3回前のブログで、「つと」さんのお話をご紹介しましたが、

つとさんの仕事、「茶立女」とは。

 

16世紀後半、大坂では秀吉による大坂城築城、城下町の整備が行われます。

大坂城の南側(上町台地、地理的にええとこですわな)には武家町が作られました。

上町台地の西側、湿地には町人町が。

秀吉亡き後、徳川の時代になって幕府による治水事業が本格的に進みます。

町人が開発を請け負い、新川の開削、新地開発が行われます。

新地(堂島新地、堀江新地、曽根崎新地)の誕生です。

新地の振興策として、茶屋が認められます。

茶屋の女給仕が「茶立女(ちゃたておんな)」です。

茶立女は法的には遊女(公許は遊廓で働く遊女)ではありませんが、

実質は遊女と変わりありませんでした。

この茶立女は1軒の茶屋に二人まで!という規制がありました。

また、衣服は派手なものはだめ!粗末なものを着るように!

というお達しもありました。

 

しかしまあ、遊廓に比べて安価でお手軽な茶屋は流行ったんですね。

二人どころか、何人も抱えていたようです。

 

元文5年(1740年)の町触(町奉行が出した法令)によると。

 町中所々に隠女を置いて遊女同前に商売をしている。

 茶屋・風呂屋に白人(しろうと)と名付けて抱え置き、

 所々に往来させ遊女同前に商売している。

 これでは、傾城町(新町遊廓のこと)が衰微に相成り候。

 せやから、前から何回も言うてるやん!

 二人まで!って。

 守らなあかんで~

 遊廓の経営者に取り締まりさせるで~

 

遊廓側から文句が出たようです。

私娼を取り締まり、公認の遊廓を繁盛させるのが

幕府の目的ですから、こういう町触が出されたんですね。

 

「茶立女」も飛田新地の嬢も、時代は変われど、

法的には遊女ではないけれど、今も変わらないんだなあ。

 

 

 

はい!長くなりましたが、鯛よし百番の続きです。

 

2階。

 

遊廓建築の特徴ですね。

室内なのに屋根があります。

ここは町。屋外という設定。

遊女の部屋に遊びに来たんですね。

 

廊下の玉石の洗い出しも外だという演出なのかな。

 

 

風流な待合。

 

 

扉を開けると、この部屋には欄干がついていますね。

確か、この部屋は「紫式部の間」だったかと。

 

 

花頭窓。

 

 

長押や間柱に装飾が!!

 

 

 

ここは、確か「潮来の間」。

 

 

 

 

 

中庭。

「紫式部の間」の花頭窓が見えますね。

 

 

これ、廊下なんですが、すごくない!!

東海道の島田宿を演出しています。

 

 

 

 

この横の部屋が、最初に通された部屋、

「喜多八の間」です。

天井が大井川の渡しの彫刻。

屋根もあるでしょう!

 

部屋の奥には船の縁が作られ、一段高くなっています。

船で大井川を渡っている演出ですね。

 

 

入り口の襖を開けると、向かい側の壁には富士山!!

 

 

ここは、確か「由良の間」。

「由良」は大星由良助の由良です。

いろんなものをぶち込んできます。

何じゃ、この欄間は!!

 

 

こうなったら、格天井も当たり前ですわな。

でも、この部屋は特に豪華。

折り上げ格天井ですね。

 

照明もすごいな。

 

 

 

 

 

ここは、「オランダの間」だったかな。

 

 

他にも部屋があり、それぞれ趣向を凝らしたものとなっています。

 

 

 

1階にもどってきて、桃山殿です。

 

まあ、目がチラチラするぐらい豪華!派手!

 

船底天井も当たり前!

 

 

 

 

 

派手な鳳凰の透かし彫りも当然!

 

 

 

 

 

 

 

 

襖絵も素晴らしいのですが、

これは修復されたものです。

 

 

 

 

損傷が酷く修復にはご苦労されたようです。

2021年には襖絵だけではなく、看板、懸魚、欄間を修復されたそうです。

襖絵は日本画家の方にお願いしたそうです。

 

 

見学会は、ちょっとお値段するけれども、

貴重な大正期の遊廓建築を見学できる機会ですし、

維持保存費用として使っていただきたいです。

私が紹介したところも、できていないところもぜひ、見に来てくださいね。

ガイドもいいですよ~