範進は幸い正気に返りましたが、母親は前後不覚になり、そのまま息を引き取ってしまいます。このため、母親は新たな挙人(郷試の合格者の称号)の肉親として盛大な葬儀が行われ、範進は会試を欠席し、喪に服します。そこに訪ねて来たのが 郷紳の張静斎。範進に今後挙人として様々な儀礼を主宰するには、外に出て権勢を持った役人や富豪と交わり、金品を出してもらう必要があると勧め、一緒に繁華な高要県にやって来ます。そこで湯知県(知事)を待つ間にやって来たのが、厳致中(厳貢生)。張、厳ふたりが、この後様々なトラブルや争いごとを引き起こします。『儒林外史』第四回をご覧ください。
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薦亡(死者の霊が早く昇天するよう祈る)の斎(ものいみ)で和尚は官司(訴訟沙汰)を喫し
金品をせびった(打秋風)郷紳(田舎の名士)は横事(凶事)に遭う
さて、母親はこれらの家具や何やらが皆自分のものだと聞き、思わず嬉しくてたまらず、痰がからんで一時前後不覚に陥り(痰迷心窍tán mí xīn qiào)、気絶して床に倒れた。家人、嫁、女中、妻は皆慌てて、一刻も早く旦那様に入って来てもらった。範挙人は急いで大股で歩いて(三歩作一歩sānbù zuò yíbù)来て見たが、母親に呼びかけても応答が無く、急いで母親を持ち上げてベッドに寝かせ、医者に来てもらった。医者は言った。「大奥様のご病気は卒中にかかられたもので、治すことはできません。」他に何人かの医者にも来てもらったが、皆同じように言ったので、範挙人は益々慌てた。夫妻二人は、泣き叫びながら、もう一面では後事の準備をした。そのままぐずぐずしてたそがれ時になり、母親はもはや虫の息になり(淹淹一息yān yān yī xī)、天に召されて行った。家族中が慌ただしい一夜を過ごした。
翌日、陰陽師(陰陽生。喪家に替わって納棺、葬儀の日取りを占い、また婚家に替わって式の日取りを決める職業)の徐先生に来ていただき、七単(人が死んで49日以内に、7日毎に祭祀を行い、これを「理七」と言った。最後の7日を「尽七」と言う。「七単」は死者の納棺の日取り、忌避や禁止行為、49日の日取りを示した書きつけ)を書いてもらった。母親は亡くなってから三回目の七日に入ったので、期日になれば坊さんに頼んで供養(追薦zhuī jiàn)してもらった。門の上に白い布で作った球を吊るし、新たに貼った対聯は白い紙を糊付けしたものだった。街中(合城)の紳士(紳衿shēn jīn「紳」は官吏になったことのある人。「衿」は秀才以上の士人。)が皆弔問(吊唁diào yàn)に来た。秀才の同期生(同案)の魏好古にお願いして、葬儀の衣服を着、手ぬぐいを腰に掛けて、入口の間で客の相手をしてもらった。胡老爹は公の場に出ることができないので、厨房や娘の部屋に居て、白布や肉の重さを測ったり、あちこち動き回るしかなかった。
二回目の七日が過ぎたので、範挙人は旧交を忘れず(念旧)、何両かの銀子を取り、屠殺屋の胡(胡屠戸) に渡すと、彼に以前と同じように市場の庵で平素付き合っていた和尚にお願いして頭目(攬頭lǎn tóu)になってもらい、大寺の八衆の坊さんにお願いして来てもらってお経を唱え、「梁皇懺」liáng huáng chàn(坊さんを招いてお経を唱え、死者を済度(経を読み、その功徳で死者を苦界から救う。超度)する規模の比較的大きな儀式(懺悔(ざんげ))を「拝懺」bài chànと言う。南北朝時代から伝わった「梁皇懺」は懺法chàn fǎの一種。「梁皇」は南朝梁の武帝蕭衍xiāo yǎnを指す)、施餓鬼(せがき)の法会(ほうえ)をし(放焔口fàng yàn kǒu)、母親の昇天を供養してもらうよう頼んだ。胡屠戸は銀子を手に取り、まっすぐ市場の庵の滕téng和尚の家に行くと、ちょうど大寺の僧官(寺院、僧尼事務の管理を行う官吏で、僧侶が担当)の慧敏もそこに座っていた。僧官は田畑が付近にあったので、いつもこの庵で起居していた。滕和尚は胡屠戸を座らせると、こう言った。「先日、新たに合格された範旦那様がこの庵で病にかかられましたが、生憎その日は拙僧は不在にしておりまして、お世話することができませんでした。幸い、戸口で薬売りの陳さんが茶を沸かしておりましたので、私に替わり対応いただきました。」胡屠戸は言った。「本当に。私もあの方の膏薬に感謝しています。今日はここにおられませんか。」滕和尚は言った。「今日は来られていません。」また尋ねた。「範旦那様のご病気はすぐに良くなりましたが、思いがけず、今度は大奥様の事が起こりました。胡のお父様はここ何十日もずっとあちらがお忙しかったのでございましょう。市場でお商売をするのをお見かけしませんでした。」胡屠戸は言った。「そりゃあそうでしょう。実の母が不幸にも世を去ってから、街中の郷紳で、家に来ない者はひとりもありませんでした。私のお得意様の張旦那、周旦那が家でお客のお世話をしていただき(司賓)、日がな一日、座って暇を持て余し、ただ私を引っ張って雑談をし、陪席して飲み食いしていました。お客が来ると、またぺこぺこお辞儀をし(打躬作揖dǎ gōng zuò yī)、それをずっと繰り返していました。私は暇でのんびりしているのに慣れてしまっていて、こんなことをするのは面倒に思い、身を隠していたいと思ったのですが、ひょっとすると婿殿が変わっているので、郷紳の旦那様方に誤解されるのではないかと心配していましたが、こう言われました。「実の親御さんはどうされたいのですか。」と。」言い終わると、またこのようにお坊さんにお願いして法要(做斋 zuò zhāi)の話をした。和尚は話を聞くと、肝をつぶす程驚いて(屁滚尿流pì gǔn niào liú)、慌ててお茶を沸かし、麺を準備した。そして胡のお父様の面前で更に僧官に頼み、何人かの坊さんを雇い、また線香や蝋燭、紙の馬、写疏xiě shū(僧が読教の時に燃やす、祝詞を書いた紙で、法要する主人の家の姓や法要の内容が書かれている)の準備などを依頼した。胡屠戸は麺を食べると帰って行った。
僧官は銀子を受け取ってから、町に行くつもりだったが、一里あまりの道も行かないうちに、後ろからひとりの人が呼びかけるのが聞こえた。「慧旦那様、どうしてこの頃荘園にお越しにならないのですか。」僧官が急いで振り返って見てみると、佃戸(diàn hù小作人)の何美之であった。「あなた様はこの頃大層お金を儲けて忙しくされてますね。何があってお越しにならないのですか。」僧官は言った。「そんなことない。私も行きたいと思っていたのだが、町の張さんのお屋敷でうちの裏の畑が欲しいと言われたが、値段を出すのは承知せず、私は何回もお断りした。もし荘園に来ると、あそこの小作人がやって来てぶつぶつ言い、何やかやとつきまとって来るだろう。私が寺にいると、あの人のところから私を尋ねて来たんで、その人が帰るのを待って出かけて来たんだ。」何美之は言った。「それもごもっともです。あちらがどう思おうと、決めるのはあなた様です。今日ご予定が無ければ、荘園にいらしてご滞在ください。それに、旦那様が先日煮た豚肉の燻製が半分、竈の上に吊るしてあり、もう油が抜けています。作った酒も、飲み頃になっていますので、あの方にお答えしてあげてください。今日は荘園でお休みになっては如何ですか。」和尚は彼の言葉を聞いてよだれが出てきて、足が思わず彼に附いて荘園に向かって行った。何美之は妻に言いつけて母鶏を一羽煮て、ハムを切って、酒を汲んで温めさせた。和尚は歓迎を受け、中庭に座り、上着を脱ぐと、胸をはだけ、腹を突き出しながら、黒光りする頭と顔のてかてかだけが外に出た。
しばらくして、場が整うと、何美之は大きな皿を捧げ持ち、細君(渾家hún jiā)が酒を提げて(拎līn着酒)来て、テーブルの上に並べた。和尚は上座に座り、細君は下座で陪席し、何美之は横に座り、酒を注いだ(把酒来斟zhēn)。食べながら、十五日のうちに範のお屋敷に行って、母上様のために斎戒をすると言った。何美之の細君は言った。「範家のおばあ様は、私たちが小さい時からお会いしていましたが、とてもおやさしい方でした。ただ旦那様のお嫁さんは、荘園の南の方の屠殺屋の胡(胡屠戸)の娘で、両眼の縁が赤く充血し、髪の毛が茶色くなってしまっていて、その日暮らしの生活で、靴も満足に持っておらず、夏はガマで編んだ綿入れ靴をつっかけ、足が変形して爛れていました。今はツーピースになった喪服(屍皮子shī pí zi)を着られて、聞くところによると貴人のご夫人になられたそうだけど、本当にみっともないですわ。見苦しいったらありゃしない。」正に食事がたけなわとなった時、外で門を乱暴に叩く音が聞こえた。何美之は言った。「誰だろう。」和尚は言った。「美之、おまえ、ちょっと見に行ってくれるかね。」何美之が門を開けるや、七八人の男が一斉に押し入って来ると、女と和尚がひとつのテーブルに座っていたので、一斉に言った。「お楽しみだね。和尚さんとご婦人がお天道様の下でいちゃついて。僧官の旦那。法を犯すとどうなるかご存じか。」何美之が喝破した。「ばかを言うな。この方は我が荘園のご主人様だぞ。」人々は罵って言った。「荘園主だと。おまえの母ちゃんまで面倒見るのか。」弁解も聞かずに(不由分説bù yóu fēn shuō)、藁縄を持ってくると、和尚を素っ裸にして(精赤条条jīng chì tiáo tiáo)、婦人と一緒に一本の縄で縛り、太い棒を真ん中に通して持ち上げ、何美之も一緒に連れて行った。南海県の前の関帝廟まで来ると、その前の舞台の下に、和尚と婦人を一緒に繋ぎ、知県(知事)が役所から出て来て命令を出されるのを待った。人々が何美之を引っ張って来たので、和尚はそっと彼を呼び、範挙人の屋敷に知らせに行かせた。
範挙人は母親の法事があるのに、和尚が逮捕されてしまったので、じっとしている訳にもゆかず、すぐに紹介状 (帖子tiě zǐ)を持って、知事(知県)に次第を説明した。知県は責任者 (班頭bān tóu)を差し向け、和尚を解放させ、婦人は美之に引き渡し、家に連れ帰らせた。一群のごろつきが連れて来られ、翌日の早朝に判決が下されることになった。人々は慌てて、張郷紳に帖子を書いてもらい、知県に事情を説明するよう求めた。知県はそれを許し、早朝の執務に一緒に入らせ、二言三言罵ると、とりとめのない話をし、そのまま出て行かせた。和尚はそれでも人々に役所の玄関で何十両かの銀子を手渡した。僧官は先ず範挙人の屋敷に行って謝り、翌日何人かの僧侶を連れて来て、祭壇を設け、仏像の絵を掛け、両側には十殿閻君を掲げた。開経麺(お経を唱える前に食べる麺)を食べ、鐃náo(銅でできた円盤状の打楽器)、鈸bó (銅製のシンバルのような打楽器で、中央が半円球に盛り上がっている)、叮噹dīng dāng(仏教の法器で、銅鑼のような形状で、木の撥で叩く)を打ち、お経を一巻唱え、朝の斎戒を終えた。八衆の僧侶は、お世話係(司賓)の魏相公を含め全部で9人で、二つの席に座った。それからようやく食事をしていると、長班(官員の身辺に付き従いお世話をする召使)が報告した。「お客様が到着されました。」魏相公はお碗を置くと出て行って、客を迎えて入って来た。すなわち張、周二人の郷紳で、烏紗帽(黒色の官吏の帽子)、明るい色の員領(丸い襟のシャツ。一種の官服)、白色の靴底の皂靴zào xuē(厚底の靴)を身に着けていた。魏相公は随行してずっと両手を組む礼をして霊前まで行った。そのうちの一人が和尚と僧官に言った。「今しがた入って来られたのは、張のご当主(大房)の静斎旦那様です。あの方とあなた様は畑でお隣同士ですから、あなた様もあちらへ一声ご挨拶しに行かないといけないですよ。」僧官は言った。「もうたくさんですよ。張のお家の方々はなにかと面白い人たちですね。そういえば、一昨日いざこざがありましたが、あちらの連中はごろつきか何かですよ。というのも、あそこの小作人たちは相談がまとまると、陰でこそこそ動いて(做鬼做神zuò guǐ zuò shén)私をどうかしてしまおうと企んだんです。私に何両かの銀子をちらつかせ(簸掉bò diào)て、なんとかして家の裏のあの畑をあちらに売らせようとしました。様々な計略を用いて私に危害を加えようとして、結局かえって自分自身を傷つけてしまった(使心用心,反害自身)んです。遅れた県では、旦那様がたが自分の荘園の者を罰しなければならず、普通はうろたえるものですが、面の皮を厚くして(腆着脸tiǎn zhe liǎn)、帖子(紹介状)を持って説明に行ったので、県主(県知事)の不興を買ったわけです。」また言った。「あそこはまともでないことが多すぎます。例えば周家の三男の家内は、巣県(現在の安徽省巣湖市)で官職に就いていた家の長女だったのですが、張のご当主の姉(或いは妹)の娘に当たります。彼女が以前私に仲人を頼んで来たので、私が代わりに西郷の素封家の家に話に行きましたが、たいへんなお金持ちでした。ところが張のご当主は頑なに先ほどからここにいる、すかんぴんの魏相公に嫁がせると言って聞かないのです。それというのも彼が学堂に通っているからで、また彼は詩や何やらを作れると言うのです。先日は、こちら(範家)の代わりに薦亡(死者の霊が早く昇天するよう祈る)の疏(上奏文)を作られたので、私が持ち出して人に見せると、中の三文字が不適切だと言われました。このように罪作りなことをされたんですよ。奥さんの妹さんも人に嫁がせなければならないのが分かっているのに、まだこれからどんなに人を愚弄することになるか分かったもんじゃありません。」話していると、こつこつと靴の音が聞こえたので、坊さんたちが目くばせをし、僧官はもう何も言わなかった。二人の郷紳が出て来て、和尚に拱手の礼をし、魏相公がお見送りした。坊さんたちは精進料理を食べ終わると、顔と手を洗い、楽器を鳴らして懺悔し、線香をあげ灯をともし、食物の施しをし散華し、五体投地し、丸々三日三晩祈祷し、その後帰って行った。
瞬く間に月日が流れ、七回目の七日も過ぎて、範挙人は外出して孝を謝した。ある日、張静斎が来て挨拶をし、また話をした。範挙人は霊前の小さな書斎に招いて座ってもらい、喪服(衰絰cuī dié)を身に着け、出て来てお目にかかり、先ずは葬儀の際に諸般助けていただいたことのお礼を言った。張静斎は言った。「おば様の大事では、私たちは息子やおいが当然やるべきこととして奉仕させていただきました。おば様が天寿を全うされ天に帰られたと思うと、まあよかろうと思います。ただあなた様(世先生。自分より出生が早く、年齢の上の人)は今回の会試だけは参加できませんでした。お墓(祖茔zǔ yíng)への埋葬はどうされるおつもりですか。日取りは決めておられますか。」範挙人は言った。「今年は風水が良くなく、次の秋に行うしかありません。ただ費用がまだ足りないのです。」張静斎が指を折って計算してみた。「銘旌míng jīng(死者の官位姓名を記入し、ひつぎの前に立てる旗)は周学台(国子監の校長。周進が学台になっている)に引き受けて(銜xián)いただかないといけません。墓誌はご学友の魏さんに書いていただくとして、どなたのお名前を使われますか。その他、葬儀(殯bìn儀)、式のテーブルや座席、儀仗(執事)、楽隊(吹打)、更に雑用、食事、墓穴掘りの人夫(破土)、風水師(謝風水)の類で、三百両余りの銀子が必要です。」計算している最中に、飯が運ばれて来たので、食した。張静斎はまた言った。「三載(年)の服喪期間を庵(粗末な家)で暮らされて、自ずと正しい道理が身につかれたでしょう。けれども、あなた様が今後各種の儀礼を執り行うためにも、外に出て権勢を持った役人や富豪と交わり、様々な名目で金品をいただく必要があり、そうすればこれまでのようにこせこせする必要がなくなるでしょう。今、科挙の試験に合格(高発gāo fā)された後、まだあなた様の先生のところにご挨拶に行かれていません。高要(広東省肇慶市の一部)は物資が豊富で、金品をいただけるお相手がいくつもあるでしょう(或可秋風一二)。私も父親の友人に挨拶に行きたいと思っていたので、ご一緒させていただけませんか。途中の舟や車の費用は、私がなんとかするので、あなた様が心配なさらずとも大丈夫です。」範挙人は言った。「先生のご厚意をお受けしたいと思いますが、ただ葬儀が無事済ませられるか心配です。」張静斎は言った。「礼には守るべき常識と例外として認められる融通があります(礼有経、亦有権)。何でもできない事など無いと思います。」範挙人はまたお礼を言った。
張静斎は日時を約束して、人夫や馬を雇い、随行者を連れ、高要県に向け出発した。途中で相談して言った。「この度は、一に先生に会わねばならない。二に、お母さまの墓誌に、湯公の役所での肩書とお名前を借りなければならない。」やがて、高要城に入った。その日は知県(県知事)は田舎に調査に出向いていたので、役所に入ることができず、とある関帝廟の中で腰を下した。その廟はちょうど本殿の修理中で、県の工房(官職名)が中で監督していたが、工房は県主の知人が到着されたと聞き、慌てて中で客を出迎え座ってもらい、茶器を並べる盆を九つ並べた。工房が下座に座り、壺を持って茶を注いだ。
茶を一服飲んだところで、外からひとりの男が入って来た。方巾を被りゆったりした服を着、白い底の黒靴を履き、ミツバチのような凶悪そうな眼をし、鼻梁が高く、鬢まで続くもじゃもじゃ髭をしていた。その男が門を入ってくるや、茶の盆を片付けさせ、その後ふたりと礼を交わして座ると、どちらが張先生で、どちらが範先生かと尋ねた。ふたりは各々姓名を述べた。その男は言った。「私は姓を厳と言い、私の家はすぐ近くにあります。昨年、先生の臨席の下試験をされ、幸い国子監入学の推薦をいただきました。私とこの湯公ご夫妻とは極めて良い関係にあります。おふたりは同期で科挙に合格された旧知の間柄ですか。」ふたりが各々同期合格の学生であると言うと、厳貢生(科挙で予備試験の合格者の中から選抜され、首都の国子監に入学した者)は心から敬服した。工房はお別れを言い、向こうへ行った。
厳家の召使が食べ物の入った蓋付の箱を両手で持って来ると、また酒を一瓶提げて来て、テーブルに置くと、箱の蓋を開けた。中には九つの盆が入っていて、それぞれ鶏、鴨、酒粕漬けの魚、塩漬けの豚肉の類であった。厳貢生はふたりを上座に座ら、酒を注いでもてなし、こう言った。「本来はおふたりには私の家に来ていただくべきですが、先ず家が狭苦しくておふたりの尊厳を貶める(亵尊xiè zūn)ことになりますし、次に役所にお入りいただくと、おそらく機密漏洩防止の妨げになりますから、簡単な食事を準備し、ここで歓談し、休息いただきたく存じます。」ふたりは酒の接待を受けて言った。「まだ県知事に謁見しておりませんが、先にご馳走になります。」厳貢生は言った。「恐れ入ります。」立ち上がって一杯飲み干すのを待つと、ふたりは顔が赤くなるのを恐れ、あまり多くは飲まず、半分だけ飲んで杯を置いた。厳貢生は言った。「湯公ご夫妻は人となりが清廉で慈愛に富み、本当に県民は幸せです。」張静斎は言った。「そうですか。知事殿は他にどんな善政をされたのですか。」厳貢生は言った。「先生、人生はすべて縁でつながっていて、無理をしてもだめなのです。湯公ご夫妻の着任日、ここに県の全ての郷紳が集まり、小屋掛けがされ、十里先まで立札が掛けられ、お出迎えしました。私は小屋掛けの入口に立っていました。しばらくして、銅鑼や旗、傘、扇、楽隊、夜役(差役の一種)が一隊一隊通り過ぎて行きました。駕籠が近づき、遠くからご夫妻を望むことができました。両方の高い眉毛、大きな鼻梁、横は大きな耳をされていました。私は心からこの方は穏やかで親しみやすい人(豈弟君子kǎi tì jūn zǐ)だと分かりました。けれどもまた奇妙なことも起こりました。数十人が一緒に出迎えたのですが、ご夫妻は駕籠の中から私ひとりだけが見えたのです。その時、ひとりの友人が私と一緒に立っていたのですが、彼はご夫妻を望み、私の方を見て、そっと聞きました。「以前あの方々に会われたことがあるのか?」私は正直に言いました。「お会いしたことはなありません。」彼はご夫妻のことを一途に思い、ご夫妻が彼のことを見ていたとだけ言うと、急いで数歩歩み寄りました。それというのも、ご夫妻に何か伺いたいことがあるようでした。ご夫妻が駕籠を降りられる前に、他の人々と共に身体を曲げてお辞儀をしましたが、眼は別の所を見ていて、そうしてようやく、以前見られていたのは自分ではないと分かり、恥ずかしくてたまらなくなりました。翌日、私は役所へ行って謁見しましたが、ご夫妻は県学の孔子廟にお参りに行かれ、県学で講義をして帰って来られたばかりで、諸事慌ただしく対応されていましたが、それらを放っておいて、私を中に入れ、二度茶を代えさせ、まるで数十年来の付き合いのように接していただきました。」張郷紳は言った。「総じてあなた様が人となりに人品と声望があったので、県知事様も敬意を表されたのでしょう。これからも何分よろしくご教示ください。」厳貢生は言った。「その後は却ってあまりお目にかかっていません。実は隠しているわけではありませんが、私は性格が率直で、この地方では少しばかり(寸絲半粟cùn sī bàn sù)もうまい汁を吸うことも存じませんが、これまでお仕えした知事様にも可愛がっていただきました。湯知事は気さくな方で、客に会われるのはあまりお好きではないですが、何事もよく心配りをされます。例えば先月の県の試験では、近習のご子息が十位になったので、その子を呼び、彼がこれまで従った先生が誰で、彼が縁談を決められたかなど細かく質問され、本当に気遣いをされる方なのです。」範挙人は言った。「私が先生を見るに、文章は法眼(鋭敏で深い洞察力がある)、ご令息として評価されているのですから、きっとそのご英才は賀するべきレベルにおありでしょう。」厳貢生は言った。「恐れ入ります。」また言った。「我が高要は、広東の有名な県で、一年のうち、銭糧(年貢の米、銭)、耗羨(年貢以外の収入)や、花、布、牛、驢馬、漁船、畑や家屋からの税が、万金を下りません。」また自ら手でテーブルの上で図を描き、声を落として言った。「湯知事のようなやり方では、八千金にしかなりません。前任の潘知事が担当された時期は、確かに万金がありました。その時は他にも収入があり、また私たち何人か欠かせない人もおりました。」そう言いながら、他人に聞かれるのを恐れ、更に首を回して門の外を覗いた。ひとりのぼさぼさ頭で裸足の小間使いが入って来て、彼を見て言った。「旦那様、家の方であなた様にお帰りくださいと言われています。」厳貢生は言った。「帰って何をするんだ?」召使は言った。「朝閉じ込めた豚を、あの男が返せと言って来て、家の中で騒いでいます。」厳貢生は言った。「あいつが豚が要るなら、金を持って来ればよかろう。」召使は言った。「あの男は、豚は自分のものだと言っています。」厳貢生は言った。「分かった。おまえは先に帰れ。すぐ行くから。」その召使はそれでも帰ろうとしなかった。張、範の二人は言った。「お宅で用事がおありなのですから、先生、お帰りください。」厳貢生は言った。「おふたりはご存じないが、この豚は元々私の家で飼っていたもので……」そこまで言った時、銅鑼の音が聞こえたので、一斉に立ち上がって言った。「知事がお帰りになりました。」
二人は衣服、帽子を整え、執事を呼んで帖子を持ち、厳貢生にお世話になったお礼を言い、そのまま知事宅の家の門の入口に帖子を投げ入れた。湯知事は帖子を受け取った。一つには「世姪張師陸」、一つには「門生範進」と書かれていた。知事は心の中で思案(沉吟chén yín)した。「張さん(世兄。同じ世代の人に対する称)は何度も金品をたかりに来て、とても煩わしい。しかし今回は新たに試験に合格した門下生を連れて来ているので、帰すわけにはいかない。」すぐにお通しするよう言いつけた。二人は入って来て、先ず張静斎がお目にかかり、範進は入って来て教師と学生の間の礼を述べた。湯知事は何度も遠慮した上で、座って茶を飲み、張静斎と長い間別れていた話をした。また範進の文章を褒めた上で、質問した。「どうして会試に行かれなかったのですか。」範進はそとでようやく説明した。「母が亡くなり(見背)、守制(父母が亡くなると、その子は二十七ヶ月間家に閉じこもり身を慎み、官職にある者は必ず一時職を退く)に基づき喪に服して(遵制丁憂)おりました。」湯知事は大いに驚き、急いで範進を吉服(祭祀の時に着る服)に着替えさせた。拱手の礼をして後堂に入り、酒宴を並べた。席にはツバメの巣、鶏、鴨が並べられ、その他広東で獲れたイカ、苦瓜の料理も二碗並べられた。県知事が席を設けて座り、用いた食器は銀を嵌め込んだ盃や箸であった。範進は躊躇する様子(退前縮后)で、箸を取ろうとしなかった。知事はその理由が分からなかった。張静斎は笑って言った。「範進は喪中なので、このような盃や箸は使えないのです。」知事は急いで取り換えさせ、磁器の盃と象牙の箸を持って来させたが、範進はこれも使おうとしなかった。張静斎は言った。「この箸も使えません。」ただちに白色の竹の箸に交換させると、ようやく手に取った。知事は彼が喪に服するのにこのように礼を尽くすので、酒や生臭物は食べられないのではないかと思い、準備しなかった。後になって、彼がツバメの巣の碗の中からエビの団子を選んで口に運んでいるのを見て、ようやく安心し、それで言った。「お客様を怒らせやしないか心配しました。私のところの宗教では、酒席で何も食べるものが無く、ただこうした数種類の簡単な料理だけなので、とりあえず軽食をお取りください。回教では牛や羊しか食べませんが、おそらくあなたのところの宗教では、皆さん方はこれらの肉を食べられないでしょうから、お出ししませんでした。現在は朝廷から役牛の屠殺を禁じる命令が出ていて、上から緊急で命令書が下されたので、役所でも食べることができないのです。」燭台を手に、命令書を持って来て見せた。ひとりの傍仕えの召使が知事の耳元でそっと二言三言話すと、知事は立ち上がり二人に言った。「外で文書管理の者が話があるようなので、私はちょっと行って来ます。」
知事が出て行ってしばらくして、こう言いつけるのが聞こえた。「とりあえずそこに置いておきなさい。」知事が帰って来てまた席に着き、席を立ったことを詫びた。張静斎に言った。「張さん、あなたは官職を勤めたことのある方だから、この件はちょうどあなたに相談するべきことだと思います。それは牛肉を食べるのをやめる話です。先ほど、何人かの同じ宗教の知り合いが来て、全部で五十斤の牛肉を準備して来たのですが、その中でひとり、回教徒の代表をしている男が進み出て、私に、牛肉を食べるのを禁じられると、食べるものが無くなるので、私に禁令を少し緩くして、「上をごまかして下々にはごまかさないで」ほしいと言い、五十斤の牛肉をここに持って来て私にくれると言うのです。受け取ってよいものでしょうか。」張静斎は言った。「旦那様、こんな話は決して口にされてはなりません。私たち官職にある人間は、皇上のことだけ考えるべきで、同じ宗教のお知り合いのことなど考えるべきではないのです。思えば、洪武年間(明の太祖、朱元璋の時代)、劉老先生(劉基。劉伯温)は……」湯知事は言った。「どちらの劉老先生ですか。」張静斎は言った。「忌み名が基の方です。彼は洪武三年の最初の科挙の進士で、「天下有道」三句中の第五位でした。」範進が口をはさんで言った。「第三位だと思っていました。」張静斎は言った。「第五位です。その時の答案用紙の墨筆を私は見たことがあります。その後、翰林院に入られました。洪武時代、プライベートで劉基の家に行き、雪夜に宋の太祖が趙普の家に行ったように、彼の様子を調べに行きました。ちょうど江南の張王(呉王の張子誠)が劉基につぼに入った小菜を送ってきたので、直につぼを開けて見てみると、中には瓜の形の金塊が入っていました。洪武聖上は悩んで、こう言いました。「劉基は、天下の事は皆自分たち読書人が担っていると思っているんだ。」翌日、劉基は青田県知県に左遷され、また毒薬をあおいで死んでしまいました。これはなんとすごいことではありませんか。」知事は彼の説明が立て板に水で、また本朝に確かに典拠があるので、信じられず、質問した。「今回のことはどのように処置すれば良いかですか。」張静斎は言った。「私の愚見によれば、旦那様は今回のことで名を高めることができるでしょう。今晩、彼を待機させ、明日の朝議で、この男を連れて来させ、責め具で何十発か殴らせ、大きな首枷を持ってきて、牛肉を首枷の上に置き、その横に告示板を立て、この男の大胆な行いを明らかにするのです。上司の方が訪ねて来られてそうと知られたら、旦那様が職務に少しもいいかげんなところがないことが分かり、ご出世は間近でございましょう。」知事は頷いて言った。「頗る道理である。」すぐに席を立ち、ふたりを書斎に留めた。
翌日の朝議で、最初に入って来たのは鶏を盗んだ常習の盗人で、知事は怒って言った。「おまえという盗人は、我が手の中で何回も罪を犯し、未だに改めようとしない。打たれることも怖れない者を、今日はどうしてくれようか。」それで朱筆を取ると、顔に「偷鶏賊」の三文字を書き、首枷を持って来させると、男が盗んだ鶏を頭を後ろに、尾を前にして、男の頭に括りつけ、首枷をはめて出て行かせた。県城の門を出るや、その鶏の尻からガラガラ(𠵯喇guā lǎ)と音がして、薄い糞を排出し、額から鼻の上にぽたぽた滴り落ち、ひげがぐっしょり濡れて、首枷の上に滴り落ちた。両方を見た人はげらげら笑った。二人目に高要県の回教徒の代表をしている男に入って来させ、一度大いに罵った。「大胆な犬畜生め!」。厳しく責め具で三十発の罰を負わせ、大きな首枷を取ると、あの五十斤の牛肉を皆首枷の上に積み上げ、顔と首をしっかりたがで締め付け、ただ両眼だけを残し、県城の前で群衆への見せしめとした。天気も暑く、首枷をして二日目には、牛肉に蛆がわき、三日目にはお陀仏となった。
回教徒の人々は納得ができず、一時数百人の人々が集まり、銅鑼を鳴らしストライキをし、県城の前まで来て気勢を上げ、こう主張した。「おれたちは牛肉を持ってくるべきではなかったが、死罪にすることでもないだろう。今回のことは南海県のならず者、張師陸の差し金だ。おれたちは役所までデモ行進して、奴を引っ張り出し、殴り殺してやる。張本人を摘まみだして、命でつぐなってもらうぞ!」この騒ぎのせいではないが、いくつか展開があった。厳貢生は訴訟を起こされ(貢生興訟)たので、こっそり行方をくらまし(潜踪qián zōng)省城にやって来て、地方の名士と誼(よしみ)を結び(郷紳結親)、権勢を持つ役人に取り入るため長旅も厭わず京城にまでやって来た(謁yè貴竟遊京國)。回教徒の人々が騒ぎを起こしましたが、いったいどうなったのでしょうか、次回に解説いたします。


