登山愛好家たちの「ゆる〜い」集まり!ネット上で計画発表や、参加申し込みなどをやり取りして、会員たちが自由に山行を行っています。
山行日 2022年4月14日 暑寒別荘 7:00→12:00 暑寒別岳 12:30→13:15 暑寒別荘2019年4月13日に初めて山スキーで暑寒別に行って以来、はまってます。毎年計画をしてますが、天候が思わしくなく計画倒れになっていましたが、滞在期間中の天気予報が良い時に狙いを定め、更に今回は留萌に前泊して実施。流石に今年は雪も豊富でちょっと肌寒く、風も若干ありましたがそれは日本海に面した山なので想定内です。晴れ間を狙い登山客の少ない充実した山スキーを楽しむことが出来ました。来年は春山登頂のために取ってある斜里岳へ・・・!
峠を登りきると反対側は杉の密林に覆われていた。その下り路は鬱蒼としていて暗い。その中、僅かに光の様なものが見えたので私達は行って見ようという事になった。桃源郷は陶淵明(365~427)が書いた「桃源源記」の中に登場する架空の理想郷である。武陵という地で川の魚を採る事を生業とする男が、ある日、谷川に沿って舟で進んで行くうちに迷ってしまう。すると突然桃の花の咲いている林に出た。桃の木は川の両側に林立している。桃の木以外の他の木は一本も無い。そして桃の花びらが乱舞している。男はこの景色を不思議に思い更に進むと桃の林は川の水源で終り、その先には小さな洞窟が有り、奥の方が微かに見えて光が漏れていた。初めのうちは大そう狭くて男がやっと通れる程だったが、更に進むと広々とした明るいところに出た。土地は平で広く家屋も整然と建っている。その中を村人達が往き来して田畑を耕している。男から見ると村人の衣服は異国人の様であった。薄暗い樹林帯の中を下って行くと突然明るくなって桃の花が、今が満開とばかりに咲き誇っている美しい山里に私達は降り立ったのである。おそらく、この辺りで最奥の集落なのであろう。四方を小高い山に囲まれていて、その緑の中に咲く桃の花の群生は余りにも美しい。桃色も一種類ではなく、その濃淡が更なる芸術性を高めていて所々に点在する水仙と楮(こうぞ)そして菜の花の黄色が微妙なアクセントを醸し出している。民家はひっそりとしていて住民の姿は見えない。時間が過ぎるのも忘れて私達はその光景に魅入っていた。村人は男を見て大変驚き、どこから来たのか尋ねた。村人は男にご馳走や酒を振舞い歓待した。村人が言うには、この地の先祖は秦の時代の戦乱から逃れてここにやって来て二度とここから出なかったという。この事実は秦の時代の後の漢、魏、晋を知らない事になる。当にここの村民はタイムトンネルの中に居た事になる。男はこの平和な里に数日留まってから帰る事になったが、村人達はこの事は他言しない様にと言う。自国に戻った男は約束を違えて役人に話してしまうが以後、誰もこの理想郷には辿り着けなかった。折角登った峠から私達は反対側に下ってしまったのだから、この山里から脱出するには、ここを取り囲んでいる山々の一座に向って登り返すしかない。私達は路の無い藪山を必死になって登って行った。「桃下源記」では桃源郷に迷い込んだ男はいとも簡単に自国の村に戻っている。理想の仙界境に迷い込んだのだからこの点は少々疑問の残るところであるが、理屈を捏ねると「お前の考えはつまらん」という事になるのだろう。現在使われている「桃源郷」の意味は人里から離れた理想郷では無く、桃の花が咲き誇る風光明媚なところという事である。それはどこかと言えば甲府盆地の塩山周辺が一番に思い浮かぶが、ここ以外にも日本各地で桃源郷戦は起こっている様である。それでは埼玉県にも有るのかという事になるが私達が訪ねたところは、その規模において小さいので残念ながら選外という事になる。埼玉県人として私が推薦するのは埼玉県で唯一の村である東秩父村の大内沢桃源郷である。集落の中心部まで車で入れるが、ここから見る花桃の林立は見事であり民家も山の斜面に多く建っているので「郷」に相応しい風景である。「百聞は一見に如かず」そして訪ねるならば「今でしょう」
2/26に深川市の音江山に繰り出しましたが、この低山が超面白い山スキーの山だった事は全く知らない山でした。アテンドしてくれた後輩も今年になって知ったようで、ヤマレコ等にもそんなにはアップされてないのが良いですね!ついでに3/9の塩谷丸山(自撮り)。
薀蓄才粋人新田次郎原作の「強力伝」に登場する「大町アイゼン」とはどの様なものなのか。「小宮は登山靴に鋭く磨かれた八本歯のアイゼンをすばやくつけ替え、どしんどしんと足ぶみをしながら雪渓の中心を登り始める。そして小宮と鹿野は白馬大雪渓を登るには歯の短い八本歯のアイゼンでは危険であると意見が合う。重い石を背負って滑らないためには長い歯をした軽いアイゼンが必要だ。」ここで大町アイゼンが登場する事になる。新田の原文では大町アイゼンを次の様に描写している。「ひとでの様に四本の爪を充分に延して内側に折り曲げ、対向する二本の爪に一つずつ鉄の輪をつけてこれに紐がつけてあった。成程、小宮はそれを見て頷いた。アイゼンは靴の裏の窪みにぴったりとはまる。全身の重量を足からそのまま垂直に受けて、四本の長い歯ががっちり雪渓に喰い込む。足の爪先とかかとはアイゼンから解放されているから、踏み込む時にやや不安だが、かちかちに凍った富士山の氷の肌と違って夏の白馬の雪渓は適当なあの堅さだから、深く喰い込んで滑らないということを主に考えて作ったこのアイゼンは素晴しい。」ここで暇人はパソコンで「大町アイゼン」を検索してみようという事になった。「大町アイゼン」は実際に有ったのかという質問に、それに対する回答は、ほとんどが想像であり、ひどいのは新田が当地の鍛冶屋によって作られていたものを、勝手に「大町アイゼン」と命名した新田の脚色であるとか、新田作品は事実と誤認してしまうような嘘が多い等という意見も有った。私が山屋として駆け出しの頃、同じ大学の同じ学部に大町出身の者が居て山を語り合った事があるが、その時「大町アイゼンは実在するのか」という私の問いに彼は、はっきりと「有る」と答えて後日、その実物を持ってきてくれたのである。それは真に新田の描写と全く同じものだったのである。爪の長さは有効部分が35mm程有り八本爪アイゼンのものよりかなり長い。山屋でもある新田が、全く架空のアイゼンとして書いたものではなく、綿密に取材して、その存在を知り、おそらく実際に使用したという事も確認して書いたものだと思う。「強力伝」では「大町アイゼン」と同時に「牛殺し」という木で造られた巨大で頑丈な背負子も登場しているので、この木についても調べてみると「鎌柄=かまつか」が本当の名前で、バラ科カマツカ属、鎌の柄に用いた。成長は遅く直径15cmになるまで50年程かかり年輪幅は極めて狭く強靭で弾力に富み折れにくい。とあった。ちなみに私はこの「牛殺し」の現物を霧訪山登山の時に見ている。木に名札が吊るして有ったので小枝を折って水に浸しながら持ち帰ったが、我家の庭で発芽する事は無かった。「大町アイゼン」は今でも私の宝物として自室に飾ってある。
10月1日(金)、BS3チャンネルPM1時より放映されます。興味ある方は見て下さい。薀蓄才 粋人
薀蓄才粋人アメリカ西部の荒々しい岩山の林立するモニメントバレーの風景に一目ぼれしたグールディング夫妻(白人)が、1923年に土地を購入して宿屋を開業する事になるが、その誠実な人柄は原住民であるナバホ族からも信頼を得ていった。そして1938年に起こった大恐慌は、この地にも深刻な影響を与える事になる。同じ頃、ハリウッドの映画会社がロケ地を捜している事を知った夫妻は、ハリウッドに出向いて、ジョンフォード監督に何度も門前払いされながらも、ついにモニメントバレーの写真を見せる事に成功する。この風景が気に入った監督は何と三日後から撮影を始めたという。この映画が若き日の無名のジョンウェインを一躍スターの座に伸し上げる作品となった「駅馬車」である。現在、宿は立派に改築されていて同じ敷地内にグールディングス博物館が有り、1920年代の頃の建物を復元した部屋やナボバ族の記録写真、そしてジョンフォード作品の写真が展示されている。無論スターはジョンウェインである。博物館の前には駅馬車も展示されているが、この駅馬車が撮影に使用されたものか否かは確認出来なかったが、映画の中で誰がどの席に座っていたのかを充分に記憶(認識)している私にとっては嬉しく、その画面が現実味を帯びて甦ってきたのである。ジョンフォードは、このグールディングスロッジに撮影本部を置いてモニメントバレーを背景にしたウエスタン映画の名作を次々と世に送り出していったのである。「駅馬車=1939年」 「荒野の決闘=1946年」 「アパッチ砦=1948年」 「黄色いリボン=1949年」 「幌馬車=1950年」 「リオグランデの砦=1950年」等である。こうしてグールディングス博物館を見学した私は映像としてのジョンウエインから、実像に近いジョンウエインを知る事が出来たのである。ここから3㎞程走って国道163号を横切って更に6㎞走ると、いよいよモニメントバレーの真っ只中に入って行く。ビジターセンターが入口であり、ここから谷の中にマイカーで入って行く事が出来る。すぐ目の前に映画の背景そのものビュート(残丘)が林立している光景に圧倒される。今は駅馬車こそ走っていないがこれ程の臨場感はそんじょそこらに有るものではない。しばらく進むと「ジョンフォードポイント」という、彼がこのあたりから多くのシーンを撮ったという場所が有るが、ここからの風景は映画さながらに残丘の谷の迫力を充分に堪能出来るから嬉しい。この丘には観光用の馬が居て有料で乗馬が出来るというので躊躇なく申し込んだのである。成程、気分はまさにジョンウエインそのもの。映画のクライマックスシーンは駅馬車が原住民に襲われる場面だが、原住民が雪崩れ込んで来るところは、この丘からであり馬に乗って一気に駆け降りる原住民の雄姿は迫力が有った。私も駆け降りたい気分に駆られたが残念ながら私に馬の手綱を操る技術は無い。ここから眺める谷間を一台の駅馬車が走っている。この駅馬車を襲う原住民の群、逃げる駅馬車、ここに展開する画像は真に迫る迫力が有る。原住民が落馬するシーンはスタントマン一級の演技。そして疾走する駅馬車を地面の下から撮影した技法は(駅馬車が真上を駆け抜ける)当時としては初めての試みだったと言われており、高い評価を受けたという。駅馬車撮影当時と現在の風景はほとんど変わっていない。それは映像に見る風景(フイルム)を、今のモニメントバレーの残丘に重ね合わせても寸分の違いが無い事で二人のジョンの世界に入って行けるのであった。駅馬車が騎兵隊に護られながら次の町に向かう場面が有るが、この背景は同じジョンフォード監督の「荒野の決闘」でのワイアットアープ(ヘンリーフォンダ)が愛しのクレメンタインと別れて去って行く風景と全く同じところで、ここに立った時は完全に当時へタイムスリップしていた。全く変わっていない風景。いやただ一つの変化は荒れた馬車道が完全な舗装道路に変わっていた事である。奇岩が林立するモニメントバレーはどの様にして出来たのか。岩の台地が数十憶年かっかって風化されて固い部分が残丘として残ったと言われているが、まさに天使が千年に一度地上に降りて来て刷毛で岩を撫でて岩を削る事によって台地が擦り減ってゆく(永遠の定理)ように気が遠くなる話である。いずれにしても豪快な風景であった。私が訪ねたのは無論、今ではない。2019年5月、コロナ騒動が勃発する前の事である。
薀蓄才 粋人私が初めて穂高山群の中に行ったのは高校1年の時である。当時の国鉄(現JR)には学生の旅を優遇する学割制度が有って、これを利用して乗車券を購入しての山行であった。しかし我が校では個人での日本アルプス等、高所登山は認められておらず、「松本方面の旅行」と偽っての申請してのものであった。要は禁を犯しての涸沢入山だったのである。級友と2人で1人用のテント(90×180)に泊り、翌日に穂高山荘まで登ったが、ここで雷を伴う大雨に遭遇して山頂に立つ事が出来なかった山行である。まさに因果応報ということわざ通り、大自然から手痛い洗礼を受けた事になるが、この教訓は以後の私の山に対する、ある種の指針になった事も紛れの無い事実であった。この時は涸沢に戻りそして徳沢にもう1泊して帰った。そして翌年の夏は好天に恵まれて涸沢→奥穂→前穂→岳沢→上高地を無事に歩いて帰っている。(注 当時の奥穂から前穂へのルートは紀美子平経由では無く、吊尾根の稜線上を直接歩いて前穂頂上に登れた。)そしてそれから暫くは毎年、春、夏、秋と涸沢を訪れて穂高山群の頂上に立ったのは40回を越えているが、まだ実感としては穂高を完登したとは思えないのだから改めて穂高の大きさを感じるものである。当時の{山と渓谷}1969年10月号に「狂った現代の登山者」という記事が有る。「雨にたたられた今夏の涸沢は静かだった。雪渓にも人影はほとんどない。そんな閑散とした中でまた死者が出た。現代の登山者の多くは海水浴と同じ意味においての登山者である。遭難の内容も交通事故や水の事故と変わらないところまで低下している。(中略)登山の本質は遊びだとはいえ、それは大自然の一つの極を相手とするものである。(中略)登山を観光のレベルでしか考えずPRする業者、マスコミ、(中略)夏の涸沢を1週間見つめていると気が狂いそうな現代の悪根にぶち当たってしまうのは私ばかりではないはずだ。」これを読んでみると海水浴客には少々失礼と思える節もあるが、山屋の本質に対しては的を射ていると思われるし、当時の、まさに私(達)の事を言っているのだから、危険極まりない登山をやっていたのだと、今になって思えば大いに反省せざるを得ないが20歳前後の、駆け出し山屋としては聖人君子の様な「達観感」は有るはずも無く、罪の意識は全く無かった。穂高山群の最高峰の奥穂高。この山頂に私と妻は貸し切りで立った事が有る。その年の5月、黄金週間の直後の事である。上高地から徳沢にかけての道中は二輪草(花)の群生が見事であったが、涸沢は完全な冬景色で、あの夏路のザイティングラードが完全に埋まっていたのである。私達は涸沢を直登して最上部の小豆沢から穂高山荘に出て奥穂に登ったのだが、涸沢にも穂高山荘にも山頂にも登山者は1人も居なかったのである。日本第三位の高峰に私達2人だけという現実に対して、その感情をどう表現すれば良いのか、その方法は解らなかったが神様がくれたご褒美だとすれば、この時こそは神の存在を認めざるを得なかったのである。しかし、山頂での感動とは裏腹に思いは下山の難しさである。果たして無事に降りられるのか。夏路が使えない穂高山荘までの下り、そして涸沢には奥穂側からのブロック雪崩の危険(登る時、数か所に痕跡が有った。)が有る。この奥穂から涸沢小屋までの様子は私の駄文集「夢は山野を駈け巡る」第一集の奥穂高岳(静寂)に書いた。深田久弥は「日本百名山」穂高岳の項で穂高の魅力を次の様に言っている。「おそらく山岳団体に属する人で涸沢生活の経験を持たない人はないだろう。(中略)穂高はアルピニストのメッカとなった。しかし、そこで永遠に眠った人も多かった。大島亮吉も茨木猪之吉も穂高を墓にした。近年は冬季登山に毎年のように犠牲者をだしている。小坂乙彦も死んだ。魚津恭太も死んだ。死ぬ者は今後も絶えないだろう。それでもなお穂高は、そのきびしい美しさで誘惑しつづけるだろう。」穂高を貸し切ったその日、私達は何とか無事に下山して、徳沢園に泊ったのであるが、この時は充実感と安堵感が複雑に入り乱れて穂高山行の中でも特筆されるものであった。登り続けて50数年、その穂高山群の中で私は明神岳に登っていない。なぜ登ら(れ)なかったのか自問に対する答えは解らないが、いずれにしても明神に登っていない事実は私にとって穂高は未だに未登頂の山なのである。もし私が「日本一名山はどの山か?」と問われたならば躊躇する事無く、「穂高岳」と答えるだろう。
薀蓄才粋人高崎線の本庄駅からバスで50分、鬼石経由バスで1時間、そして更に万場からバスで50分、降り立った所が八幡である。約25㎏程の荷物を背負って、野栗沢の集落を越えて最奥の集落である奥名郷の少し上の沢のほとりにテントを張ったのは、つるべ落としと言われている短い秋の日が山の端に沈みかけた頃であった。ここは今の天丸橋あたりだと思う。翌日は社壇乗越経由でP1,P2、P3と呼ばれている岩峰を忠実に越えてP4と言われている天丸山本峰に登り、下山はP3との鞍部まで戻り、左折して馬道と呼ばれている水平路まで下って、社壇乗越に戻ってテント場に下った。更に1泊して翌日に浦和に戻るというスケジュールは、当時の交通事情では必然的であった。それ程に天丸山は奥深いところに存在している山だったのである。それが今では社壇乗越まで車で入れるし、馬道経由ならば山頂まで1時間30分程であり楽々と日帰り登山が出来る山になったのである。今回は、この馬道ルートで山頂に立った。このまま同じ路を帰るのでは余りにも楽過ぎて山屋の沽券に係わる(というヤツが居て)という事になり、今では完全に廃道になっているクラシックルートを下ってみようという事になったのである。とは言っても、このルートは一帯が山火事(2002年頃?)になってしまい、誰も歩かなくなったので樹木の再生と共に路は消失してしまい、下山口が解らないのである。それでもP3の尖がり帽子(鋭鋒)を目指して尾根上を行けば何とかなるだろうという事になった。現在の昭文社登山地図では本峰である天丸山のP4、そしてP3とP2に危険の印が有るが、過去にノンザイルで歩いたという事実が有る事も決断の要因になったのである。結果として迷う事も無く無事に歩けたので充実感と同時に回顧感が湧いてきた事は嬉しかった。このルートを70歳を過ぎて足がヨボッているオッさんが歩く事と、山屋として駆け出しの青二才が歩くのと、どちらが危険なのか意見の分かれる自柄であるが、いずれにしてもこの事実には50数年の歳月が流れている訳で、私にとっては伊豆ヶ岳と同様に忘れ得ぬ山、そして歴史の有る山になったのである。ちなみに初登の時は、奥名郷集落の住民の方々に手厚い歓待を受けている。一日目の夜は集落の子供達数人がテント場にやって来て、いなり寿司の差し入れをしてくれたのである。当然、かれらの親御さん達が作ってくれたのであろう。そして二日目には、その親御さん達も来て訳の解からない刺身と天然の山葵、あけび等を持って来て夜遅くまで談笑した記憶が鮮明に残っているのである。「この刺身、何だか解かるか?」「美味いのですが魚ではないですよね。」「カエルだよ。」「ひぇー。」当時の案内書には「奥名郷の集落ではどの家でも頼めば泊めてもらえる。」と書いてあったので、その人柄は想像出来るがそれを実感出来た事は、私達にとっては嬉しかったはずである。二泊三日で登った山奥の秘峰天丸山が現在はいとも簡単に日帰りで登れる山になった。この事実は「困難性の追求」という私の登山理念を考えた場合、果たして良いのか否か、山屋各自の持つ登山哲学は百人百様であろうから軽々に結論は出せない(出ない)だろうと思うが、いずれにしても私の場合はは「ただ登った」というだけの登山ではなかったのだろうと自負している。注 当時の天丸山は、今のメインルートである南面岩壁は、まだ開拓されておらず一部のクライマーの領域であり一般の山屋はP3側から登るのが常であった。
おしりかじり虫なかなかブログも更新されないので2年ぶりに訳ありでヤマレコに投稿・・・それにしてもこの時期の乗鞍がこんなに良いとはビックリ仰天❕2500mから短時間で3000mに行けるのが良いですね。夏山の高山慣らしとしては必要不可欠な山になりました。更にスキー納めをするのに最適な場所を発見。収穫の多い乗鞍でした。山行記録: 乗鞍岳 山スキー2021年05月28日(日帰り) 槍・穂高・乗鞍, 山滑走 / yanasanの山行記録 www.yamareco.com
おしりかじり虫PCからAmebaブログに動画アップするのは一旦YouTubeに掲載してからアップするのは一番簡単な事のようです。これは2021/3/13の十勝岳の動画です。友人が撮ってくれたのをアップします。
おしりかじり虫ちょっと練習のために投稿します。今シーズン(’20-’21)と昨シーズンはコロナの影響をもろに被り、特に今シーズンの冬の活動は相当の制約を余儀なくされ当初予定していた冬の活動の殆どが中止にとなりました。そんな中で個人的にも余り良い出来事とは言い難いですが、それを利用して冬山を楽しんでいました。山スキー(BCS)を再始動したなかでもベストワンといえるぐらい気持ち良く滑ったBCSはもちろんそれなりの楽しい思い出が残り ますが、悪条件での印象の方が後々残ります。その一つとして4月中旬に前日はみぞれ、当日は強風・曇り・薄っすらと降雪でシールで登るのもアイスバーンの上に積もった雪のためズルズルと後退する始末。この強烈なアイスバーンで滑ったのがBCSを再始動したなかでもダントツにベストワン。なんせ滑る音がそんじょそこらのアイスバーンとは全然違うし、小さい凸凹はもろに腿に伝わるので筋肉疲労も半端ない。当然滑り出しから終わりまで登った1:30のコースは全てバリバリのアイスバーンでした。
名前:麻導師 私はかつて群馬県前橋市に住んでいました。前橋というところは夏になると、毎日のように激しい雷雨に見舞われる町で、まだ本来は陽も高い時刻なのに空は真っ暗になり、滝のような豪雨と目もくらむ閃光で、大げさに言えば生きた心地がしない時間を過ごさねばならない町でした。 車の免許を取るために、教習所に通っていた時、ちょうど路上教習の時間に猛烈な雷雨に遭遇しました。ワイパー全開で動かしてもちっとも前が見えません。大粒の雨がボンネットに叩きつけられて弾け、飛び散った雨粒が、まるで霧のようになってボンネット上に立ちこめるので全然前が見えないんです。もちろん教習生(私!)は大ビビリで、ノロノロと走り何とか無事故で教習所まで「生還」したなんてこともありました。本当に事故らなくてよかったと思います。 そんなある日、いつもの天空ショウを窓から眺めていた私は信じられない光景を目撃しました。一般的に雷は高いところに落ちることになっています。なので下図のように高い物の一定の範囲内にいれば、直接自分の頭に落雷することはない、と多くの本などで説明されていました。 ところがその日の落雷は、塔てっぺんの避雷針にでなく、その塔の中腹に縦に並ぶ小ぶりなパラボラアンテナ群の、下から2番目に落ちたのです。落雷した部分の表面にあった塗装面が衝撃で剥がれたのか、幾つかの火の粉がゆっくりと放物線を描いて落下していくのを、「すぐ脇に避雷針が、しかも高いところにあるのに、なんでそこなの?」と目が?マークになったような気分で眺めていました。 それ以来ずっと、なぜあそこに落ちるのか?それがわからなければ今後雷雨に遭遇した時に、どこに避難すればよいか根拠のある判断が全くできないではないか!と思っていました。 それからゆうに20年以上経過した2010年頃、旧岳人誌(モンベル編集になる前の、中日新聞編集時代)に下図のような実に明快な解説を発見しました。 つまり、雷は半径30メートルの球状のセンサを持って落ちてきて、センサに最初に触れたところに電流が流れる、というのです。これなら私が目撃したパラボラアンテナへの落雷が説明できます。雷は向かってやや右方から斜めに落ちてきて、下の方にあるパラボラアンテナにセンサが最初に触れたのでしょう。こうなると、例えば郊外のショッピングモールにあるような広い駐車場では、周囲に私の身長よりも遥かに高い街灯の柱などがあっても、それなりに広い駐車スペースの真ん中あたりに立ってたら、自分の頭が最初にセンサに触れるなんてことが起こりえます。そしておそらく、その時の雷雲の強さ、つまり電荷の溜まり方によってセンサの大きさが変わってくるのだろうと思われ、そういう点ではあまり強くない雷雲の方がセンサが小さくて、近くの高いものを避けて私達の頭にピンポイントで向かってくる可能性が出てくるのではと推測できます。お〜コワ!! そんな訳で、以降何度かの雷遭遇では、直径60メートルの玉を想像して、その玉がこっちに向かって落ちてきた時に、何か他の物が先に当たる場所に逃げるという明確な判断ができるようになりました。とはいうものの、玉の直径を想像するのはなかなか感覚的で、本当にそれでいいのという気分は常につきまといますが、今までよりは遥かに自信を持って具体的な行動が取れます。 さてこれで本当によいのか?は断言できませんが、万が一の雷遭遇の際にはぜひこの記事を思い出して下さい。(完)
名前: 薀蓄才粋人峠路 その23 三の窓(山屋だけが通る鞍部)剣岳山頂から北方稜線に向かったのは、ヘルメットを着用していない極めて普通のオジさん、オバさんのパーティだった。山頂に居る多くの登山者が「あいつら下山路を間違えているんじゃないか」と奇異の眼差しで見ていたように思ったのは果して思い上がりからか、あるいは自意識過剰だったからであろうか。あれ程賑わっていた剣岳山頂であったが北方稜線に入った途端にアガサクリスティの世界になった。池の谷ガリーと言われている急峻なガレ場を下って、行き着いたところが「三の窓」と言われている鞍部である。地図には「三の窓乗越」となっているがこれはおかしい。元来、鞍部と峠は同意語だという説が有るがこれも少々疑問である。峠は生活道路上に存在する鞍部であり乗越や窓は稀に猟師や杣人が通る程度の鞍部であり、両者(窓と乗越)は同じ意味であるから単に「窓」であり「乗越」なのである。「三の窓」は仮に人間(ひと)が縦走路に対してクロス状に通過する場合、片方は三の窓雪渓であり、もう一方は池の谷(左俣)である。ここをクロス通過するのは猟師やマタギでは無く先鋭的なクライマーの分野だと思う。「三の窓」から振り返る「池の谷ガリー」は垂直に見える。よく足場の悪い急角度のガレ場を降りて来たと思う。頭上からの落石の可能性が皆無では無いが、一番の気配りは自分の足元から落石を起こさないようにする事である。落とせば同じパーティの者に当るので私達はムカデ競争の様に前の者に接近して、子供の頃に遊んだ「電車ごっこ」の様な態勢で降りて来たのである。振り返る「池の谷ガリー」の左側の岩峰群が、ジャンダルム、チンネ、クレオパトラニードル等と呼ばれている鋭鋒である。何とロマンチックな名称であろうか。そして前方には、これから越えて行く「小窓王」がいくらか左に首を傾げているような格好で私達を阻むように鋭く聳えていた。果たして大丈夫なのか。私達は「小窓王」の左側のガレ場を目指して進んだのである。日本には峠と名の付く鞍部は一万ヶ所以上有ると言われている。それを私が山屋として越えた峠は何本有るのだろうか。おそらく1%にも満たないと思うが、峠には山の山頂には決して無い哀愁感が漂っている。それは果して何なのだろうか。現代のように交通網が発達していなかった時代に人々が自力でしか行き交う事が出来なかった事に対しての感性の濃さ、言い換えると全てが真剣に行動せざるを得なかった、つまり大自然への対応力の差に思えてならない。自分が越えた峠に関して様々な思いが有るが「峠路」の終章としての「三の窓」は無論、生活道路としてではなく、山屋の通過点(ルート指標)としてのものであるから「峠路」本来の主旨とは多少異なるが「やっぱり剣岳」という事で了解を願いたいと思う。すでに歩いた峠や、まだまだ歩きたい峠は沢山有るが、この辺りで一旦終了したいと思う。 剣岳の諭 (馬場島登山口にて)1、剣岳は岩と雪の殿堂である。 人身とも鍛錬された人々よ、来れ。1、気象は激しく変動する。 冷静、沈着な行動に徹せよ。1、掟は厳しい力と勇気をもって苦難に挑め。1、自然は生命を躍動させる。 無垢な姿をとこしえに。1、山に寄せる心のたかまり、剣岳は逞しさと豊かさを 育む。剣岳北方稜線を歩いたのは無論、今ではない。2007年の盛夏である。「峠路」 完
名前: 行雲流水我、茅屋の寝床から窓越しに西の空に沈んでゆく月が見えます。それは三日月から始まり十六夜の月までくらいです。更なる月(下弦の月)は明るくなって起床してしまうので見る事は出来ません。三日月は夜中の12時半頃、そして段々と見える時間はずれてゆきます。それは当然の事で東の空に昇る時間が徐々に遅くなるからでしょう。今日は4時半頃に満月が見えましたが薄い雲がかかっている様で、朧月です。おぼろ月夜と言えば近くの荒川の土手に菜の花が咲き始めています。あと半月もすれば、それは見事な黄色い絨毯になるでしょう。近くの民家の庭先の梅の花も満開。春はすぐそこまでやって来ています。
名前: 樽麻呂番外編一昨日(令和3年2月21日)放送のNHK大河ドラマ「青天を衝くけ」の撮影場所を紹介する欄に埼玉県嵐山町の文字が出たので注視していると、それは鎌形八幡神社であり、私はそれとすぐに解った。当神社はすでに紹介した通り、木曽義仲が産湯を使ったという湧水が有る源氏所縁の地であるが普段はひっそりとしていて、訪れる人はほとんど居ない寂しい神社であるが「青天を衝け」では撮影用に飾り付けもされていて、見事な神社に変身していた。昨年の9月に2日掛りで撮影されたという。私は昨年の春の桜の頃と秋の紅葉時の二回訪れているのだが、NHKの大河ドラマ撮影の事実は全く知らなかった。鎌形神社の境内には近代的な建築物は全く無く社務所も無いので撮影には最適の場所だったのだろう。私が訪ねた時はその気配や名残りは全く無く元のままの寂しい神社そのものであったが、木曽義仲と同様に渋沢栄一(の役者及びスタッフ)に会ってみたかったのは言うまでも無い。大河ドラマ「木曽義仲」の実現を嵐山町町民と同様に希望したい。友人A 「それが何なの?」友人B 「つまんねえー」一般的にはその通りだと思うが嵐山町で生まれ育った私にとっては二人(義仲と渋沢)は埼玉の英傑そのものなのである。
日時: 2021/03/23(火) 06:35:28 名前: 薀蓄才粋人鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 夏目漱石(明治28年9月6日)作柿くへば鐘がなるなり法隆寺 正岡子規(明治28年11月8日)作正岡子規は夏目漱石の住まいであった松山の「愚陀仏庵」に50日程滞在して、松山から東京に帰る途中に奈良に立ち寄ってこの句を作ったという。子規にとっては最後の旅であり、これから後、7年間病床に伏して亡くなる。この漱石と子規の句は果して似ているだろうか。漱石の句を基にして作ったのだろうとか、極端なものでは盗作だという意見も有るという。私は五、七、五、というたった17文字の俳句は偶然に似てしまう場合が有る様に思う。特に最後の5文字を〇〇寺とする場合は、初めの5文字と中の7文字で全く別の句に仕上げるのであり、しかも何かの行動(しぐさ)を5文字に挿入するのだから尚更である。例えば梅林で有名な寺院を初春に訪れた場合、「梅咲けば」が初めの5文字になるのは自然であり、梅の枝にめじろがやって来ていれば中の7文字は「めじろ啼くなり」となる。そして後の5文字は寺院の固有名詞という事になる。梅咲けば めじろ啼くなり最勝寺(越生の梅の名所)芋食えば祝砲鳴るなり平林寺(遊び心で作った句?)となり、両者の句は必然的に似てしまう事になる。その建長寺(臨済宗の古刹)から鎌倉アルプスと呼ばれている天園ハイキングコースは始まる。建長寺で拝観料を払って境内を進み半僧坊という裏山の展望台までは石段の登りが続くが、ここからはハイキングコースと言うよりは遊歩道になる。アルプスの最高峰は大平山(159m)であり一般的には瑞泉寺へ下ったところで縦走は終了する。途中の天園(六国峠)に有る茶店のおでんは美味い。瑞泉寺からは定番の鶴岡八幡宮。そして鎌倉駅から江ノ電に乗るが、ここからが今回の主目的コースという事になる。長谷の大仏参拝の後、由比ガ浜に出て海岸沿いに稲村ケ崎海浜公園に向かう。「七里ヶ浜の磯伝い 稲村ケ崎名将の 剣投ぜし古戦場」この名将とは新田義貞である事は言うまでもないが、この時代の武将として私が好きなのは源義仲と新田義貞である。新田は鎌倉幕府を倒した後に南朝方につくが宿敵の足利尊氏に敗れる。姑息な行動は一切せずに自分の主義主張を貫いたという。儒学思想の無かった時代の武将としては、その対比としての足利尊氏が居るが、その是非は議論するまでもない。大海の磯もとどろに寄する波 破れて砕けて散るかも 源実朝投げ入れし つるぎの光あらはれて 千尋の海も陸となりぬる 明治天皇(歌碑が有る)新田義貞が黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると潮が引き、海上の北条軍がはるか遠くに流されたため、稲村ケ崎を突破出来たという伝説である。稲村ケ崎を越えたところが七里ヶ浜(新田軍の侵攻に対して逆走)で、駅から再び江ノ電に乗り江ノ島駅で下車。ここから少し歩いてモノレールに乗って大船駅に向かったのだが、珍しい乗り物は、幾つになっても楽しいものである。
日時: 2021/03/22(月) 18:53:23 名前: 平平平平白糸の滝山国である日本では至る所に名瀑と言われている滝が沢山有るが、その滝に出会う時、有名無名に関わらず心が和むのは、その構造から来る力強さからであろう。水が垂直方向から落ちるその様は、一般的には高さに比例して迫力が増すが、美しさに関しては高さに加えて姿、形、更には水量の多少も影響しているようである。山屋にとっては沢登りという様式において無名の美瀑に出会える可能性が有り、これを発見した時は観光地の滝とはまた一味違った喜びが有り特権と言ってもよいのだろう。日本人は同種の何かを表現して比較する時、「三」という文字を使う事が多い。風景では「日本三景」であり山では「世界三美形の山=マッターホルン、アマダムラム、富士山」や「〇〇三山」、女性に関しては「世界三美女=クレオパトラ、楊貴妃、小野小町」等々である。日本三名瀑と言えば「華厳(落差97m、毎秒2トンの落下水)、那智(落差133m、一段滝としては落差日本一で毎秒1トンの水)、袋田(落差120m、四段の滝で幅73m)と言われており高さに於いては称名滝(四段、落差350m)が日本一である。そして何と言っても滝の持つ要素の全ての部門を総合的に評価しての日本一の名瀑は「白糸の滝」であろう。富士山は巨大である。年間に約22憶トンの降水が有ると言われており、その約20%が蒸発し80%が地下水になって長い年月を掛けて麓の何層にも重なった溶岩の隙間から再び湧水(1日に約470万トン)となって地上に現れるとの事である。富士山を取り巻く湧水群はいくつも有るがその代表格が忍野八海(湧水量は毎秒2,2㎥)と柿田川湧水群(湧水量は1日に約110万トン、水温15度)、そして白糸の滝(毎秒1,5トン、水温12度)である。白糸の滝は富士山に降った雨(雪)が地下水となり長い年月を掛けて濾過された水が絶壁から湧き出しているもので、高さは20m、幅150mの湾曲した絶壁から大小数百の滝が流れ落ちている。白糸溶岩流という水を通し易い地層の下に水を通し難い古富士泥流という地層が有り、この二つの地層の間から富士山に降った雨(雪)が再び地上へ湧き出しているのである。白糸の滝の美しさは他に類を見ないものであり、その容姿は真に白糸。そして何と言ってもその水源が湧水である事が品格の高さを表している。ちなみに水源が全て湧水の滝は八ヶ岳に「吐竜の滝」が有る。一方この大量の水は滝を少しずつ浸食をしていて、それは年に2cm程の滝の後退(形状の変化)を意味しているが私達人間の寿命からすれば、それは誤差の範囲という事で何事も無い様に映るであろう。「この上に いかなる姫や おわすらん おだまき流す 白糸の滝」源頼朝白糸の滝の近くに頼朝が水鏡として鬢のほつれを直したという「お鬢水=おびんすい」という湧水が有ると聞いたが私はまだここを訪れた事は無い。溶岩の窪みに湧いていて透明度が高く青く澄んでいる泉で白糸の滝を見おろす位置に有るという。陣馬の滝は白糸の滝から車で10分程のところに有り、やはり頼朝が巻き狩りの時にこの滝の近くに陣を張って一夜を過ごした事に由来するとの事で湧き水を汲めるそうである。白糸の滝の弟分の様な滝だというのでここにも行ってみたいと思う。富士山本宮浅間大社(806年創建)は富士宮市街地に有り社殿の裏には豊富な湧き水の「湧玉池」が有り湧水持ち帰り可だという。白糸の滝、忍野八海、柿田川湧水は富士山を中心にして三角形を形成している。改めて富士山の大きさを認識するものである。名水を求めての旅は今後も続けたいと思う。
名前: 薀蓄才粋人風林火山「つつじがさきの月さやか・・・」栄枯盛衰は世の常である。日本国が内戦に明け暮れていた戦国時代。戦国最強と言われていた甲斐武田家は織田、徳川の連合軍に敗れて滅亡する。天正10年(1582年)の事である。武田勝頼は戦況不利と判断して、まだ築城中だった新府城を退去して大善寺に逗留した後、天目山に向う途中に景徳院の近くで最期を迎える。父信玄と比較して凡庸だったと言われているが、その説には否定的な学者も居るので定かではないが、時代の流れの中で求心力を失って、最期の時は僅かな手勢だけだったというのは余りにも悲しい。武田氏の居城のつつじがさき館は、今は武田神社として栄えているが元々は平城(ひらじろ)であり、「人は石垣、人は城」の如く武田の哲学なのであろうか、甲府の街中に有ったが時は戦国の世、当然の事に、戦時の備えとして裏山に詰城である要害山城を配置していた。信玄の死後、勝頼の辿った運命を思うと、あの名曲を思い出すが曲のモデルになった城は無論つつじがさき館では無い。「天井影は替わらねど、栄枯は移る世の姿、写さんとてか今もなお、鳴呼(ああ)荒城のよわの月」作詞者の土井晩翠が会津若松城をイメージして作ったとされているが、別説として岩手県二戸に有る九戸(くのへ)城址だというものが有る。「鳴きゆく雁の数みせて・・・」雁が東北地方から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥である事と上杉謙信が七尾城攻略の時に詠んだ「九月十三夜」にある「霜は軍営に満ちて秋気清し、数行の過雁、月三更」から詠んだのではないかという。土井晩翠と九戸城址の結びつきは彼がこの城を何回も訪ねていた事に由来するという。更には「千代の松が枝、わけいでし・・・」の詩で、伊達政宗が「千代=せんだい」を仙台に改めた事に加えて晩翠が仙台の出身なので青葉城という説等が有る。一方、作曲した滝廉太郎は豊後の岡城址に立って書いたと言われている.よって我々素人が事実と異なる荒城を空想(推測)をしても各々個人の感性という事で勝手は許されるであろう。武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘が勝頼の母である。父を殺した敵将の側室になった勝頼の母の心情を思うと、これは真に戦国の縮図でもあるが、その怨念が我が子勝頼を通して武田家に復讐したと思うのは果たして邪推であろうか。武田神社にたなびく風林火山の旗を見ると、遠い戦国時代にタイムスリップした様な錯覚に陥るが、私の思いは、決して勇ましい武田軍の進軍(侵攻)ではなく、落ちて行く勝頼の後ろ姿である。晴れた秋の日、武田神社は多くの参拝客で賑わっていて落城(武田氏滅亡)のもの悲しさは全く無かった。
名前: 行雲流水1948年(昭和23年)9月16日に大型台風が関東地方を直撃した。後にアイオン台風と名付けられたこの台風は、9月15日に中心気圧940ミリバール(Hpa)を記録し、死者512名、行方不明者326名という多くの犠牲者が出た。アイオン(IONE)という名の由来は第二次世界大戦後に連合軍気象隊が台風の発生順にABC・・・の頭文字を持つ女性名を順次名付けた事によるという。奇しくもこの日は私の誕生日である。父が長靴を履いて、その日産婆を呼びに行く時、空には月が煌々と輝いていたと言っていたので、関東地方への猛威は峠を越えていたのであろう。この9月16日が旧暦であれば、真に十六夜の月という事になるが、当然この月日は新暦の9月16日であるから父が見たという月は果してどれくらいの月齢であったのか、今となっては知る術は無いが「煌々」という表現から推測すれば、半月以下の小さな月齢では無かったように思う。 新暦ではあるが9月16日誕生の日が十六夜に合致した事は「十六夜の月」を書く事に多少の縁を感じたのも自然であろう。「十六夜の月」はこのあたりで終了したいと思う。「完」
名前: 薀蓄才粋人峠路 その21 天望峠(野鳥のさえずりが聞える峠)JR八高線の毛呂駅から徒歩で1時間半程歩くと桂木観音に着く。ここの駐車場から眼下に眺める関東平野は額縁に収まった名画のようで感動的である。その日は快晴であったが平野部には朝霧が立ち込めていたので殊の外に美しく幻想的でまるで映画の一場面を見ているようであった。スカイツリーから高層ビル群が霧に霞む風景を見られた事の幸運に感謝したい。おそらく夜景も綺麗であろう。更には元日に昇る初日の出。その朱色の一滴を大自然の芸術家はどこに垂らすのであろうか。ここからすぐのところに天望峠がある。新峠の方は舗装された林道が走っているが旧天望峠は静かな山路であり、まれにトレイルランナーが通るがハイカーの姿を見る事はほとんど無い。新峠から緩やかに登り始め20分程で旧峠に出るが、そこに建つ道標に天望峠を示す文字は無い。時々桂木観音の鐘の音が聞えてくるが静寂は役割を終えた旧峠共通の哀愁感が漂っている。私達が休んでいると、メジロの番(つがい)が飛び交っているのだろうか、雄の綺麗な啼き声が聞こえてきた。ここは彼らにとっても天国なのであろう。「柿実る うんだらべいの めじろ採り」私が小学校の頃に書いた駄作の句(?)である。今は保護鳥のめじろであるが当時は捕獲が禁止されておらず、囮篭に雄のめじろ(啼き声が美しい)を入れて野山を歩き回っていたのだが、その時に渋柿が熟して軟らかく、そして甘くなったものを餌として使っていたのである。この状態になった渋柿の事を私の田舎では「うんだらべい」と言っておやつ代わりに悪餓鬼が食べる事もあった至極の甘柿(に変化した)の事である。誰も居ない旧峠に野鳥の啼き声、そして一杯のコーヒー、落葉樹の葉はほとんど落ちていてジュータンの様に積もっている。歩けばカサカサと、その路は天望(小ピーク)から鼻曲山へと続いている。初冬の低山歩きは遮に無に山に登るのではなく山で何か楽しい事に出会う様にと、宝物探しの様にのんびりと歩くのがよいように思えた峠路であった。尚、昭文社の登山地図には旧天望峠を毛呂山町側に下ったところに、ハナモモ(3月下旬は桃源郷)の記載が有るのでその頃、埋もれてしまった旧峠路を下ってみようと思う。