。
 
 
北京の廟会について
 
 北京の廟会は、古くは遼代にまで遡ることができると言われており、それというのも『遼史・礼俗志』にこう記載されている。「3月3日は上巳である。国の習俗では木を刻んで兎とし、朋を分けて馬を走らせ之を射、先に中てた者を勝ちとした。負けた朋は馬を下り、列んで跪き酒を進め、勝った朋は馬上で之を飲んだ。」この「上巳」の春遊と後世の仏に借りて春を遊ぶ廟会はよく似ていた。明代になると、北京の廟会の記述はたいへん明確であった。明人が著した『燕都遊覧志』の中でこう言っている。「廟市は、市が城西の都城隍廟にあるものが有名で、西は廟に到り、東は刑部街に到り、その間三里ほど、おおよそ灯市と同じで、毎月1日、15日、25日に市が開かれたが、ランタンが多く灯されるのは1日だけである。」西城の成方街の都城隍廟は、その廟会で、各種各様の商品が販売され、漢族の小商人だけでなく、「碧眼の西域商人、はるばる大海を渡って来た異民族の人々」も招き入れた。彼らはいつも「腰に金百万を巻き、居並ぶ商人と高談した」。この記述から、廟会の規模と盛況さを知ることができる。
 
 北京の廟会にはまたその盛況と衰退の変化があった。都城隍廟廟会は、明朝期は確かに空前の盛況を迎えたが、清代乾隆帝の時に変化が生じた。『帝京歳時紀勝』の記述によれば、この廟は「以前の明朝では朔望の25日に市が立ったが」、「國朝は国の興隆を重んじ典礼を行い、歳時の時期には、人を遣って祭礼を行い、雨や台風を祈り、また恭しく祭祀を行い、ただ5月1日から8日の間だけ廟会が設けられた。」ここから分かるのは、この廟の廟会は毎月3回から1年1回に変化した。また例えば広安門内の報國寺廟会は、清代の繁栄期には、毎月3日、5日が廟会で、多くの文人墨客がいつもここで遊びふけっていたけれども、清末になると、言うべき廟会は行われなかった。
 
 昔、北京の廟会は、まとめるとおよそ以下のような数種類の形式であった。
 
 一つ目は、線香を上げ神や仏を敬うことを主要な内容とする廟会である。これは祭日になる度、廟中の主催者が廟を開け、仏教や道教を信仰する信徒を廟に入らせ、線香を上げさせた。こうした廟会は線香を上げて神、仏を敬う宗教儀式を主としており、個別に娯楽や商業活動もあるが、付属的な性質のものである。こうした廟会は、多くが毎月1日、15日に行われた。
 
 二つ目は、毎年一度か二、三度の祭日、仏教や道教の人が鬼を祭る日に、人々が線香を上げ神を敬う。廟会の時は、気持ちを楽しませ、娯楽や商業活動が行われた。
 
 三つめは、仏の名を借り春を遊ぶ形式の廟会である。こうした廟会は遊んで楽しむことが中心で、宗教や商業活動は二の次の内容であった。
 
 四つ目は、廟の中や廟の外の通りや路地に定期的な市を設け、交易を行う廟会である。商業取引きが廟会の中心の内容で、宗教活動は痕跡だけが残っているか、痕跡すら存在しなかった。
 
 五つ目は、廟会という名前は使っているが、実際にはもはや廟の範囲を逸脱し、完全に商業活動を主とするもので、宗教活動、更に娯楽活動さえもはや存在しなかった。
 
 北京の廟会は、このように様々な形式があったが、どのような廟会にせよ、必ず商業活動があり、違いは商業活動が占める地位が主か従かと、規模の大小だけであり、このことも人々の経済活動が社会活動の重要な構成部分であるという事実を反映していた。廟会での商業活動の多くは屋台の上で行われた。屋台の種類は頗る多く、例えば綿布や織物の屋台、飲食の屋台、雑貨の屋台、古い金属類の屋台、木器の屋台、骨董や玉器の屋台、古本の屋台、おもちゃの屋台、花や木の屋台、虫や小鳥の屋台などがあった。その中で比較的大きな屋台は、とりわけ織物類の屋台で、必ず日除けや雨除けのテントが張られていた。
 
 北京の廟会は必ず決まった時間があった。『京華春夢録』の記述。「都門廟の市は時期が決まっていて、10日毎に3のつく日は土地廟、4は花儿市、5、6は白塔寺、7、8は護国寺、9、10は隆福寺であった。」本の中で書かれた北京市の廟会は全部を網羅しておらず、その後個々の廟会が開かれる時間は増加したものもあったが、これにより相変わらず北京の廟会が開かれるのは決まった日時であることを説明することができた。本の中で言う廟会が行われる月や日は全て農暦(旧暦)であった。中華民国建国以後、いくつかの廟会、例えば護国寺、隆福寺、白塔寺は太陽暦を採用した。しかし相変わらず農暦をそのまま用いていたのが、白雲観、東岳廟、財神廟、雍和宫、蟠桃宮であった。
 
 
隆福寺廟会
 
 
隆福寺扁額
 
 隆福寺廟会は、隆福寺から名付けられた。この寺は東四牌楼以西に位置しており、明代景泰年間に建立された。『景宗実録』によれば、「景泰3年(1452年)6月、大隆福寺建立を命じ、労役夫は1万人に及び、太監(宦官)の尚義、陳祥、陳謹、工部左侍郎の趙栄がこれを監督した。閏6月追加で僧房を建立した。4年3月に工事は完成した。」寺の境内は前後5層の仏殿があり、三世仏、三大士が祀られた。この寺は国の高級官僚が監督して建造し、1万人以上の大工を使ったので、寺の勢いは頗る盛んであった。明代、ここは北京で唯一青衣僧(仏教の僧侶)と黄衣僧(ラマ教の僧侶)が一緒にいる寺廟で、且つずっと朝廷の香火院(お経を上げ安寧を祈ってもらう寺院)であった。清代になると、完全にラマ教の寺院になった。
 
 隆福寺廟会が具体的に形成されたのがいつかは、なおより一歩考証を待たねばならないが、遅くとも清の雍正年間より遅くはないだろう。というのも、乾隆年間に出版された『日下旧聞考』にこう書かれているからだ。「隆福寺は東城大市街の北西にあり、明の景泰4年に建立された。本朝の雍正元年(1723年)、毎月の9、10日に廟市が開かれ、各種の商品が並べられ、諸市の中で第一であった。」
 
 光緒27年(1901年)隆福寺で大火が発生し、廟内の第一層の大殿が燃え、これより廟内では線香の火が途絶え、隆福寺は「百貨が具わり、物見遊山に来る客が甚だ多く、決して仏を祀ることのない」所であった。
 
 隆福寺廟会はその規模から言えば比較的大きく、それには廟内の各種の屋台も含まれていた。廟の前にはちょうど山門に対して隆福寺前街があり、廟門の左右には東西の隆福寺街、隆福寺前街南口には猪市大街があった。廟内の屋台は三路に分かれていた。正門から入って行った中路には、綿布や絹織物を売る屋台、骨董を売る屋台と、各種の寄席演芸や大道芸をする場所があった。比較的大きな場所は布の幕で四面が覆われ、一ヶ所入口だけが残された。有名な二人羽織を演じる喜劇役者の雲里飛、相撲の名手、宝三、北京の琴書(揚琴で伴奏する歌物語)の演者、関学増は曾てここで出演したことがあった。この他、扒糕(そば粉を糊状に煮て切ってタレをかけた夏場の軽食)、灌腸(豚の腸に澱粉を詰めて蒸したものを薄く切って油で炒め、ニンニク醤油をかけたもの)、茶湯(炒ったキビ粉やコウリャンの粉に熱湯をさして食べる、麦焦がしのような食品)、麺茶(キビの粉を糊状に煮たものに、ごま油の粕、塩などを振り掛けて食べる)、ワンタンといった小吃(軽食類)の屋台があった。中路の最後の部分は運命判断、人相見の占い屋台であった。西路は雑貨を売る屋台が主で、その中で最も芸術的な特徴を備えていたのは芝居衣装を着た人物の彫像を売る屋台であった。
 
 廟の外の街路にも屋台が雲集していた。隆福寺前街の西側、及び南口を出て右折した猪市大街は、基本的に鳥を売る人の地盤であった。左折した猪市大街には、多くの清代の遺物を専門に売る古物商の屋台があった。隆福寺街は、東側が鮮花と古書を売る店が多かった。西側には茶を売る茶館があった。民国19年(1930年)から、隆福寺廟会は元々の毎月2回から増加し、毎月1、2、9、10の付く日に必ず廟会があった。このように、ここは北京市内の廟会で回数が最も多く、影響の最も大きい廟会となった。
 
 
護国寺廟会
 
 
護国寺山門
 
 西四牌楼の北の護国寺廟会は、隆福寺廟会と同様、商業活動を中心とする内容の廟会であった。その賑やかさの程度は、隆福寺に匹敵し、それゆえ「東西二廟」と称された。「東西二廟の貨は真に全うし、一日に能く百万銭を消す。」これは清代中期の隆福寺と護国寺廟会の商業の繁栄の描写であった。護国寺廟会は護国寺から名付けられた。この寺は元の名を崇国寺と言い、元は元代の丞相托克托(トクト)の屋敷があり、その後、彼が屋敷を喜捨して寺を建てた。明の成果年間(1464-1487年)に改名し、大隆善護国寺となった。この寺は境内が前後5層になっていて、院落(塀で囲った子院)が頗る多かった。寺の中には元代の大書道家、趙孟頫(ちょう もうふ)が書いた碑刻があった。清代の北京の住民の構成の傾向は「西に貴い」という言い方をし、つまり多くの旗人の屋敷は西城にあった。それゆえ彼らの「日用に必要なものは多くが廟会で得」て、このことは護国寺廟会の繁栄を促した。清末から民国初年になり、旗人の没落に従い、護国寺廟会は徐々に隆福寺廟会より劣るようになった。そうではあっても、民国初年まではここでは依然賑やかな光景を呈していた。
 
 護国寺廟会は山門から話を始めると、山門外の東西両側には荒物や日用雑貨用品の屋台がぎっしり並んでいた。山門を入ると、中の各子院にも各種の屋台が並び、綿布や繻子、緞子、磁器、骨董、書画、玉器、扇子、目薬、紙、文具、キセル、はさみなどを販売していた。その中で最も有名なのが「百本張」の唱本(芝居や歌謡の歌詞を印刷した小冊子)の屋台で、屋台で売っている唱本は京劇が主で、その他に鼓詞、単弦などがあった。金を儲けるため、店主は芝居の全体の歌を何冊にも分けて印刷して販売し、一冊一冊はとても薄く、お客は芝居全体の歌詞を理解しようと思うと、全部のセットで買わなければならなかった。文字占いや八卦見、大道芸、寄席演芸をする屋台も少なからずあった。「鴨蛋劉」の宝剣呑み、倉儿と王麻子の漫才の演技はいつも観客に、中で三重、外でも三重に囲まれていた。この他、落子lào zǐ(河北省の代表的な民間の演芸で、竹板を鳴らしながら唄う)を唄う者、跑旱船(民間舞踊で、女性に扮した役者が竹や布で作った模型の船の船べりを腰に結びつけ、歌いながら練り歩く)、棍棒を振り回す者、猿回し、ネズミの芸があった。寺の前の街路にも様々な商品屋台が並んでいた。廟会の度、廟内も廟外も人でごった返し、真に「物見遊山の人々は五都の市に入ったかの如く」であった。

 
小旅館幌子
柳の枝で編んだ 笊籬(そうり。ゆでた麺やワンタンを鍋からすくい上げる網じゃくし、揚げざる)の模型をつるして幌にした。昔、北方で旅行し外出する者は皆馬に乗って出かけた。民間の風習で人が出発する時に、餃子を作って見送り、到着すると麺を作って歓迎した。月日が経つうちに、「上馬餃子、下馬麺」の俗語ができた。餃子も麺も、茹で上がると、「笊籬」を使って鍋からすくい上げた。したがって小店が「笊籬」を幌にするのは、寓意(他の事物に託してほのめかす意味)が深遠で、旅人に我が家に帰って来たかのような暖かみを感じさせたのである。
 
看板の効果
 
 招幌(看板)は、物象広告(客観的な事物の広告)として、設置や制作の精緻さ、奇抜さは、ただ店の入口を飾るだけでなく、流通の領域でも、かなり重要な役割を果たした。商人たちは巨額の投資を惜しまず、奇を争い勝利を目指したが、その目的はただ一つ、人々の視線を惹きつけ、顧客を繋ぎ止めることであった。元曲の『后庭花』に二句の唱詞がある。「酒店の門前に三尺の布、過ぎ来たり過ぎ往き主顧を尋ねる。」言っているのは酒旗の役割である。『宋朝事実類鈔』におもしろい話が載っている。福州にひとりの酒売りの老婦人がいて、酒旗の上に太守、王逵(おうき)の酒望子(幌子)詩「下に臨む広陌(こうはく。広小路)は三条の闊(ひろ)さ,斜めに倚(よ)る危楼は百尺の高さ」と書いたところ、これにより大量の食客を惹きつけ、「これより酒の販売が数倍」になったという。
 
 これだけでなく、多くの名牌(ブランド品)の看板は、商家に対しても良いサービスを促す効果があった。看板を台無しにせぬよう、商品は質と量を保たねばならなかった。昔の北京の「金驢儿」の石鹸、「銅老倭瓜」の白蕎麦麺、「黒猴儿」の帽子、「王麻子」のハサミは、顧客の中で名声を博していた。商品の品質を重視し、ブランドが有名な店も、それによって財を為した。陸元輔『菊隠紀聞』の記載によれば、北京の「勾欄胡同の何闉門家の布、前門橋陳内官家の首飾、双塔寺李家の冠帽、東江米巷党家の鞋、大柵欄宋家の靴、双塔寺趙家の薏酒(ハト麦酒)、順城門大街劉家の冷淘麺、本司院劉家の香、帝王廟街刁家の丸薬は、皆一時期有名で、巨万の富を築いた。」
 
 店舗の招幌(看板)は、多数が民間の芸術家、職人が設計、制作したもので、採用された模様や図案は大衆が好むもので、よく使われる蟠龍紋、蝙蝠紋、寿字紋、蓮花紋など、皆吉祥、富貴を祈る題材であった。多くの招牌は、またその多くが著名人の自筆であった。例えば、清代南京で保存された明代の著名人が起草した扁額の中で、牛市口の石鹸、粉おしろい店の縦型の扁額の「古之敬家」の四字は、劉青田が書いたものだ。三仙街の毛氈店の横型の扁額の「伍少西家」は、顧起元が書いたものである。行口大街南貨店(中国南方の食品店)には長方形の扁額があり、「楊君達家海味果品」の八字は、学士(文人)の余孟麟の傑作である。北京の「六必居」は、厳嵩が書いたと伝えられている。「都一処」は乾隆皇帝の親筆である。これらの招牌(看板)の筆跡は、上品なものもあれば、飾り気がなく実直なものもあった。
 
 昔の北京の多くの店舗の店名は含蓄があり、味わい深かった。例えば、地安門外の茶葉舗は、「金山」と言った。安定門外の茶肆は、「鶏鳴館」と言った。ある茶社の名は「半畝園」、「水楽庄」、「柳蓮居」、「緑意軒」、「怡性斎」、「萃園別墅」などと言った。また本書中の「知楽魚庄」は、おそらく魚と熊の掌は同時に得られない(望みが2つあれば、その1つを捨てざるを得ない)の意から取り、有魚知楽(魚が有れば楽を知る)としたのである。
 
 
知楽魚庄(金魚池にあった魚屋)
 
一方「瑞蚨祥」を名付ける時は、多くの文人墨客を招き、細かく推敲して決められた。蚨(ふ)が指すのは青蚨で、古人の銭への別称であった。『捜神記』の記載によれば、「(蚨の血を)塗った銭各八十一文、市の物毎に、或いは先に母銭を用い、或いは先に子銭を用い、皆復た飛帰す、(車)輪は転じて已まず。」蚨を名に使ったのは、銭を使っても、またすぐ(銭が)戻って来て、お金がどんどん増えるという意味が含まれた。
 
 
瑞蚨祥
北京前門大柵欄に位置し、清の光緒21年(1895年)に開業し、北京で有名な絹織物の店で、当時の「八大祥」のひとつであった。店の門の上方には「瑞蚨祥」の三文字が刻まれた横型の看板で、「瑞」は良い前兆を指し、「蚨」は「青蚨」(古代の伝説上の虫で、銅銭の上に蚨の血を塗ると、銭を使った後、あっという間に元の持ち主のところに戻って来るとされ、このため「銭」のことをまた「青蚨」と言う)、「祥」は吉祥を指す。「瑞蚨祥」の三文字で、縁起が良いという意味が含まれている。
 
 こうした民間の精神で設けられた招幌(看板)は、標識と装飾が一体になったものであった。豪華で美しい入口の装飾に、濃厚な民間の色彩を配した招幌は、より一層商店の魅力を付け加えた。
 
まとめ
 
 1930年代末から1940年代初頭、北京の招牌、幌子は、相変わらず明清時代の北京の店舗の招幌の様式を踏襲していた。例えば清慎斎裱画店(表具店)が用いた縦型の看板は、明清時代の看板と何ら違いが無かった。看板は白地で、上部に書店名が書かれ、下部の一方に「蘇裱名人字画冊頁手巻法帖」と書かれ、もう一方には一巻の掛け軸が描かれ、請け負う仕事の内容と技術レベルを示していた。
 
 
清慎斎裱画店
中国の書画の装幀は、特殊な伝統手工芸で、蘇州の表装工が最も精緻であった。清慎斎裱画店の長方形の木製看板は、白色の地に、店名と「蘇裱名人字画冊頁手捲法帖」などの文字が書かれ、その横に一巻の掛け軸の絵が描かれていた。これによって請け負う仕事の内容と、その技術レベルを表していた。
 
また例えば「稲香村」、「南味店」であれば、二枚の横型の看板を使い、何文字かの簡単な文字で商店の名前とどのような種類の店かを明示した。
 
 
稲香村
稲香村は南方の特産品や自家製の南方の菓子類、蘇州や揚州の醬油煮の惣菜を売る店であった。店の入口の上に「新記稲香村」の横型の看板がある。写真はちょうど中秋節が近く、季節の商品が店に並べられている。店の外には「中秋月餅」と書かれた布幌(布に書かれた幟)が高く掲げられている。店内には、金華ハム、南京板鴨の実物幌が掛けられ、文字と実物招幌で客を招き寄せ、賑やかな雰囲気を引き立たせている。
 
本書で紹介した幌子で、例えば小麦粉を加工する工房は形をイメージした看板(形象幌)を使い、店の外に対称に白い小麦粉を捏ねた団子(マントウの模型)を吊り下げて看板とした。
 
 
粉坊幌子
小麦粉を加工する工房。つるされた幌子はマントウの模型で、形象幌に属する。昔、北京の粉坊の門前の幌をつるす柱の龍頭(柱から突き出た枝先の部分)の下には、通常白い小麦粉を捏ねた団子の模型を対になるようぶら下げることで、店の扱う商品の標識がより鮮明になった。
 
粗飯舗が掲げた看板は、籐で作った輪っかの外に金銀の紙を糊付けし、下端に間隔を空けて赤い紙の房をぶら下げた、典型的な 形象幌である。銅鉄舗が使ったのは実物幌で、店の外に銅壺や鉄桶を並べた。馬鞍舗の外には刺繍した馬の腹につけるベルトと細かく作り込んだ馬の鞍を使って看板にし、馬の腹のベルトの上の模様はモンゴル族が一般に好む図案や色使いに合わせてあり、たいへん気がきいていて、斬新であった。これも実物幌のひとつである。
 
 
馬鞍舗
店の外の背の高い腰かけの上に刺繍をした馬の腹に付ける革ベルト(すなわち鞓(てい))と加工の優れた馬の鞍が置かれ、実物幌に属する。
 
本書に収録した写真は、1930-40年代に撮影された。ここで紹介する看板は、北京の店舗看板の一部に過ぎないが、歴史的にも北京城の商業の実際の写真であり、北京の民俗学、商業史、文化史の愛好者、研究者にとって、正に貴重で価値ある資料と言えるだろう。

万宝号酒店
清代の酒店には招牌があり、入口の庇(ひさし)の下に酒瓢箪の形の形象幌がぶら下がっていた。1940年代初めの万宝号酒店は、店名を墻招(壁に直接看板を取りつけたもの)の形で入口の壁面の上方に施した。「遠年花雕」(年代物の花雕酒(紹興酒))と扱っている酒の種類と品質を表示した。
 
看板の種類
 
 招幌は商業の標識となり、これにより店舗が扱う商品の種類やサービスの内容を明示した。世に言う三百六十行(昔の各業種の総称)には、どの業種にも自らの特定の招幌があった。こうした招幌の形態はそれぞれ異なっていた。幌子について言えば、主に形象幌、標示幌、文字幌の三種類に分けられた。形象幌は多くが実物や実物模型、図絵で表示した。 標示幌は主に旗と行燈である。文字幌は簡単な文字で扱う商品の宣伝をした。
 
 
焼酒舗幌子
酒瓢箪を幌子とするのは典型的な形象幌である。清代の京西、京東の焼鍋(コウリャンを醸造して作った白酒)は、紹興の黄酒に比べ刺激性が強かった。一般の小酒店で白酒を売る店を俗に焼酒舗と言った。瓢箪の形を幌子にするのは古人の習慣を踏襲し、酒を売り出す時に酒瓢箪をぶら下げ、酒が売り切れるとそれを取り外した。
 
 実物幌は、最も古い商業標識で、その特徴は「直接その物を門外に掲げる」、すなわち商品の実物を門外に高く上げたり門前に並べて幌子にした。宋の『夢粱録』には「彩帠舗に積み上げられた目の細かい緞子」と書かれた。明代の南京染坊は、染めた色とりどりの絹織物を染房上に高く掲げていた。清代の北京では、実物を幌とするものが仕立屋、絹織物、傘、タオル、楽器、木桶、麻などがあった。実物幌ははっきり分かり、顧客にとって一目瞭然である。
 
 
檳榔煙草舗幌子
檳榔(ビンロウ)は棕櫚(シュロ)の一種で、熱帯の作物である。果実は楕円形で、色は橙(だいだい)色、殺虫、消化促進の効果があり、料理に使うことができた。昔中国の広東、広西では民間に檳榔の実を噛む風習があった。清代の一部の北京人も同様の習慣があった。写真は1940年代初めの檳榔煙草店で、煙草店で檳榔を売っていた。店の表に檳榔の包みを対称に吊り、これは実物幌に属する。
 
 模型幌は、商品の模型を幌にし、木、布、紙、皮革、鉄などの材料で作られた。宋の『太平広記』は『野人閑話』の記載を引用し、李という姓のネズミ駆除薬を売る店があり、「木で作ったネズミを看板にした」。『清稗類鈔』では「都の中の靴下店は、門口にしばしば大きな靴下を掲げた」と書かれている。ここから分かるのは、模型はしばしば本物の商品より大きく作られ、例えば麻子剪刀舗は造形の異なる大きなはさみの模型を掲げ、キセル屋は大きなキセル、魚屋は大きな木の魚を掲げた。模型舗は真に迫って作られ、商品の特徴を突出させ、長持ちしてしかも目立つので、店店で幅広く採用された。
 
 
徳順号馬鞍舗
店の外に布製の馬の鞍の模型が掛けてあり、形象幌の中の模型幌である
 
 画幌は、図絵で扱っている商品やアイテム表示した。絵を布ののれんや木の看板の上に描いたり、直接入口の壁の上に描いた。元の『析津志』には京師の「床屋は、色とりどりに歯の絵を描いて、しるしにした」と記載されている。また茶店は壺を描いて看板にし、靴店は靴を描き、刃物、ハサミ店では刀やハサミを描いた。画幌は色彩が鮮やかで、制作が簡単で、多くが規模の比較的小さい店舗で採用された。また店によっては、描いた絵と扱い品目が直接関係無く、目的は店の表を飾り、月日の経つうちに、その店独特の看板になるのである。例えば『析津志』に載っている京師酒槽坊は、「門口に春申君、孟嘗君、平原君、信陵君の四公子が描かれていた。赤いペンキの塗られた欄干でこれを守り、上は細かく描かれた酒升で覆われ、宮殿のような有様であった。両横の大壁には、車馬、侍従、傘や武器が全て描かれていた。また漢の鐘離、唐の呂洞濱を描いて門額とした。」
 
 
 
老王麻子刀剪舗の画幌
『老北京店舗的招幌』という書籍の中で、こう紹介された。「清代、北京王麻子刀剪舗は、崇文門打磨廠内にあった。この店で作られた刃物やハサミは刃の質が良く、刃先が大きく開き、長く使っても刃が曲がらず、当時の北京の有名で伝統的な製品のひとつであった。」写真は1940年代初頭の老王麻子刀剪舗である。店の外にぶら下げられたのは文字と絵を併用した招幌で、店内には刃物、ハサミなど実物幌がぶら下げられた。
 
 標識幌は、通俗的に定まっている特定のものの姿や図形をしるしにするものである。例えば旗や幟(のぼり)は、最もよく見かける標識で、古くは酒旗にした。「青旗沽酒有人家」(青い旗が揚がるのを見れば、酒を売る店がある)というのは、唐宋時代にはもう当り前の風景であった。北宋の東京(開封)の酒楼は錦条旗を標識にした。清代の北方の酒店は多くが赤と青が交互になった吹き流し状の酒旗を用いた。酒店以外でも、北京の公の車屋も旗を標識にした。赤い竿に黄色い旗、上には一匹の飛び立つ青龍が描かれていた。それとは別に灯幌があり、灯籠を商店の標識にした。灯幌は宋代には既に日常見られるものとなり、宋の呉自牧の『夢粱録』巻16酒肆にこうある。「例えば酒肆(酒店)の門口に、杈子(木の柵)と栀子灯(クチナシの実型のランプ)を設置したが、ちょうど五代の時、郭高祖が汴京に行幸した時、茶楼や酒肆が揃ってこのように装飾をしたので、今日に至るまで店店がそれを真似るのが習慣になった。」灯を幌にし、美しくりっぱで、営業が深夜に及ぶ酒楼について言っても、たいへん実用的であった。深夜の街路沿いで呼び売りする小販(屋台など小規模の飲食店)も、常々灯を幌子にした。
 
 
妓楼(遊女屋)の入口。赤く記したところに栀子灯が置かれている
 
 文字幌は、簡単な文字で店の名や扱っている商品の種類を表した。例えば「当」は質屋を表し、「堂」は風呂屋を表した。それ以外に「茶」、「書」、「酒」、「帽」、「薬」、「花」などがあった。字幌の掛け方は幌子と同じで、表示の方式と姿形は招牌と同じである。
 
 
当铺(質屋)
 
 招牌は、前で既に述べたように、商店の門前に取りつけられた標識となる牌子(マーク)である。取りつけ方法は多種多様で、或いは壁や門、柱の上に架け、或いは店舗の門前に設置したりカウンターの上に置かれ、また門前の牌坊(アーチ)や店の壁に直接書き記すこともあった。取りつけ方法の違いにより、縦型看板と横型看板、床置き看板、壁看板に分けられる。招牌の文字の内容はたいへん豊富で、如何なる商業情報であっても表示することができた。一つ目に字号(店名)を表示することができ、宋代、明代には、字号は大半が姓氏の違いで表され、例えば張家老舗、王家、李家というように表された。北京の多くの旧店舗は、更に次のような風習を残していて、例えば王麻子(あばたの王)というように表示した。二つ目に商店の合資(共同出資者)の人数を、例えば双合、三義、四美のように表示することができた。三つ目に取扱い商品の内容を、毛尖、風箱、赤金、建皮絲(タバコ)、雪花白(酒)、丹九轉、富陽冬笋(浙江富陽のタケノコ)、佛手青梅などのように表示することができた。四つ目に商品の品質を、重羅白面(何度もふるいにかけた小麦粉)、真正豆面(本物の豆粉)、賽雪欺霜のように表示することができた。五つ目に商店の信用、評判やいくつかの縁起の良いことばを、童叟無欺(子供も年寄りも騙さない)、公平交易、招財進宝の類のように表示できた。文字招牌の中には字が10~20に達するものがあり、例えば北京の徳愛堂薬舗の天を衝くように背の高い看板の上の文字は22字に達し、「徳愛堂沈家祖伝七代小児七珍丹只此一家別無二処」と書かれ、徳愛堂薬舗は沈氏が創業し、主に祖伝の七代珍丹を販売し、専ら小児を治療する良薬で、しかも唯一の販売者であった。
 
 要するに、各地の風習の違いにより、店舗経営の規模の大小が異なり、入口の装飾と看板の掛け方も全て異なっていた。北京について言えば、大部分の店舗にはふたつ以上の看板が入口に掛けられ、商店によっては実物の幌子の数が10以上に及び、例えばちょうちん屋や、とりわけ大商店の中には、実物や模型、標識幌、装飾文字や絵、各種の看板が巧みに一緒に配置され、商店が極めて上品に装飾され、看板が互いに照り映え、一幅の立体的な広告画のようになっていた。

範緯著:老北京的招幌
文物出版社2004年12月第一版発行
 
 この本は、文物出版社に保存されていた1930年代末から40年代初頭の北京の店舗看板の写真資料をまとめたものだそうです。
 
看板の歴史
 
 招幌(看板)は招牌、幌子の総称で、中国の商業習俗の表現形式のひとつで、また商業広告のよく見られる形式である。
 
 幌は伝統的な店舗の標記で、元々布で作った帷幕で、『玉篇』では「幌は帷幔なり」と言う。後に派生して酒旗の専称となり、また酒簾と呼ばれ、唐末には望子と称した。
 
酒簾
 
『広韵』では「青簾(青いのれん)は、酒家の望子。」「望」とは遠くを見ることである。古代の酒家は、門を開けて最初にすることは、酒旗を店門の外に高く掲げ、遥かに望むことができ、これを用いて酒客を呼んだ。張籍の『江南行』では「長干(昔の建康(南京)の里巷(裏町)の名)の午日春酒を売る。高く酒旗を江口に懸ける。」李中『江辺吟』では「きらきらした酒簾は酔客を招き、深い緑樹の隠に鶯が啼く」と、描写はこの光景である。酒店の酒が売り切れると、店は望子を引き下ろし、顧客を手ぶらで帰すのを防いだ。例えば孟元老『東京夢華録』ではこう言う。「中秋節の前、諸店は皆新酒を売る。……市民は競って酒を飲み、午(うし。11時から13時)未(ひつじ。13時から15時)の間に、どの店も酒が無くなり、望子を引き下した。」望が上がれば来て、望が無ければ止む。望子を酒旗と呼ぶのは、たいへん適切であった。後に望子は次第に発展して各行各業の標記の専称となり、その呼称は次第に幌子が取って代わった。これに対し、清の翟灝は『通俗篇・器用』の中で次のように解釈している。「今日長江以北では、凡そ市場の商人が掲げる標識は、尽く望子wàng ziで、その音が訛り、すなわち幌子huǎng ziと言うのである。」幌子は主に扱う商品の種類や業種を表した。
 
 招牌は商店が門前にしつらえ、標識にしている商標であった。「招」は呼びかける意味で、「招は召なり。手を以て招と言い、言を以て召と言う。」(『楚辞・招魂序』王逸注)招牌は最初は文字の書かれていないのれんで、その後名号を題する者が現れ、続いて木製の牌(看板)がこれに代わり、大多数が店舗の名称と字号を題写した。これが店舗の標記である。店によっては招牌に商品の名称を題する者があり、例えば清代、蘇州のいくつかの店舗の招牌には、「定織細布」、「本客自制布匹」、「雑貨老店」などと書き、経営の範囲、内容を明示した。
 
 招幌は、社会生産と交換が一定段階にまで発展した産物で、その歴史は相当長いものである。交換は最初、原始社会後期の氏族部落の間で発生し、当時は生産力が極めて低く、余剰産品は多くなく、物品の交換は偶然のことで、且つ交換の権利は部落の首領の手の中に握られていた。伝説の舜は「頓丘に販(ひさ)ぐ」。当時貿易を行うしるしは太陽と井戸であった。「日中を市と為す」(『易・系辞下』参照)、「古く未を市と為し、若し朝に井に聚り水を汲むに、貨物を井辺で貨を売り、故に市井と云う。」(『史記・平准書』参照)夏代に到り、物資交流がより発展し、当時有名な商族の人々が最も交換に長けていた。聞くところによると、商族の先祖の王亥は、曾て牛車を走らせ、帠を載せ、黄河の北岸に到り貿易を行った。遠古の貿易は、物を以て物に易え、招幌は必要無かった。
 
 社会の進歩に従い、商業は社会経済のひとつの独立した部門になった。生産の発展、商品の増加で、集市貿易は既に相当盛んであった。『周礼』の記載によれば、西周の新興の都市には、商戸を中心とする「朝市」があり、また販夫、販婦を主とする「夕市」があり、正午には更に大市が行われた。政府はまた専門の人員を派遣し貿易活動を指揮し、「旌(旗の一種で、旗竿の先に五色の羽毛を飾り付けたもの)を上げ市をさせる恩恵を与えた」。旗で集市の開閉と市場の位置を指示したが、これは幌子の雛形と言うことができる。
 
 春秋戦国時代、中国の古代社会の生産力の発展は新たな段階にまで発展し、新たな封建生産関係は次第に古い奴隷制の関係に取って代わり、私営商業が次第に官営商業に取って代わり、個人の商人の活動が増加した。鄭国には牛を売る弦高がおり、斉には商業で富を築いた陶朱公がいた。個人商店も出現し、『呂氏春秋・召類』の中でこう言った。宋の相国で司馬の子罕の隣に靴屋があり、「布靴に布を被せる仕事で三代の食を賄った」。個人商店の増加に従い、需要があったので、本物の幌も時運に応じ出現した。『晏子春秋』にひとつの寓話が載せられているが、それはこんな話だ。宋国に一軒の酒店があり、顧客を招き寄せるため、「幟(のぼり)を甚だ高く掲げた」。『韓非子』にも同じような物語の内容が載っており、その酒店は「その表が甚だ長し」と言う。「幟」と「表」は酒旗である。このことから早くも2千年余り前の春秋戦国時代、幌子が既に出現したことが分かる。
 
 このようであったけれども、秦から北宋初期までの間、政府の商業抑制政策と専売制の措置により、都市の貿易地点は市場だけで許可された。『長安志』の記載によれば、唐代の坊は、坊門以外は皆壁で囲まれ、特別な許可が無ければ、勝手に大通りへの門を開けることができなかった。『唐会要』巻86に、太和5年7月くらいの巡使の上奏文が記載されている。「三品以上、坊内三絶(家柄や才徳に優れた者)にあらざれば、街に門を開くのを許さない。もし三絶でないのに、無理やり坊に開門させようとしたら、街路に面した戸は、尽く閉じるよう命じる。」こうした坊市制度により、都市の街角では招幌を見ることがほとんど無かった。
 
 坊市制度はずっと北宋初期まで続き、この制度が廃止されて後、招幌はようやく再び街角に出現した。張擇端の『清明上河図』の上で、北宋の都の繁栄した様子が見られるが、各種の酒旗や字招が数多く見られる。『東京夢華録』や『夢粱録』など都市の記録の描写によれば、南宋の首都には数百の店舗名号があり、これらの名号(名称)はおそらく作者が当時の店舗の招牌(看板)に基づきそれらを記録したものであろう。多くの招幌の出現は、宋代の都市経済の発達を反映している。当時、東京(開封)には、富商や大商人が雲集し、交易活動に従事し、『続資治通鑑長編』の巻85に載った王旦の言によれば、「京師(都)で資産百万の者は極めて多く、10万以上、どこでも見られる。」元明清各時代の招幌は、宋代の招幌の形を踏襲しているのを除き、更にその他の民族の風習を融合し、都市から田舎に到るまで、招幌は随所で見ることができた。
 
 北京は13世紀の金代から20世紀初頭に清王朝が打ち倒されるまで、ずっと中国封建王朝の首都で、政治、文化の中心であった。とりわけ明清時代の北京城は、封建社会の商業発展のひとつの縮図であった。各地の商賈が雲集し、店舗が林立していた。広告宣伝の役割を持った招牌、幌子が四方から集まり、たいへん特色があった。
 
 最も古く北京の幌子を描写した古い書籍は『析津志』で、本の中で元代の都城の床屋、蒸し調理屋、小児科医、産婆、獣医、煎じ薬などの業種の幌子を列挙した。例えば、「市中の小児科医は、門口に木を刻んで子供の形を作り、錦の束の中で方相(厄除けの神様)のような姿かたちを標榜した。」
 
「産婆の家は、門口に赤い紙を竹ひごを籠に編んだものに貼って作った大靴をしるしにした。」「獣医の家は、門口に大小の木を刻んで壺状にし、長さ一丈に達し、赭石(しゃせき)でこれに色付けした。」
 
 明代、世祖は北京に遷都し、商業が極めて盛んになった。猪市、羊市、牛市、馬市、果子市、煤市、灯市、廟市などがあり、大明門前が最も賑やかであった。蒋一葵は『長安客話・皇都雑記』の中でこう言った。「大明門前の棋盤街は、すなわち離合集散の象徴である。天下の士民は各々文書を以て至り、ここに雲集し、互いに肩が触れ車輪と車輪がぶつかり、一日中騒々しかった。」清代に到り、北京の工商業は種類が雑多であるだけでなく、名称もまた多かった。手工業について言えば、木工、石工、土工、漆加工、火薬、婚礼、東市の漆加工、 西市の漆加工など10の業種があった。職業の分化で、違った種類の店舗が街頭に並立するようになり、店主は顧客を招き寄せるため、巨費を惜しまず、店の正面を装飾し、精緻な招幌を掲げた。『寄云寄所寄』は言う。「都城の市肆(商店)が開店するのに、必ず鼓楽を盛んに張り、戸に彩絵を結ぶ。賀する者は果核を持ち盤を堆み、屏風で囲いて神を祀る。正陽門の東西の街に、招牌は高さ三丈余りのもの有り、金泥で白色の地を減らし、或いは斑竹で以てこれに嵌め込み、或いはまた金牛、白羊、黒いロバや豚の形象を彫刻し、しるしとした。酒肆(酒屋)には扁額と対聯が掛かり、余白には或いは木の罌(かめ。もたい(ほとぎ)。腹が大きく口の小さい瓶)を掲げ、或いは錫の杯を掲げ、扇状の装飾がちりばめられていた。」また『燕京雑記』は言う。「都の店舗は、体面を考え、彫刻を施し色とりどりに塗られ、窓や戸に錦や刺繍が掛けられていた。夜は灯を燃やすこと数十、紗の籠を被せた角灯、明るく輝き昼間のようだった。そんな店舗で東四牌楼や正陽門大柵欄にあるものは、とりわけ卓越していた。その中には茶葉店があり、高い甍に太い垂木、細い格子に広い窓、人物を彫刻し、黄金が敷かれた。美しい雲が陽に映え、まことに雄壮である。」
 

万寿山周辺、昆明湖の景観
 
 昆明湖の万寿山の前山に面して、東宮門内の宮殿区とは異なる形式の一組の建物群がある。ここは清代の最高統治者が盛大な典礼を行い、神に向かい仏を拝む場所であったので、殿宇は壮麗で、高閣が空高く聳え、更に石の壁が切り立ち、勢いが荘厳で、設計上、園全体の要害の高地で、園内で最も雄壮で豪華な建築群である。ここは昆明湖畔の雲輝玉宇牌坊から、順に排雲門、排雲殿、徳輝殿、佛香閣、更に山頂の智慧海まで、一本の明らかな中軸線を構成している。
 
 この中軸線の中部にある 排雲殿は、慈禧が誕生日を過ごした時に、皇帝と群臣のお祝いを受けた場所で、またこの建築群の中で最も堂々とした殿堂である。その前身は、清漪園時代に乾隆が彼の母親の長寿祝いに建てた大報恩延寿寺の大雄宝殿で、1861年英仏連合軍の砲火で破壊され、1887年の再建後、排雲殿と改称された。排雲殿は宗教的な建物である 佛香閣の下にあり、また正に封建地主階級の「君権神授」(君主の権利を神が授けた)思想を体現していた。
 
 
排雲殿
 
 排雲殿の後ろ側には、高さ60数メートルに達する基壇がある。これは平らに削られた巨石を山に沿って積み上げ、見る者に、切り立ってそびえ立ち、壮麗な感覚を与え、八角三層、四重の軒を持つ佛香閣は、この基壇の上に鎮座している。その全身は金色を散りばめ色鮮やかで、頂上部分は八角の尖塔で、色調や形体は一般の宗教建築の紋切り型の規範を超越している。佛香閣の前に立って欄干から四方を眺めると、湖の水面がきらきら輝き、遠くの山が幾重にも重なり合い、好天に恵まれれば、南東の北京城の風景もかすかに見ることができ、本当に見る者を良い気持ちにさせる。佛香閣の西側には小さなあずまやがあり、この建物は梁、棟、窓、たる木、瓦から佛案に至るまで、皆黄銅の鋳物で作られていて、それで人々に「銅亭」と呼ばれている。これは一種のたいへん独特な建築手法である。万寿山の最高地点に位置する智慧海は、全てレンガを積んで作られていて、全体に一本の木材も使っておらず、それゆえ「無梁殿」とも呼ばれている。これは清漪園が焼かれた後、残された数少ない乾隆年間の建築物の一つである。
 
 
佛香閣
 
 
銅亭
 
 
智慧海
 
 もし万寿山の前山は気迫のある建物が良いと言うなら、その後山は清らかで物静かな風景が優れている。ここは、山道がぐるぐる回り、古松がまっすぐ立ち、水の澄んだ蘇州河の水が山すそをくねくねと流れていた。川に沿ってゆっくり歩くと、山が窮まり水が尽き、柳が鬱蒼と茂る中、花がぱっと明るく咲いていた。この川のほとりには、元々他に売買街、蘇州街など川に沿って建物が建てられていて、江南の水郷の独特の風情を再現していた。当時、慈禧はここを遊覧し、宦官たちに商人に扮させ、川べりで呼び売りをさせた。彼女は気が乗ると小さな腰かけに座り、これらにわか商人と値段交渉をし、虚々実々にものを買ったりした。これらの建物は1860年と1900年の帝国主義侵略軍の二度の破壊を経たが、1986年に再建された。
 
 
蘇州街
 
 万寿山の南側は、人々が心惹かれる昆明湖である。昆明湖は青い波が起伏し、絵のような景色で、自らの自然の美でこの地の景観に無限の魅力を加えただけでなく、北京の水利開発史上重要な地位を占めてきた。早くも10世紀初め、昆明湖の前身は、西山の諸泉の流れが集まってできあがった甕山泊で、これは北京北西郊外の貯水量最大の水源であった。しかし地形の影響により、ここの水は北東を経て清河に流入し、北京城とは何の関係も無かった。後に封建帝王が北京に建都し、都市用水の需要は益々増大した。金朝は一本の水路を掘削し、水を甕山泊から北京(当時は中都と呼ばれた)に引いたが、水量が限られ、効果はあまり大きくなかった。元朝になり、有名な学者で大科学者である郭守敬が実地に調査測量し、名を白浮堰と言う人工の大堤を設計、修築し、先ず北京北西の全ての山泉をひとつに合流させ、甕山泊に引き入れ、その後泊の水を北京城に引き、城内の用水問題の解決に成功した。しかし、もし昆明湖を北京城最初の人工ダムと呼ぶのも、あまり名誉なことと言えなかった。もちろん、北京の水源を解決する措置として、昆明湖はとっくに今日の需要を満足することができなかったが、景勝地遊覧の面から見て、ここは依然として観光客たちが最も愛し、遊びにふけって帰るのを忘れる景色のひとつである。
 
 昆明湖沿岸の景色も、丹念に設計され、景観の配置もたいへん趣があり、適切である。とりわけ湖の西岸を南北に貫く西堤と堤の上の六本の橋は、全て杭州西湖の蘇堤を真似て作られた。その中で最も有名な玉帯橋は、全体が真っ白で、高く聳えるアーチ形の橋身はハスの群生と緑の柳の間に突き出ていて、遠くから見ると、あたかも青い玉盤上の一粒の真珠のようである。陽春3月、堤の歩道の上に、枝垂れ柳が水面をかすめ、緑の柳がもやを含むのが見え、本当に江南の水郷に身を置くような感じがした。西堤と堤の上の柳の枝は、巧妙に頤和園西側の塀を隠し、こうしてあたかも園全体の景観が尽きることなく、西側の折り重なる遠くの山と玉泉山上の塔影が皆視野に納まり、画面の中にあるかのような感覚がした。これは、正に中国伝統の造園芸術の中の「借景」手法が成功し、独自の境地に至ったものだ。
 
 
玉帯橋
 
 昆明湖の北西の岸辺には、漢白玉石で作られた大船、石舫(せきほう)がある。これは元々乾隆時代に清漪園用に作ったもので、慈禧が頤和園を再建した時に、元の船台の上に二層の西洋式の楼閣を増築し、現在の姿になった。慈禧は更に建て直した石舫にめでたい名前をつけ、「清晏舫」(せいあんぼう)と名付けた。その意味は、大清朝の山河が永遠に安定し太平であることを希望するというものだった。しかし、歴史は無情なもので、遂には清王朝を歴史のゴミだめの中に掃き入れてしまった。
 
 
石舫
 
1950年代初め、国家の経済建設がまだ完全には回復しておらず、財政収支がたいへん困難な状況下、人民政府は専用の予算を配分し、頤和園の修復を行った。人々がもっと明確に頤和園の過去を理解できるよう、園内の大多数の殿堂や遊覧区は、当時のまま陳列や配置を回復させた。1961年、国務院は正式に頤和園は第1期全国重点文物保護単位に属すると発表した。
 
 今日の頤和園は、生気にあふれ、万象新たである。万寿山の前や、昆明湖の上には、世界各地から来た旅行者や中国の民衆が一緒に休暇を過ごす光景が見られる。

頤和園十七孔橋
 
四、美しい頤和園
 
 頤和園は美しい。その美は、自然の山、自然の水だけにあるのではなく、山間や水面にちりばめられた、不揃いで、様々な形をした人工の建築群にあり、自然の景観と芸術的な建築の両者が高度に完璧に調和し統一しているところにある。ここの建造物は、中国の古典庭園建築芸術が新たな高度なレベルに到達したことを示している。
 
 中国古代の造園芸術は、2千年以上の悠久の歴史を備えている。早くも紀元前11世紀の西周の時代、周の文王は山水に樹木、禽獣、魚、虫を擁する大型の宮廷庭園を造営した。史書では「霊沼」、「霊囿(れいゆう)」と称した。中国古代の最初の詩歌集『詩経』の中で、周文王の宮苑の中で、麀鹿(メス鹿)が出没し、鶴が飛び魚が躍る活き活きした景色を詳細に描述した。秦漢時代になり、秦の始皇帝と漢の武帝が相次いで阿房宮、上林苑など広大な園林を建設した。とりわけ漢の武帝の上林苑は、庭園の四方が3百里、その中に七十ヶ所余りの離宮が建てられ、更に珍しい草花が植えられ、希少な鳥や珍獣が飼い馴らされていた。
 
 唐宋両朝の時代、中国の造園芸術が更に発展し、長安の曲江池、芙蓉園、汴梁(今の開封)の艮岳(万歳山)など、皆占有する土地が極めて広大で、自然の山水を敷地内に含む皇室の名園であった。同時に、各地の官吏や名士、富豪が個人的に作った園林も益々盛んに造営された。とりわけ明代には、山紫水明(山は緑したたり、川は水清らか)、優れた文人が集まった江南一帯では、士大夫の造園の習慣が一時期極めて盛んであった。多くの著名な文人や画家が自ら園林の企画や設計作業に参加し、ここから中国江南の文人、士大夫の園林の、美しく雅(みやび)で垢ぬけし、このうえなく緻密で巧みな独特の風格が形成された。今日、天下に名声がとどろく蘇州の拙政園、留園などは皆、この当時作られた庭園の傑作である。
 
 つまり、中国の園林芸術は、清代以前にたいへん高いレベルに到達し、優秀な伝統を有していた。而して自然の山川の景色と人工的に作られた芸術的建造物を結合させ、美しく調和のとれた効果を上げるのが、中国の庭園が欧州の「幾何学式の庭園」(18世紀以前の欧州の庭園の主要な特徴は、自然の山水の姿の再現ではなく、一切の山水や地形、樹木、草花を皆、建造物を形作るのと同様、幾何学形状に構成することだった)と異なる主要な特色であった。
 
 清代前期、国力が強盛で、農業、手工業、商品経済が発展し、このことが、庭園芸術の一層の向上を含む文化の発展に、有利な物質的基礎を提供した。康熙から乾隆年間まで、中国の庭園建設のレベルは新たな段階にまで発展し、承徳と避暑山荘、北京北西郊外の三山五園のような優秀な庭園が出現した。清漪園とその後身の頤和園は正にこれらの庭園の代表であった。その建造には、中国北方の山や川の雄渾で広大な勢いと、南方の水郷の婉曲で様々な表情を持つ自然の景観が一体に溶け合い、帝王の宮殿の雄壮豪華と民間の邸宅のこのうえなく精緻で巧みという、性質の異なるものを併せ持ち、同時に宗教寺院の建造物の荘厳で神秘な雰囲気をもにじませ、これらにより山水が秀麗で、様々な景色を含んだ皇室宮苑を形作っている。これらの造形物のひとつひとつが、何れも中国の造園芸術史を研究する上で、貴重な実物資料となっている。
 
 今日の頤和園は、総面積約4,300畝(287ヘクタール)、自然の地形上は、主に北側が高く聳える万寿山、南側は広大な昆明湖で構成され、そのうち水面面積が園全体の面積の4分の3を占める。景勝地と建物のレイアウト上、全園はおおよそ東宮門内の宮殿区、万寿山前の建造物区、万寿山後方の風景区、昆明湖地区の四つの部分に分けることができる。
 
 
頤和園全図
 
宮殿区の景観
 
 頤和園の正門は東宮門と言い、きちんとして威厳があり、重々しい古建築である。この門は西側に東を向いて鎮座し、門の戸のかまち、軒の下は全て彩色のペンキできらびやかで美しい図案が描かれ、六枚板戸の大門は、目にまぶしい朱色を呈し、上面には一列一列きっちりと黄色のリベットが嵌め込まれ、門の前に高く掲げられた大きな扁額には、「頤和園」の三文字が題されていた。東宮門は当時は清朝の皇后の出入りに供し、今日は観光客が園に入る主要な入口となっている。
 
 
東宮門
 
 東宮門を入ると、一面華麗で堂々とした宮殿建築群で、主に仁寿殿、楽寿堂、玉瀾堂、徳和園などから構成され、ここは慈禧と光緒帝皇后が園内で主に活動した場所、すなわち政治活動と生活居住区であった。
 
 仁寿殿はこの宮殿区の第一の場所で、最大の建造物で、慈禧が日常の政治事務を処理した場所であった。殿内の設計は宮廷内の帝王の儀仗を真似、宝座、御案、鶴灯、鼎炉、掌扇などがあり、室内には他に多くの美しい文物や外国からの贈り物が並べられていた。仁寿殿は庭園内の宮殿建築であるので、庭園内には他に様々な銅の鋳物で作られた珍獣や、自然の山の石や植物などが飾り付けられ、宮廷内の大殿のような味気ない謹厳さはなかった。
 
 
仁寿殿
 
 仁寿殿の南側から前方に進むと、曲がりくねった回廊を通って、 玉瀾堂に到ることができた。玉瀾堂は当時、光緒が園内にいる時の居所で、大型の四合院になっていて、北側に南向きに建つ母屋が 玉瀾堂である。1898年戊戌変法の失敗後、慈禧は命令を出して 玉瀾堂の前後の通路を封鎖させ、玉瀾堂の後ろの宜雲館に住む光緒后妃さえも入ることができず、ここを光緒を監禁する活きた棺桶にした。現在も玉瀾堂の後ろには相変わらず当時積み上げたレンガ壁が保存されていて、これは慈禧が戊戌変法運動を扼殺(やくさつ)した証拠である。
 
 
玉瀾堂
 
 仁寿殿の北側の通路に沿って中に入ると、徳和園に到る。ここは専ら慈禧のために芝居を演じた場所であった。清代末、堕落した統治者たちは酒色に溺れ、腹を満たしてもすることが無く、観劇が彼らが時間をつぶす主な娯楽となった。慣例により、園内では毎月1日と15日は、芝居上演の日だった。端午節、中秋節、七夕節(7月7日)には各々芝居が三日間上演された。正月には、大晦日から1月15日までずっと芝居の上演が半月間続いた。それ以外に慈禧、光緒、皇后の誕生日にも、芝居が演じられた。一年を通じ、こんなに多くの時間芝居が演じられたが、とりわけ慈禧自身が芝居マニアであったので、徳和園の建物はことのほか凝って作られていた。園内の大舞台は、慈禧の60歳の誕生日に巨額の費用を費やし建設され、中国に現存する旧式の舞台の中で最高、最大のものである。舞台の高さは21メートル、上中下の三層に分かれ、各層の舞台には可動の床板が付いていた。上演の際、せりふの内容に基づき、俳優は「天から降ってくる」ように、上層から下層に飛び降りてくることができ、また「地を割って出てくる」ように、下層から上層に通り抜けることができ、その効果でたいへん真に迫ったイメージを表現することができた。記録によると、慈禧が誕生日の時、いつも新機軸を出すために三組の出演者が三層の舞台それぞれで同じ演目を演じ、同じ時間に開演し、節回しも全く同一で、これにより賑やかさとめでたさを表した。慈禧は芝居見物が好きで、役者たちは自然と演義をほめられるのを受け入れた。例えば名優の譚鑫培は慈禧の高い評価を受け、一時たいへん人気があり、遂には「譚貝勒」(「貝勒」は清王室の貴族の高級な爵位の名称)と呼ばれた。
 
 
徳和園
 
 徳和園を出て西に向かい、「水木自親」門を入ると、慈禧の寝宮、 楽寿堂であった。楽寿堂は昆明湖に面し、万寿山を背にし、東は仁寿殿に到ることができた。西は長廊(長い回廊)に接し、園内で最も好位置にある居住、遊覧の場所であった。楽寿堂は清漪園であった時には元々二階建ての楼閣の建物が建っていたが、光緒年間に再建後、平屋の殿堂に改められた。堂内の西暖閣は慈禧が就寝する場所で、彼女は晩年の大部分の時間をここで過ごした。堂内のレイアウトはたいへん豪華で、様々な有名な磁器、漆器や、細かい彫刻のされた玉や象牙の彫刻などの工芸品が置かれ、更に様々な貴重な木材で作られた家具が置かれ、これらは慈禧の当時の極めて贅沢な生活を反映していた。楽寿堂の周囲には更に多くの貴重な花木や岩石が配置され、例えば楽寿堂の南側の巨大な青石の景観、青芝岫(せいししゅう)があり、これは明代の有名な勺園(今の海淀北京大学内にあり)にあったものである。
 
 
楽寿堂
 
 
青芝岫
 
 楽寿堂の西側の小門は「邀月門」と呼ばれ、この門を出ると、有名な回廊(渡り廊下)である長廊を見ることができる。こうした回廊は、中国古代の園林(庭園)の中でしばしば使われる建築様式で、強い日差しや雨、雪を遮ることができ、また園内の景観をより豊かにすることができる。頤和園のこの回廊は、中国内で現存するものの中でも最長で、 邀月門から石舫の岸辺の石丈亭まで、全長728メートル、全部で273間(二本の柱と柱の間が一間)あった。長廊は時にはまっすぐ、時には湾曲し、昆明湖の北岸をめぐる七色の錦帯のようであった。
 
 
長廊

慈禧在頤和園仁寿殿前
 
三、園外の情勢(風雲)と園内での歳月(春秋)
 
 頤和園の完成後、西太后慈禧は毎年大部分の時間を園内に居住して過ごすようになった。一般には旧暦4月に頤和園に入り、10月に誕生日を過ごすと、紫禁城の宮廷に戻った。彼女は頤和園に来る度に、大勢の女官を随員として連れ、前方では道を開けるよう叫び、後ろでは彼女を取り囲んで守った。途中通過したところでは、「水を街に撒き、黄土を道に敷き」、当地の役人が跪いて出迎えた。慈禧は頤和園内で湖や山で遊び、芝居や音楽を楽しみ、6、70歳の老婆は、時には観音菩薩の舞台衣装を引っ掛けて写真を撮って楽しんだ。
 
 しかし、もしこの権威欲の亡者が一心にここで「頤養天年」(身体を休め、天寿を全うし)、国事を問わないかと言うと、それは大間違いだった。実際は、慈禧は頤和園で暮らしていたが、彼女の心腹爪牙(腹心)の大半は朝廷内の重臣で、依然として国家の実際の権力を握っており、朝廷内の政(まつりごと)は大小を問わず、やはり頤和園内で政に「復帰」した太后が首を縦に振ってはじめて有効と認められたのである。このように、頤和園は実際には清代の最高権力の決裁センターになっており、1896年以降の清末の歴史上のどの重大事件にも、ほぼ全てここが密接に関係し、国内外の政治の舞台の上で、どの政治上の変化も、ここの湖のほとりや山のふもとで痕跡を残したのである。
 
 人々の記憶になお新しいのが、先ず1898年(光緒24年)、慈禧が頤和園内で指揮を執り、中国近代史上に積極的な意義と深遠な影響を残した戊戌変法運動を残酷に鎮圧したことである。
 
 甲午戦争(日清戦争)の失敗後、北洋海軍は全滅し、「馬関条約」(下関条約)での領土割譲、賠償金支払いという、一連のこの上もない恥辱は青天の霹靂の如く、幅広く中国の民衆を政治的に目覚めさせた。ごく短い時間内に、「4億人が一斉に涙を流し」、救国の声が国の内外で叫ばれ、生存を図ろうとの議論が北京中に広まり、早くも1870-80年代にはもう維新思想が密かに流行し、間もなくそれが変法、革新を要求する激しい波濤に発展した。1895年(光緒21年)5月2日、広東の挙人、康有為が、各省から北京に入った挙人1300人余りを率い、連名で光緒帝に上書し、戊戌変法運動が幕を開けた。この時、若い光緒帝も、民族の危機、国家の悪運に揺るがされ、彼は康有為が上書の中で提起した政治主張に賛成し、朝野の有識者の支持と実行の下、1898年(光緒24年)6月11日、国家大政方針を確定する詔書を公布し、正式に変法を宣言した。この日から同年9月21日に慈禧が政変を発動するまで、合計103日の期間が、歴史上言われる「百日維新」である。
 
 変法の開始以後、光緒の頭の中ははっきりしていて、朝政の実権は相変わらず頤和園に隠居した慈禧の手中にあり、変法の成果を少しでも得ようと思っても、最後は慈禧の意向によって決められるのである。このため、光緒は変法の百日の中で、12回頤和園に出向いて慈禧にご機嫌をうかがい、太后のお伴をして「駐蹕」(ちゅうひつ。帝王が行幸中に一時乗り物をとどめること)し、彼女の賛同と支持を得ることを希望した。而して朝廷内のあくまで祖宗の定めた決まりを守るべしとする保守派の大臣たちも、再三頤和園に飛んで行って、慈禧に光緒の行状を告げ口し、甚だしきは涙を流しながら太后に「垂簾聴政」の復活を訴え、光緒の「不軌」(違法)な行為を制止せよと断固として要求した。
 
 しばらくの間、紫禁城から頤和園までの20里余り(10キロほど)の道を、変法を決意した皇帝と、変法に反対する大官僚が互いに往き来し、たいへん賑やかであった。総じて、人々は頤和園に注目し、園内にいる慈禧に注目することとなった。
 
 而して慈禧本人は、この時極めて平静で、沈黙を保っていた。この封建保守派の親玉は、如何なる進歩的意義を持った改革にも極端な恐懼(きょうく)と憎しみの心理を抱き、光緒が実行した変法に対し、彼女はとっくに甚だしく憎しみ、ただ甲午戦争敗戦後の国内輿論の圧力に迫られ、また国際的にとりわけ英米帝国主義の光緒へのある種の支持により、彼女はまだ直ちに関与するのは具合が悪かったので、それで更に狡猾な一手を打ち、これを「欲擒故縦」(完全にとりこにするため、まずわざと放つ。後で手綱を引き締めるために、まずそれを緩める)と呼んだ。
 
 頤和園に挨拶に来た光緒に対し、彼女は黙って顔色ひとつ変えず、いかにもわざとらしく世話を焼き、祖制に背かない限り、国事は自分で決裁ができた。光緒の行状を告げ口に来た保守派の大臣に対し、彼女は見ていないか、或いは見ても明確な態度を示さず、ただ「笑って語らな」かった。泣いて出て行こうとしない者がいると、彼女は厳しく責めて言った。「おまえはなぜこんな余計なお節介を焼くのか。道理でわたしの見立てはおまえに及ばない訳だ。」
 
 その実、深思熟慮を重ねた慈禧は、とっくに密かに手はずを整え、兵を準備し将校を派遣していた。彼女は先ず、光緒の先生で、光緒が自ら政(まつりごと)を執行するのを支持していた大学士(清代の大学士は、中央の最高官署である内閣の長官である)、翁同龢(おうどうわ)を故郷へ帰らせ、朝廷の中で光緒を支持する勢力の力を削いでいた。続いて、また全ての二品以上に任命された全ての官吏に命じて、頤和園に来て太后の面前で恩に感謝させ、人事の大権を抑えた。最後に、彼女は自分が信任する栄禄を文淵閣大学士兼直隷総督(清代の総督は、最高の地方長官で、一省或いは二、三の省の軍事、民政の重要事項を統轄した。直隷は、今の河北省全体とそれに隣接する河南、山東、内蒙古の一部に相当する)に任命し、北洋軍隊を統率し、軍権を掌握した。こうして、光緒は実際は依然として慈禧が掌中でいつでも取ることのできる獲物で、「その跳躍に任」されてはいたが、結局のところそこから逃れ去ることはできなかった。
 
 光緒は四方至る所に潜んだ殺意を感じた。9月16日、頤和園玉瀾堂で、当時天津小站で北洋新軍を訓練していた袁世凱を引見し、彼になんとか救い出してくれるよう要求した。9月18日、変法派の譚嗣同はまた光緒の密書を帯て袁世凱に会い、彼に栄禄を殺し、変法運動を救うよう要求した。1898年9月21日早朝、慈禧は栄禄の報告を受けると、直ちに頤和園から宮廷に戻り、再び朝政に臨むことを宣言し、積極的に変法に参与していた譚嗣同ら六人を残酷に殺害し、光緒までも頤和園玉瀾堂に投げ込み(城内にいる時は中南海の瀛台に幽閉した)、慈禧の「階下囚」(囚われた捕虜)とした。戊戌変法運動はこうして失敗に帰した。
 
 1900年(光緒26年)、義和団運動が爆発し、慈禧は頤和園内で自ら指揮を執り、先ず利用し後で扼殺(やくさつ)する手段を取り、義和団に対して血生臭い鎮圧を行った。後に、八ヶ国連合軍が北京に迫ると、慈禧は光緒を連れて慌ただしく西安に逃れ、頤和園は再び侵略者の魔の手に落ち、最初にロシア軍の破壊を受け、その後イギリス、イタリア軍駐屯の兵舎となった。
 
 1901年(光緒27年)、慈禧は慶親王奕劻(えききょう)と李鴻章を表に立て、八ヶ国連合軍と、中国近代史上最も屈辱的な『辛丑条約』を締結し、4億5千万両の銀子の巨額賠償、その他の条件を代価として、帝国主義勢力の保護下でその反動統治の地位を維持することができた。慈禧は一度損をしたことで、売国の技を学ぶようになった。列強各国の銃剣の下で自分の玉座に安心して座っているため、彼女は何があっても帝国主義を頼みとし、「中国の国力に依り、できるだけ列強を歓ばせる」という旗印を掲げ、全面的な売国活動を始めた。頤和園は、また各種の活動の重要な拠点となった。
 
 1902年、慈禧は西安から北京に戻ってすぐに、咸豊帝時代以来の皇帝、皇太后は外国使節に会わないという前例を破り、正式に各国の北京駐在使節を引見した。彼女は外交を主管する外務部に示唆し、毎年3、4月と8、9月を外国使節に頤和園を遊覧してもらう日と規定した。これより、これら使節と彼らの夫人などの家族が頤和園に出入りする「常連客」となり、しばしば慈禧に「湖の遊覧」、「招宴」などの名目で、頤和園に招待され、園内で遊覧した。同時に、慈禧はまた自分の身辺の婦女子、公主、格格(清代の貴族の女子の呼称。位は公主以下)たちを外国大使館での宴会に参加させた。西洋の招待客のご機嫌を取るため、頤和園内での外国使節招宴で出す料理は園内の厨房では作らせず、特に北京城内の外務部に頼んで西洋料理のレストランの厨房で作った料理を運ばせた。その出費は巨額、宴会はたいへん豪華で、遂には西洋料理を得意とする料理人の余某はこれにより立身出世し、彼は「家財が富み栄え」、「宮廷とつながり、富豪たちと通じ」、ひいては「料理人界の大総統」と呼ばれるようになった。
 
 
慈禧が外国公使夫人を接見
 
 ことばのコミュニケーションの利便のため、慈禧は人を上海に派遣し、フランスから帰国していた清政府駐フランス公使の裕康のふたりの娘、徳齢、容齢を頤和園に招聘し、「御前女官」に任じ、専ら慈禧が外国使節やその夫人を引見する時の通訳をさせた。
 
 1903年、アメリカ駐華公使エドウィン・ハード・コンガー(Edwin Hurd Conger。康格)夫人がキャサリン・カール(Katherine Carl。卡尔)という女性画家を紹介し、宮廷内で慈禧の肖像を描いた。
 
 
キャサリン・カール
 
慈禧は元々人に肖像を描かれるのを好まなかったが、西洋の大人の推薦であるので、二つ返事で承諾した。事前に取り決めて、絵はアメリカに送られ、外国人の面前で彼女の「聖容」を展示することになっていたので、慈禧はこの画家をあれこれと可愛がった。「御前女官」、容齢が後に書いた『清宮瑣記』での回想によると、このアメリカ人画家は清朝宮廷内の決まりを知らず、頤和園内をあちこち勝手に走り回っただけでなく、慈禧が暮らす楽寿堂の前の樹木に実った、誰も恐れ多くて触れることのなかった果実を摘んで食べ、彼女のお伴で控えていた人はびっくりして冷や汗をかいたが、慈禧はそれを知っても別に怒らず、却って笑って言った。「彼女に食べさせればいいわ。」
 
 慈禧は一心に自分が永遠に若さを保つことを切望し、この点は彼女がカールの絵の中で満足した。なぜならカールは彼女を正装し華やかに化粧した姿で描き、あでやかな姿が目の前にあるかのようであったからである。慈禧は大清朝の領土が永遠に保たれるよう望んだが、この望みはかなわなかった。清朝の統治者が帝国主義者たちと頤和園で賑やかに交わっている時、広範な民衆たちは日一日と覚醒し、彼らは、中華民族がこの半世紀以来受けて来た虐げは、その根本が全て腐敗し尽くした清封建王朝にあり、清朝の反動的な統治者たちが投降的な売国政策を行ったからで、中華を振興するには、清朝の反動統治を打ち倒さねばならなかった。それで、中国近代史上の偉大な辛亥革命がはぐくまれ始め、最後には爆発したのだった。
 
 
カールによる慈禧肖像画
 
 辛亥革命は皇帝を宝座から追い出し、中国で2千年以上続いた封建専制制度を終結させ、同時に頤和園を皇室の庭園とする200年の歴史を終結させた。しかし、当時の北洋軍閥の首領、袁世凱と清皇室が締結した条件により、頤和園は依然位を降りた宣統皇帝溥儀の所有に帰した。1914年、この庭園は彼の私有財産として、切符を売り開放した。1924年、溥儀は天津に逃げ、頤和園は当時の北京政府が受け継ぎ管理し、公園に改めたが、入場料はたいへん高価で、一枚の入場券の価格で当時は数十斤の小麦粉を買うことができ、しかも北京城から比較的遠く、また便利な交通手段も無く、したがって一般の庶民は依然として行くことができなかった。
 
 これ以後の数十年、頤和園はまた日本帝国主義や国民党政府により接収された。
 
 頤和園が民衆の手に戻ったのは、1948年12月、人民解放軍の砲声が北京城外にゴロゴロと響いた時で、頤和園は先ず北京市に入り、新たに生まれ変わった。万寿山の東麓の景福閣で、人民解放軍の代表と国民党の有識人士が歴史的意義のある話し合いを行い、北京の平和解放の協議が成立した。
 
 頤和園の歴史に、新たな1ページがめくられた。
 
 

西太后慈禧
 
二、西太后慈禧の「帰政」(政務の奉還)と頤和園の築造
 
 英仏侵略軍の焼き討ち、掠奪、破壊は、清漪園を二十数年間に亘り荒廃した状態にした。この期間、外国資本主義勢力は中国に軍事的な侵略を強めただけでなく、政治から経済までより一層の侵入と掠奪を行った。乾隆帝は曾て「天国上邦」(この世の天国)と自慢した封建大帝国は、この時代には『紅楼夢』で冷子興が形容する栄国府が、「架子虽没很倒、内囊却也尽上来了」(柱はまだ倒れていないが、中の棉は尽く出てきてしまっている)のと同様の状態であった。
 
 政治の危機、経済の逼迫は、清朝の統治者を一時的に園林の中の湖や塔の光景などに構っていられない状態にさせた。1873年(同治12年)、朝廷内には円明園修復の動議があったけれども、国庫が逼迫し、経費を準備するのが困難で、着工してしばらくして朝野の反対の声の中で中断した。
 
 帝王の家の庭園工事は果たして本当にこれで終了したのだろうか。いや、そうではなかった。1886年(光緒12年)、人々が北京西郊の建物の残骸のことを次第に忘れ去ってしまった頃、清漪園の廃墟で、昆明湖の湖畔に「水師内学堂」を再建するとの旗印の建設工事隊が密かに活動を始め、まとまったゴミを取り除き、元の清漪園の主要な建物跡の上で再び工事が始められた、二年後、園内のあちこちの宮殿建築群がまた奇跡のように万寿山の前や昆明湖の周囲に再び現れ、彫刻された梁、絵を描かれた棟木が彩豊かに輝き、曾ての清漪園の風采、風格を少しも失っていなかった。
 
 人々は思わず聞かずにはおれなかった。これはどうしたことだろうか。
 
 実は、これは当時の国内の政治の舞台の上で、清朝の統治者グループの中で、朝政の大権を握っただけでなく、極めて反動的で腐敗した人物が現れたのである。それは即ち那拉氏慈禧(西太后)であった。正に彼女が、統治集団内部で、陰謀手段を用いて国家の最高権力を奪取し、国難が眼前に迫り、内外ともに困難に陥る中、国の財力を傾け清漪園の山水の再整備をしたのである。この時から、彼女の名前はこの新たに建てられた庭園、頤和園と密接に関連づけられるようになったのである。
 
 慈禧(じき)は、姓を那拉氏と言い、彼女は皇太后になってから「崇拝」(崇奉)される美称(徽号)となった。彼女は元々清入関後の第7代皇帝咸豊帝の妃で、咸豊の唯一の息子である載淳を生んだことから貴妃に昇格した。1860年英仏連合軍が北京を攻撃し、咸豊は熱河(今の承徳)避暑山荘に逃げた。翌年、即ち咸豊11年、咸豊は熱河で病死し、皇位はわずか六歳の太子載淳が継承し、 慈禧は皇帝の生母の身分で、咸豊の皇后鈕鈷禄氏と共に皇太后と尊称され、慈禧は西宮に居たので、西太后と呼ばれた。間もなく、 慈禧は海外の帝国主義勢力と激しく戦っていた恭親王奕訢(咸豊の兄弟)と結託し、宮廷の政変を発動し、咸豊の遺言(遺詔)の中で幼い皇帝の輔佐を委託し執政を重任された端華、載恒、粛順ら八人の王や大臣を全て死刑或いは処罰し、ふたりの太后が朝政に臨み、「垂簾聴政」(皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中に座って政務を行うこと)の局面を実現した。これより、 慈禧は表面上は慈安太后と国事を「同治」し、然るに実際はずっと大権を一手に握った。1873年から74年の一年間は 慈禧が表面上は息子の載淳に「帰政」せざるを得なかったのを除き、清王朝の最高権力はずっと彼女の手のひらの内で操られていた。
 
  慈禧の暴威と権謀術策は、多くの大臣が実際に見て、心の中では、いつかこの女の手の中で、官位を奪われ命を失うことのみを恐れた。こうした恐懼(きょうく)の心理は、同治の後皇帝に立てられた載湉(さいてん)の実の父親である醇親王奕譞(えきけん)の身の上にたいへん突出して表れていた。奕譞は咸豊の弟で、また 慈禧の実の妹の夫であり、彼は自分のこの義姉兼兄嫁の気性を誰よりもよく知っていた。それゆえ1875年(光緒元年)彼が自分の息子に皇位を継承させるという「懿旨」(皇太后や皇后の詔令)を受け取って後、少しもうれしくなかっただけでなく、却って直ちに「知らせを聞くや激しく泣き叫び、人事不省になり地面に顔をうずめ、助け起こしても立ち上がることができなかった」。1881年(光緒7年)慈安太后が急死したことは、彼にとってより大きな刺激となった。息子ないしは自分の地位を保つため、彼はより一層恐れてびくびくするようになり、極めてうやうやしく、慈禧のご機嫌を取ることを自分の唯一の責務と見做した。
 
 1885年(光緒11年)清朝は海軍衙門を設立し、奕譞は総理海軍事務に任命された。この時、16歳の光緒帝は、ちょうど親政をすべき年齢に到達していた。奕譞は、慈禧がとっくに西郊の園林を再建する心づもりがあることを十分知っていたが、ただその経費や口実が無いことを案じていた。慈禧の歓心を買い、彼女が帰政(政務の奉還)後に楽しむ場所を確保するため、奕譞は海軍衙門就任後の最初の仕事として、頤和園の建設工事の提唱と主管に全力を傾けた。
 
 醇親王のこのふるまいは、果たしてちょうど慈禧の気持ちにかなった。元々、彼女はこの近代軍事科学に太子てずぶの素人の皇帝の親族に海軍を運営させたのも、その着眼点は海上には無く、金銭面のためだった。それというのも、当時の清の宮廷の各部署の中で、海軍衙門が最も予算を持つ部門に数えられ、極力自分に忠誠を尽くす者をそこにやって主管させれば、海軍衙門の巨額の予算も自然と、思いのままに移して彼女が用いることができるのだ。曾て円明園の工事が反対に遭い中断されたようなことが二度と起こらないよう、慈禧一派は更に「花を移して木を接ぐ」計略を考え出し、昆明湖の傍らに「水師内学堂」を設立し、それによってここに祖制を回復させ、海軍を「操練」(乾隆年間、昆明湖で水師を操練したことを指す)するのだと意思表示させた。こうして、慈禧の園林建設は堂々たる理由を得たのであった。海軍を「操練」するためであるからには、当然海軍の経費を使用しなければならない。そして皇太后は常に海軍の「操練」の情況を視察して回らないといけないので、当然太后御用の建築施設もいくらか必要になる。こうして海軍経費の使用は名実ともに正当になっただけでなく、園内の建築工事も当然やるべきものとなった。
 
 以上の諸事が、清漪園内で工事が始まった真相である。
 
 俗に、紙で火は包めないと言う。慈禧が弄んだこうした自分で自分を欺くごまかしは、朝廷の大臣たちさえもごまかしきれず、当時戸部尚書(戸部は財務を管轄する中央部局で、その長官を尚書と言う)の翁同龢(おうどうわ)は1887年1月17日(太陽暦。旧暦では光緒12年12月24日)の日記の中でこう書いている。「慶邸(奕劻)は朴庵(奕譞)に晤(あ)い、深く時局を談じ、囑して吾輩に転告し、当(まさ)に其の苦衷を諒す。蓋し昆明湖を以て渤海に易(かえ)るは、万寿山を滦陽に換えるのみ。」この話は、慈禧の庭園建設の真の意図を論破している。ここで言う「渤海」は、北洋海軍の真の 操練地、渤海である。そして「滦陽」とは滦河の北に位置する熱河の避暑山荘である。昆明湖を渤海の海軍操練に充て、万寿山で避暑山荘に代えて保養、遊覧するというのは、一言で言えば、海軍演習の名目を借りて清漪園再建を行うということであった。とはいえ、たとえそうであっても、朝廷中の何人かの目の醒めた大臣たちも、不満に思っても敢えて意見を述べることはなかった。
 
 朝臣を欺けないなら、一般大衆はなおさら欺けない。ほどなく、清漪園建設開始の知らせは北京城内外に広まり、清漪園の完成を待って、更に大規模に円明園の再建が始まるとまで言う人さえ出て来た。
 
 朝野の上下の人々の議論とともに、慈禧は幾分座っていられない状態になった。というのも、この時ちょうど北京地区で水害が猛威をふるい、続いてまた黄河が決壊し、幾千幾万の飢えた人々が家や畑を失い、死亡線上に瀕する状態になった。こうした情況下で、彼女はもし継続して庭園建設工事を隠しごまかしていたら、却ってもっと彼女に不利な猜疑やうわさが引き起こされ、ひとたび民衆蜂起が巻き起これば、後の結果がどうなるかは見当がつかなかった。そして、1888年(光緒14年)3月13日、慈禧は急いで光緒の名義で「上諭」を発布し、正式に清漪園の工事を公表し、また再建後の庭園を「頤和園」と命名した。この庭園の名前には、「帰政」(政務の奉還)後の慈禧が「頤養太和」(休養して大いに穏やかになる)という意味が含まれていた。朝野の不満を静めるため、この 「上諭」ではまた隠そうとして益々その内容を明らかにするような声明を行った。頤和園の建設経費は宮廷内の日常の支出の中から「節約」して捻出し、国家の経済や人民の生活は少しも損なうことがないと言うのだ。
 
 しかし、この聞く人の興味をそそる弁明は、およそ多少なり頭のよい人なら、鼻でせせら笑うだろう。本来、この当時の清政府の財力で、毎年の正常な支出さえも十分にまかなうことができないでいて、どうして「節約」とか何とか言えるのだろうか。いったい清末の史籍の中に記載されたこのような事象から、慈禧の「節約」がどんな性質であったかを頗るよく説明してくれるのである。
 
 光緒年間、戸部に閻敬銘という名の頭の良い尚書がいた。彼は当時の国外の先進的な工業技術を理解していて、国内に導入し、国力を振興したいと熱望した。彼は戸部の事務を引き継ぎだしてより、戸部の正常な支出の中からまた幾ばくかの金を「ほじくり」出して、京漢鉄路建設の費用を残しておこうとした。八年の努力を経て、果たして彼によって1千万両の銀子を集めた。朝廷の中で慈禧を頭とする保守派は、西方の一切の先進技術、とりわけ鉄道、汽車をおしなべて「奇淫異巧」(奇技淫巧。新奇な技術)と見做し、これは「天朝上国」の尊厳を損ない、祖先の墓の「風水」を破壊し、それによって「変而従夷」(夷狄に従うことになってしまう)と恐れようとは誰が知ろうか。鉄道の建設ができず、閻某はまたこの金を新たに海軍を作る経費にしようとした。しかしこのことが慈禧に知られ、彼女はちょうど頤和園建設の予算に途方に暮れていたので、このようなまとまった現金があるのを聞きつけて、どうして容易くほっておくことができよう。それでいつも戸部に手を伸ばすようになった。閻敬銘は慈禧が金を使う目的を知って、当初は断固として渡さないようにし、このことは慈禧を激怒させた。やかましくした後、弱い者は結局強者に勝てず(胳膊擰不過大腿)、閻敬銘は無理強いさせられどうしようもなくなり、官を辞して故郷に帰らざるを得なかった。彼が職を離れるや、1千万両の銀子も慈禧一味の手の中に落ちることになった。
 
 頤和園の建設費用は、上記で述べた鉄道建設費用を含め、主には流用した海軍の経費であった。毎年固定の3百万両は、醇親王が主管する海軍衙門から定期的にまわしてきた。こうしてその後、海軍衙門は遂に頤和園の後勤供給とサービス機関になった。頤和園が西洋人から贈られた一艘の小汽船を得ると、海軍衙門はすぐさま輪船(汽船)公所を増設した。頤和園が電灯を取りつけると、海軍衙門はまた直ちに電灯公所を成立させた。これら汽船、電灯の管理社員までも海軍衙門の管轄で、高額の給料をもらっているだけでなく、毎年更に「軍功」によって一定の追加収入さえもらえたので、道理で当時の多くの人が、辛辣に海軍衙門は「新内務府」で、「頤和園の工程師(エンジニア)」だと呼んだ。
 
 海軍衙門の定期的な資金割り当て以外に、頤和園の建設費用はかなりの部分が各地の、様々な人々の寄付や「報効」(恩に報いるために努力すること)から賄われた。何を「報効」と言うのか。実は、清朝末期、清朝の統治者は王朝の退勢を挽回し、国庫の不足を補うため、公然と売官活動を行った。一定の等級以下の官位は、その高低大小に依って、様々な価格の銀子で買うことができた。頤和園着工後、多くの官僚、商人が、これは慈禧の歓心を買うチャンスと捉え、直接銀を贈って造園に使ってもらったが、これを「報効」と呼んだのである。慈禧も、こうした人々を「報効」の多少で、彼らを官に封じて任用したのである。この面の資料は、多くの史籍に記載があり、近代の著名な小説、例えば『孽海花』、『官場現形記』の中でもっと徹底的に(淋漓尽致)暴き出されている。その中で最も典型的なのが、「玉銘之案」である。
 
 玉銘は材木商人で、醇親王が家廟を建設する工事を請け負ったことにより、そこから多額の銀子を獲得した。後に、彼は宦官と結託して、宮廷内の骨董や宝物を盗み出して転売し、数十万両の銀子の資産を蓄えた。玉銘は大金持ちになって後、更に役人になりたくなり、先ず金を出して北京の官吏の官位を買い、吏部の下級役人になった。しばらくして、彼は慈禧がちょうど頤和園の造営費用のために方々に手を伸ばしていると聞き、彼女に気に入られようと30万両の銀子を取り出して、頤和園の工事への「報効」としたのである。
 
 慈禧は金を見るとすぐに態度を改め、間もなく光緒に指示し、四川塩茶道(道は省と府州の間の行政区分で、その長官を道員と言う。塩茶道は省内の塩茶の事務を管轄した。)という実入りの多いポストに玉銘を任命する命令を出させた。光緒は玉銘の身代を築いたいきさつを元々うわさに聞いていたが、太后の意志を無下に逆らう勇気もなく、了解するしかなかった。後に、玉銘が御殿に上り、皇帝に面会して恩に感謝した。光緒は彼にどこで役人をしていたか、どうして商売をやめて役人になったのか尋ね、愚鈍な玉銘はどう答えてよいか分からず、遂には御殿の上で商売のこつを大いに語り、また一部始終を承認した。それというのも、役人になると金が儲かり、特に 四川塩茶道のような官職は大金が手に入るからである。
 
 玉銘の話を聞いて、光緒は泣くに泣けず、笑うに笑えなかったが、彼は更に玉銘に字が書けるか、自分の履歴が書けるか尋ねた。玉銘はしばらく口ごもっていたが、その後しぶしぶ紙や筆を手に取ったが、あろうことか、あらん限りの力を尽くして、ようやく自分の名前、「玉銘」の二字を書いたが、書かれたものはのたくって字の形を成していなかった。光緒はこうした様子を見て、実に我慢しようにも我慢できず、直ちに彼を叱りつけて退出させ、且つ彼を降格処分にする命令を出した。光緒のこのふるまいを、慈禧は当然容赦することができなかったが、それを阻止する理由も無かったので、彼女はなんとか口実を見つけて、光緒が寵愛する珍妃を厳しく処罰して、ようやく終わりとした。
 
 慈禧を代表とする清朝の保守派は、国難が眼前に迫っている時に、国家の軍費の流用を惜しまず、内政が衰えぼろぼろになった時に、率先して官位を商品として販売し、そしてこうするのは、単に自分の娯楽享受に供する庭園を建設するためなのである。正に梁啓超が『戊戌政変記』の中で言っているように、慈禧は「只だ一園(頤和)有るを知り、而して国有るを知らず」、「但(ただ)頤和の咫尺之園を保ち、而して日日地を割き権を失う」。これは、このような政府が、既に何等もの腐敗した地歩に堕落し、このような統治者は、既にこのような暗黒の末路、行き詰った状態に行き着いたことを、極めて深刻に表明した。
 
 頤和園の建設は1886年(光緒12年)から始まり、1896年(光緒22年)終了し、前後丸々十年の時間を費やした。庭園建設の全部の費用は、当時の清漪園の建設費用より、更に大きな金額を要した。その具体的な数字は、いくつかの説がある。あるものは2千万両と言い、あるものは3千万と言い、また8千万両と言うものもあるが、いったいどれが正しいかは、更なる調査が必要である。
 
 1894年(光緒20年)、日本帝国主義が点火した甲午戦争の砲火が黄海の海面をぼうぼうと燃やしていた時、頤和園はちょうど忙しく装飾のクライマックスに入っていた。この年の旧暦10月10日は、ちょうど慈禧の60歳の誕生日で、盛大な長寿祝いの「祝賀の儀式」を挙行するため、清朝廷の上下は早くも二年前から様々な準備を始めていた。慈禧の心づもりでは、頤和園を彼女の長寿祝いの主会場とし、園全体の内外にちょうちんを掲げ、色絹を飾り付けることにしていた。これでもまだ足りず、紫禁城の西華門から頤和園の東宮門まで、途中に各種の形式の舞台、飾り付けしたテントを60ヶ所架けわたし、「点景」(沿道の飾り付け)とした。儀式のときになると、慈禧は「金輦」(皇帝用の駕籠)に乗り、西華門を出発し、西安門、西直門を経て頤和園に向かい、そこで文武百官の朝賀を受けた。
 
 しかし、慈禧の良い夢は長くは続かなかった。甲午戦争が日増しに拡大し、情勢が益々厳しくなるのを目の当たりにして、戸部は形勢が悪いと見て取り、やむを得ず頤和園の長寿祝いの装飾工事の中止を要請した。当時、主戦派の光緒帝は何人かの大臣と一緒に次々と慈禧に「点景」(沿道の飾り付け)をやめて、この費用を軍費に使うよう要請した。しかし、慈禧は言うことを聞かなかっただけでなく、却って恨めしさと恥ずかしさで怒り出し、彼女は容赦なく威嚇して言った。「おまえたち、誰がわたしを今日不愉快にさせたのか。それならわたしはおまえたちを一生不愉快な目に遭わせてやるぞ。」
 
 この時、慈禧は屈辱的に講和を求める方針を決め、根本的に再戦のつもりはなく、ただ速やかに和平交渉をすることを求めた。それで、前線の愛国戦士が勇敢に抵抗し、満腔の熱い血潮をどんなに黄海にまき散らしても、戦争はやはり失敗のまま終わりを告げた。北洋海軍が全滅し、台湾が日本に割譲された時、頤和園内では相変わらず芝居の舞台が高く築かれ、歌ったり踊ったりして太平を謳歌していた。正に当時の民謡でこう歌われたように。「台湾島は既に日本に帰属し、頤和園にはまたアンペラ(お祝いの会場のテント)が架けられた(搭天棚)。」
 
 もし清漪園の建設から破壊までが清王朝の隆盛から衰退までを反映していると言うなら、頤和園の建設自体が、清王朝が完全に滅亡する前の最後の輝き(回光返照)であったのだろう。

頤和園全景
 
 中華書局出版社1984年発行の『名勝古跡史話』の中から、前回『避暑山荘史話』を日本語でご紹介しましたが、今回は『頤和園史話』をご紹介します。頤和園の歴史は、なんといっても、清朝末期に西太后が海軍の整備費用を流用して作られた皇室庭園として有名です。
 
頤和園史話
 
 中国の著名な古典庭園(中国では普通「園林」と言う)、頤和園(いわえん)は、北京城(城壁で囲まれていた旧市街)の西約10キロの郊外にある。園内には、明るく澄み切った湖水、青々として秀麗な山々、極彩色に輝く殿宇、たいへん手の込んだあずまやや回廊がある。おだやかな風がのどかに吹きそよぐ春の日、或いは天高くさわやかな秋の日、頤和園の門前はいつも車や人の流れが途絶えることが無い。それは万寿山と昆明湖で形作られる美しい庭園の景色の一場面で、もはや首都北京の象徴のひとつと言うことができる。この庭園の建設の経緯やその盛衰は、一面では中国近代、とりわけ過去百年の歴史を反映している。
 
 それでは、先ず頤和園の前身である清漪園(せいいえん)から話を始める。
 
一、清漪園について
 
 頤和園の前身は清漪園は、清朝の北京入城後、第4代皇帝、乾隆が在位の時、建設を主導した。この時の建設がその後の頤和園全体の基礎を打ち建てており、頤和園を語るには必ず清漪園から話を始める必要がある。
 
 今から八百年余り前、今日頤和園がある場所は、山があり水の流れるすばらしい場所であった。ここの山は、北京西側の群山の支脈のひとつで、名を甕山と言った。ここの水は、西側の群山の中から流れ出る多くの泉からの水の流れが集まってでき、甕山の麓で広大な湖を形成し、それが甕山泊と呼ばれた。こうした青々とした山と美しい水の流れる自然の景観は、北方の原野では得難いもので、それゆえ当時ここを統治した金朝の皇帝はここに行宮を建立し、しばしばこの地に来て遊んだ。元、明の両朝になって、北京城は大規模な修築を経て、中国全土の政治文化の中心となり、甕山一帯の風致地区は一層人々に重視され、次第に開発、利用されるようになった。甕山泊の水域は魚の養殖や菱の栽培に利用され、広く稲が植えられ、農業や各種の作物が生産されるようになった。毎年夏になると、この湖の中では蓮や菱が群生し、岸辺には柳の枝が緑したたり、木々の間に村落が見え隠れし、至る所水田が広がり、美しく豊かな景色は、あたかも江南の水郷のようであった。甕山の山間には、十数ヶ寺が次々建てられた。古刹の赤い壁、緑の瓦、夕方の太鼓、朝の鐘の音により、更に当地の景色に多くの優雅で厳かな情趣を加えた。
 
 ここは次第に人々が暑気を払い夏を乗り切るに良き場所となり、多くの名士がここに来て湖で遊び山に登り、多くの当地の景色を賛美する詩句を作った。例えば明代の江南の名士、文徴明が『西湖詩』(甕山泊は北京の西側にあるので、明代にはまたここを西湖と呼んだ)の中で詠んだ「十里青山行画里、双飛白鳥似江南」、清代の著名な画家、「揚州八怪」のひとり、鄭板橋が『贈甕山無方上人二首』の中で吟詠した「雨晴千嶂碧、雲起万松低」、何れもこのような佳句である。わたしたちは更に明代専ら山川の風景の描写を得意とした詩人、王直の『西湖詩』を取り上げ、彼が甕山の風景をどのように描写したか見てみよう。
 
 玉泉は東に匯(めぐ)り平沙を浸す,八月の芙蓉は尚花有り。
 曲島の下鮫女室通ず,晴波は深く梵王家を映ず。
 常時鳧雁は清唄を聞く,旧日魚龍は翠華を識(し)る。
 堤下に雲を連ね粳稲熟す,江南の風物は未だ宜く夸(ほこ)らず。
 
(詩中の「芙蓉」は、ハスの花。「鮫女」は、伝説で海中に住むという龍女。「鮫女室」は、湖水の人里離れて静かなことを形容している。「梵王家」は仏寺を指す。「清唄」は、仏教の儀式の中で仏を称賛する歌声を指す。「翠華」は、皇帝の儀仗(その中にカワセミの羽で飾った旗を使ったものがあった)を指す。ここでは皇帝がここに遊覧に来たことを指す。)
 
 甕山一帯には、明代の皇帝や高位高官の人々(達官顕宦)が多くの遊覧のための人工の施設、例えば湖景を鑑賞する望湖亭、釣魚台などを建造した。明の神宗がまたここで「水猟」活動を行った。しかしながら、ここが真に皇室が独占する宮廷の苑囿(園林)になったのは、やはり清王朝が興って以後のことであった。
 
 1644年(明崇禎17年)、清軍が入関(万里の長城を居庸関を越えて北京に入城)し、北京を占領した。満州族貴族が建国した清王朝は、明末の農民蜂起を鎮圧し、明王朝の残余勢力を消滅させて後、次第に中国全土の統治を行った。長い年月を経て、満州族貴族が山野を駆け回る(馳騁)兵事(金戈鉄馬)の生活が習慣になっていたが、入関以後、彼らの最高の首領である清朝の皇帝は紫禁城内のものものしく深奥な宮殿に住むようになったが、相変わらず山林を駆け狩猟をする風習を守った。彼らは自然美を備えた山林の風景地区と華麗で堂々とした宮廷の宮殿と結合した宮廷園林にあこがれた。それゆえ、北京の西北郊外の風景の秀麗な地域は、程なく彼らの極めて大きな興味を惹きつけた。
 
 清朝入関後の第一代皇帝、順治帝は在位の1644-1661年、主な力を全国統一の軍事行動上に置いた。第二代の康熙帝が在位の1662-1722年、清王朝は中国全土の統治を遂に確立したので、康熙帝と第三代雍正帝(在位1723-1735年)は、北京の西の地域に大規模な園林の建設を開始した。清朝は当初、野蛮な土地の囲い込み(圏地)政策を実施したので、北京付近の広大な土地は次々と皇室や貴族が強奪したので、このため皇室の園林の建設は短期間で進められ、清朝第四代乾隆帝が皇位を継承する前には、北京西郊には既に静明園、静宜園、暢春園、円明園が連なった広大な皇室園林ができ上っていた。
 
 18世紀中葉、清王朝は建国して既に百年となり、国内は統一され、政治は安定し、農工業を担う民衆の労働の下、農業、手工業の生産レベルが向上し、商品経済も発展し、社会的な富の蓄積は次第に増大した。ちょうどこのような歴史的な条件の下、1736年清の高宗乾隆帝が皇位を継承してから、数十年続くいわゆる「乾隆盛世」が出現した。
 
 
乾隆帝
 
 乾隆帝は歴史上業績を上げた皇帝のひとりであり、同時にまた自らの手柄をたいへん喜ぶ統治者でもあった。彼は即位以来、国家が表面上繫栄が真っ盛りな局面にあることいに陶酔し、大量の金銭財物を投入して宮殿を建造し、風景を飾り立て、金を湯水のように使い、思う存分享楽をほしいままにした。今日、北京の故宮(紫禁城)や三海(北海、中海、南海)を含め、中国国内の多くの名所旧跡は、依然として乾隆帝の時代に再建、或いは新築した時の基礎と規模のままである。遊覧の便を図るため、乾隆帝は目と鼻の先にある(近在咫尺)北京西北郊外の園林に対して、大規模な拡張と装飾修理を行った。彼は静明園、静宜園、暢春園、円明園等、いくつもの園林を改めて改築、拡張しただけでなく、1749年(乾隆14年)から、甕山一帯で工事を始め、新たな庭園を建造したが、これが後の清漪園(せいいえん)である。
 
 
清中葉の北京西郊の皇室諸庭園の位置図
 
 1751年(乾隆16年)、乾隆の母、鈕祜禄(ニオフル)氏が60歳を迎え、乾隆は甕山の景勝地に皇太后の長寿を祝う主要な場所を建てる準備をし、それでここの造園工事を急がせた。当時、甕山に元々あった廟宇、圓静寺を基礎として、専ら長寿祝いのために大報恩延寿寺を建造し、且つ甕山を万寿山と改名し、西湖と改名していた甕山泊を昆明湖に改名し、その後正式にここに新たに建設する園林を「清漪園」と命名した。
 
 1752年(乾隆17年)、皇太后の60歳の誕生日を過ごしたが、 清漪園の建造工事は依然終わることがなく、ずっと1764年(乾隆29年)まで継続し、前後で15年の時間を用いた。
 
  清漪園の建造は、乾隆本人が直接関与したもので、この自ら風雅を以て自任している皇帝は、この園林の設計とレイアウトに頗る心血を注いだ。彼は即位以来、何度か江南を巡幸し、中国南方の秀麗な自然の景観や園林芸術を十分に賞美した。彼の意図に基づき、清漪園の建造は、漢以来の皇室の園林の中の蓬島(中国古代の伝説中の海中の仙島。蓬莱島)、瑶台(彫刻や装飾が華麗で、精巧な構造の楼台で、古人が空想した神仙の住むところ)、一池三山(中国古代の皇帝は海中に仙島ありとの伝説を宮廷庭園の中に人工に作った湖沼と島嶼で再現した。例えば漢の武帝は長安で章宮の北に太液池、池の中に蓬莱、方丈、瀛洲などの島嶼を作った。後に歴代の帝王の宮廷庭園の多くはこの方式を踏襲し、頤和園の昆明湖と湖中の島嶼もこうしたレイアウトに沿って作られている)の伝統的レイアウトを踏襲しただけでなく、江南の自然の景観や文人や士大夫の園林のすっきりして抜きん出た情趣を大いに吸収、模倣し、これをゆったり大らかで、豪華で、偉大な勢いがあるだけでなく、精緻で趣がある住宅の特色を備えた大型の宮廷園林にした。
 
 今日、わたしたちはちょっと比較してみれば、清漪園当時のもとの様相を基本的に保った頤和園が、中国の南方の江蘇、浙江一帯の多くの優秀な園林と共通点があることがはっきりと分かる。例えば今日の頤和園の昆明湖は、杭州の西湖の構成を真似たものだった。とりわけ湖の西側の長い長い土手、及び土手の上に、あまり距離をおかずにひとつひとつ形式が各々異なった石橋が架かり、全部で六つの石橋が架かっており、これは西湖の蘇堤と堤の上の有名な六橋とたいへんよく似ていた。昆明湖の西側のはるか向こうの玉泉山と山上の塔影は、西湖西岸の宝石山と山上の宝俶塔と同様、「借景入画」の作用を引き起こしている。万寿山東麓の恵山園(今の諧趣園)は、無錫恵山の寄暢園を真似て、南方の文人、士大夫の園林がそれぞれ作者の個性を発揮し、たいへん手が込んでいる特徴を際立って体現していた。この他、清漪園の中には更に中国の少数民族の建築を真似た部分があり、例えば万寿山の裏山の巨大な寺院群は、チベット仏教の寺院建築を再現しており、その建物の形や構造は、清漪園と同時期に建立された承徳避暑山荘外八廟の普寧寺の構成とたいへんよく似ている。要するに、中国内の代表的な風物や建物を一園に集め、乾隆帝が語るところでは、この上なくすばらしい統治を誇示し、思う存分楽しみを享受するものであったが、中国古代の造園芸術の傑出した成果と清代前期の領土を統一された多民族国家の発展の歴史を客観的に反映していた。
 
 清漪園の建設は、その後の頤和園の基礎を打ち立てた。頤和園の主要な風物は、清漪園の時代には大部分が当初の規模を備えていた。雄壮で威厳のある佛香閣、山に依り水に臨む楽寿堂、永遠に船出することのない大船の石舫、虹のようにきらびやかで美しい回廊は、何れも清漪園の時に作られたものである。これら一切の建造については、清王朝が財政上でも小さくない代価を支払った。記録によれば、中国全土で合計480万両の白銀を消費し、その間の人的労力や物量の浪費は驚くべきものだった。故宮に保存されている清代の歴史档案の記載によれば、頤和園の万寿山の上に高く聳える佛香閣は、当初建築された時は、現在のような八角形で三重の軒のある楼閣ではなく、九層の高塔であった。1758年(乾隆23年)、塔が八層まで建てられた時、突然「遵旨停修」(皇帝の命令で建築が停止され)、続いて全部取り壊され。その後楼閣に改築された。ただこの一度建築したものを取り壊すことで、白銀46万両余りを浪費した。万寿山の上の塔は、庭園全体の工事の一部に過ぎず、工事全体での浪費が如何に巨額であったかは推して知るべしであった。
 
 清漪園が建設されて後、当時の北京の西北郊外には人々が言う「三山五園」、すなわち玉泉山の静明園、香山の静宜園、万寿山の清漪園、及び暢春園と円明園であった。
 
 清漪園は歴史上百年存在した。
 
 乾隆年間以後、清王朝の国勢は次第に衰退に向かい、封建統治者たちは日増しに反動的で腐敗していた。1840年のアヘン戦争の後、外国資本主義勢力の侵入により、中国社会は半封建半植民地化の道を歩み出した。1856年(咸豊6年)、英仏資本主義の侵略者は中国に対し第2次アヘン戦争を引き起こした。1860年(咸豊10年)、英仏侵略軍は北京を攻撃、侵入し、城内の宮殿区と城外西北郊外の皇室園林を、ほしいままに焼き討ち、掠奪をした。彼らは群れをつくり共謀して西郊の諸庭園に侵入し、珍宝を掠奪し、建物を破壊し、最後には三山五園を全て焼き払ってしまった。
 
 侵略し強奪、残らず奪い去られる目に遭って後の清漪園は、西郊の他の庭園同様、至る所で破壊され崩れ落ちた光景が見られた。曾ては高く大きく堂々とし、きらきら輝いていた建物が、銅亭、智慧海、多宝琉璃塔などが銅や石でできていたため残存した他は、その他はひとつとして残ったものは無かった。今日頤和園の万寿山の裏山には、清漪園時代に英仏侵略軍に焼き討ちされて後の無残な光景がまだかすかに見ることができ、それは色あせてはいるが輪郭がなお残った絵のようで、当時の外国資本主義侵略者が中国の民衆に犯した犯罪を再現している。
 
 清漪園の建物は、清王朝が最盛期の時代の産物であり、清漪園が破壊されたことは、清王朝の衰退、没落の証拠であった。清漪園の興廃は、ある面では清王朝の隆盛から衰退の歴史を象徴的に反映していた。
 

雍和宮打鬼
 
第七節 風俗習慣と日常生活
 
 上述の経済、政治、文化の発展と互いに関連するのは、風俗習慣と日常生活の変化である。風俗習慣は一般に古い伝統を備えており、清初の北京地区の風俗習慣は基本的に明代のものを踏襲していた。しかし北京地区の経済発展は、満州族の風俗が浸透し、またその他の面での影響もあり、これらの風俗習慣は、若干の事情によって多少の変化が発生せざるを得ず、且ついくらか新たな内容をも加えた。日常生活は経済生活と密接に関係し、この時代の日常生活は、各階級の経済生活情況を具体的に反映していた。
 
風俗習慣
 
 清代、北京の風俗習慣の中で、節句(祭日)の内容が最も多彩であった。陰暦1月1日から、12月の最終日(30日、或いは29日)まで、1年間に数十の節句があった。その中で、いくつかの節句は明初の情況とほぼ同じだった。例えば元旦、大晦日、端午、中秋などである。いくつかの節句の賑やかな場面や活き活きした様子は明代を上回っていた。例えば、廟会(寺社の縁日)、逛廠(琉璃廠一帯の市(集市)見物に行くこと)などがそうで、またいくつかの節句は明代には無かった。例えば1月8日、雍和宮の鬼やらい(打鬼)などがそうである。この他、古代にたいへん重視された社日(土地神の祭祀日)は、清代にはもはや完全に消失してしまった。これらの節句は一部分は生産と密接に関連し、大部分が労働者階級の人々が自然や生活に対する熱愛を表し、また宗教的な迷信の類に属するものであった。
 
 これらの節句は最初はその大多数が労働者階級の人々のところから出たものであったが、それらが決まった節句になって以後、封建統治階級の残酷な搾取により、労働者階級の生活はたいへん貧しく苦しいものとなり、節句を楽しく過ごせる者はごくわずかだった。いくつかの節句は、彼らは根本的に体験したこともなかった。これに反して、統治階級はできるだけ節句を利用し、自分たちの奢侈の楽しみを満足しようとし、とりわけ乾隆以降、統治階級は節句に極めてでたらめで堕落した生活をおくろうとした。
 
 次に、当時の北京の重要な節句を、以下順を追って述べてゆく。
 
 元旦 元旦(1月1日)は新年の始まりで、中国の節句の中で最も重視される節句である。この日は、一般の農民や都市の労働者、貧民は、なんとかかんとか家で静かに一日、普段より良い生活をして過ごすことができ、ひょっとすると少々小麦粉を使った食品の類を食べることができたが、人によっては、この日はどこも仕事が無く、却って飯も食うことができなかった。地主や商人の生活は全く異なり、早朝、家々では線香を焚いて爆竹を放ち、祖先を祭り、年長者に向け跪いて礼をし、家人が互いに縁起の良い話をした。朝食の時には椒柏酒(椒酒と柏酒。山椒や側柏葉(コノテガシワの葉を乾燥させた漢方薬)を漬けた薬酒)を大いに飲んだり、各種の点心を食べたりした。北京の各役所の文武の官僚たちは皇帝に媚びを売るため、五更には朝廷に上り皇帝に年賀の礼を行った。それに続くのが「拝年」で、一般の農民や都市の貧民、雇われ工などは、この機会を利用して熱心に誠意を込めて親類や友達の家を訪問し、官僚や地主、大商人の多くは「拝年」を利用して互いに贈り物や賄賂を贈った。夜になると、街中に灯がともされ、貴族、官僚、地主、大商人は楼閣に竿を挿して灯火を吊り下げ、灯の周りは松や柏(コノテガシワ)の枝で囲み、「点天灯」と呼んだ。
 
 雍和宮打鬼 1月8日は雍和宮で鬼やらい(打鬼)という芝居気に富んだ行事が行われた。鬼やらいの時、廟内で主教の大ラマは身に黄色の錦衣を羽織り、車に乗り托鉢用の鉢を持つ。傍らには多くの儀仗の法器を持った小ラマが護衛した。前方には名を「班第」(バンディ)と言う小ラマが進むが、色とりどりの衣装を身に着け、頭には黒や白の兜を被り、手で色とりどりの棒を振り回し、且つ歩く先々に白い粉をまき散らした。これら一群の大小のラマが賑やかな銅鑼の音や人の声の中で寺の周りを廻り、口では絶えずお経を唱え、吉祥を迎え邪気を追い払った。観衆は鬼やらいの儀式が完全に終わるのを待って、徐々に帰って行った。
 
 
雍和宮打鬼
 
 逛廠 北京城近郊に住む士大夫や文人墨客は、1月の3日から17日までの期間、しばしば琉璃廠に見物に行った。琉璃廠は前門の西にあり、清代の北京では書画や貴金属、骨董を売る場所であった。毎年 「逛廠」の時期(1月3日から17日)になると、店舗や露店にはこれらの商品が満載され、遊覧客は自分が欲しいものを自由に選んで買うことができた。火神廟の前は遊覧客がとりわけ込み合っていた。
 
 元宵と灯市 1月15日は上元節で、元宵節とも呼ばれる。元宵節の前後には、城内の正陽門外、花市、菜市、琉璃廠、猪市口などの場所では皆、灯市を開いていた。灯市では商人が灯花(ランタン)、百貨、珠玉(真珠や玉)、羅綺(らき。絹織物)などを販売した。城内は到るところ、ランタンを点けて楽しみ、市民は太平鼓を叩き、お面を被って大頭和尚の格好で戯れ遊んだ。カップルはこの日の晩は連れだって街に繰り出し、なぞなぞを解いたり(猜灯謎)し、これを「看灯」をすると言った。夜が更けると、各々の家では灯をともして井戸や竈(かまど)、戸口に置き、これを「散灯」をすると呼んだ。
 
 燕九 燕九節は1月19日で、この日は白雲観の廟会(縁日)であった。白雲観は広安門外にあり、北方のたいへん大きな道教寺院であった。この日、方々の全真道人で偶然に出会う(不期而会)者がしばしば万人にも達し、それぞれが奇装異服を身につけていた。見物の王公貴族、官僚士大夫の中の多くの者が弓を射て馬を走らせ、これを「耍燕九」と言った。一般の市民は銀貨を観内の橋のアーチの中に投げ入れて遊び、入ると「順眼」と言った。
 
 
燕九節
 
 龍抬頭 2月2日は俗に 「龍抬頭」と言った。この時、気候は徐々に暖かくなる頃で、虫害が発生し出すので、農民は石灰を地面に撒き(消毒になる)、門外からくねくねとずっと厨房まで撒き、水甕の周りを一周撒くので、これを「引龍迴」と呼ぶ。中等以上の家では植物油で餅を揚げ、これを「燻虫儿」と呼び、意味は龍を引っ張り出して百虫を降伏させることである。城内に住む人は、この日グループで盧師山(北京石景山区の八大処にある山)へ行楽に行った。
 
 上巳 3月3日は 上巳節である。農民は土谷祠みお参りに行き、この年の五穀豊穣を祈った。翌日、農民は去年保管庫にしまった花や木を取り出し、植え替えたり販売したりした。野菜畑に瓜や野菜を植えた。
 
 春場 立春の前日、順天府尹から東直門内まで5里の地の 春場に行き、迎春の行事を行う。随行するのは州、県の官吏や地主、郷紳の他、付近の老農民である。春場では、府尹らが仗で耕牛を三度鞭打ち、耕作を勧め、政府が農業を重視していることを表す。翌日は立春で、北京近郊の住民は貧富の別なく皆生のダイコンを齧り、これを「咬春」と言う。
 
 清明 清明節は3月にあり、この日、北京近郊の人々は家々でお墓参りに出かけ、祖先の墓の前で紙の銭を焼き、長い串刺しの紙銭を墓の傍らの小さな樹木の枝に掛ける。家によっては墓参りの後、雑草を除き墓の土を補充する作業をする。墓に参らない北京城の人や外地の人は、この日連れだって高梁橋一帯に行楽に行き、これを「踏青」と言った。
 
 東岳廟会 3月28日は「東岳帝君誕辰」で、北京城近郊の人々は次々と東岳廟に行き、線香を備えた。線香を備える人は香会を作り、音楽を奏で鼓を撃ち、神を迎え街を練り歩いた。その中で跪いて拝むことを「拝香」と言った。
 
 浴佛会 4月1日から8日まで、北京郊外の戒壇、潭柘、香山、卧佛、碧雲、玉泉、天寧などの寺院の僧侶が4月8日の釈迦牟尼の誕生を記念し、龍華会を打ち立て、これをまた 浴佛会と称した。北京住民で仏教を信仰する者はこれらの寺院を参拝し、喜捨し幸福を求めた。
 
 端午 5月5日は端午節である。家々では道教の五雷符を掛け、門のあたりにヨモギを挿し、病気を除き邪気を追い払おうとした。皇宮では更に天師か仙子仙女が剣を執り五毒を降(くだ)す絵の屏風を高く掲げた。5月はちょうど病毒が蔓延する時期であるので、こうした話が生まれた。朝食で、人々は粽を食べ、中国古代の愛国詩人の屈原を悼んだ。屈原はこの日、汨羅江(べきらこう)に入水自殺し、粽を包むのは屈原を祭るためであった。これは既に中国全土で行われている古い風俗であり、南方の川沿いの都市や町村では更に龍船を漕ぐレースを行い、その意味は屈原を川底から救い出すということである。
 
 六月六 陰暦の6月は北京で最も暑い月である。この時は新麦が既に出回り、郊外の農民は6月6日に一斉に麦干しを行い、婦女は衣服の虫干しをし、水を汲んで伏醤(醤油の醪)を作った。城内の士大夫は家で本の虫干しをし、皇宮の中では鑾駕(らんが。皇帝の車)や宮廷内、及び皇史宬(こうしせい)の蔵書の虫干しを行った。
 
 七夕 七夕(7月7日)節は中国神話の牛郎が七夕に織女に会う物語から始まった。皇宮の中では宮女たちがこの日、鵲橋を渡らなければならなかった。民間の婦女は楼上で、月に向け針糸を通して手芸の上達を祈り、これを「乞巧」(きっこう)と呼んだ。或いは針を水中に投げ入れ、針仕事の巧拙を占った。
 
 
穿針 乞巧
 
 中元 7月中に、穀物や麻は大部分収穫が終了する。農民たちは7月15日の中元節の日に麻や穀物を持って神廟に行って神様を祭り、神の恩恵に感謝し、同時に祖先の墓地に行ってお祭りをし、祖先への崇敬と哀悼を表し、仏教寺院では盂蘭盆会を行い、積水潭、泡子河(通恵河の北京城外区間の故道)では水灯を流し餓鬼が黄泉に渡れるようにした。
 
 中秋 中秋、8月15日は団圓節である。この時穀物糧食は既に穀倉に入っている。外地の人は次々帰郷し、婦女で実家に戻っていた者は皆夫の家に帰った。中秋の夜、家中が一緒に月見をした。卓上に月餅、果物などを置いて食べ物を食べ、果物や月餅は皆花弁状に切られ、これにより月を祭ると言われていた。清初にはまた月光菩薩を神棚にお供えするのが流行っていた。月光紙を燃やし、お供えする者は月が出る方向に向け続けざまに頭を地面につけて礼拝した。月光紙には頭を満月で覆われ、蓮の花の上にお尻を着いて座った月光遍照菩薩が描かれ、一方でキンモクセイの木、月(玉兎)、ニンニクをつき砕く人が併せて描かれた。詩人や文士は、皓皓(こうこう。白く光って明るい)とした名月に向かって詩を吟じ、酒を飲み、しばしばいつまでも遊びふけり、帰るのを忘れた。皇宮の内院では、ほしいままに飲み食いし、ずっと夜通し騒いで、明け方になりようやく散会した。
 
 
月光紙
 
 重陽 9月9日は重陽節を過ごした。この時期、郊外の草木は枯れて黄色くなり始める。郊外で人々はこの日、茶や食物、酒具を持って付近の山の斜面や庭園の高殿に行って行楽をし、これを「辞青」、または「登高」と称した。物売りは街角で車を押して花糕(蒸し菓子)を売って歩いた。父母は必ず自分の娘を迎えて家に帰り、一緒に花糕を食べたので、重陽はまた女児節と呼ばれた。
 
 臘八  臘八節は12月8日である。この日は農民が冬に穀物を貯蔵してから、神様に収穫を報告する節句であった。朝、家々では臘八粥を煮て、それを食べる前に先ず一人前の粥を仏殿、神堂に行ってお供えした。北京地区の臘八粥は一般に棗、うるち米(粳米)、銀杏(白果)、クルミ、粟、菱の実、小豆など様々な穀物や木の実を併せて一緒に煮て作られた。
 
 除夕(大晦日) 12月の最後の日が大晦日である。大晦日前の数日、家々では部屋の内外を掃除してきれいにする。言い伝えでは、23日にかまどの神(竈君)が天に上り、25日に玉皇を迎えて下界の人間界を調べると言われた。親しい友達の間では互いに贈り物を贈った。街角や路地の奥では羯鼓(かっこ。腰部の細い鼓で、2本のばちで両面を叩く。羯族から伝わったと言われる)の音が響き、これを「迎年鼓」と言った。大晦日、どの家も門の上に門神の絵や春聯の類を貼り、門の脇にゴマがらを挿し、屋内では松の枝を燃やした。これらは邪鬼を追い出すためだった。母屋には祖先の像を掲げ、花や果物をお供えした。夜になると、門外では爆竹の音が響き、年下の者が年長者を拝み、これを「辞歳」と言った。大晦日の夕食は「年飯」と呼ばれた。夕食後、家々では線香を焚いて玉皇が天に上るのを送り、新たなかまどの神が下界に来るのを出迎え、商人は更に財神爺(商売の神様)を拝んだ。大晦日の晩は、多くの人が家の中で麻雀などをして遊び、徹夜で眠らず、これを「守歳」と呼んだ。
 
 以上が主要な漢族の節句であり、満州族は北京に来てからこの中の大部分の節句を取り入れ、併せて天や神を祭る節句を入れ混じらせた。回族は一般に自分たちの宗教の節句を過ごしたが、いくつかの漢族の節句にも加わった。
 
 満州族が北京で保った独特の風習は「祭堂子」である。満州貴族、官吏、旗人のうちの金持ちの家には神堂が設けてあった。堂外の中庭には神杆が一本立てられ、高さは1丈3尺(約4m)、天を祭るのに用いられ、堂内には関帝(関羽)と菩薩神像が供えられた。 祭堂子の時間は元旦から、ほぼ毎月行われたが、一般に主に春秋、或いは春冬の2回の祭礼が行われた。天を祭る時、家人が一緒に中庭に集まり、中庭に祭卓と豚を煮た鉄鍋竈が置かれた。主祭人と薩莫(巫師)は天に向け米を撒き、経文を読み跪いて拝んで後、豚肉を裂き始め、捌いた肉がよく煮えたら切って細切りにし、皿に盛ってテーブルの上に供え、更に大きな碗ふたつの米飯を添えた。豚の苦肝とよく煮えた肉と飯を神杆の錫の碗の中に入れ、豚の鎖骨を杆の頂上に掲げ、その後家人や親戚で豚肉を分けて食べた。満州族の神話や伝説に依れば、上述の天を祭る方法は、以下の話に由来する。満州族は長白山から発祥し、初代の祖先の布庫里雍順は仙女が、朱雀がくわえて来た仙果を吞み込んだことで生まれた。神杆上の肉や飯は朱雀が食べるもので、天を祭ることは「本を忘れない」ことを表していた。関羽と菩薩を祭るのは、次のような伝説に基づいている。満州族は入関(居雍関を越えて北京に入る)の前、伝染病が流行り、関帝と菩薩に救いを求めた。このため、以後満州族は代々これらふたりの神様を祭るようになった。
 
 
満州族家庭の家祭
 
日常生活
 
 衣服の面で、明代はずっと漢族伝統のボタン留めの長袖の衣装を着ていたが、満州族が北京に入って以後、清朝廷は漢族に大襟に左衽(おくみ)の満州族の服装の着用を強制し、北京と中国内地の服装史に一大変革をもたらし、以後各種の服装は基本的にこの様式を離れることがなかった。清初、一般市民は青色のひとえの丈の長い中国服(長袍大褂)を身につけた。貴族官僚は自分の富や地位をひけらすため、各種の様式を採用した。康熙時代、彼らの縁起の良い服装は、いわゆる「富貴不断」、「江山万代」、「歴元五福」などの名目であった。蟒袍(金色のウワバミの模様の刺繍の官服)上に鮮やかな刺繍を加え、平時に着る上着は、乾隆時代に流行した様式は、傅垣が金川から持ち帰った「得勝褂」で、上着はコバルトブルー、後に玫瑰紫や深紅色に改められた。貴族官僚が被る官帽は、両側に翼が無く、てっぺんには品質や価格の異なる真珠玉が付けられ、背後に長縵(細長い無地の絹布)が垂らされ、明代の圓頂烏紗とは明らかに異なっていた。平時に被った便帽は、暖帽に似ていたが、帽子のへりが狭く、てっぺんは赤色の結び目があり、赤の布が垂らされていた。こうした便帽は、一般の金持ちも被ることができた。農民、行商人、手仕事職人は通常は毯帽を被り、明代の様式を保っていた。貴族や官僚地主の家庭の婦女は、季節により各種の紗や苧麻(ちょま)、毛皮の服を身につけた。満州族の婦女は上着とスカートは相連なり分かれていなかった。男性の服は上着とズボンが分かれていた。
 
 漢族の婦女は多くが纏足しており、貧しい婦女だけが重い体力労働に従事する必要があり、纏足をしなかった。八旗の婦女は皆纏足をせず、木の底の靴を履いた。
 
 北京の食べ物の中で、地方の風味を備えたものには、豌豆黄、切糕、涼糕、豆汁などがあった。酸梅湯も北京に先ず出現した。北京の涮羊肉、烤羊肉、烤鴨はたいへん有名である。満州族はまた水炊きした豚肉を食べる風習をもたらした。
 
 北京郊外の果物は、甜棗、白櫻桃、新疆から移植した馬乳葡萄が最も優れていた。付近の州県では更に良郷産の栗、密雲産の小棗、大谷の梨、粛寧の桃などがあった。
 
 茶館に座る風習は清代の北京がたいへん盛んだった。茶館は方々にあり、その主要な客層は旗人で、漢族でそこに足を踏み入れる者は、清初はまだあまり多くなかった。
 
 住まいの面で、北京の住居の特徴は、一般にぴったり隙間がないことを求め、風砂を防止した。例えば貴族や大官僚地主の住宅は、内部は回廊が曲折し、広い庭園があり、主人が住むところが別にあった。傍らには更に若干の続き部屋や耳房があり、召使が住んだり物を貯蔵するのに用いられた。中くらいの商人や工房主、小役人、中小地主の住宅は、四合院や三合院の形式を採用した。四合院は正方形に配列された四軒の家屋で、そのうち南向きのものが母屋、その他は付属の建屋であった。家屋の中間は中庭で、一般に棗の木やエンジュの木などが植えられていた。いくつかの家の中庭では甕を置いて金魚を飼っていた。三合院は四合院より付帯の家屋が少なかった。都市の貧民、行商人、職人、雇われ工はしばしば多くの家庭が一緒に暮らす大雑院の中で、互いの家の門が向かい合い、互いに往来することができた。それとは別に、専ら乞食が住むための家屋があり、「火房」と言った。家屋の中にベッドが無く、地面の上に一層2尺余り(約60センチ)の厚さの鶏の毛が敷かれていて、四方の壁は泥と紙でびっしりと隙間を塗り固め、冷たい風が侵入して来ないようにしてあり、冬に彼らがここで一晩過ごすことができた。
 
 北京の郊外の住居内は大多数土のオンドル(土炕)が設けてあった。オンドルは冬に火を焚いて暖を取るためのもので、全体が土とレンガを積んで作られ、中間が空洞になっていた。オンドルの前は地面を掘り下げた石炭コンロ(煤炉)で火を焚くことができ、火がオンドルの中に入り、オンドルのベッドが暖まり始め、人がその上で眠った。貧しい家では石炭の使用を節約するため、オンドルの手前のコンロの火を使って飯を焚いたり料理の煮炊きをし、別にかまどの火を燃やすことはなかった。
 
 移動の面では、清代の北京城内の道路は石板敷きの道と土の道があったが、土の道が多数を占めた。清朝政府の規定では、満州貴族(王、貝勒以下)で年齢が60未満の者は馬に乗って行き来することになっていた。漢族の官吏は駕籠に乗ることが許可された。最初、漢族の官吏は身分の大小に関わらず、皆駕籠に乗ったが、後に一に尊卑を区分するため、二に駕籠かきを雇う費用が重すぎるため、一、二、三品の高官と四品の順天府尹が依然駕籠に乗った以外は、その他の官吏は皆ラバの牽く車や馬車に乗るよう改めた。北京城内の大商人や工房主もラバ車や馬車に乗ることができた。
 
 冬季、北京城の外堀の水が氷ると、東便門から西便門まで、そりに乗って行き来することができた。(『燕京雑記』参照)