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中国語学習者、Congziのブログ

京都で中国語の通訳案内士をしている、Congziです。このブログでは、これまで集めた中国語書籍の翻訳を投稿しています。中国史や中国文学が中心ですが、タイトルを見ておもしろそうだった本もあり、内容は雑多。ご自由に立ち読みしていってください。

金華火腿
 
 今回の話のテーマは、豚の後ろ足一本を丸々塩漬けにし、寒風に晒して作られる、金華火腿(金華ハム)。出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)
 
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 広東人の雑食性を形容することばに、こういうのがある。「翼のあるものは、飛行機以外。四つ足のものは、テーブル以外。広東人は何でも食べる。」
 
 たとえ飛行機が食べれたとしても、広東人はおそらくあまり食べたがらないと思う。なぜなら飛行機という二枚の翼を生やした物体はいつも遅れるので、これを食べようと思ったら、たいへんな我慢強さがなければならないからだ。それに比べ、足(脚)のテーブルに対する重要性は、明らかに翼の飛行機のそれより高い。紫檀やマホガニーなど、中国の堅木を使った家具の典型として、明式の家具がもし「圓腿側足(円形の脚は斜めに立ち)、方腿直足(方形の脚は直立する)、及び三弯腿(外に広がる馬蹄脚)、鼓腿膨牙(腰部から外に孤を描いて飛び出し、端は内側に収まる)」という美しい脚部の系統を欠いていれば、テーブルの脚の安定を欠くなど二の次で、「その力強さはやさしくしとやかな中に含まれる」という品位や外観が大いにマイナスされてしまうだろう。
 
 我々が肉食に対して行う審美判断はある程度まで明式の家具と同様で、鳥であれ獣であれ、足はおおむね最も美味しい部分である。
 
 足の旨さは、主に常に運動していることにより、食べると味が良く、筋肉のきめの細かい口当たりがすることによる。肉付きの多寡や厚みは二の次である。正にいわゆるとびらの枢(とぼそ。回転軸)は虫に食われず、流水は腐らず、水の中を転がる石には苔が生えない。足の旨さはその運動による。
 
 直立歩行してから、足は人体の上で絶えず運動する部位となった。もちろん、進化した両手も猶更閑でいることがなくなった。たとえ静かに座っている状態でも、多くの人のは知らず知らず勝手に両足を揺すぶっている。足を揺すぶるのは極めて佳くない着座の姿勢で、民間には「女が足を揺すぶるのは下品、男が足を揺すぶるのは貧乏」という言い方がある。アメリカ神経医学会の医学研究報告はこう指摘する。いつも両足を揺すぶらしている人は、潜在的に「注意力を集中できない多動性障害症候群」の兆候がある可能性があると。研究によれば、我慢できずに両足を揺すぶっている男女に言わせると、両足をちょっと動かしてやると、気持ちが良くなり、座っていようが横になっていようが、両足を動かせる状態にできれば、体中が心から気持ちよく爽快に感じられるのである。
 
 このように、「女が足を揺すぶるのは下品、男が足を揺すぶるのは貧乏」という言い方には、別に科学的根拠は無いのだが、家畜の両足が、正常な運動以外に、もし人類のように何かあろうが無かろうが、ぶるぶる揺すぶり運動をしてくれれば、食べてみればきっと爽快の上にも爽快で、しかもそれはメス、オス関係ないであろう。広東人が好むガチョウのもも肉のローストで言えば、事情通は必ず左足を選んで食うが、どうしてだろう。なぜなら左足はガチョウの利き足で身体を支える足なので、肉質の上でもたいへん滑らかで爽快なのである。
 
抗金名腿(宋代、抗金戦争から生まれたハムの名品)
 
 足について言えば、食用の家畜の中で、豚の足が見た感じが最も醜い。しかし美味しさから言うと、豚の足が第一と認識され、おそらくその他の家畜の足を推す勇気は誰にもないだろう。
 
 豚の足はほとんどハムを作る唯一の原材料である。中国の「二大美腿」(二大ハム)は、雲南の宣威火腿(「火腿」はハム)と浙江の金華火腿である。その中でも後者は多くのハムの中で最も代表的なものである。金華火腿(金華ハム)が総合的な営業販売上で成功したポイントには、以下のことが挙げられる。1、当地原産の良質の豚、「金華二頭烏」を選定した。この豚の頭、臀部は真っ黒、それ以外は皆白で、後ろ脚はとりわけ肉付きがよくたくましく、赤身が多く脂身が少なく、脚が細く爪が白く、皮が薄く肉が柔らかく、ハム制作に最も適していた。
 
 
金華二頭烏
 
2、ハムの発明は、聞くところによると宋代の抗金の事跡と関係がある。伝えられているところでは、南宋の名臣、宗澤が金兵に抵抗するため、旧都開封に残留していた。ある時、生まれつき倹約家の宗澤は、食用で余った豚のもも肉を塩漬けにした。当時は、開封までの距離が遠く、また冬の寒さも厳しく、豚の脚は寒風に晒して乾かすと、腐敗しないだけでなく、味わいは却って一層美味しくなった。宗澤は浙江義烏の人で、彼や彼の部下がこの豚の脚を食べて後何度も金兵を破り、義烏の同郷の人々はこの知らせを聞いて欣喜雀躍(きんきじゃくやく)しない者はいなかった。ハムの発明はこうして大々的に広められ、しかもひとたび人気に火が付くと、その人気は今日まで続いた。
 
 義烏のハムはずっと「 金華火腿」(金華ハム)の名を冠せられ、「金腿」の名は後世まで伝わって販売されたが、もちろん抗金運動とは関係がない。その一、ハムの生産が盛んな東陽、義烏、金華などの地は、昔総称して金華府と呼ばれた。その他、金華はこの地域の商品の集散地であった。曾て、聞くところでは義烏の人は自分が作ったハムを金華まで運んで売り、自分はハムの表面の削り取った黴の生えた部分しか食べれなかったそうだ。
 
 莱陽の梨、徳州の扒鶏の類を含め、中国にはこうした冤罪やでっち上げがとても多い。「金腿」はとても響きの良い名前だが、全体として実事求是的にはやはり「義腿」と言った方が聞こえが良いだろう。「火腿」ということばの由来にもいくつも異なる説がある。その一、『東陽県志』によれば、「蹄を燻(いぶ)すを、俗に火腿と謂う。その実は煙で燻し、火を使うに非ず。腌(塩漬け)し晒(さら)し燻すを法(手本)の如くせば、果たして土地の常品(その他の通常のもの)に勝る。腌する所の塩は必ず台(台湾の)塩、燻す煙は必ず松煙、気香烈ならば入るに善く、之を制す(作る)に時に及び(ちょうどよい時期に)法の如くする、故に久しく旨しと称す。」その二、某役所によれば、金華ハムをテーマにした連続テレビドラマで、ある恋人のカップルがベーコンを塩漬けにする工場で逢引きした時、うっかり大火を引き起こし、遂にはベーコンがハムになってしまった。その三、その肉の色が、「日の出の川辺の花の赤色が火焔に勝る」ほど美しいのと比肩し得るので、「火腿」と名付けられた。
 
風騒入骨(あだっぽさが染み渡る)
 
  金華火腿について、今日までなお事実と証明されていない民間の伝説がある。毎回百本の金華火腿を塩漬けにして仕込む度に、その中に必ず犬の脚を一本混ぜて入れるようにしていた。一本の犬の脚を百本の豚の脚に紛れ込ませる、この時の犬の役割は人に代わって犬の脚が「羊の放牧」での番犬の役割をするのではなく、目的は塩漬けの過程で豚の脚の味をととのえるためである。
 
 犬の脚はそんなに美味しいのか。どうして一本で百本に対応することができるのか。このことを知っている者は恐らくあまりいないだろう。鄭板橋(清代の文人で、揚州八怪のひとり)は犬の肉を好んだと言われ、とりわけ犬のもも肉が大好きで、いつも「一匹の犬に八本の後脚が生えていればいいのに」と言って嘆いた。
 
 金華火腿は美味であるが、料理の上ではいつも様々な用途に使える高級調味料の共演者の身分で登場した。中国の南方や北方の料理系統の様々な名菜の中で、金華火腿の「有一腿」を主な材料とする料理はよく見られる。それと同時に、また多くの人が、これを食べてみると、口当たりが粗野で硬く、塩辛過ぎ、しかも長い時間貯蔵されていたので、我慢できない「‌‌哈喇味」(鼻に衝く臭み)があって嫌がられる。でも実際は、うまく作られた金腿(金華ハム)は肉質が柔らかく滑らかであるだけでなく、食べてみて、その本当の味を知りたいなら、ただひとつ、蒸すことこそ最上の方法であり、薄く切って米の飯と一緒に蒸すと、油や脂肪が飯に尽く吸われ、芳香が尽きることなくすばらしい。これを原料に配しても、その味はまた良い。しかしそうすると 金華ハムがよく蒸された後に呈する、火のように赤くつやつやし、脂のように白くきめ細やかな美しく艶めかしい景色の眺めは大いに破壊されてしまう。
 
 
蜜汁火腿
 
 実を言うと、金華ハムのこうした赤くする方法は、確かにとても特別な赤色である。色彩の名称で、「加州紅」(カリフォルニアレッド。カリフォルニアワインの赤)、「中国藍」(チャイニーズブルー、又はプルシャンブルー。染料の名前。紺青(こんじょう))、「喜馬拉雅白」(ヒマラヤホワイト。真珠、水晶、鰐皮など)以外に、わたしは肉感が強く感じられ、あだっぽさが染み渡る赤色を、「金華火腿紅」と名付ける必要があると思う。
 
 
 世の中の「美腿」には、中国の「金腿」(金華ハム)、「雲腿」(雲南ハム)以外に、もっとポピュラーなのは、英語でhamと呼ばれるもので、イギリスやアメリカで盛んに作られ、食べられている。アメリカの火腿(ハム)は字ずらの上では名実ともに「美腿」(中国語でアメリカは「美国」なので、アメリカのハム)であるが、けれども梁実秋先生(1903‐1987台湾でのシェークスピア研究の権威。散文家)の見解によれば、この「美腿」は決して「不味い訳ではないが、別のもの……ただ金華ハムと同日に論じることはできない」。つまり、これは中国でも様々なブランド名で売られている、国産の「火腿腸」(ハム・ソーセージ)に似たものである。それ以外に、地球上には金華ハムと「同日に論じる」ことができる「美腿」があり、おおむねスペインとイタリアのふたつの産地にのみ存在するものだ。
 
外国火腿(外国のハム)
 
 スペインやイタリアのハムは生で食べるが、その味わいは金華ハムとは異なっている。その食べ方のひとつに、生ハムメロン、すなわち紙のように薄いハムでメロンを覆ったり巻いたりしたもので、西腿(スペインハム)や意腿(イタリアハム)の代表的な食べ方である。ピンク色の半透明のハム、黄金色のメロンの身と硬い緑のメロンの皮。生ハムメロンがもたらすものは、先ず一種の視覚的な衝撃である。甘さの中に生臭い塩気を帯びた味わいは、更に奇異である。金華ハムと冬瓜のスープを飲み慣れた人にとって、これは最初は受け入れ難いものだ。
 
 スペイン人とイタリア人は、食習慣の上で多かれ少なかれ「ハム中毒」の気がある。たとえば、スペインでハムを売る店は「生ハム博物館」と呼ばれ、マロルカの名監督、ルイス・アラゴネスは日本のあるクラブチームから200万米ドルの年俸のオファーを断った理由が、「日本にはスペインハムが無い」からであった。ビガス・ルナの1992年の映画作品、『ハモンハモン』(ハモンはスペイン語でハムの意味)で、更にスペイン人のハムへの思いを極限まで押し広げた。映画の男性の主人公はハム工場の配達員、ラウルである。ハムの貯蔵室に住むこの背の低い男は、ずっと闘牛士になることを夢見ていた。彼の熱愛の対象は、男物の下着工場で縫製をする女工のシルビアである。しかしシルビアは、ひたすら、自分の母親を深く恋する工場の若社長ホセと結婚したいと思っていた。ホセの母親はシルビアと息子の結婚を望まず、ついにシルビアがラウルを好きになるよう仕向けた。この過程で、ラウルのことを好きだったのは、ホセの母親自身だった。こうした愛憎劇が爆発するや、ラウルとの間で武器を持って殺し合いが始まった。ホセの武器は、一本の太く大きなハムの大腿骨であった。ラウルは手に一本丸ごとのハムを持って武器とした。この映画は1992年第49回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した。この時、金獅子賞を受賞したのが、張芸謀の『秋菊打官司』である。
 
 ハムと言えば、そしてスペインとイタリアと言えば、ついでにサッカーのことを取り上げざるを得ない。わたしは、このふたつの国は快速の突破能力を具えたフォワード選手を豊富に生み出しているが、それは「ハム文化」と無関係であるとは思えない。言い方を変えると、サッカーは本質的にはつまるところ、足首や脚を使った運動なのである。この問題に対する理解の違いが、ある地域のハム文化が発達しているか否かを決定づけている。東方のハム文化大国として、中国サッカーチームが依然としてアジアの壁を突破できないのを、故郷の皆さんに恥じるのはまあ置くとして、我が国のハム文化の奥深い中身に対し申し訳ない。このことは実に道義上許されないと思う。
 
花拳繍腿(ポーズはきれいだが、実際の格闘ではあまり役に立たない)
 
 豚の脚以外に、美味しい「美腿」はたくさんある。しかし火腿(ハム)と比べ、どれも花拳繍腿、つまり、そのポーズはきれいだが、実際の格闘ではあまり役に立たない拳法であるだけだ。
 
 中国人は誰もが鶏のもも肉(鶏腿)は食べる価値があり、「魚の頭は骨の端には肉がついておらず、鶏やアヒルはもも肉やむね肉だけが食べるのに適して」いて、「鶏を食べるならももを食べなければならず、住む部屋は南向きであるべき」と、富貴な生活を形容した。実際は、鶏のもも肉は肉がたくさんついているが、肉の味や口当たりは手羽先やむね肉に遠く及ばず、何なら「鳳爪」(足先。もみじ)にも及ばない。大きな肉の塊りを食らうというのは、貧しさの象徴である。曾て土地の悪者が人を誘拐すると、人質に鶏肉を食べさせてみることがあったそうだ。鶏丸々一羽用意し、相手が箸をつけるのがどの部位であるかを見た。もも肉を挟めば、身代金は適量で良い。手羽先を挟むと、家の財産を使い尽くすまで待った。
 
 別のもうひとつの「鶏腿」、田鶏(カエル)の太ももはとても美味しい。「烤櫻桃」という名の有名な料理は、カエルの太ももを材料にしている。いわゆる「櫻桃」は、カエルの太ももの肉が上向きに縮み上がって丸くなり、同時に一段の骨が露出し、まるで茎の付いたサクランボのようで、食べてみると、肉質がきめ細かく、すべすべして柔らかく、格別な噛み応えがある。もちろん、この二本の「美腿」を除くと、一匹のカエルの全身には何ら食べるに値するところは無い。
 
 食肉族について言えば、最も食指が動かぬが、捨てるには惜しいのは、ある種の水生動物の脚で、例えば蟹やイセエビの類である。脚はたくさん付いているが、肉感に乏しく、食べてみると瓜子(ヒマワリやスイカの種)を噛み割るのと同様、面倒である。しかし、イセエビの前足(正確に言うと、節足動物のはさみ)は次のような特殊な情況下では絶対に捨て置くことができない。つまり、もしイセエビが生前に一方のはさみを失ってしまうと、その精華が全て、残った一方のはさみに集中し、美味なることこの上ない。
 
 ソルジェーニツインの小説『癌病棟』の中で、ひとりの患者がこう言う。「一本の足を失うと、根本的に生活ができない。」それなら、生まれつき足の無い魚類は「二本の足を欠いているので、根本的に美味を語れない」と言うことになるのか。このうえなく魚を食べるののが好きな者は、この問題についての意識が、大体においてとても矛盾している可能性がある。一方において、食客たちの水掻き(すなわち魚の尾びれ)と魚翅(フカヒレ)への追求は、ひょっとすると潜在意識の中で「魚腿」や魚の「完全性」への渇望を持っているせいかもしれない。また一方で、足の無い生物は、世界で最も美味な食物であるのかもしれない。李漁(1611年—1680年。明末~清初の文学者、劇作家)は美しい女性の顔や髪、手足を語り尽くしたが、ただひとつ、 美腿(ふともも)のことは語らなかったが、なぜだろう。わたしは、それは主に太ももがスカートの中に隠れていて、視覚的な衝撃を引き起こすすべが無かったせいだと思う。見えない腿は、機能のうえで見えない手よりもっと強大であるが、腿が無いのはひょっとすると 美腿の至高の境地かもしれない。これすなわち南派の武術(カンフー)での「佛山無影脚」(地面に足の影さえ映る暇もないほどの素早い連続足技)のことである。

猪油(ラード)
 
 今回のテーマは豚の油、ラード。これで炒めた料理は旨いのですが、健康志向の昨今では、使用が憚られることが多く、そういえば、香港の中秋節の月餅の宣伝で、ラード不使用を謳っているケースがありました。出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)
 
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 豚肉の脂身は、もはや人々があまり敢えて食べようとはしなくなった。少なくとも、既にあまり人々が人前で、公然と食べることをしなくなった。事既にここに到り、猪油(ラード)は豚肉の脂身の粋ではあるが、それ以上に提起することさえ憚られる禁忌となった。
 
 猪油(ラード)がいつからわたしたちの日常の食生活から離れてしまったかを、時期の上で確定するのは大変難しい。ラードはつまるところ、食用油の配給切符の対象でなければ、肉の配給切符、全国糧票(中国全国の食糧配給切符)の対象でもない。ひとまず1985年を境目として、北京、上海、広州、及び中国東南沿海の大部分の都市の住民について言えば、これ以前に出生した人なら、多少はラードに触れたことがあるだろうが、これ以降に出生した人々は、基本的に生まれた時から先天性免疫のようにラードとは一線を隔している。
 
 ラードを食べないのは、絶対的にそうすべき理由があってのことである。その理由というのは、ラードに含まれる飽和脂肪酸が過多で、コレステロールの量(LDLコレステロール)を増加させ、それにより動脈硬化を引き起こし、直接には高血圧、心臓病、脳梗塞などを引き起こす。実際のところ、医者の無味乾燥な説教だけでは、ラードを多くの人々の厨房から追い出すには不十分である。ラードが寵愛を失ったそのポイントは、第1、生活が豊かになった。第2、ピーナツ油、コーン油、サラダ油、オリーブオイルを含む多くの代替油が続々と登場したことによる。
 
 明らかに、ラードを食べないのと豚肉を食べないのは、応対するのは同じ道理で、健康観念の他、実質的な物質の基礎がなければならなかった。例えば、赤身型の肉豚が大量に育てられると、これら赤身型の「よく肥えた豚」は豚インフルエンザワクチンを投与してからより多くの赤身を生産する際、「豚肉に油脂を使うのを禁止する」のが自然と食品市場で売買双方の共通認識になった。
 
 豚肉が大変好きな蘇東坡は曾てこう言って嘆いた。「肉が無ければ人は痩せ、竹が無ければ人は低俗になる」。ただ、かれはここでこの「肉」が脂身なのか赤身なのかはっきり言わなかった。現代の人々の解釈では、ここでの「肉」は赤身であることは間違いない。なぜならわたしたちは「 竹が無ければ人は低俗になる」ことに同意しているだけでなく、更に脂身が人を低俗の上に更に堪えがたい程に低俗にすると信じて疑わないからである。もちろん、わたしのようなラード愛好者であれば誰もが、身をこのような危険な環境下に置き、ラードに対する思慕がひとたび抑えが効かなくなり、ひいては身を焦がれるようになるに至ると、逢引きをするかのように、こっそりと豚の脂身を買って来て、自分でラードを調製すれば解決ができる。けれども問題は、こうした「白い恐怖」に溢れたラードを食べてしまおうとすると、それはわれわれ自身の油に変わってしまうので、止めるしかなく、「こっそり食べることができなかった」と言って自分で自分を慰めた方がましである。
 
肥白(太って白い)
 
 「白」はいつも「胖」(肥満)と結びつき、実際の経験もおそらく同様である。豚がそうなら、人もまたその右に出ることはない。けれどもその中の道理は、誰かに真面目に探求された様子がない。太った人の皮膚の色が白いのは、決して太った人の多くが生まれつき怠け者だからではなく、屋外での活動に従事することを好まず、陽の光を浴びることが少ないからである。
 
 何れにせよ、太って白い(「肥白」)のはわたしに消し去り難い印象を残した。生涯で初めてこの言葉を読んだのは、『子夜』という長編小説の中で、たいへん痩せておられた茅盾先生が手ずから書かれたものである。しかし、作者が「肥白」で形容したのは決してひとりの人物の外観上の容貌ではなく、太ももであり、チャイナドレス(旗袍)の端から露出したものである。今思い返すと、わたしは世の中に本当に「肥白」と呼ぶに値するものがあり、それはただラードはだけであり、それも凝固した状態のラードである。これはおそらく中国語でバターのことを「黄油」と言う原因のひとつでもあろう。奇妙なことに、「黄油」(バター)を食べるのは、多くが白色人種であり、ラードは大部分が黄色人種の「代表的油」であり、それなのに白いのである。もちろん、ラードの白色は決して白色人種のような青ざめた白色ではなく、どう言えばよいのだろう、幾分きめ細かいなめらかさを帯び、少し薄暗くゆったりした光沢を発し、つまり、少し「しっとり」し、少し「脂ぎった」そういう「白」い「肥白」である。そうだ、他でもなく徳化窯で焼かれたあの白磁は、玉のようにきめ細かい地の上に、釉薬をかけた面は脂のように透き通った白で、世に「中国白」と呼ばれ、またの名を「猪油白」と言う。これを手で触ると、触り心地はまるで、十年以上も使われてきた象牙の麻雀牌の中の白板(パイパン)のようである。
 
 実は、わたしはとっくに、「温泉水で凝脂を洗い流す」という中の「凝脂」は、「肥白」を美とした白居易の時代、正にラードとの共通の感覚を借用した可能性が強いことを思いついていないといけなかった。柏楊先生はそれゆえ嘆声をもらされた。「凝脂とは、本当に白先生が最初、どうやって思いつかれたんだろう。この二文字だけで、ノーベル賞を獲得することができるよ。」聞くところによると、中国古代の有名な美女たちの身体の上のそうした「凝脂」とそのお手入れには、通常ラードを配合した美容クリームが使われたそうだ。ファッション雑誌誌上に「伝統的ラード美容術」という記事が掲載され、そのやり方は次のようなものである。新鮮なラードをきれいに洗った顔に塗り込み、その後水蒸気で蒸す。もしスチーム美容機が無い場合は、大きなお碗に沸騰したお湯を注ぎ入れ、バスタオルで首から上をお碗もろとも包み込み、お碗の中の熱気を直接顔面に当て、5分から10分蒸してからバスタオルを取り去る。もしスチーム美容器も大きなお碗と沸騰したお湯も無い場合は、ラードを直接顔に塗り込んでも良い。
 
黒澤明
 
 
寧波湯団
 
 ラードの中国料理での主要な役割は、炒め物の料理に使うこと。正確に言うと、これを用いてネギやニンニクと一緒にごま油を強火で熱して炒めた料理は、フランス人が習慣的にヘットで赤玉ねぎを強火で炒めるのと似ている。
 
 ラードを炒めて中国料理を作るのは多くの利点がある。とりわけラードが厨房を追放されて後、こうした様々な利点がおもむろに回想されてきている。例えば、ラードの発煙温度が高いので、高温の油で炒めたり油で揚げるのに適していて、比べてみると、比較的「健康」的な不飽和脂肪酸(PUFA)を含む油類は、通常では高温に耐えきれず、酸化し変質しやすく、且つ濃密な油煙を発生させ、却って健康に有害である。
 
 実際には料理を炒めることは二の次で、以下の三つの南方の点心では、ラードの役割や能力が完璧な境地に達している。
 
 寧波湯団は、またの名を猪油湯団と言う。水車で挽いたもち米粉で皮を作り、豚の背脂と黒ゴマに 餡を作り、それをより合わせて団子にし、沸騰したお湯の中で三分煮て、白砂糖を加え、キンモクセイを振り掛け、再びこの団子を見ると、表皮は白玉の色を呈し、ひと口噛んで皮を破ると、黒ゴマとラードが混ざり合ってできた黒くつやつやした暖かい流れが勢いよく飛び出す。もし猪油湯団のためにブランド名を考えるとすれば、わたしは「黒澤明」が最も良い選択だと思うが、どうひっくり返しても毛生え薬のブランド名にはならない。(この文章が書かれた当時(2004年ごろ)、中国内で「黒澤明」というブランドの毛生え薬が売られていたようだ。)
 
 
芋泥
 
 
蝦餃
 
 芋泥(里いものマッシュ)は、福建で盛んに作られる檳榔芋を原料にし、砂糖、ラードを加えて蒸して作る。里いもの他、芋泥 が美味しいか否かは、全て糖分とラードの分量と温度の間のバランスに依り、つまり、この三者の間に一種の脂身、甘さ、粉、柔らかさ、熱さの入り乱れた融合を作り出している。エビの剝き身と豚の脂身を餡の材料とする広州の蝦餃(エビ餃子)も、熱力に依って蒸篭の中で豚の脂身とエビの剥き身の中の肉汁が染み出してこそ美味しいのだ。芋泥 と蝦餃が双方ながら健在だけれども、ただ鶴に乗って去ったラードの味は再びめぐり合い難い。人に虚しく「人面は何れの処に去るか知らず、桃花は旧に依り春風を笑う」の嘆きを催させるだけである。
 
 結局のところ、漢民族は飲食の上で、豚肉文化を代表する民族であり、豚肉を取ってラードを捨てるなんて、情理から言って許容できないのだ。健康に良いかどうかなんて、十数年前に起こった黄土文明と海洋文明の争いと同じで、犯したのは方法論の間違いである。わたしはこう信じる。こうした情況は、誰が正しく誰が間違っているか、誰が優勢で誰が劣っているかはどうでもよくて、重要なのは、誰が美味しくて誰が不味いかということである。中国料理がラードを捨てるというのは、あたかも毛筆の文字を書くのに墨汁を使うのをやめ、ブルーブラックのインクに浸して文字を書くようなものである。もちろん、墨汁は言うに及ばす、毛筆、ペン、鉛筆、クレヨン、ボールペン、甚だしくはキーボードだけ使ったって、中国語の文字は書けるのだが。
 
油然而生的幸福(自然にわき起こる幸福)
 
 動物性の油脂が一般に獣臭い臭いがする以外に、ラードには別に一種の独特な風味があり、わたしたちにある種、自然にわき起こる快楽と安らぎをもたらしてくれる。これは市井に充満する息吹であり、極めて世俗的なもので、暖かい幸福である。
 
 幸福な味わいを描くのに長けたフランスの女流作家、フランソワーズ・ルフェーヴルは、『幸福の預金通帳・ラードで炒めた玉ねぎにパンを添えて』の中でこう書いている。「ラードを温めて溶かしながら、わたしはそれを注視しつつ、心の中になんとも形容し難い悦びが湧き起こった。溶けたラードが熱せられてジィジィと音をたてたら、もう刻んだ玉ねぎの薄切りを投入していい。玉ねぎが炒まって黄金色を呈したら火から下す。わたしは両目を閉じ、この幸せな一食に心から感謝する。誰に感謝すべきかは分からないが、確かなのは生活が改善し、もっと幸せになれるだろうということだ。けれども幸福がやって来る前に、この摂氏0度を下回る冬の夜にあたりに広がる黄金色の玉ねぎの香りは永遠に忘れることができないだろう。そのことを想像するだけで空腹感を取り除くことができ、はるかかなたの深い悦びが自然と生まれてくる……。今や調理が終わり、これをお碗に入れ、ラードが冷えて固まってくれば、この料理は完成である。この時間を使って、硬くなったパンを火にかけて炙り、指を温め、同時にパンの香ばしい香りがしてきたら、固まった玉ねぎのラード炒めを今しがた炙ったパンの上に載せ、あら塩を振り掛け、これと一緒に一碗の薄い牛肉スープを付け合わせて飲めば、そのしみじみとした味わいと食べた時の満足感は、それに加えて凍てつく夜に露営しての食事であってみれば、これまでの生涯で永遠に取り戻し難い感覚であった。」
 
 ラードに詩心を与えた暖かい文字の記録は、張小嫻『友情的猪油』に見ることができる。「深夜2時に「猪油撈飯」(ラードを加えて炊いた蒸籠蒸し飯)に来て夜食を食べた。元々何も考えていなかったが、食べながら蔡瀾が笑い話をするのを聞くうち、ふと、友達って本当に良いものだと感じた。少しの苦しさを我慢すれば、たくさんの友達があなたのことを心配し、ひいては進んで徹夜であなたに寄り添い夜食を食べ、笑い話を話してあなたに聞かせてくれる。本来なら太るのを恐れるのに、恩に感謝してそれに報いようと、小さなお茶碗に半分の猪油撈飯を食べてくれる。食べることが友情なのである。」
 
 よく知ったラードに付き従い、これらの見ず知らずの人がしばらく感動するうち、ふとたいへん奇妙に感じたことがある。ラードに対してこのような感覚を持ち、口に入れたラードの幸福と「深夜の友人」、「早朝のシャワー」、「夜眠れずにいた後、また寝入ることのできた満足感」、「冬の日にヒヤシンスの花が咲いた」、及び「屋外に行って服を乾す」(以上は皆ルフェーヴルの『幸福の預金通帳』に書かれている)を同列に論じているのは、どうして皆「太ることを仇のように恐れる」女性たちなのだろうか。
 
 
猪油渣(油かす)
 
 
猪油渣(油かす)
 
 香港人が言う「油渣」は、ディーゼルオイル(柴油)のことを指す。「柴油」という言葉は、時には人々に柴米油塩醤醋茶(生活必需品のこと)を連想させ、勝手に何かを想像するような感覚であるが、腹が減っている時にガソリンスタンドで「油渣」の二文字を見ると、わたしは我慢できずこっそりつばを飲み込んでしまう。
 
 ガソリンスタンドは実際はつばを飲み込むのにたいへん不適切な場所であるが、「油渣」はわたしに、つい極めて旨い「猪油渣」(油かす)を連想させてしまう。 油かすは、脂身の肉を煮詰めてラードを取った後に残った残滓だが、決して豚肉の余りのよこしまな部分ではなく、反対に、豚肉とラードの結晶と呼ぶに堪えるものである。もしラードを流れ動く建物と言うなら、猪油渣 (油かす)は凝結する音楽である。小さい頃上海では、軽食堂で小皿に少し塩を振り掛けた油かすが置かれ、しばしばわたしや何人かのクラスメートが放課後のおやつにした。これは子供にとって豪華な散財品で、ただたまに手に入るものだった。
 
 実際、1980年代以前に生まれた貧しい者にとって、ラードをこの世の珍しいごちそうと見做す者はあまりいなかった。周潤発によれば、彼は小さい時生活が苦しく、ダイコンがひとつ、油かすがいくつかあれば、飯を一碗食うことができた。油かすはそれでももったいなくて食べれず、必ず母親に残しておいた。
 
 中国以外では、聞くところによるとフランスのワインの産地、ボジョレーでは、油かすは今に至るもなおたいへん人気のあるおやつで、当地の人はまたこれを肴に酒を飲むそうだ。このことは本当にわたしのような年寄りを安心させる良い知らせで、もし油かすが食べたくて仕方がなくなった時に、少なくともひとつは行く場所がある、たとえ多少距離が遠い恨みはあるけれども。
 
 炒め物の料理を作ったり、点心の餡にする、及び油かすを作る以外に、ラードは直接食用にされることがたいへん少ないようだ。つまり、外国人がバターを食べるように、直接パンの上に塗るようなことはない。わたしの印象では、ドイツ人だけがラードをパンに塗ることがあるようだ。蔡瀾先生が愛情を注ぎ、苦心して経営された「猪油撈飯」は、最もラードと親密に接触した食べ方と見做されている。わたしは 猪油撈飯は上海料理(上海菜飯)を焼き直して生まれたものではないかと感じている。菜飯(おかずと飯)と言えば、思い起こされるのが、三年前に上海のあるレストランで、料理の注文で、泣くに泣けず笑うに笑えない経験をした。わたしは「おかずと飯はありますか。」(有菜飯嗎?
)と聞いた。店の答えは「ありますよ。ご飯は何杯要りますか。」それで聞いた。「まだいいです。料理はラードで炒めますか?」答えは、「大丈夫ですよ(帮帮忙)、今は誰がラードなんか使うものですか。安心なさい、絶対にラードは使わないですよ。」それで答えた。「すみません、それなら料理は要りません。」
 
 わき目もふらずに飲み食いを終え、店を出て振り返ると、店の看板には明確にこう書かれていた。「正宗猪油菜飯 」(正統なラードで炒めた料理)。

shāo rǔ zhū
子豚のロースト
 
出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)
 
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 烤乳猪(子豚のロースト)のことを、広東人は焼乳猪、或いは焼猪と言う。この点については、ことばの規範のことであまり質問すべきではない。なぜなら、 烤乳猪であろうと焼乳猪であろうと、この料理は広東人が発明したものだからである。それはちょうど、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」し、その後そこの土着民をずっと「インディアン」と呼び続けたのと同様、服従せざるを得ない。
 
 『礼記』の中で取り上げられた「炮豚」が現代の焼猪の調理法と比較的似ているけれども、「炮」páo、炙られたものがいったい乳猪であるかどうかは、言葉が簡単すぎて分からない。これに比べ、広州での考古学的発見はもっと説得力があり、南越王第2代、王趙胡(紀元前122年頃)の墓の中で、焼乳猪用のコンロ、フォーク(子豚の身体に突き刺し、火にかけ全体を炙るのに使う串)、子豚の残骨などが発見された。
 
 広東の焼乳猪が天下に抜きん出た技法であることを除き、乳猪(子豚)の広東の人々の風俗の中での様々な付加的用途も、たいへん明らかである。婚礼の祝宴には必ず出さねばならない他、清明節のお墓参りに、広東人は焼乳猪をお供えする。毎年この時期は、焼腊店(ローストした豚、鶏、ダックや燻製のベーコン、腸詰を商う店)では「祭祖金猪」(祖先にお供えする金の豚)を大量に販売し、大いに金儲けをするゴールデンタイムであった。この他、焼乳猪は珠江デルタ一帯の昔の風習では、貞節か否かの符丁と見做された。新婚初夜、女性の方に出血が見られれば、初めての里帰りの日に、男性方は必ず赤い紙に包んだ焼乳猪をお礼に贈り、それを持って行く道々鐘や楽器を打ち鳴らし、以て近隣にこのことを公示した。
 
 もし出血が見られなければ、やはり里帰りのセレモニーはするが、ただ焼乳猪が焼鵞(ガチョウのロースト。一説には生の豚の耳一対)に変わった。劉万章著『広州的旧婚俗』によれば、「新婦が貞節であったか否かは、焼乳猪が贈られたかどうかを見れば明白で、もし焼乳猪が贈られなければ、訴訟沙汰となり、たいへん悲しいことであった。」
 
 広東、香港一帯では、今日でも依然女性が結婚前に貞節を失うことをからかって「失猪」と言うけれども、焼乳猪がどういう訳で貞操と関連付けられるのかは、考えないといけない問題である。イギリスの作家、チャールズ・ラムは『烤猪技藝考原』(豚のローストのテクニックの研究)の一文の中でこう言っている。「それはまだ月足らず(月経の周期に達していない)のちっぽけなもので、未だ曾て汚されていない豚たちの世界の悪習に過ぎない。つまり色欲の観念で、それは彼らの遠祖から代々伝わって来た悪習である……」
 
 やはり少しこじつけの感がある。そうでなければ、誰か代わりに劉心武先生に聞いてみてくれないだろうか。
 
食べるのはつまり皮の部分である
 
 
 北京ダックを食べる時、皮に付いたやわらかい肉さえあれば、あんなに大きいアヒルの身体は捨ててしまって顧みないので、いささかもったいなく感じさせる。けれども、焼乳猪は、食べるのは一枚の皮だけで、北京ダックよりずっと高慢である。
 
 この黄金色でもろくてさくさくした皮について、チャールズ・ラムはこう書いている。「わたしは終始こう信じている。この世に、オーブンの担当のコックが極めてすばらしい火加減の超絶なテクニックで作り出した、あの一噛みすれば砕け、少し口に触れれば融けて無くなり、芳しくてサクサクし、歯触りが心地よい、茶褐色で脆(もろ)い子豚の皮に比べられる美味は存在しない。この「脆皮」ということばを、別のことばで置き換えることはできない。それは、あのサクサクし(「酥」)、しっとりした壊れやすい薄い外皮を噛んでみようと思わざるを得ず、そうして思う存分、その中の全てのすばらしい内容を楽しもう。あの凝固した脂肪(「凝脂」)のような糊状のねばねばしたもの、脂肪という言葉ではあまりに不十分で、言葉では表現し難い暖かみのあるもの、それはすなわち油脂の花、そのつぼみは初期であれば摘み取ることができ、芽をふく時は食べることができ、その無邪気で邪(よこしま)な思いが無い段階、つまり……脂身と赤身、脂と肉のめったにないすばらしい結合で、この時両者はとっくに融け合ってひとつになり、緊密で分かちがたく、このため玉露や玉から作った美酒(「玉露瓊漿」)のような非凡な逸品に変化した。」
 
 わたしが長々と『烤猪技藝考原』という一文を引用したことをお許しいただきたい。そうせざるを得なかった原因は、第1に、これが今までわたしが読んだことのある焼乳猪に関する最も美しく、最も満足のいく文章であったから。第2に、このような文章が結局イギリス人の手によって書かれたのは、常日頃焼乳猪を食べている中国語作家に恥ずかしさを感じさせるに足るからである。もちろん、高健先生の訳文は、更に原著に忠実であってしかも原著を越えており、しかも「凝脂」や「玉露瓊漿」とは言わず、単に「酥」の一文字だけを使って、どうやって原文のambrosian(神に値する)、adhesive oleaginous(ねばねばした油質の)、crackling(かりかりする上皮)、brittle(脆い)の類の表現の境地に及ぶことができるだろうか。
 
 『烤猪技藝考原』は18世紀の戯れに書かれた文章であるが、詩のような言葉、少しも出し惜しみしない詞藻(しそう)で、歯の浮くような(ロミオとジュリエットの)ロミオに迫るかのような愛情の独白なのである。ただし、チャールズ・ラム本人が正統な広東式の乳猪を本当に食べたことがあるかどうかは、これまでのところ考証した者を知らない。しかし、ラムが文中で紹介している友人のM(マンニング)は、17世紀初めに中国に住んだことがあり、広州で医師をしていた。
 
 乳猪のあの脆い皮をローストするのは、決して容易くできることではなく、誠にラムが言うように、極めて優秀なオーブン担当のコックと絶妙な火加減が必要である。
 
 10キロ以下で、まだ乳を断っていない子豚を殺し、内臓を取り出し、調味料に漬け込み、蜜を塗り、串を挿して炭火の上に置き、上下にひっくり返しながら90分ほどローストすれば出来上がる。ローストする時は、絶えず上下にひっくり返して、均等に加熱し、同時に小さな刷毛で絶えず豚の身に油を塗らなければならない。全体をサクサクした皮に焼き上げる秘訣は、やはり先ず乳猪の胴体の内側を炙り、それから外皮をローストすること。こうしてはじめて、肉の油がゆっくりと表皮に浸透し、遂には「肉の脂身と赤身、脂と肉のめったに見られない絶妙な結合」という、「玉露や玉から作った美酒(「玉露瓊漿」)のような非凡な逸品」が完成するのである。
 
 もっと研究された作り方は、聞くところによれば、耳やしっぽが焦げ付くのを防ぎ、乳猪が完全にきれいな体形を保つため、コックたちは正式にローストする以前に、菜っ葉の葉などでこれらの部分を包み込み、また豚の腹の中を水で満たした瓶で塞ぎ、腹腔が焦げ付かないようにするそうだ。
 
 広州では、皮の表面の違いにより、乳猪の流派には二通りがある。すなわち「麻皮」派と「光皮」派である。「麻皮乳猪」は、また「化皮乳猪」とも呼ばれ、特徴は強火でローストし、また絶えず油を塗り、同時に絶えず錐で皮の表面を突くことで、油がはじけて出る気泡で乳猪の表皮を柔らかくし、最後にゴマ粒のように均一に広がった気泡を形成させ、黄金色を呈し、食べてみると比較的もろくてさくさくとした歯触りで、「口に入れると融けてしまう」と称賛されている。
 
 「光皮乳猪」に至っては、工程上は上記のような技術的な含量を欠いているが、外見は赤や紫の、まばゆい色彩が溢れ、見かけを論じれば、「麻皮派」は全く相手ではなかった。「麻皮乳猪」と「光皮乳猪」は食べ方でも違いがある。前者は薄い皮の下の柔らかい肉も一緒に切り出し、千層餅(小麦粉を捏ね、表面に油を塗って何層にも折りたたんで焼いた、内部がパイ状になったビン)に挟み、海鮮醤(味噌、砂糖、酢、唐辛子などを混ぜて作った調味料)、砂糖や細切りのネギ、赤トウガラシの細切りなどを点けて食べ、後者はただその薄くもろい皮に、甜醤(テンメンジャン)を点ける。
 
 白砂糖と甜醤(テンメンジャン)は、どこの広東料理のレストランでも、焼乳猪を食べる時のお決まりの調味料である。このふたつは極めてありきたりのもので、生のネギと甜醤が北京ダックに欠くべからざるものであるのとは異なるが、ある程度は乳猪の最終の味を決定する。
 
閃亮登場(スポットライトを浴びて登場する)
 
 乳猪は美味しいだけでなく、見栄えもする。
 
 乳猪の美味は幾多の文章に見ることができるが、それは既にチャールズ・ラムにとどめを刺し、焼乳猪の見栄えの良さに至っては、形(全身に南宋、哥窯(かよう)で焼かれた青磁のようにひび割れの紋様が入っている)、色(エビ茶色や黄金色を呈する)の他、更に正式な宴席で乳猪を出す時の体裁に見て取れる。
 
 『清稗類鈔』の記載によれば、「焼烤席は、俗に満漢大席と言い、宴席の中でもこれ以上ない上品である。ツバメの巣、フカヒレなど珍しい肴以外に、必ず焼猪(焼乳猪)を出し、それは必ず丸焼きでないといけない。酒が三巡すると、焼猪を出し、コックや召使は皆礼服を着て入場する。コックは料理を捧げると待機し、召使が手にした小刀で身を割き、器に盛り、膝を屈して、首座の客に献じる。」
 
 「満漢大席」はすなわち「満漢全席」で、中華料理の最高峰の料理である。許衡の『粤菜存真』が記載する広州、四川両版の 満漢全席メニューによると、そのどちらにも 焼乳猪が現れる。広州のメニューでは、焼乳猪は「二回目」の「熱葷」(肉、魚料理)として、フカヒレの姿煮、翡翠珊瑚、口蘑鶏腰といった料理のすぐ後に出され、この度の最後のメイン料理となる。比較的簡略な四川膳のメニューでは、焼乳猪は「叉焼奶猪」の名で、「四紅」(すなわち叉焼奶猪、叉焼宣腿、烤大田鶏、叉焼大魚)の首位に列せられる。
 
 もし例えば結婚式、同窓会、表彰式の類でその宴会を取り仕切ることになったら、乳猪を出しておけば、宴会の格式は他に勝りこそすれ決して劣らないものとなるだろう。楽器や太鼓が一斉に鳴り響き、数十頭の乳猪が数十台の色とりどりに飾り付けられた輿に乗せられ、古代の料理店の給仕に扮した服務員が1列縦隊で輿を担いで登場し、乳猪の両眼には赤色の電球が取り付けられ、会場の照明が暗くされると、子豚の両眼から絶えず点滅する赤い光が突出し、これは掛け値なしの「光り輝く登場」であり、主人の面子も賓客たちの気持ちも、この時に頂点に達する。
 
 もっとすごい演出の場合、会場を練り歩いた乳猪が厳かにテーブルの上に置かれても、依然会場の照明は落とされたままで、一筋のきらきら光るスポットライトが乳猪の上に当てられ、まるでその子豚がすぐにスピーチを始めるかのようだ。
 
乳猪全体(子豚の丸焼き)
 
 広東では、焼乳猪はレストランで食べることができるし、街の焼腊店(ローストした豚、鶏、ダックや燻製のベーコン、腸詰を商う店)で買うこともできるが、何れにせよ、乳猪を食べる時はその一部だけ買うのは良くなく、丸々一匹の丸焼きが良い。
 
 いわゆる乳猪の一部というのは、一匹の乳猪の身体から切り取られた十や二十の枚数の皮である。もちろん、子豚一頭全体のローストが素晴らしければ、その一部の焼け具合も決して遜色無いだろう。ただ、外観の印象は、一頭全体のあの満足感は感じられず、またそれ以外にも、並べて冷凍されるので、皮の歯ざわりやサクサクした脆さが多少差し引いて考えないといけなくなりがちである。一頭丸焼きの乳猪は、レストランのメニューを書いた看板では、「乳猪全体」と書かれ、メインディッシュの名称である。しかし、「乳猪全体」を食べようと思ったら、数人で行ってもだめで、おそらく「友達全員」とか「親密な友人全員」を集めなければならない。人数は十分に集めるのが難しいだけでなく、「全体」(一頭丸ごと)の乳猪は通常予約が必要である。
 
 不幸なことに、乳猪は会食や宴会でしばしば「雰囲気を作り出す」重要な役割を担っており、およそ「乳猪全体」が出される場合は、十中八九が皆「全体大会」の類で、その盛況さは空前で、にぎやかで混乱した現場では、実際に乳猪を子細に楽しむことが大いに妨げられる。今年のはじめ、香港で「万衆一心千禧耀東華」(大衆が心をひとつに長しえの幸福を祝い、東中国を照らす)という慈善公演に参加した芸人たちのグループは、主催団体の手配でレストランに行き、祝賀宴会を開催し、大衆と共に楽しんだが、最後は気まずい思いで別れた。その原因は、主に騒々し過ぎたからで、舞台の下で「参加者全員が飲み食い」するのはまあ良い。それ以外に大声で酒席のゲームをする者、更には大声でカラオケを歌う者までいた。しかし、宴会に多少関与した歌手の楊千嬅が事後に芸能ニュースの記者に語ったところでは、彼女はこうした「回りがたいへんにぎやか」なところで歌を歌うのは別段気に留めていない。というのも、これまで彼女は様々な経験をしたが、彼女がはっきり憶えているのは、こうした場所で歌を歌う時、お客の中にはテーブルの上の焼乳猪を食べることばかり考え、更に食べる時に音を立てる。楊千嬅が言うには、こういう情況は本当に受け入れ難く、自分が甜醤(テンメンジャン)になったように感じると。それで、彼女は誓いを立て、自分にこう言い聞かせた。「気を付けて歌を歌おう。決して乳猪の甜醤にはなるまい。」
 
 甜醤と言えば、わたしは実際、これはあるレストランの乳猪を試すひとつの重要なめやすだと思う。わたしは、大部分の乳猪を売るレストランは、焼き加減は皆悪くないのだが、ただ一般に誠意に欠けるということを発見した。豚と一緒に出される甜醤と白砂糖は、皆固まってしまっている。明らかに、これは厨房の中で長い間貯蔵されていたという悪い結果である。

là wèi
写真は、煲仔飯
 
 本短編の題、「腊味」というのは、燻製にした肉や魚のことです。「腊」とは肉類の処理方法で、肉を塩や味噌に漬け込み、冬の寒風に晒して乾燥させたもの。「腊」は「腊月」のことでもあり、 旧暦12月を指します。腊肉は中国版ベーコン。これを使った料理も「腊味」で、広東省の「煲仔飯」は、米の上に腊肉などを載せて炊き上げた、広東風釜めしで、腊肉が調味料として料理全体に風味をつけています。沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)より。
 
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 腊肉(燻製肉)はいつもわたしに降雪、綿入れの上着、ストーブや、冬の間の様々な行事を連想させる。もしひとつの食べ物で冬を形容するなら、「腊味」を先ず思い浮かべるだろう。
 
 「腊(臘)は乾し肉である」(『辞源』)。およそ塩漬けにしてから、 「腊尾」(旧暦の12月の終わり)から春のはじめに取り出して食べるものが、「腊肉」と見なせる。中国のベーコンの類、これも塩漬けを経て作った「乾し肉」である。欧州の「乾し肉」もたいへん美味しいが、食べようと思えばいつでも食べることができ、結局のところ「腊味」と呼ぶことはできない。更に西洋人たちの暦(こよみ)の中には曾て(フランス革命暦)、熱月(テルミドール。7月19日から8月17日)、霧月(ブリュメール。10月22日から11月20日)があったが、「腊月」(旧暦12月。師走)は無かった。
 
  腊肉は湖南、広東両省で産するものが最も良い。違いは、湖南のものは塩辛過ぎ、また塩漬けの過程で更に煙で燻すので、味が剛直で、且つ錯綜し複雑な煙で燻された感覚(稲のもみ、サトウキビの皮、みかんの皮、木屑を含む)がある。「腊味」を中心とする代表的なものに、「腊味合蒸」がある。一緒に蒸すのは、細長い腊肉を除いて、細長い 腊魚があり、料理酒、ラード、鶏のスープを調味料とし、蒸篭に入れて20分蒸すと、色つやは黄金色に輝き、塩味と共に香味があり味が濃厚で、実に天意が間に入ったかのようだ。
 
 
湖南煙燻腊肉
 
 広東式の 腊味の製造は煙を出さない加工で、それゆえ味は比較的淡白で、湖南人がそれを食べてみると「まだ半生で十分燻されていない」ように感じるかもしれない。正にこのことにより、広東式の腊味はこれだけをそのまま食べるのはよくないし、湖南の腊味のように他の材料と一緒に蒸すやり方の「全体会議」を行うのもよくない。広東式腊味が演じるのはしばしば味を整える役割であり、つまり、これが通常参与するのは、一場の「拡大会議」であり、しかも列席者の身分である。例えば秋、冬の季節にだけ市場に出る煲仔飯(広東式釜めし)は、広東式腊味の魅力を最も良く体現している。コンロの火が土鍋の底をゆっくりと、しかし着実に熱し、一方土鍋の中は、米の飯が主体で、腊肉 (燻製肉)が添えられている。表面を覆った腊肉 (燻製肉)、腊鴨(燻製にしたアヒルの肉)、腊腸(中国式の腸詰)の肉汁がやさしく、全面的に土鍋中の米に浸透し、鍋の蓋を開け、醤油をかけ回すと、炊けた米の香りと肉の香りが顔をなで、更に広東特有の暗くじめじめした寒風が手助けし、鍋を受け取る時は意気消沈していても、これを食べるや感動し涙をこぼす。それゆえ、広東人はあまり「腊肉」とは言わず、その代わりに「腊味」という言葉を使うのである。
 
 「腊肉」と言えば、必ず「希腊」(ギリシャ)を取り上げないといけない。なぜならこうした肉の保存方法は早くも2500年前の古代ギリシャの時代には存在したからであり、そして今言っているのはその中国版である。実際、冷蔵庫が発明される以前、乾し肉の製法は完全に食物を保存する目的から生まれた。塩蔵であれ、乾燥、燻製、炙りなど、その方法は多種多様だが、キーワードはただひとつ、水分を抜くことである。多様化したのは手段だけでなく、更に水分を抜く目標が含まれ、牛、羊、馬、鹿、獐子(しょうし。キバノロ。シカ科だが、雌雄とも角が無い)、クマは皆、その当時乾し肉にされる人気の獲物だった。どうせ保存するなら、何でも乾し肉にすることができた。人間は乾し肉にできないか。できますとも、とてもよくできる。遠い昔にはミイラ、最近のものは蝋人形館がある(「腊」(臘)と「蜡」(蝋)は何れもで同じ発音)。しかし、「腊人」の原則は、牛、羊、馬、鹿、キバノロに対する「区分なく乾し肉にする」のとは全く異なり、それはこれまでずっとひとつの規準に則り実行された。すなわち成功した人でなければミイラや蝋人形にされないのだ。
 
 歴史上最も有名な「腊肉」は孔子の話に出てくる。「束脩十条」shù xiū shí tiáoは、孔子先生が教育を行う時の定額の学費であった。「束脩」(そくしゅう)は、生肉に香料を加え、寒風で乾した「腊肉」の束のことである。文革末期の「批林批孔」運動の時、「束脩十条」はまたかたじけなくも孔老二(つまり孔子)の公開裁判のための証言に加えられ、72に10を掛け、少なくとも720本の 腊肉は、孔子を悪辣な「肉食者」階層とし、教師たちを徹底的に整理するのに十分なものであった。不思議なことに、わたしがこれまで食べたことのある様々な孔府菜(山東省で歴代帝王が孔子の祭礼にささげた料理から発展した宴会料理)の中では、均しく 腊肉を見かけたことがない。「晩春に、春服は既に準備でき、成人の冠を被った者5、6人、子供6、7人が沂水で沐浴(もくよく)し、風に吹かれて雨乞いの舞を踊り、歌を歌って帰った。」この清明節のピクニックの一団には、「成人5、6人、子供6、7人」以外に、「腊肉を7、8本」を携帯し、野外での食事に用いなかったのだろうか。「三月(みつき)肉の味を知らず」、いったいそれは「肉味」だったのか、それとも「腊味」だったのか。孔子は結局肉を食べる方が好きだったのか、それとも音楽を聞く方が好きだったのか。これらのことはあまり言い出しにくいが、けれども腊肉の質感から言えば、授業料の受領に使う「ハードカレンシー」としての適用を失ってはいない。
 
 やはり先ず古人に替わって心配するのはやめよう。泣きたくとも涙が出ないのは、世界的にも美味なる腊味が、ひょっとすると遂にある日、「健康」という名の下に徹底的に消滅させられるのではないか心配なのだ。更に気持ちが落ち着かないのは、冬になってもあまり寒くならず、一年で四季のうち春夏秋はあっても冬を欠き、終生冬の寒風に晒した「腊味」を知らないことになる。そうした情況では、本当に腊肉が、「蝋燭が燃え尽き、涙のように融けて流れた蝋のように干乾びて固ま」ってしまうのではないか心配だからだ。

条順 tiáo shùn
(体つきがしなやか)
 
 今回も沈宏非『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)から、『条順』という文章をご紹介します。 「条順」の意味は、この文章を読んでいただくこととして、この文章で取り上げているのは麺料理についてです。その中で取り上げている『随園食単』、これは中国清代の人、袁枚が役人を辞してから南京近郊に随園という邸宅を営み、ここで彼が食した料理についてまとめたものです。浙江省出身の袁枚は、麺料理をどう位置づけているのか。そして沈宏非はどう考えているか。それでは『条順』を読んでいきましょう。
 
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 『随園食単』の中で、袁枚は麺類を「点心」(正餐の前に小腹を満たす軽食)類の中に入れている。これは明らかに麺類が主菜ではないだけでなく主食でもなく、正餐の間の腹の足しで、空腹感を鎮めるために供するという、一種の「且点心(正に気持ちに火をつける)」という着火剤となる美食である。
 
 しかし、「点」(火をつける)の字は別に「面条」(麺類)と「心」(気持ち)の間の関係を表すのに相応しいものではない。麺類の形状を論じるにせよ、麺類の美味しさを語るにせよ、それとわたしの気持ちの間には様々な思いがまとわりつき、あたかも「繞梁三日」(調子が高まり激しく揺れ動く)音楽のようで、たいへん心にまとわりつく。成都人は美女を「粉子」と呼び、美女の尻を追うことを「繞粉子」rào fěn ziと言う。この「繞」の字は、同様にわたしの麺類に対する気持ちを表現するのに相応しい。
 
 手を加えられた日常の食物の中で、見た目のしなやかさと美しさで言えば、麺類が一番である。麺の前身は、ふっくら太った小麦粉の団子であり、切り刻まれることで、小麦から細長い麺になり、驚くべき艶めかしい変身を実現していて、このため麺は小麦粉の最も美しく最も科学的な線状の延伸、展開である。
 
 70年代の北京の隠語で、美女に対する評価は、「盤正条順」という高度に濃縮された四つの文字であった。「盤」とは顔立ち(顔の輪郭)を指し、「条」とは体つきのことである。「盤正条順」は見た感じ、「名正言順」(名分が正当であれば道理も通る。名分も言葉も正当である)を焼き直したものだが、「正」は別に正確の正ではなく、端正の正でもなく、今日言うところの「正点」(定刻、定時)の「正」に近い。「順」に至っては、体つきのしなやかさ、流線型の曲線を指すに他ならない。麺も同様で、食べたいのがこの「順」であるなら、「順」は麺の見た目だけでなく、より重要なのは食感で、正にこの「順」だけが、わたしたちに、麺を食べる時に遠慮なく発することができ、食事の時に本来は発してはいけない、ズズッ、ズズッ と続く心地よい音を表すのであり、或いは魔物のようにしなやかな美女が、「順」であることで人に聞こえる「ズルッ」とすすり込む音なのである。
 
 もちろん、湯麺(タンメン)であるか撈麺(混ぜ蕎麦)であるか、箸を使うかフォークを使って食べるか、こうした要素も「順」に多大な影響をもたらし、場合によっては見た目が全く異なる。例えば、スープの無いスパゲティは元々湯麺 のような「美女が湯船に浸かる」色気が欠けており、更にフォークで巻いて食べても、少しも「順」の快感は感じられず、せいぜい口に頬張っても歯にまとわりつく柔らかい麻花(小麦粉をこねて細かく切り、ねじり合わせて油で揚げた揚げ菓子)のようなものだ。それに比べ、曾てイタリアの貧しい人が手で引っ張って伸ばした麺を高いところに「吊り下げ」口に入れた食べ方は、却ってより「条」の感覚を得ることができた。更に、広東人が作る麺類はたいへん不味い。それはまた広東語ではいつも「麺条」のことを「麺」とだけ言って「条」を付けないのと関係しているかもしれない。
 
面面観(麺についての様々な考察)
 
 『随園食単』「点心単」に列記された麺類は、全部で「鰻麺」、「温麺」、「鱔麺」、「素麺」、「裙帯麺」の五種であり、墨を惜しむこと金の如しか、麺を惜しむこと墨の如しか知らないが、少なすぎる気がする。
 
 袁枚は82歳まで生き、行ったことがある場所は少ないとは言えず、食べたことのある麺は思うに上記の五つに止まらないにちがいない。ところがこれら五つの麺だけ選んで食単に入れたのは、郷土の習俗や個人の好みの問題以外に、これら選ばれた麺に各々その独特な点があったからに違いない。しかしわたしはそれ以外に、五つの麺にはひとつの共通点があることを発見した。それは、その調理過程で、スープ、餡かけの効果をとても強調していることである。「鰻麺……鶏のスープはこれを澄ませ、鶏のスープ、ハムのスープ、干しキノコのスープを沸騰させる」、「素麺は、前日に干しキノコを水でふくらませ煮出したスープを澄ましておく。翌日そのスープに麺を加えて沸騰させる」。最後まで書いて、自分でも幾分不注意が過ぎると思ったのか、一筆を加えた。「およそ麺を調理するには、必ずスープを多くするのが良い。碗の中に麺が見えなくするのが良いのである。食べ終わっても麺をまた加えると、人をうっとりさせることができる。このやり方は揚州で流行っているが、正に甚だ道理がある。」
 
 もうひとりの清代の美食家、李漁は、袁枚より百年あまり早く生まれている。原籍は浙江省。江蘇に生まれ、これらふたりの終生の「麺類飲食生活区域」はほぼ完全に重複し、人生に対する態度も非常に似通っているが、彼らの麺に対する態度は大きな隔たりがあり、甚だしくは轅(ながえ)を南に向けながら、車を北に走らせるかのように、行動と目的が全く一致していない。李漁は『閑情偶寄』の中でこう批判している。「北人は小麦を食べるのに多くは餅(ビン)にするが、わたしは細長く切り分けて一本一本はっきりさせるのが好きだ。南人のいわゆる「切麺」がこれである。南人が麺を食べるのに、その油塩醤醋などの調味料は、皆麺のスープの中に入れ、スープは味があるが麺は味が無い。これは人の重視するのが麺にあらずスープにあり、未だ曾て麺を食せずというのはこのことである。」
 
 李漁は雄弁であるだけでなく、言だけでなく行動もでき、彼はふたつの上記の理論に基づく麺を打ち立てた。名を「五香」、号を「八珍」と言い、重点は麺を切る前に「醤(味噌)や、酢、山椒の粉、すりゴマ、茹でたタケノコ或いはキノコを煮、エビを煮た汁」、及び「鶏、魚、エビの三つの肉……と生のタケノコ、シイタケ、ゴマ、花椒の四つの物を細かく挽いた粉末を」尽く数えて麺の中に入れる。その目的は「諸物を調和させることで尽く麺に帰し、麺は五味を備え独りスープが澄み、こうしてようやく麺を食べるのはスープを飲むのとは異なることとなる。」
 
梨花帯雨(梨の花がしっとり雨に濡れる)
 
 湯麺(タンメン)についての忠実な擁護者として、わたしは袁枚は李漁よりずっと優れていると信じざるを得ない。
 
 麺について言えば、麺自身の味も固よりたいへん重要である。しかし、小麦粉自身を除いて、すなわち小麦自身の品種と品質以外に、麺の重要なセールスポイントはすなわち噛み応えであり、上記の要素を除き、噛み応えは小麦粉を捏ね、切り、茹でる技術により決まる。麺の味は、主にスープから汲み取られる。それと同時に、スープにも麺固有の芳香が溶け込む。こうして、スープも麺も、柔らかくもあり強靭でもあり、スープしたたる麺は、梨の花が雨がしっとり雨に濡れるように艶めかしい。
 
 それゆえ、「人の重んじるのは麺に在らずしてスープに在り」というのはもとより片方に偏してしまっており、逆にもし「人の重んじるのはスープに在らずして麺に在り」とし、「麺が五味を具え、スープは独り澄む」ようにするのも、専ら一方の味を好むものとなる。わたしたちが一碗の美味しい麺に対する要求は、一碗一碗どの麺も皆到達すべきだ。麺を食べないといけないし、スープも飲まねばならない。こうしてはじめてスープも麺も共にすばらしくなり、功徳円満となる。科学的にも市場の角度からも、スープと麺が「一体化」する有利な形勢が勝ち取れる。
 
 もちろん、上海冷麺のような干麺、拌麺(混ぜ蕎麦)、或いは新疆の「大盤鶏」の中の「幅広」の麺も美味しい。わたしが嫌いなのは、ただ人為的に各種の外の物を麺の中に混ぜることだ。広東人は 湯麺 であれ 干麺であれ、うまく作れない。ただ李漁の教義を継承し、その伝統を発展させ、技量を皆小麦粉を捏ねる点にかけ、蝦子麺、鮑魚麺といった俗悪な麺や餅(ビン)をでっち上げた。
 
 湯麺(タンメン)に対する態度の上で、李漁はひとつの極端な例で、張愛玲はまた別の極端な例である。すなわち、彼女はただそのスープを好み、麺は食べなかった。「わたしはあいにく湯麺が最も嫌いで、「スープがたっぷりで麺が少ない」、思うに一番いいのはいっそ無いことで、ただ少し麺の味が残り、スープが澄んで濃厚なこと……杭州のガイドは皆を楼外楼に連れて行き、螃蟹麺(上海蟹入りの麺)を食べる手配をしてくれた。当時、この老舗レストランはまだ上海のレストランのように「大衆向け」に、料理の値段を低く抑え、仕事の手を抜き材料をごまかし、品質を低下させてはいなかった。この店の螃蟹麺は確かに美味しかったが、わたしは麺の上にかかった具を食べてしまうと、スープがほぼ無くなったので、箸を置いた。自分でも、今の中国の情勢下でこのように気ままに食べ物を無駄にするのは、いささか罰当たりなことだと思った。」
 
 わたしの自宅に客を招待し、 湯麺を召しあがっていただく時は、必ず特大のどんぶりを用う。どんぶりのサイズはできれば自分の顔より大きいものを使い、人の五官をスープの湯気の熱さで燻せば、ひとしきり、またひとしきりと感動が人々の顔をなでながらやって来る。
 
南人北相(南方の人が北方の人の容貌を兼備する)
 
 袁枚が記録した麺料理は、皆南派(南方)のもの、いや基本的には江蘇、浙江の二省を出ることさえなかった。麺料理は畢竟北方に由来する食品であり、ちょうど李漁が『閑情偶寄』の中でこう言っている。「南人は米を食し、北人は麺を食すのが常である。」
 
 袁枚は浙江の人だが、もし彼が北方の満州族出身で、関(居庸関)を越え、北京の役人になっていたら、おそらく彼は、麺という北方人の主食を「点心」の中に入れることはあり得ないし、そうする勇気も無かっただろう。北方人の日常の飲食生活の中で、麺は 点心と見做すことができないだけでなく、貧しい人々にとっては、麺は更にある種、精緻な小麦を使った食品と称するに足るものであった。これと同時に、北方の麺は日常の食べ物として普及しているだけでなく、その様式種類もすこぶる多く、山西省一省だけでも、麺の食べ方は百種類以上あり、当地の家庭の主婦は、更に「360日、毎食麺料理にしても、料理が重複しない」という腕前を持っている。もし袁枚が33歳で「官を辞して故郷に帰」っていなければ、『随園食単』の麺類メニューもきっと5種だけに止まることはなかっただろう。
 
 それゆえ、江蘇、浙江一帯で中国で最も美味な麺料理が盛んに作られた所以は、第1、ここは広義の南方であり、江蘇、浙江は曾て戦乱の禍と大運河による漕運の便により、中国北方の精緻な文化の最も深遠且つ最も長期間に亘る影響を受けたため。第2、北方の麺が初めて南に渡ったばかりの時、江南の精緻な飲食もまた初めて「北方の麺」の薫陶を受けたため。それゆえ呉越の麺料理は確かに「南人北相」、南方の人が北方の人の容貌を持つことで、双方の長所を兼備することとなった。
 
 翻って、北方に引き続き残った麺料理、その中でもわりと代表的な北京の炸醤麺(ジャージャンメン)を例にすると、たとえ文人たちが「雪のように白く柔らかくしなやか、平らで整った手延べ麺、四月の柳の葉に似たキュウリの細切り、卵、さいの目に切った豚肉、きくらげ、キノコ、黄ニラを油で揚げて作った味噌」というような言葉の修辞でそれを賛美していたとしても、わたし個人の経験では、北京旧市街、南城に住む「老北京」、昔から北京に住む人のお宅で御馳走になろうと、東城の五つ星ホテルのレストランで食べようと、炸醤麺はどこのものも美味しくない。そして最も不味いのは、他でもなく炸醤、油で炒めて作った肉味噌の塊りである。
 
 ネット上で広く流布した長編読み物、「包子麺条大戦」の一節で、炸醤麺が主人公になっている。ここで再度紹介しよう。なに、北京人に怨まれたって構わない。「さて、小籠包は殴られて後極めて不愉快になり、肉包(肉まん)、豆沙包(餡まん)、近い親戚の餃子、遠い親戚の月餅といっしょになって、かたき討ちをしようとした。ちょうど路上で炸醤麺に出逢ったので、皆は炸醤麺を取り囲むとそれをぺしゃんこにして虫の息にした。帰路の途中、皆は小籠包に言った。「君は本当にそんなに麺を怨んでいるのか。こんなに殴ったら死ななくても障害が残るだろう。」小籠包は言った。「元々、わたしもただ適当に何発か殴ればいいと思っていたのだが、奴がなんと全身に大便を塗りたくっていようとは誰が知ろう。こんなだとわたしは奴を殴る勇気が無くなる。本当によく考えたものだ。こんな意気地なしのチビがわたしの気持ちに火を点けた。殴り出したら節制が効かなくなって……」」
 
 実は炸醤麺が最も不味いわけではない。広東人の麺料理、とりわけあのワンタン麺というものを食べてはじめて、本当にこれは「惨たんたる人生を目の当たりにした」と叫びたくなるのだ。
 
拉麺(ラーメン)
 
 
 蘭州ラーメンは既に一碗の麺料理からひとつの神話に変化しており、流行の言い方を真似ると、ラーメンとは蘭州という「都市の名刺」である。
 
 ほとんど蘭州ラーメンと同期に神話になったものに、更に日本のラーメンがある。蘭州と日本は地理の上では遠く離れていて、双方の飲食文化はまた高度に異質であるけれども、これら二種類のラーメンとその土地で形成されたラーメン文化の間には、ある微妙な類似点が存在する。
 
 蘭州ラーメンと日本のラーメンは何れも湯麺(タンメン)で、「重湯」、スープが重要な麺類であり、どちらもスープが勝負のカギを握る。前者は牛や羊の肉をスープの主要な材料とし、後者は醤油、味噌、豚骨とコンソメスープを4つの基本的なスープの基本部分としている。もちろん、牛肉、ネギ、ニンニクの芽、香菜、唐辛子を除いて、蘭州ラーメンの原料の配合と名目は、日本のラーメンの原料やそれらの使用目的が極めて多いことに遠く及ばない。それには次のようなたとえをすることができる。蘭州ラーメンをWindowsとするなら、日本のラーメンはLinuxのようなものだ。後者は基本プログラムが完全に開放されたプラットフォームであり、およそ思いつき得る材料であれば、何でも意気揚々とスープの中に注ぎ込むことができる。こうした意味において、日本のラーメンは実際、集団での創作の成果であるかのようだ。
 
 日本のドラマやソニーを除いて、日本人のものの大部分が聞くところによると中国から伝わったものだそうで、ラーメンも例外ではない。ある人の説では、中国のラーメンは早くも三百年あまり以前に日本に上陸したそうである。当時、一心に「反清復明」を主張していた中国人、朱舜水(字は魯璵、舜水と号す。明の浙江紹興府余姚県の人。南京松江府の儒学生)は七度海を渡り長崎に到り資金を準備したが、やむを得ない事情で実現できず、やむを得ず1659年長崎に落ち着くこととなった。水戸藩第二代藩主で、徳川家康の孫、水戸黄門が儒学をたいへん好んだため、一年の時間を費やして家臣を長崎に派遣し、三顧の礼を尽くし、遂に 朱舜水を招聘して江戸水戸藩邸に居留してもらうこととなった。朱老師は水戸黄門に儒学を講義しただけでなく、彼に中国の麺料理をふるまった。『朱文恭遺事』の記載によれば、朱舜水は自ら厨房に立ち、水戸黄門のために作ったのは、レンコンの粉で作った平麵で、スープは豚肉のハムを煮つめて作った。
 
 もうひとつの説では、現代の日本のラーメンは、日本在留の浙江出身の華僑、潘欽星が大正年間(1920年代初め)に創始したと言われている。
 
 いずれにせよ、わたしは蘭州ラーメン、日本のラーメン、呉越の湯麺(タンメン)、及び李漁、袁枚、朱舜水、潘欽星といった既に亡くなった江蘇、浙江の人々の間には、麺類でつながった関係が、歴史と美味の霞みの中にたたずんでいるように感じる。
 

 瓜子( クアズ )はヒマワリやスイカやかぼちゃの種をを殻ごと煎って、塩や調味料で味をつけ、お茶請けのスナックとして食べるもの。「殻ごと」というのがポイントで、その食べ方は、殻を手で剥いたりせず、殻を前歯で噛んで割って、舌の先で器用に中身だけ口の中に入れ、殻はぷっとはき出すというもの。ここで、 「殻を前歯で噛んで割る」という動作のことを「嗑」といい、この時の音がこの話のテーマです。作家、テレビプロデューサーの 沈宏非著、『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)収録の作品です。
 
 
聴瓜子
 
 
 様々なものを食べる音の中で、水を飲む音の他、最も好ましい音は、クアズ(瓜子。ひまわりやスイカ、かぼちゃの種を炒ったもの)を前歯で噛み割る(嗑)音である。
 
 瓜子 ( クアズ )を噛み割る音は、主に以下の三つの動作が途切れず行われることでできている。 瓜子の殻は歯先でパキパキと破裂し、吐き出される時に唇と舌の間でパラパラと音を発して下に落ちる時に聞こえるのは空洞のこだまである。66年前、豊子愷先生は女性が瓜子 を噛み割る音を、澄んで耳に心地よい「チッ、チッ」という音で表したが、ひょっとすると66年前は 瓜子がとりわけ歯触り好く炒られていたのかもしれず、或いは66年前の女性の歯はとりわけ鋭かったのかもしれず、「チッ、チッ 」という音は今日ではもはや人に瓜子 を噛み割る音とは連想させられず、むしろ多少留守番電話機の信号の音に似ている。
 
 でも実は、瓜子 を噛み割るリズムが、その音よりもっと人々をうっとりさせるのだ。自分や他人が瓜子 を噛み割るのを連続して2分以上聞かされると、その絶えることなく続くリズムは、まるで楽器の旋律と肉声の歌声が同時に発せられた中国式のジャズのメロディのようである。
 
 もちろん、こうした音やリズムの多くは静かな部屋でひとり瓜子 を噛み割った時にはじめて気にかけられるもので、一般的な情況では、しばしばがやがやとした無駄話やあれこれと話す声の中に埋没してしまう。雨が芭蕉の葉を打ち、腹を空かした馬が鈴を揺する音が聞こえるのは、その前提として雨があまりじゃじゃぶりではなく、芭蕉の葉も馬もあまり多くないことで、もし暴雨が芭蕉の林に降り注ぎ、馬も空腹の余り発狂しそうになっていると、その有様は、大厨房の中で肉や野菜を炒めているのと変わらない。
 
 瓜子 を噛み割るのは中国人の生活に根付いた風習であり、瓜子 を噛み割る音も、如何にも中国的な音である。春節は一年の中で「中国の音」が最も強い月で、同時に瓜子 の販売の最盛期である。商品分類上、 瓜子は通常「炒貨」chǎo huò(スイカの種、落花生、ソラマメなど炒ったものの総称)に分類されるが、音の面では、 瓜子、マージャン、花火、爆竹は年越しの賑やかな雰囲気を作り出すために存在する正月用品で、何れも「吵貨」chǎo huò(騒々しい商品。発音は「炒貨」と同じ)と読まれるべきものである。
 
 瓜子 は別段美味しいものではなく、その主な属性はそれが唇や歯と一緒に動いた時に発する音声効果の上にあり、こうした音声は美学上の意義はもとより取るに足らないものではあるが、実際の効果から言うと、少なくともレイヴ・パーティー(ダンス音楽を一晩中流す大規模なパーティー)での薬物使用の乱用の問題の解決に建設的な意見を提供する可能性がある。レイヴ・パーティーの会場には瓜子 の自動販売機が設置され、瓜子 を噛み割ることで薬(やく)を噛むのに取って代えるよう提唱され、また地面を 瓜子の殻だらけにして、これ以上すごいDJも演奏できないような人々を魅了する音楽を提供することができるのである。
 
 
瓜子臉(うりざね顔)
 
 スーパー・ボールの勝者が、なすべきことは何でも行い、誰にも譲らない「世界チャンピオン」とするなら、世界で一切の瓜子 に関係した歴史は、全て漢字で書かれたものである。
 
 馬王堆漢墓の女性の遺体の腹の中から消化されていない 瓜子が発見されたことがあるけれども、瓜子を食べる歴史は最大宋(960-1279年)から遼代(916-1125年)までしか遡ることができない。なぜならひまわりやスイカから作る瓜子の「親元」は、何れも五代の時期(五代十国時代。907年 -960年)になってようやく中国にもたらされたからである。それはともかく、わたしは世界で最初に 瓜子の殻を剥いて口に入れたのは、きっと女性に違いないと考えている。女性であるからこそこのように自然と注意深く繊細な観察力と我慢強さを備えていたのであり、もちろん小さく敏捷な口と指も、欠くことのできない道具である。
 
 たとえ今後考古学上の資料で 瓜子は男性が発明したものであると証明されたとしても、瓜子が女性の食べ物であるという広く一般に認められた事柄、つまり女性だけが瓜子 をこんなり優雅に、美しく噛み割ることができるという現実を改めることはできない。もちろん、女性が瓜子 を噛み割るのは彼女たち自身のためであり、男性の気を引くのとは無関係であるが、一粒の取るに足らない瓜子にとって、このように優雅に食べられれば、たとえ種が瓜になる輪廻に失敗したとしても、死んでも心残りの無い幸福と見做すことができる。どんなに粗野な女性でも、ひとたび瓜子を手に取れば、動作も自然と美しくなる。20年余り前、わたしは広州の東郊で学校に通ったが、市内に向かうバスの中は、毎日化学工場と製鉄工場の女工で一杯で、座っている者も立っている者も、女工たちは皆手にひと掴みの紅瓜子(赤く着色された瓜子)を持ち、ちょうど『カルメン』で煙草工場の女工が皆巻煙草をくわえているのと同じである。わたしはいつも彼女たちが瓜子 を噛み割る美しい姿に見惚れて、同時にまた「広州カルメン」で紅瓜子の殻と一緒に彼女たちの口から飛び出す人を驚かす汚い話の中から、徐々に早期の性教育を終えたのである。
 
 成都の茶館は茶館の中での瓜子の消費量が中国でトップである。他所と異なるのは、成都の茶館は男性が茶を淹れるのを好むだけでなく、女性も茶を淹れるのを好む。わたしは成都の女性の「うりざね顔」の比率が高いことを発見したが、それはひょっとすると中国第一かもしれない。広東人はこれが「形でもって形を補う」理論のひとつの確証であるとおそらく信じているだろう。実際のところ、生まれつきどのような顔の形をしていても、口を尖らせて瓜子 を噛み割った瞬間、誰しも皆 うりざね顔になるのである。
 
 中国の女性は何種類か代表的な「中国語で言う顔型」があり、瓜以外にも、ガチョウの卵、シャオピン(焼餅。小麦粉を薄く延ばして焼いたもの)、苦瓜などがあり、皆食べ物である。言うまでもなく、うりざね顔は公認の美女の顔型であり、鄭秀文(サミー・チェン)の人気が出たのも、聞くところによると、心を鬼にして自分の シャオピン顔をうりざね顔に整形した所以(ゆえん)であるそうだ。「瓜子」がひまわりの種であろうと、やや丸く太ったかぼちゃの種であろうと、「美白」の意義を参考にすれば、やはり後者が基本となる。
 
 中国至上主義者として、瓜子を欧米に輸出するには、今のところ難易度がたいへん高い。最も可能性があるのは、わたしはやはり日本だろうと思う。これは決してわたしたちが皆米を主食にし、同文同「種」であるからではなく、日本の漫画の中の男女の主人公が、うりざね顔なのが多数を占めるからである。
 
「嗑」(前歯で噛み割る)の芸術
 
 わたしが瓜子は専ら女性の食べ物に属すると信じる所以は、女性の「嗑姿」(瓜子を前歯で噛み割る姿)に対する偏愛と言うよりはむしろ、男性の瓜子を噛み割ることへの嫌悪のためである。
 
 男性が瓜子を噛み割る、とりわけ一群の男が瓜子を噛み割っているのを見るのは見苦しく、オスが第二の性を超越した存在として、「瓜子を噛み割る姿」は下品で見るに堪えず、一粒の女子の指先につままれたダイヤのような瓜子も、太い腕に大きな口の男の手にかかると、まるで蚤をつまんでいるようだ。同じように直接口に触れるものとして、葉巻は尚男女で寸法の違いがあるが、残念なことに瓜子はもともとLady sizeしか無く、寸法上の美的感覚の問題は別として、男性が瓜子を噛み割る音は、濁っていて聞き苦しい。だから、わたしは次のふたつの場合を除いて、男性は瓜子でこれ以上関わり合いを持つべきではない。
 
 第一:瓜子を売ることで商売に成功し、それによって更に個人の身分や地位が向上する。
 第二:腹痛や頻尿を患い、場合によっては排尿が困難な男性は、薬を飲む以外に、適度に瓜子を食べると良い。聞くところによるとかぼちゃの種は脂肪酸を豊富に含み、前立腺でホルモンを分泌するのを助ける働きがある。毎日だいたい50グラムずつ、生でもよく炒ったものでも良い。3ヶ月以上食べ続けないといけない。
 
 馮鞏(フォン・ゴン)と牛群(ふたりは何れも、中国漫才、「相声」の芸人)はこれまでずっとわたしが好きな芸人であったが、新聞によれば、春節晩会(大晦日夜のテレビのバラエティ番組)の準備で、ふたりは毎回70斤(35キロ)にもなる瓜子をひたすら食べ、わたしは本当に笑うことができなかった。ふたりのりっぱな師匠が瓜子なんかを口に入れるくらいなら、煙草を吸った方がましだ。
 
 しかし言ってみればわたし自身も信じられないのだが、男が十人いれば、九人まで瓜子を噛み割る様子は見苦しい。けれども、瓜子を噛み割るスピードとテクニックについて言えば、わたしが見聞きしたところでは、女九人寄ってもひとりの男性にかなわない。SNSで「小三」というペンネームのすばらしい「嗑文」が見られる。「手に虱くらいの大きさのスイカの種を持ち、機関銃のように右の口もとから続けざまに投入すると、前歯が一本しか見えないのに、左の口もとから直ちに殻が噴出され、噴水のようだ。しかも殻は真っ二つに割られ、全部揃っていて、よだれが少しも付いていない。それでも尚、口の中で噛み砕くのが滞るようなことはない。そうこうするうち山盛りの瓜子がみるみる小さくなり、殻の山が瞬く間に大きくなり、しばらくすると瓜子の大きな袋が空っぽになってしまった。」
 
 悪くない。文中の「嗑主」は間違いなく男性だ。男でなければ、こんなに高い効率はあり得ない。
 
葵花宝典(ヒマワリ宝典)
 
 
黒瓜子
 
 黒瓜子はスイカの種、紅瓜子は蘭州白ウリの種、白瓜子はかぼちゃの種。これらの白、黒、赤が一色で来るのに比べ、ただヒマワリだけは黒、白半々である。なぜならヒマワリの種は「花」から生まれたもので、「瓜子」でなく「花子」である。
 
  瓜子の値段はウリの価格に従って高くなり、大いにオヤジ、英雄、好漢の意味がある。しかしかぼちゃの種やスイカの種はヒマワリの種ほど美味しくない。ヒマワリの種はよくヒマワリの種子だと誤解されるが、実際には、これは一粒の種子であるだけでなく、一個のれっきとした果実である。ヒマワリの果実は典型的な痩果(そうか)で、形が小さく、皮が薄く、やや紙質を呈し、内に一粒の種子を含んでいる。このため瓜子と比べ、ヒマワリの種はもともと果肉に近い成熟した深みのある味わいを備えている。スイカの種をもう少し炒ると、見た感じ少し黒っぽくなり、ヒマワリはもう少し乾すと、食べると口の中がぽかぽか暖かくなる。実際、ヒマワリの種はまだ炒る必要があるのだろうか。ヒマワリの種は、ヒマワリが太陽の方向を向いている間に、日光に晒され、十分に乾される。
 
 スイカの種や紅瓜子の振り払っても取れない渋みを取り去るため、炒る時にしばしば大量の調味料を投入する。スパイスには、ウイキョウ、花椒、桂皮、八角などが含まれ、発がん作用のあるサフロールが含まれている。食塩、香料、サッカリンなどの調味料は、あまり多く摂取し過ぎると、健康に良くない。最近また研究報告がなされた。瓜子に含まれる油分は、大部分が不飽和脂肪酸で、過剰に摂取すると、大量のコリンを消耗し、体内のリン脂質の合成と脂肪の摂取や燃焼に障害を引き起こす。大量の脂肪が肝臓に堆積すると、肝細胞の機能に重大な影響を及ぼし、肝細胞の破壊をもたらし、酷い場合には肝硬変を引き起こす。
 
 実際のところ、食べられるものには皆害になるところがあり、瓜子もまたその例に漏れず、適量が望ましい。ただ瓜子の問題はどこにあるかと言うと、食べないでいるならいいが、ひとたび口に入れると、しばしばコントロールが効かなくなってしまうことだ。ヒマワリの種は、比較的噛み割り易く、しかも味があっさりしているので、口に入れると狂ったように手が止まらなくなり、しばしば知らず知らずのうちに、家族や仲間と談笑し、興が乗ってくるうち、目の前の瓜子の殻は山のように堆積し、恐ろしい造山運動が展開される。
 
 ゴッホ以後、ヒマワリの種の母体のヒマワリは、西洋の精神病研究の上でずっと精神錯乱のしるしと見做されてきた。中国では、ヒマワリは文革当時、「忠誠」のしるしであった。ヒマワリは永遠に太陽の方向を向き、たいへん直観的で、中国式の認識論に符合した。しかし今考えてみると、このしるしは狂気じみているだけでなく愚かである。瓜子であれ花子であれ、これが太陽の方を向いていようといまいと、最後には食べられてしまう。これが中国式の実践論である。
 
長個屎尖頭(大便の先端が伸びる)
 
 中国を除き、世界各地の人々は瓜子を食べない。面倒を厭い、美味しくないものを嫌うと言うより、彼らは終生一粒の瓜子に含まれる広くて深い学識に触れることもないと言うべきである。
 
 瓜子が奇異であるのは、それが形態として食べ物と認められるかどうか、また食べてから満腹と感じられるかどうかによる。
 
 瓜子も口腔、食道、胃腸といった伝統的な路線に沿って進むものではあるが、瓜子を食べる快感は、その大半が「嗑」(前歯で噛み割る)にあり、ことばを換えて言うと、「殻無しの瓜子」はきっと市場が無くて売れないだろう。次いで、くるみやピーナツ、ピスタチオなどを食べる時も「殻をはずす」という工程があるが、こういったものはたくさん食べると満腹で腹が張る感覚が生じるのを免れない。瓜子はそれとは異なり、正に豊子愷先生が言うように「俗語では瓜子は食べても腹が膨れない(不飽)と形容され、「三日三晩食べると、大便の先端が伸びる」(吃三日三夜,‌長個屎尖頭)と言う。」
 
[注] 豊子愷(ほう しがい)1898-1975年。中国の画家、随筆家、翻訳家、教育家。「漫画」と呼ばれる題つきの絵で知られる。また、『源氏物語』を最初に中国語に完訳した人物。浙江省崇徳県石門鎮(現在の嘉興市桐郷の石門鎮)で生まれた。1914年に杭州にある浙江省第一師範学校に入学し、中国における西洋絵画・西洋音楽の草分けであった李叔同に音楽と絵画を、夏丏尊に国文を学んだ。1921年に日本に私費留学して西洋美術や音楽を学んだが、資金不足のためわずか10か月で帰国した。しかしこの留学は竹久夢二を知るなど豊子愷に重要な影響をもたらした。
 
 豊子愷先生がこのように瓜子文化に関心を持つのは、当時進歩的な知識分子の考え方では、瓜子を噛み割ることは中国の貧困、衰弱、野蛮の原因を形作るもので、アヘンを吸ったり痰を吐くのと同罪であった。魯迅はこうした食べ物を嫌っただけでなく、一切の形式のおやつにも反対した。もちろん、西洋や日本の近代医学の影響を受けた魯迅や豊子愷たちは、瓜子が「食べても腹が膨れない(不飽)」から健康に無益だと信じ、否定的な態度を取ったのではなく、心を痛めたのは、瓜子を噛み割ることでの時間の浪費であった。豊子愷先生は1934年4月20日にこう書いている。「時間の浪費を利するのは、……世間の一切の食べ物の中で、いろいろ考えてみると、瓜子だけである。だからわたしは、瓜子を食べることを発明した人は、すごい天才だと思う。そしてできるだけ瓜子を楽しむことができる中国人は、暇つぶしのやり方の上で、本当にすごい、積極的な実行家である。中国人は、「ゲップ、ペッ」、「チッ、チッ」という音の中で無駄に使われた時間は、毎年統計を取ってみると、きっと驚くべき数字になるだろう。将来このままの状態が続くと、ひょっとすると中国全土が「ゲップ、ペッ」、「チッ、チッ」という音の中で消滅してしまうかもしれない。わたしは元々瓜子を見る度に恐ろしく感じていた。ここまで書いて、わたしは今まで以上に恐ろしくなった。」
 
 確かに、「嗑」と「不飽」は何れも途中経過で、時間の消耗こそが最終である。時間の経過により、中国が最終的に瓜子のために滅ぼされたのではないと証明されて初めて、わたしたちはこれまで以上に、瓜子のため滅ぼされたのは、「チッ、チッ」として過ぎ去った時間だけであり、効率や金銭に置き換えられ、瓜子 を噛み割る音の中で消耗されたのは、時間により特定された品質である、と知るのである。

白塔寺白塔
 
 白塔寺、すなわち妙応寺は、北京阜成門内大街路北に位置し、寺の中に有名な全体が真っ白の巨大なチベット式仏塔があることで有名で、それゆえ俗に白塔寺と呼ばれる。
 
 遼の道宗寿昌2年(1096年)ここに仏舎利塔が建てられた。塔内には、お釈迦様の仏舎利と戒珠(かいしゅ。戒を保つことによって、その身が清らかに飾られることから、戒を珠玉(真珠)にたとえた)が20粒、香泥小塔(素焼きの小塔)2千個、離垢、浄光など陀羅尼(だらに)経5部が納められた。後に、塔は火災で焼失した。元代になり、この一帯の地区は新たに作られた元大都の内城になった。元の世祖フビライは文武両道の頗る政治的な頭脳を持った封建君主で、彼は「儒を以て国を治め、佛を以て心を治める」という国策を採用し、各民族の求心力を強化し、その統治を確固たるものにした。彼はラマ教を国教に定め、且つ都城内に大型のチベット式仏塔を造営し「以て都邑を鎮め」、「王城を壮観に」することを発願した。このため、彼は更に自ら塔の場所を定め、且つチベットで貢金塔を建設したネパールの著名な建築家、アニカ(阿尼哥)に委託し大塔の設計と建設を行った。至元8年(1271年)から着工し、至元16年(1279年)竣工。工期は8年であった。白塔が完成すると、お釈迦様の仏舎利を塔の中に収めた。同年、フビライがまた塔を中心に、四方へ向けて弓矢を射て届いた地点までを寺域に区画するよう命じ、塔を中心に寺を建立した。建築規模は広大、華麗で、「まるで内廷(宮廷内で皇帝が私生活を営む所)のような作り」の寺院であり、占有地は約16万平米、「大聖寿万安寺」の名を賜った。寺は至元25年(1288年)に完成し、その後ここは元代の皇室の仏事活動の中心となり、朝廷の百官が儀礼を演習する場所であり、中国で最初にモンゴル語の仏典を翻訳、印刷した場所であった。万安寺は元の大都の宗教、政治、文化史上、均しく重要な地位にあった。
 
 寺内の白塔全体の高さは50.9メートル、塔の台座、塔身、相輪、華蓋、塔刹(とうさつ。塔の一番てっぺんの刹頂)から成る。レンガを積み上げ、中に空洞が無い構造で、外部は白く塗られ、端っこは方形、円形、円錐体など、いくつもの幾何学形状で構成されている。塔の形状は優美で調和がとれ、造形は穏やかだが雄壮で、統一された中で変化に富み、中国で現存する中で年代が最も古く、規模が最大のチベット式のラマ教の鉢を伏せた形状の仏塔である。
 
 
白塔の構造
 
 塔の台座の高さは9メートル、面積は810平方メートルで、三層に分かれている。下層は方形の保護壁で、中層は折れ曲がった須弥座である。平面は「亜」字の形で、四隅は次第に収束してふたつに折れ、上層には鉄の灯籠が置かれている。その上は装飾性に富む過渡的な構造となっていて、一周が華麗なレリーフの覆蓮座、塔身を支える五本の輪っかである金剛圏があり、塔の下の方形で折れ曲がった基壇を、穏やかで自然に円形の塔身につなげている。
 
 塔身は直径18.4メートルの巨大な伏せ鉢で、上方には七本の鉄のたがが嵌っていて、塔身を十分に堅固にしている。塔身の上には折れ曲がった須弥座が加えられ、これにより塔身と上層の13層の相輪(十三天とも言った)を接続し、相輪の外形は円錐形を呈し、下から上へ各層が収斂してゆき、急峻な形をしていた。頂端で直径9.9メートル、上を40枚の放射状に銅板の瓦で覆った円形の華蓋を支え、周辺には高さ1.8メートル、梵語の文字を浮き彫りにした瓔珞(ようらく。玉の首飾り)と流蘇(りゅうそ。房状の装飾)36片と銅製の風鐸(ふうたく)36個が吊り下げられた。華蓋の上は高さ5メートル、重さ4トンの銅製金メッキの覆鉢型の小塔の形をした 塔刹であった。小塔の頂上にはまた精美な相輪が鋳込まれていて、まるで大きな真珠が青空の中で金色の光を発しているかのようであった。
 
 元末の至正28年(1368年)、寺内の堂宇は全て特大の雷火で焼失し、ただ白塔だけが幸い難を免れた。この後寺院は90年近く荒れ果てていたが、明代の天順元年(1457年)になり、宛平県民の郭福清が皇帝の勅命を奉じて修復、寺の名を「妙応寺」に改め今日に至る。寺院は北側に坐し南に面し、四重の堂宇と塔院で構成されていた。土地の占有面積は1.3万平方メートルあったが、それでもなお元の万安寺の10分の1にも及ばなかった。主要な建物は山門、天王殿、意珠心境殿、七佛宝殿、具六神通殿、白塔で、東西両側に配殿(正殿の両脇の殿宇)があり、山門と天王殿の間に対称に鼓楼と鐘楼が建てられていた。
 
 
白塔寺伽藍図
 
明代の成化元年(1465年)に塔の台座の周囲に鉄製の灯籠108基が追加で建設され、以後明清両時代に何度も補修され、その伽藍は基本的に今日まで保たれている。1978年夏、北京市の文物部門が白塔に対し修理をしていた期間に、塔の頂上で清の乾隆18年(1753年)に塔の修復が完了後に供えられたいくつかの「塔を鎮める」仏教文物(文化財)が発見された。その中で、724帙(ちつ)の龍蔵新版『大蔵経』、乾隆手書きの『般若心経』、チベット文の『尊勝咒』、銅製の三世仏像、十粒の舎利子が最も貴重なものであった。
 
 清の中期以後、妙応寺は北京のチベット仏教寺院の中でもはや重要な地位から外れ、昔の赫々(かくかく)とした隆盛はもはや再現されることがなかった。寺内の僧たちは生計を維持するため、大部分の寺の資産を貸出し、妙応寺は次第に北京城内の定期廟会(定期的に開かれる寺社の縁日)の会場のひとつになり、北京で名の知られた白塔寺廟会になった。毎年祝日になると、寺内の両側は商品を満載した店舗や屋台で溢れ、寺の敷地内に芝居のテントが掛けられ、各種の民間の衣類や道具、季節の食べ物、北京の特色ある軽食、娯楽や技芸など、何でも揃い、多くの人々が集まり、その賑やかさは並外れていた。
 
 
廟会で日用雑貨を売る屋台のテント
写真は日用雑貨の屋台の一角で、腰かけ、拔火罐儿bá huǒ guànr(こんろに火を起こす時に使う先が細くなった短い煙突)、やかんなどが積み重ねて置かれている。向こうに多くの参拝の女性や子供がいる。大木の下の屋台には布やアンペラ(葦で編んだ蓆(むしろ))のテントが吊るされ、日差しや雨を遮っている。こうした廟会の光景は、昔は至る所で見られた。
 
 昔の北京の廟会は、会期から区分すると、毎年決まった時期に開かれる廟会と毎月定期的に開かれる廟会の二種類があった。白塔寺廟会は毎月定期的に開かれる廟会であった。最初、廟会の時期は陰暦の毎月5と6の付く日に開かれていたが、1922年にこれが陽歴の毎月5と6の付く日に開かれるよう改められた。1949年以後、市民や廟会の屋台の主人の必要から、白塔寺の廟会はもう二日増やされ、陽歴で毎月3、4、5、6の付く日に連続して開かれ、毎月全部で12日廟会が開かれるようになった。
 
 
白塔寺山門と開光法会
写真は1938年5月13日から15日までの白塔寺開光法会(開眼供養)の期間、山門の前に建てられた牌楼である。当日、開光法会に参加しに来る各界の信徒や観光客はたいへん多く、門前には自動車が走っているだけでなく、自転車、リヤカー、人力車が通り、更に水売りの車が1輌、牌楼の前に停まっている。
 
 白塔寺は廟会の時期になると、東は馬市橋から、西は宮門口西岔(「岔」は分岐のこと)まで、道路の両側は地方風味の軽食、食品雑貨、おもちゃなどの屋台や天秤棒を担いだ行商人たちで、宮門口から西向きの道の北側には十数軒の古着屋があり、その店先にも屋台を設けて商品を売った。寺の後門の元宝胡同は鳥市で、ハト、鶉(うずら)、鷹(たか)、鳥、ウサギ、犬などの禽獣を売っている他、鳥籠、ハト笛、鳥の餌入れ、コオロギを飼う小壺、鳥の餌、魚釣りの道具なども売っていた。秋になると、鳥市ではこの他、「油葫芦」(コオロギ)、キリギリスなどの秋の虫を売り、春の鳥市では金魚を売った。寺の前門には糖葫芦(サンザシ飴)売り、衛青(青ダイコン)、心里美ダイコン(水ダイコン)売り、大串の山里紅(サンザシ)売りや花籠売りがいた。
 
 
鳥の餌を売る屋台
廟会の期間、白塔寺の後門の元宝胡同では、ハト、鷹、小鳥が売られた他、更に鳥籠、鳥の餌、コオロギを飼う小壺、魚釣りの道具などが売られた。写真は地面の上に雑穀の鳥の餌が広げられ、ひとりの男の子がこれを買おうとしている。盛んな人の流れにより、廟会のにぎやかな雰囲気を増している。
 
 寺内の前院(意珠心境殿院)東側には日用雑貨を売る屋台があり、西側には年糕(もち米のしん粉を蒸したもちやもち菓子)、切糕(もち米やアワ粉を蒸して作ったもちを切って売った)、豆面糕(豆粉を蒸して作ったもち)など食べ物の屋台やテントがあり、テントの下には簡単なテーブルや腰かけが置かれ、食事する者に供用した。寺内の後院(七佛宝殿院)はずっと民間の芝居の上演場所で、その前後には相声(漫才)、評書(講談)、大鼓書(カスタネットを叩きながら語り物を歌う)、変戯法(手品)のテントがあった。
 
 
塔院内のテント
白塔寺廟会では、塔院内で主に講談や芝居の一節が歌われ、のぞきめがね、映画の小篇が演じられた。この当時の有名芸人には、「小蜜蜂」、「大妖怪」、楊樹林、常蔭泉などがいた。
 
1930年代、大殿の門前の石造りの台の上では、付士亭の楽亭大鼓、侯五徳の梨花大鼓が演じられ、台の下には豆汁(緑豆で春雨を作った残り汁で作った飲み物)、豆腐脳(豆乳を煮たて、にがりを入れ半ば固めたもの)、炸丸子(肉団子を油で揚げたもの)、炸豆腐(揚げ豆腐)を売る屋台があった。院内の東側の屋台やテントはひとつに繋がっていて、衣服や靴、帽子を売る者、靴下や髪をすくすき櫛を売る者、更に化粧品、かつら、刺繍の見本を並べた店、絹で作った造花などを売る者などがいて、こうした屋台がずらりと並んでいた。おもちゃを売る屋台には、関羽、張飛、猪八戒、孫悟空など芝居のくま取りのお面が一杯に並べられ、更に大頭和尚、起き上がりこぼし、木刀、張り子の虎、竹とんぼ、木のコマ、でんでん太鼓などが売られていた。白塔寺二門の西の塀に囲まれた道では、四季折々の生花が売られていた。二門の階(きざはし)の上では、銅の磨き粉、焊磁薬、胡塩などを売る屋台が出ていた。北京の主要な廟会の中で、白塔寺の草花や木碗がもっとも有名で、寺に来た者はそれらを喜んで買って帰った。
 
 
廟会の屋台の一瞥
写真は後院で古本や靴下、手袋などの日用雑貨を売る屋台である。屋台の間には狭い通路があった。
 
 寺内の西の回廊の北側には茶館がふたつあり、廟会の間、参拝者にお湯を出して茶を飲んで休憩してもらい、併せて出店者に飲み水を出したり物品を保管してあげたりした。廟会をしていない時も通常通り営業し、普段の主な客は不動産の仲介業者であった。
 
 塔院の西側の空き地では、1930年代から1950年代まで、相前後して多くの民間の芸人が講談を語ったり芝居の一節を歌ったりした。昔、「小蜜蜂」(ミツバチ。張秀峰のこと)はここで西路平戯(西路評劇。華北や東北地方で行われた地方劇で、最初華北西部で盛んであった)を歌い、後に滑稽大鼓を歌うようになり、『劉公案』の演目が特に名高かった。ここではまた阿闊群の評書『小五義』、楊樹林の楽亭大鼓『楊家将』、『呼家将』。「全家福」一家の演じる文明戯、「大妖怪」夫婦の滑稽二簧(「二簧」は京劇で歌う節の一種で、ゆっくりとしたテンポで、叙情的な内容や悲しい心情を表現するもの)、馬宝貴の相撲などが行われた。1949年以降は、常蔭泉が評書『三侠剣』をやり、藍剣舒が芸をしながら薬を売り整骨をした。何広珍は人体の各種の寄生虫を展示するやり方で、虫下しの薬を売った。また何人かの名も知らぬ芸人がここでのぞきめがねや日光を利用し演じ手が機械を揺り動かして映画の小片を上映し、子供たちが争って鑑賞した。塔院の北側の空き地は、ほとんど皆、星座や人相見の占い師で、字を見たり、人相を見たり、圓光(壁に貼った白い紙にできた影の形で、吉凶禍福を占う)を行う占いの屋台であった。
 
 
拉洋片(のぞきめがね)
北京の主な廟会や天橋地区には「拉洋片」(のぞきめがね。「拉大画」とも言う)の芸人がいて、彼らはひとりで銅鑼を鳴らしてきれいに描かれたスライドをゆっくりと動かし、同時に画面に基づき内容を語ったり歌ったりした。観客は木箱ののぞき穴から拡大鏡を通じて画面を見た。写真は廟会に訪れた客がのぞきめがねを見る情景である。
 
 白塔寺廟会は北京のその他の廟会と同様、1950年代中期以降、次第に衰退した。1960年代前後には、白塔寺廟会は既にもう存在しなかった。昔日の北京廟会の盛況は、既に昔の北京の歴史上の事柄となった。
 

法会の観衆
 
 毎年、首都北京の有名なラマ教寺院である雍和宮は伝統的な「祈願法会」が行われ、その間、1月の最終日と2月1日には、「打鬼」(鬼やらい)が行われる。昔、毎年鬼やらいの時期になると、雍和宮附近の通りは封鎖され、雍和宮内ではたくさんの人が動き回り、大通りや横丁には、物売りが雲集した。清の人、敦礼臣は『燕京歳時記』の中で次のように描写した。「毎年鬼やらいになると、……都の人々で見に行く者が甚だ多く、町の多くの家が留守になるような有様だった。」その賑やかさの一端が見えるかのようであった。
 
 「鬼やらい」は昔の北京の人の俗称で、民間ではまた「跳神」や「跳鬼」という呼び方もあった。北京に住むモンゴル族の人々は、鬼やらいを「跳布札」tiào bù zhá と呼んだ。「布札」はモンゴル語で「舞蹈」(ダンス)の音訳で、前に漢字の「跳」を加えると、よりイメージを形容しているだけでなく、中国とモンゴルの間の文化的交流を体現している。チベット語でこうした宗教内容を表す寺院の祭神舞を「羌姆」と言い、これは一般の民間舞踊のことを「卓」と言うのとは異なっている。このため、こうした専ら宗教を内包することを目的とする蔵伝仏教(チベット仏教)の祭神儀式の舞踊を「金剛駆魔神舞」と訳すのが、より適切である。
 
 こうした神舞の起源については、多くの伝説がある。その一、吐蕃(古代チベットの名称)に石の家があり、中に化け物が住み、昼夜人間を襲い、食物を掠奪していた。ラマ僧が諸神に変装し、この家に入って妖魔を痛打し、これを追い払ったので、これより吐蕃は太平になった。このため、ラマたちは必ず「鬼やらい」をしなければならなくなった。その二、古代チベットである王様が苯教(ボン教。チベットに仏教が伝来する以前の土着の宗教)を助け仏教を滅ぼし、仏教はチベットで伝播することができなかった。ひとりの勇士が「跳神」(鬼やらい)で王が観覧するよう誘い、この機に乗じてチベット王に接近して王を殺し、これより仏教がチベットで再び盛んになった。この勇士を記念し、毎年寺院では「跳神」の儀式を行うようになった。その三、チベット第一の寺、桑耶寺(サムイェー寺)が建設の最中、何度も当地の鬼神の破壊に遭った。このため、インド僧の蓮花生大師が神通力や法力を発揮し、「鎮鬼圧神之歌」を吟唱し、且つ「虚空の中で金剛舞」を舞った。これより鬼神は再び敢えて騒動を起こしたり破壊を行うことがなくなり、また寺の建設のため力を出した。この「金剛舞」とはすなわち神舞である。この他、まだたくさんの「牽強附会」(無理やりこじつけた)説があった。
 
 文字で神舞の起源を考察できるものとして、チベット文の古籍『蓮花生大師本生伝』があった。蓮花生は蔵伝仏教(チベット仏教)寧瑪派の始祖で、8世紀北インドの烏仗那(ウディアナ)国(今のパキスタン域内)の人であった。この地は仏教の密宗舞踊で有名であった。唐玄宗の天宝6年(747年)、蓮花生は吐蕃賛普(すなわちチベット王)赤松徳賛の招きに応じ、チベットに入り仏教を伝えた。賛普はこのためラサの東南方に桑耶寺(サムイェー寺)を建て、建設中に、蓮花生は金剛舞を作った。舞踊は本国で流行していた密教儀式化した演技を基に、インドの法器や道具を用いた。今日、わたしたちは神舞の中で相変わらずたくさんのインドの血統を持った役柄を見ることができる。たとえば、「瑪哈嘎拉」(大黒天)、「倉巴」(大梵天)、「雅瑪達嘎」(大威徳金剛)、班達拉娒(吉祥天母)などである。
 
 神舞のもうひとつの起源は、蔵伝仏教(チベット仏教)前期の宗教芸術からであった。蓮花生は、チベットでの伝教が完全にインド密宗をそのまま取り入れたなら、必ずチベットの原始宗教の苯教(ボン教)の反対や抵抗に遭うことがよく分かっていた。このため、蓮花生などインドの高僧大徳たちは、法術を振るって妖怪を鎮め悪魔を降参させると同時に、また大量のチベットの土着の神霊や祭祀儀礼を受け入れた。同様に、神舞の創作過程で多くのチベットの土着の踊りや祭祀舞を吸収した。
 
 仏教がチベットに伝わって後、当地の原始宗教である苯教(ボン教)と長期に亘り、互いに争い互いに受け入れる過程を経て、独特なチベット語系仏教を形成した。発展に従い、蔵伝仏教(チベット仏教)は次第に寧瑪(紅教)、噶挙(白教)、薩迦(花教)、格魯(黄教)などいくつかの大教派に分かれ、神舞もそれに応じて各種の流派を形成した。各流派の神舞の主題や内包するものは基本的には同じで、皆蔵伝仏教(チベット仏教)密宗の駆邪儀式のためのもので、ただ踊りのスタイル、音楽、役柄、表現形式に違いがある。
 
 寧瑪派(紅教)の神舞は、蓮花生の8つの化身を主役とし、多くの護法神を配役とし、舞踊により本派の教義を述べている。
 
  噶挙派(白教)の神舞は独特で、旧密乗の内容があるだけでなく新密乗の内容もあった。しかも多くの他の教派の神舞の人物や踊り方も吸収した。
 
  薩迦派(花教)の神舞は当初は別に公開されていなかった。薩迦派の教権は昆氏の家族から継承されたので、この派の神舞もこのため家廟の祭礼の色彩を帯ていた。密宗の教法を発展させるため、ようやく次第に多くの人々の面前で演技するようになった。
 
  格魯派(黄教)の神舞の形成が最も遅く、内容と踊り方も最も豊富であった。この派の神舞が伝播した地域は頗る広く、影響も最も大きかった。格魯派の神舞は内容が厳かで、ダンスのポーズが豊富で、動作は力強く、舞楽はリズミカルで、テンポは明快であった。
 
 北京の各ラマ寺院で神舞を踊るのは明代に始まり、清代に盛んになった。明代には劉若愚が『酌中志』の中で、万暦帝の時代の宮内で神舞を踊る情景を記載した。清代、北京の32のラマ廟では、雍和宮の神舞が最も名声が高かった。
 
 雍和宮の神舞は全部で13幕の内容から成っている。
 
 第1幕、白鬼の踊り。4名のラマ僧が白色の繻子のズボンと短い上着、足に刺繍を施した白い靴を履き、頭に白い髑髏のマスクを被り、白い鬼に扮する。手に長さ50センチの木の棍棒か革の鞭を握り、白粉(おしろい。俗に白土子と呼ぶ)を詰めた袋を斜めに背負い、手足を振って踊りながら、最初に会場に出る。もし観衆が多くて、演技をする場所を侵犯しているなら、4人の白鬼は袋から白粉を取り出し、土地を占領している観衆に向けそれを撒き、これを「灑煞気」(不吉な気をばら撒く)と言う。昔の北京の人々には迷信的な言い方があり、正月に誰かに白粉が付くと、その一年は運が悪いと言われた。この不吉な気を避けるため、観衆は急いで後退しなければならず、演技場所は自然と空けられた。この行動を「浄壇」(壇を清める)と呼ぶ。
 
 
白鬼の踊り
白い繻子(絹織物)の上着とズボンを身に着け、足には白い刺繍で模様を付けた靴を履き、頭には白い髑髏のマスクを被ったラマが、手に短い棍棒や皮の鞭を持ち、おしろいの入った袋を斜(はす)に背負い、飛び跳ねながら、おしろいを撒き、これを邪気を撒くと言ったり、壇を清めると言ったりした。
 
 「浄壇」後、楽隊が登場する。ラマ僧たちはラッパを吹き、法鼓を叩き、九音の銅鑼を揺り動かし、チャルメラを吹き、シンバルを叩きながら、会場の四方を取り囲んで座る。抑揚のある楽曲を奏で始めると、4名の白鬼はリズミカルに踊り始める。
 
 
楽器を奏でるラマ
 
 第2幕、黒鬼の踊り。4名が黒い緞子のズボンと短い上着、足に黒い緞子の刺繍をした靴を履き、頭に黒い髑髏のマスクを被り、手に木の棍棒を持ったラマ僧が黒鬼に扮し、会場内を乱舞し、白鬼はそれに従い舞台を降りる。黒鬼がしばらく踊ると、白鬼がまた入場し、8名の黒白の鬼が一緒に踊る。
 
 第3幕、螺神(巻貝の神)の踊り。4名のラマ僧が五色の刺繍を施した緞子の長衣を着て、足に青い綿の薄底の布靴を履き、濃緑と赤色の巻貝の殻のマスクを被る。マスクの隈取りは、ぶざまに笑いさざめく表情を呈し、走って登場してくる。彼らは水中の巻貝、エビ、蟹、魚などの水生動物を代表し、手で木の棍棒を持ち上げ、ひらひらと踊り始める。この時、黒白の鬼は退場する。数分後に、黒白の鬼が再び登場し、螺神と共に踊る。
 
 
螺神の踊り
五色の刺繍模様の繻子の長衣を身に着け、足に青いビロードの薄底の靴を履き、頭に濃い緑や赤色の巻貝のマスクを被り、手に棍棒を持った螺神が舞台の黒と白の鬼と一緒に踊る。
 
 第4幕、蝶仙(蝶の仙人)の踊り。4名もしくは8名のラマ僧が蝶仙に扮する。彼らは上に色模様の緞子を見に着け、身体にぴったりの短い上着と赤い前掛けを身に着け、下に色模様のズボンと色模様の靴を履き、手には色模様の手袋を着ける。マスクの形は丸い目に大きな口、笑いさざめき、ぶざまな表情をしている。両側の耳はそれぞれ一枚の色模様の絹布が伸び、蝶の羽を表している。彼らは両手を上下にぱたぱたさせ、蝶々が飛ぶように「飛んで」舞台に入って来る。黒白の鬼と螺神は舞台を降りる。蝶仙たちは時に丸く取り囲み、時に一列になり、隊形を変え、感情豊かに楽しげに踊る。踊りが最高潮に達すると、幕下の黒鬼、白鬼、 螺神が共同で舞台に上がり、 蝶仙と群舞を舞う。
 
 以上の演技は、もののけ、水中の魚類、陸地の昆虫を表し、神仏がやがて世間のたたりを排除し、人類が平安な日々を送ることができるだろうと聞き知り、狂わんばかりに喜び、歌い踊って喜ぶ心情を表している。
 
 第5幕、金剛の踊り。四大金剛は身に五色の錦の緞子の上着を着、肩に五色の刺繍の花の肩掛けを着け、足に模様の付いた緞子の靴を履いている。付けているマスクは皆異なり、それぞれ象の頭、ライオンの頭、犼(こう。野獣の一種。一般的には狗(いぬ)あるいは獅(しし)のような姿の霊獣として描かれる)の頭、夜叉の頭であった。彼らは天王殿から出て来る。その意味は、お釈迦様が四大金剛を派遣し、もののけを駆逐し、魔王に戦いを挑むということである。
 
 第6幕、星神の踊り。演技者が4人の時は、四星神と言う。10人の時は、十天干と言う。12人の時は、十二地支と言う。最も多いのは28人の時で、二十八宿と言う。一般に四星神を採用している時が最も多く、その中で2人が色模様の緞子を着て、足に厚底の青い緞子の朝靴(朝廷に参内する時に履く靴)を履いているのは文曲星(北斗七星の第4星。文運(科挙の合格祈願など)の神)である。別の2人が五色の糸で刺繍した緞子の甲冑を着て、足に厚底の色模様の緞子の戦闘靴を履いたのは武曲星(文曲星と相対する。富や財産、武運の神。北斗七星の末尾。)マスクは全て髑髏に金の冠。眉を吊り上げ目を怒らし、目じりが垂れて三角形の目をしている。彼らはお釈迦様に派遣され、四大金剛を助けて戦う。
 
 
星神(文曲星)
繻子の長衣を身に着け、足に青い繻子の靴を履き、頭に五佛冠(五智如来を象徴する宝冠で、五体の小さな化佛が載っている)に似た古い天竺(インド)式のヘルメットを被り、舞う姿は健康的で力強く、威風堂々として、その意味はお釈迦様の命を奉じて金剛を助けて戦うということである。写真は跳躍して身体を回転させている 星神である。
 
 
星神に扮するラマ
 
 第7幕、天王の踊り。演技者4人は、頭に五佛の冠様の古い天竺式の兜の載ったマスクをし、身体には金の甲冑を着け、足に戦闘靴を履き、顔は雍和門殿内の四天王に似ている。彼らは威風凛凛(りんりん)として舞台に現れ、時にひとりで舞い、時に群舞を舞う。その意味は、お釈迦様の命を奉じて、四金剛、四星神が協力して戦いを行った。
 
 第8幕、護法神の踊り。演者は8人、12人、16人となることが可能で、護法神とは大威徳金剛である。彼らは身体に五色の緞子の長衣を着て、下部に「海水江崖」紋の図案が刺繍され、腰部に八宝図案が刺繍され、足に薄底の靴を履く。被るマスクは各々異なり、獅子、象、虎、豹などで、牛の頭が率いて隊列を組み、踊りながら登場し、金剛、星神、天王とそれぞれ一緒に一度踊って後、護法神がひとり踊る。このように重複することが何度か行われてから、突然天王殿の中から一頭の鹿のマスクを被った人が飛び出してくる。この鹿は魔王の化身である。鹿が出現するや、直ちに多くの神がぐるりと取り囲み、この時場内外の白鬼、黒鬼、螺神、蝶仙などが一緒に登場して一緒に踊り、これは仏神、人鬼、昆虫、魚類が一致団結し、共同で魔王を討伐することを表現している。しばらく踊ると、鹿がまた天王殿に走って戻ってくる。このことは魔王討伐の戦闘がまだ勝利を得られていないことを表している。
 
 第9幕、白救度の踊り。少なくとも13人が参与し演技する。白救度は観音菩薩の化身で、白度母とも言う。彼らは身体に白の緞子に五色の刺繍の模様のある長衣を着て、頭に「大竹枝」の形の、白の刺繍の花帽を被り、足に模様のついた繻子の靴を履いている。マスクを被らないので、必ず眉目秀麗なラマ僧を選んで演技する。先ずひとりの白度母が登場してひとりで踊り、しばらくすると鹿がまた出現する。ふと見ると白度母が何度か揺れ動き、その他の白度母がどっとなだれ込む。これは一人目の白度母に多くの化身があることを表し、鹿をぐるりと取り囲んだ。これ以前の場面の中の各種の配役もやって来て助太刀し、共同で激しく踊り、動作の中には殺陣の動作が混ぜられている。しばらくすると、鹿が再び天王殿に逃げ、魔王を包囲殲滅する激戦は依然終わらなかった。
 
 
白救度の踊り
白救度は観世音菩薩の化身で、名は白度母である。白の繻子に五彩の刺繍模様の長衣を身に着け、足に柄の付いた繻子の靴を履き、頭に大きな竹の枝の形の飾りに、白い刺繍を施した「花帽」を被った。白度母はお面を被らないので、容貌が端正で、眉目秀麗なラマがこの役に扮した。写真は白救度が身体を揺すぶって何人かの白救度に姿を変える場面である。
 
 
写真は白救度のソロの踊りで、右側に立つ鹿は魔王の化身である
 
 第10幕、緑救度の踊り。緑救度は文殊菩薩の化身で、緑度母とも言う。演者の人数と服装の洋式は白度母と同じで、ただ服装の色が緑色である。内容も前の場面の白救度と同じである。鹿が逃げてしまって後、楽隊が再度チャルメラ、法鼓、ラッパの合奏をする。
 
 第11幕、弥勒の踊り。俗に「捉鬼」(鬼を捕まえる)と称した。演者は7人、その中の1人は「大肚弥勒佛」(布袋)に扮し、6人は「小弥勒佛」に扮する。大弥勒の身体には黄色の緞子の模様の付いた僧衣を着て、足には青い緞子の靴を履き、頭には大笑いした弥勒のマスクを被る。6人の小弥勒の服装、マスクは大弥勒と同じだが、ただサイズが少し小さい。弥勒たちが舞台に上がってひとしきり踊ると、鹿が再び出現し、金剛、天王、度母、護法、螺神、蝶仙などが一緒に登場し、鹿をぐるりと取り囲む。最後に弥勒が縄で鹿を縛って捉える。これは魔王が捉えられたことを表し、鬼魂は既に生け捕りにされた。
 
 第12幕、鬼を斬る。俗に「打鬼」(鬼やらい)と名付けた。続けて登場するのは、舞台の四方に囲んで座ったラマ僧と多くの演者が、主宰のラマ僧の引率の下でお経を唱え、二人のラマ僧が三角形の木の箱を持ち上げて天王殿から歩み出て、舞台の中央に進む。木の箱の中には一面の顔の俑(土人形)が置かれ、その頭、喉、胸、両腕、両膝、両足の9ヶ所を釘で箱の中に固定した。この顔の俑(土人形)は鹿(魔王)の魂が既に捕まえられ、釘付けにされたことを表した。この時、鼓の音楽が一斉に鳴らされ、諸神が一斉に踊り、護法が法器や月刀を振り上げて鬼俑の首を切り落とした。魔王は処刑された。
 
 
三角匣と月刀
写真は「跳布札」第12幕「斬鬼」の三角木匣(三角形の木の箱)と月刀(三日月形の刀)である。三角匣の中に魔王の霊魂(面俑(陶器の仏像))が置かれている。
 
 第13幕、送祟(厄払いをする)。魔王が処刑され、仏心は快哉を叫んだ。ふたりのラマ僧が法輪殿内からコウリャンの茎を縛って作った三角形の「垛」(上に突き出た部分)台を持ち上げて出てくる。台の上に紫がかった濃紅色の色紙を切って作った短い穂を斜めに巻き付け、先端に紙を貼って作った赤い竿、黒い鳥の羽、女真族の金の矢柄の弓矢を突き刺し、これを矢を捕えた「巴苓」(モンゴル語のbaling。仏前のお供えのこと)と称した。これは魔王が斬殺されて後、霊魂が弥勒佛に捉えられてお釈迦様のところに送られ、お釈迦様は金の矢柄の弓矢で魔王の霊魂を「垛」内に釘付けにした。ふたりのラマ僧が僧たちがお経を唱え鼓楽の演奏をする中、「垛」を昭泰門から担ぎ出し、牌楼院内で火を点け燃やす。これにより魔王が徹底的に消滅させられ、これより天下が太平となることを表す。
 
 
厄払いをする
魔王が滅ぼされ、仏の慈悲の心が勝利した。ふたりのラマが法輪殿内から黒い鳥の羽、金の弓矢で飾った三角の棚を担ぎ出し、魔王が斬殺された後、魂が弥勒佛に捉えられ、お釈迦様が金の弓矢で魔王の魂を三角の棚の中に釘付けにした。ふたりのラマが、多くのラマがお経を唱え、太鼓の音の中で、三角の棚を昭泰門から担ぎ出し、焼却地まで運んで焼き払い、ここから天下泰平を表した。写真はふたりのラマが魔物を積み込んだ三角の棚を担ぎながら厄払いし、焼き払う準備をしている。
 
 
写真はラマが三角の棚を昭泰門から担ぎ出し、焼き払う準備をしているところである。
 
 
魔物を焼き払うのに使うコウリャンの茎の薪を積み上げたもの
 
 翌日、太陽が昇る前に、ラマ僧全員が寺を廻る活動をする、すなわちラマ僧たちが隊列で儀仗し、ふたりのラマ僧が銅鑼を鳴らし道を開け、その他のラマ僧たちは手に幡幢、旌旗(いずれも色とりどりの旗のこと)や大黄(ダイオウ)で染めた緞蓋(緞子の傘)を執り、肩に乾隆皇帝から賜った金色の屋根で黄色の緞子の駕籠を担ぎ、駕籠内には未来の弥勒佛が座る。駕籠のすぐ後ろには楽隊と「跳布札」で登場した順番に並んだ演者全員が続く。隊伍の最後はラマ僧のリーダーが率いるラマ儀仗隊である。寺を廻る隊伍は南院の東の牌楼門を出て、北に向け寺を一周し、最後に西の牌楼門を入る。寺を廻る意味は、清郷(あたりの村々を清査、粛正する)し民を安んじ、魔王の残党が民間に潜んでいないようにするためである。これにて、「跳布札」の儀式は全て終了する。
 
 
寺の周りを廻る儀式
「跳布札」の厄払いが終わると、翌日(農暦の2月1日)の早朝、太陽が上る前に、ラマ全員が隊列を組んで寺の周りを廻る。これが鬼やらいの活動全体の最後の儀式である。ふたりのラマが銅鑼を鳴らしながら先導し、ふたりのラマが銅製の長いホルンを吹き、その後ろから各種の旗、傘、幟(のぼり)を掲げたラマの儀仗隊、手に四対の香炉と一基の黄色い傘を提げ、乾隆皇帝から賜った金の頂上の黄色い緞子の駕籠を担いだラマの隊列が続き、最後が主宰のラマが率いるラマ僧たちで、隊列は南院の東牌楼門を出て、北に向け寺を一周廻り、西牌楼門を入る。ここに至り、鬼やらいの活動は全部終了する。写真は寺の周囲を廻るラマの儀仗隊である。

雍和宮殿扁額
雍和宮正殿の前面の庇の下の扁額は、乾隆皇帝の親筆である。扁額の上の文字は、右から左に満州語、漢語、チベット語、モンゴル語の四種の文字で書かれている。この扁額は乾隆9年(1744年)に作られた。
 
 雍和宮は北京安定門内以東の雍和宮大街に位置し、孔子廟、国子監と街路をはさんで相対していた。土地は6.6万㎡を占め、殿宇は雄壮壮麗で、北京に32ヶ所あるラマ教寺院の中で最も壮大なもので、今日に到るまで既に300年の歴史を有している。
 
 雍和宮は元々清代皇帝康熙帝の第4子胤禛(いんしん)が建てた府邸(屋敷)で、康熙33年(1694年)に建設され、最初は「禛貝勒府」(「貝勒」は清朝の爵位名で、親王・郡王の下に位した)と名付けられた。康熙48年(1709年)胤禛は爵位が上がり和碩雍親王に封じられ、その府邸も「雍親王府」に改称された。清代の規制に基づき、皇帝の即位前の住所や出生地は、何れも「龍潜禁地」で、寺院に改める以外は、その他の用途に用いることができなかった。それで雍正が皇位を継いで後、元の王府の過半は章嘉呼図克図(「呼図克図」はモンゴル語で「聖者」のこと)に賜り、黄教(ラマ教の一派)の上院にし、残りの半分を留めて行宮にした。後に行宮は火災で破壊され、雍正3年(1725年)にはまた上院を行宮に改め、「雍和」の名を賜り、遂に「雍和宮」と称して今日に至った。1735年雍正が死ぬとここに柩が停め置かれ、遂に主要な殿宇の緑色の瑠璃瓦が黄色の瓦に改められた。乾隆9年(1744年)、雍和宮は正式に寺院に改築され、北京最大の藏伝仏教(チベット伝来仏教。ラマ教のこと)皇家寺院となった。
 
 
雍和宮殿
康熙33年(1694年)建立。正殿の幅は七間(柱と柱の間が7つ)、前に廊下が出ていて、後ろに建物があり、入母屋造りの屋根、棟木や梁に模様を彫り彩色され、緑の横木、屋根の頂は金色に輝き、荘厳で雄壮である。この建物は元々雍王府銀安殿で、雍正が親王の時に客と会見する場所であった。雍正3年(1725年)雍王府は行宮になり、この建物は雍和宮に改名された。乾隆9年(1744年)寺院に改められ、正殿は引き続き雍和宮として用いられ、内部に銅製で金でメッキされた「三世佛」が供えられた。これはすなわち過去の世界を主宰する燃灯佛、現在の世界を主宰する釈迦牟尼佛、未来の世界を主宰する弥勒佛である。
 
 雍和宮は毎年農暦12月8日に「臘八粥」(旧暦12月を臘月と呼び,その8日を釈迦成道の日(臘八会)とし,これにちなんで作る粥で、「八宝粥」ともいう。米・雑穀・豆類のほかナツメ・栗・ハスの実など各種の果実をまぜ,砂糖で甘味をつけて煮る)を煮るが、これは曾て北京ではたいへん有名だった。臘八節は漢族の民間の伝統的祭日で、中国全土で流行した。「臘」は中国古代の祭礼のひとつで、一般に冬が終わろうとする時に、昔の人々は狩りで得た禽獣で祖先や神様を祭り、それにより災害を避け吉祥を求めようとした。『史記正義』によれば、「12月は臘月である。……禽獣を狩り、以て歳の終わりに先祖を祀った」。南北朝時代、始めは農暦12月8日を「臘八節」とした。寺院は 臘八節を過ごすのに仏教の伝説の話と結びつけ、「臘八粥」を食べる習俗を形成した。伝説によれば、12月8日は仏教の始祖釈迦牟尼が修行し悟りを得た日であった。釈迦牟尼は修行時飢えて地面に倒れ、ひとりの牧童の娘から一碗のもち米を煮て作った粥をもらい、釈迦牟尼はそれを食べ、川の中で沐浴し、静かに菩提樹の下に座って沈思し、12月8日に悟りを得て成仏した。これを記念し、仏教徒は毎年臘八、すなわち12月8日に必ず「臘八粥」を煮て仏に供えた。『夢粱録』によれば、「臘月八日、寺院ではこの日を臘八と言い、大刹などの寺院では、皆五味の粥を設け、これを名付けて臘八粥と言った」。雍和宮の臘八粥が有名である所以は、ひとつには粥を煮る鍋が特別に大きかったからで、『燕京歳時記』によれば、「雍和宮のラマ(ラマ僧)は、8日の夜のうちに、粥を煮て仏に供えた……その粥鍋の大きいことと言ったら、数石(1石は百升)の米が入るほどであった。」ふたつには皇室の恩寵で、清朝廷は特に大臣を派遣して監視し、以て心からの敬意を明らかにした。『光緒順天府志』によれば、「雍和宮が粥を煮るのは、制度として決まっていて、大臣を派遣して監視し、蓋し上膳に供した」。これから分かるのは、満清皇帝までも雍和宮の臘八粥を食べたということで、故にその名が京城(都北京)に轟いたのである。
 
 雍和宮の年に一度の「打鬼」は更に有名で賑やかであった。観衆は雲の如く方々から雲集したので、年に一度の雍和宮廟会が形作られた。
 
 
法会の観衆
雍和宮で一年に一度の祈願法会は、多くの人を惹きつけて見に来させ、この日の北京は「どの家も横丁も留守になり」、皆争って見に来る有様であった。写真は、雍和宮の境内で、人々が海の潮のように押し寄せ、人波でごった返す盛況の様子である。
 
 毎年農暦正月の末、北京の大人も子供も雍和宮に集まり、廟内を見物し、ラマが演じる打鬼 (鬼やらい)を我先に見て、子供たちは大串の糖葫芦やお面を買うのが、新年の年越しと同じくらい愉快であった。北京のラマ廟の 打鬼の行事について、『燕京歳時記』によれば、「打鬼(鬼やらい)は元々西域の仏法で、決して怪異なものではなく、昔の九門観儺(都の各城門で追儺の行事を見る)の遺風で、また不吉を排除する所以である。毎年打鬼の時節になると、各ラマ僧は諸天神将に扮し妖怪変化を駆逐した。都人の観衆は甚だ多く、万家空巷(全ての家々が留守になる)の風であった。朝廷は仏法を重んじ、特に散秩大臣(皇宮の警備担当)を一人派遣してこれを見、また聖人(ラマ寺の高僧)は朝服を着て東側の階にいるよう命じられた。打鬼の日時は、黄寺は(1月の)15日、黒寺は23日、雍和宮は30日であった。」
 
 
廟会でのお面の屋台
雍和宮廟会で売られたお面は他の廟会とは異なっていた。他の廟会のおもちゃ屋台で売られたお面の大多数が、玄奘三蔵、孫悟空、猪八戒、関羽、張飛など、伝統的な芝居の登場人物の顔のくま取りであったが、雍和宮廟会で売られたお面は、廟の中でラマが鬼やらいの時に被ったお面とよく似ていた。写真では、お面屋台の前にお面を被った子供がいて、屋台の主人は商売を招き寄せ、その傍らには多くのそれを見物する子供たちが映っている。
 
 チベット仏教の寺院の宗教的な鬼やらいの儀式は、中国古代の「追儺」の作用と同じで、ラマ教を信じるモンゴルやチベットの民族が行う鬼を追い払う行事であった。チベット族は「莫朗木多」と言い、意味は「伝召送鬼」(仏法を伝授し、僧たちを召集し、鬼を祭送する)、モンゴル語で「跳布札」tiào bù zhá、意味は「悪魔を追い払い、祟りを散じる」。その儀式の過程で、一般にお面を付けたり化粧をしたラマと扮装した魔物が争い、最終的に魔物を打ち負かし、駆逐、或いは焼き殺す。これを「送祟」と言う。
 
 チベット語の仏教経典によれば、仏教の始祖釈迦牟尼が「邪道」を降伏させ、吐蕃僧の拉隆巴勒多尔吉が悪王の朗達尔瑪を刺殺したことを記念し、チベット、青海、モンゴル等のラマ廟では、毎年「善願日」法会を行い、同時に黒衣で踊りを舞い、お祝いの意を示した。こうしたチベット伝来の黄教の仏事行事は乾隆59年(1794年)北京の黄寺に伝わり、その後、雍和宮やその他のラマ教寺院でも毎年「跳布札」の宗教儀式が行われるようになった。
 
 
東配殿内部の景観
写真は雍和宮東路東配殿内部の様子である。ちょうど真ん中に供えられているのがチベット伝来仏教の密教仏像である大威徳金剛像である。チベット仏教では、大威徳金剛は文殊菩薩の化身である。これには悪を屈服させる勢いがあるので、これを大威と言う。また善を護る功労をし、大徳を備える資質を持つことから、大威徳金剛の名を得たのである。金剛は元々仏門の中で鋭利で硬い兵器を指し、ここでは特に修行により不朽の身体を獲得したことを指す。仏像の前のお供えの台には「五供」が供えられた。これは香炉がひとつ、燭台がふたつ、花瓶がふたつで、全て銅製である。お供えの台の前には一基のお供え台が置かれ、海灯が置かれた。両側はラマ僧たちがお経を学ぶための経卓である。
 
 雍和宮は毎年農暦1月30日(小の月の場合は29日)に法輪殿の宗喀巴(ツァンカパ)像の前で、幅広くお供えをし、三面「コ」の字型にテーブルを並べ、灯を数百個燃やし、両側のお供えを置く長椅子には「八令」の小麦粉で作った「満札」が一杯に並べられた。
 
 
法輪殿内壇城
写真は法輪殿の内部の様子で、中央にあるのが壇城、両側がお供えのテーブルである。仏教では、壇城とは仏たちが集まって居られるところである。「壇」は梵語で曼荼羅のことである。
 
 午後1時、角笛を鳴らしてラマ達が神殿に上がり、行事を主宰するラマが仏の対面に設けられた「替僧宝座」に上がり、盛大な「善願日」法会を挙行した。お経を唱え奏楽の後、天王殿の前で「跳布札」が開始された。これは全部で13幕に分かれていた。
 
 
「跳布札」を観覧するラマたち
 
 鬼やらいの儀式が終わると、翌日の明け方(2月1日)、ラマ僧達の隊列全体が廟を出て、寺院の外壁の周りを一周する。これを「繞寺」と言った。
 
 清代、雍和宮の鬼やらい儀式は皇帝が主宰し、当時は歩兵統領衙門がそれを受けて実施し、「跳布札」用の衣服や飾りまでも宮廷で刺繍をした。鬼やらいの前夜、天王殿の前には観覧台が設置され、時には皇帝自ら臨席して祭礼を見た。王侯や大臣も補服(身分を表す刺繍の付いた上着)を身に着け、胸には朝珠を吊るし、頭には花翎の飾りを付けて駆けつけ、行事を見物し、その有様はたいへん厳かであった。民国初年、鬼やらいの行事は蒙蔵院が受け継いで行ったが、儀式は次第に簡略化されたが、基本は相変わらず清の制度に沿って行われた。雍和宮の年に一度の鬼やらいの行事は、宗教意識が後退するに従い、北京の民間の新春の風俗となり、廟会の行事の内容のひとつになった。
 
 雍和宮の鬼やらいの二日間、排楼院から山門前までが廟会で、地方の特色のある軽食が売られ、おもちゃやお面を売る屋台が出店し、その間に輪投げや射的など、賞品のあるゲームの屋台が入り混じった。
 
 
輪投げ
昔の北京の廟会では、たくさんの大衆的な娯楽が楽しめた。輪投げは競技的要素もある、露店の遊びである。店主は地面に区画を区切って、煙草、石鹸、歯磨き粉などの日用品や子供のおもちゃなどを並べ、輪投げを投げる客の足元から、近くから遠くへ、並べる景品の価格を次第に高いものにし、輪投げの難易度も上げていった。廟会見物の人は皆、店主に金を払って籐の輪を買って投げ、地面の上に置かれた景品の上に輪が被されば、景品をただで持って行くことができるが、輪が被らなければ、何ももらうことができない。この遊びは誰でも気安くできるし、競技的な要素も備えていたから、輪投げをやってみる客も、それを周りで見る客もたいへん多かった。写真はひとりの男が手に籐の輪を持ち、足で境界線を踏んでちょうど輪を投げるところで、横で見ている子供の首には、それぞれサンザシの首飾りを掛けている。
 
 1950年代初頭、雍和宮は内部の修繕が行われ、鬼やらいの行事は一旦停止された。1957年に再び行事が復活した際、宗教舞踊芸術の見学会として実施され、参加したのは全て招待された宗教や芸術の研究機関の関係者であった。行事に合わせて、おもちゃを売ったり食事を提供する商店は、一律雍和宮大街と国子監街東口一帯で営業した。1960年代の「文化大革命」、「破四旧」で、宗教は「叩き潰す」ものに属したが、雍和宮は幸い周恩来総理により保護され、破壊を免れた。1981年に雍和宮が宗教の場として対外開放され、近年はまた年に一度の伝統的な鬼やらいの宗教行事も復活したが、廟会は復活していない。

白塔寺白塔
 
白塔寺廟会
 
 昔、阜成門を入り、東北の方向を見ると、巨大な白塔が人々の目に入って来る。白塔のある寺院なので、人々は俗に白塔寺と呼ぶ。曾て遼代、ここには仏塔が建てられていたが、後に戦火で壊された。元の世祖の時、遼塔の遺跡の場所に大聖寿万安寺が建立され、ネパールの建築家アニカが中心となりこの巨大な白色のラマ塔を建築した。元末の戦乱で、寺は破壊されてしまったが、塔は残った。明の英宗の時、仏寺が再建され、「妙応寺」の名を賜った。寺内の庭園は広々としていて、山門から塔院の間に、仏殿が分布していた。塔院のちょうど真ん中に白塔がそびえ立ち、塀で囲まれた四隅には一亭が建てられた。
 
 白塔寺の廟会は東西両廟の廟会と形式がよく似ていた。いつも廟会の日になると、廟の内外はたいへん賑やかであった。廟内の屋台は東西の両路と塔院の中に分けて設けられていた。廟外は山門の外の街路上と廟の東側西側に屋台が設けられていた。白塔寺と護国寺はその間の距離が遠くなかったので、多くの屋台業者は、よく白塔寺の廟会が終わると、また護国寺の廟会にも駆けつけた。廟見物の人は山門の内外と天王殿前で、「年糕張」の色々の年糕(もち菓子)や、「回回李」の茶湯(炒ったキビ粉やコウリャンの粉に熱湯をさして食べる、麦焦がしのような食品)と油茶(「油茶麺儿」(小麦粉を炒って少量のヘットやバター、ごま油などと、ゴマ、クルミなどを混ぜたもの)に熱湯をかけて糊状にした、葛湯に似た飲み物)、格別な風味の棗巻果(ナツメと山芋、小麦粉を混ぜて蒸して作った、回族のお菓子)を味わうことができた。天王殿前の東側を北に行くのが東路、西側を北に行くのが西路であった。東路の屋台は荒物を売るものが中心で、屋台で売る木碗は北京で最も有名であった。というのも、これは丈夫で落としても壊れにくく、多くの父兄が廟見物の際にいくつか買って帰り、子供用に使った。西路では寄席演芸や大道芸の出し物があり、その中で拉洋片(のぞきめがね)や拉大弓(射的)、打弾儿(ビー玉当て)が最も人気があった。塔院はあまり広くなかったが、多くの子供たちがおもちゃ屋台に群がり、価格の安い泥餑餑(粘土を型押しし焼いて色付けした人形)や木陀螺(木製のこま)を買った。1945年日本降伏後、しばらくの間、北京の通りや路地では、子供たちの間でこま遊びのブームが巻き起こり、子供たちはこまを「漢奸」(売国奴)と呼び、こまをひっぱたく時にこう口ずさんだ。「漢奸を引っ張り出せ、漢奸をひっぱたけ、棒子麺儿(トウモロコシ粉)一毛三(0.13元)。引っ張り出せない、叩けないなら、棒子麺儿を二毛(0.2元)で売るよ。」この時のこまはいつも売り切れて買えなかった。
 
 寺の外の廟市では、時には四方の農村の農民が家禽や家畜を売る屋台を見ることができた。その他、鮮花、菱の実を売る季節の屋台、鳥やハトを売るもの、コオロギを飼う壺、鳥籠、キリギリスを飼う瓢箪売りもここの廟会に駆けつけた。精緻な鳥籠、キリギリスの瓢箪は、ここでは売れ行きの良い商品であった。寺廟の西側の宮門の傍らでは小さな茶館や飯屋が店を開き、多くの廟見物の人がいつもここの客になった。
 
白雲観廟会
 
 
白雲観遠望
 
 西便門の西2里(1キロ)のところに、道教の宮観があり、ここは平素「天下第一観」と呼ばれた白雲観であった。その前身は唐の開元年間に建立された天長観で、元の太祖の時に長春宮と名を改め、道人の丘処机がここで北方道教を主宰し、丘処机がこの世を去ったのを待って、その弟子がまた宮の東側に道観を建て、名を白雲と言い、観の中に丘氏の遺骨をお供えした。後に長春宮は廃墟となり、この観だけが残った。白雲観は占める土地の面積がたいへん広く、宮観が高く聳え、観の前に牌楼があり、山門を入ると左に鐘楼、右に鼓楼、境内の殿宇は五層になっている。
 
 毎年農暦正月1日から19日までは、白雲観で最も賑やかな廟会の日であった。白雲観を見物する人は、多くが宣武門を出て護城河(北京城城壁の外堀)に従い西に向け西便門に到り、ここで毛驢(背の低いロバ)を雇うことができ、ロバに乗って進むと格別な情趣があった。人々は1月8日にここで星神を拝み、灯節(元宵節)の時、殿外の壁に古代の物語を描いた紗灯(紗(しゃ)を張った灯籠)を高く掲げた。1月18日の夜、多くの男女が観の中で寝泊まりし、この日は「神仙に会える」日と言われているので、敬虔(けいけん)でご縁のある人が神仙に出会うことができた。19日は丘処机の誕生日で、この日を「宴丘」、或いは「宴九」と呼んだ。観内で線香をあげる人々は千里を遠しとせずやって来た。曾ては何人かの権勢を持った高官がここで銭を散じて布施し、長生不老を求めた。観内の屋台の商人は食品やおもちゃを売る者が多かった。観の北門の外には車や馬を走らせる場所があった。1日から18日まで、ここでは毎日午後に車や馬を走らせる活動が行われた。この他、廟会の期間中は「捨大饅頭」、「打金銭眼」(銅銭を大型の銅銭の形の的の中央の四角の口に向けて投げ、入ったらその年の運勢が良くなる)、扭秧歌(ヤンコ踊り)などといった催しが行われた。廟会の賑やかな情景は真に「重々しい真っ黒な鬢髪は香霧を凝らし,馬を駐める郊西の人は鶩(アヒル)に似たり。画鼓(色とりどりの鼓)秧歌の声は絶えず,金釵(金の簪)を落とし帰路に迷う」様な状態であった。
 
蟠桃宮廟会
 
 
蟠桃宮正門
 
 毎年農暦3月初めの蟠桃宮廟会は一層情趣に富んでいた。蟠桃宮廟会と白雲観正月廟会は何れも仏の名を借りた新春の行楽の形に属していた。北京人もこれを娘娘宮廟会と呼んだ。これは宮の中が主にふたりの娘娘(女神)を祀っているからである。毎年農暦3月1日から3日を廟会の期間で、3日が最も賑やかであった。この日は王母娘娘が蟠桃会を設けた日と言われ、また「上巳」の日でもある。この日は東便門の南にある蟠桃宮は黒山の人だかりで、お参りが極めて盛んであった。清代、宮女たちは多くが東便門内の堤の柳の木陰で、馬を走らせ弓を射た。民国初年には更に廟会に競馬場を建設した。廟会の時期がちょうど晩春の時期に当っていて、気候が心地よいので、ここでは各種の寄席演芸を見ることができ、季節の各種の小吃(軽食)を味わうことができた。
 
財神廟廟会
 
 
財神廟内の香炉
 
 広安門外の財神廟廟会は、農暦で毎月2日と16日に行われた。廟会は線香をあげて神様にお祈りする形式に属していた。1月2日の廟会はとりわけ賑やかであった。多くの人々がやって来て線香を燃やしてお金が儲かるようお祈りをし、「集まる者蟻の如し」と言うことができた。人々は皆先を争って最初に線香を燃やそうとし、先を制した者には吉星が高く照らし、その年はいち早く金儲けをすることができると言われた。
 
 廟会当日、廟から遠く離れた道の傍らには、線香や蝋燭、黄表紙(祭祀の時に燃やす紙銭)の屋台がところ狭しと並んでいた。廟の門を潜る以前に、抑揚のある低く沈んだ鐘の音がもう耳に届き、廟の中に入ることができると、殿内殿外は参拝客で溢れ、まとわりつく線香の煙は霧のようで、廟は小さいが人が多く、ひどく混み合い、殿内に入って線香をあげようと思うと、たいへん力を使わないといけなかった。線香をあげ神様にお祈りをして後、敬虔な参拝客は必ず金箔や銀箔を糊付けした元宝や聚宝盆、金馬駒、赤いシルクで作った蝙蝠形の造花、赤い紙で作った金の鱗の鯉などを買い、こうしたもので、この一年、金銭財物を求める上での精神的な慰めとした。これ以外に、他の廟会と同じく風車、糖葫芦(サンザシ飴)、空竹(中国伝統のコマの一種で、回すと独特の音がする)、琉璃喇叭(ビードロ)、噗噗噔儿(ぽっぺん)など正月や節句のおもちゃと屋台もあった。
 
 財神廟廟会は昔の北京の神頼み、迷信の色彩の濃い廟会であった。
 
東岳廟廟会
 
 
東岳廟牌楼
 
 朝暘門外に位置する道教の廟宇、東岳廟は、通常は朔望(陰暦の1日と15日)に廟会が開かれ、廟会の形式は財神廟廟会とよく似ていた。ただ正月の廟会は1月1日から15日まで半月連続で行われた。
 
 東岳廟は元代に建立された。廟の中にお祭りされた東岳大帝像は高さ1.2丈(約4メートル)、伝説によれば、これは泰山の神で、人の世の生死、善悪、富貴、貧賤、病苦を司り、全部で七十二の「司」(部門)を管理する。廟内に建てられた七十二司は頗る有名である。各司には皆神像があり、善悪の二種類に分けられ、その中の多くの塑像は、見る者をぞっとさせた。
 
 東岳廟の廟会にも物売りの屋台があったが、1937年の七・七事変(盧溝橋事件)前の統計によれば、東岳廟廟会の屋台の数は白塔寺と護国寺の廟会での屋台の数の六分の一に過ぎず、隆福寺廟会での屋台と比べると、もっと少なかった。
 
雍和宮廟会
 
 
雍和宮の銅獅子
 
 「跳布札」tiào bù zhá(俗に打鬼(鬼やらい)と呼ばれる)で有名な雍和宮廟会は、神様を楽しませる形の廟会である。雍和宮は、元々雍親王胤禛yìn zhēnの府邸であった。乾隆9年(1744年)正式にラマ廟に改められた。雍和宮は極めて大きな廟宇が鎮座し、万福閣の中には、ビャクダンの木を彫った弥勒像が立ち、その全身の高さは26メートル、世にも稀な仏像である。「跳布札」は黄教特有の宗教行事である。その意味するところは、「悪魔を追い払い、祟りを散じる」ことである。雍和宮の1月30日の廟会の主な内容は「跳布札」である。この時は見に来る参拝者が頗る多く、物を売る屋台もこの期に合わせて物を売るが、商業活動は決して主要な内容ではない。「跳布札」は「跳白鬼」、「跳黒鬼」、「跳螺神」、「跳蝶仙」、「跳金剛」、「跳星神」、「跳天王」、「跳護法神」、「跳白救度」、「跳緑度母」、「跳弥勒」、「斬鬼」、「送祟」の全13幕に分かれて進行した。最後にラマ(ラマ教の僧侶)が雍和宮を踊りながら一周廻り、これが「跳布札」終了の合図になった。
 
終わりに
 
 昔の北京の廟会は、一年、或いはひと月の中でも、実際には少なからず行われた。これらの廟会は、善男信女が線香をあげ仏を崇拝し、宗教活動に行く場所であるだけでなく、昔の北京の民間の商業活動を行うマーケットであり、大衆の娯楽の場所でもあり、北京の重要な民間活動の場となっていた。その後、いくつかの寺院は既に壊され現存せず、線香の火は途絶えてしまっているが、商人たちは古い習慣に従い、依然として廟会の時期になるとやって来て、廟の無い廟会を行い、商業活動と文化的、娯楽的性格の民俗活動を兼ねた活動に変化したのである。