Dr.誠です。
たまに書く文化記事。焼き物の話の続きです。お盆休みにもなりますので、この地域の案内も兼ねて。写真は焼き物の図録『日本の陶磁』。こういう図録見ているだけで今の私はワクワクしてきます。昔は全く興味がなかったんですけどね。
『桃山陶とはなんだったのか』『美濃陶の近現代史はどんなものだったのか』。それがわかるとこの街は本当に楽しい街だということに、私はこの数年で気がつきました。素晴らしきかな、美濃の焼き物。ぜひ皆さんにもお伝えしたく、この回の記事といたしました。
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多治見、土岐市、可児市といった美濃の街。その歴史は『焼き物』から切り離しては考えられませんが、その一番のハイライトは『美濃桃山陶』と呼ばれる茶陶(茶の湯の道具)を焼いていた戦国時代、古田織部の活躍した武家茶道隆盛期の30年ほどでした。大正期には数寄者と呼ばれる富豪愛好家たちに好まれ、現在の価格で数千万~数億という価値で名品が取引された美濃桃山陶です。そして今の中心である千家茶道とはまた違った価値観の武家茶道、その道具。作法も大きく違っていた可能性もあります。
▼リンク
土岐市文化振興事業団(美濃陶磁歴史館)
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『織部流』という武家茶道と美濃茶陶。それは秀吉の時代に全国を席巻した一大ムーブメントでした。茶道具ひとつが城ひとつにすら匹敵した時代。武将達がこぞって茶会を開き、茶道と政治が一体となっていた、あの時代。美濃陶はその時確かに、その時代の政治と文化の中心に位置していました。
しかし残念ながら、豊臣が徳川に破れた『大坂の陣』の後、美濃陶の価値観をプロデュースしていたといわれる古田織部が失脚(豊臣への内通の嫌疑で切腹)。一夜にして『反逆者』となってしまった人間の作り出した世界は歴史の表舞台から消されてしまうこととなり、1930年に可児市久々利での荒川豊蔵の志野陶片発見まで、美濃がその魅惑の陶器の『産地であったことすら』忘れ去られてしまいます(黄瀬戸など、大雑把な地域名称としての瀬戸が用いられています)。そして、武家茶道のなかでも鍵となったはずの正統の『織部流茶道』はこうした理由から断絶しており、詳細について伺い知ることはできません。茶道具の独特の形の理由もまた、歴史の闇の中。
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戦後になり、昭和の陶芸界の隆盛と共に美濃陶は復興を遂げ、バブル前夜の1985年に美濃の荒川豊蔵と瀬戸の加藤唐九郎の両巨星が没する頃には、『トップ陶芸家』の茶碗ひとつが2500万円(※雑誌『炎芸術32号』調査)ほどにまで盛り上がりを見せます。この時代、多くの作陶家・陶芸家が生まれ、美濃は百花繚乱、近代で一番輝かしい時代でありました。
その美濃復興の祖である荒川らと同時代、土岐郡笠原町の町長まで勤めた加藤十右衛門一派や土岐陶祖系譜の林景正らによる正統派の『美濃茶道具』復興の流れは確かに存在した一方で、しかし美濃はどちらかといえば茶道具のルールから離れた個の表現としての『前衛表現』が陶芸界の多数派を占めていました(志野や織部といった名前がついていてもです)。古典に学ぶというあたりまえのことが『意味のない物真似』と評されたこともありました。
▼美濃陶磁歴史館の過去展示
そして平成後半、陶芸ブームの退潮とともに美濃茶陶の存在感もまた低下、支えていた団塊の世代の現役引退とともに業界全体が地盤沈下、そしてこの新型コロナ感染症で陶磁器産業全体としても大ダメージをうけてしまっているというのが実情です。
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振り返ってみればやはり『茶の世界からの300年の断絶』『作陶の歴史の断絶』というものの影響は非常に大きく、千家中心の茶道界の価値観のなかに、戦国当時の『織部好み』という権力から消された価値観を織り込むには、昭和平成の陶芸ブームはあまりに時間が短すぎたのだと思います。そしてもう一方の『美濃の作陶家の側』に『茶道』というひとつの規範をきちんと織り込んでいくということも。
千家茶道においては結局、あれだけの栄華を極めた美濃茶陶は『国焼き(国産陶器)』のひとつに過ぎないまま戦国時代のような地位を得られずに現在に至り、そしてまた、歴史の渦のなかに消えていかんとしています。
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最後に最近の話を。
下の写真にある記事は2018年春、伝統的な美濃桃山の茶陶の技術を残していこうと可児市に新たに創設された、『可児市重要無形文化財技術保持者』の枠組みです。美濃桃山陶にみられる技術の詳細をきちんと規定した上での『技術保持資格』の創設。ここには茶陶に関わってきた人が多く含まれています。こうした技術資格がこれからもきちんと、『技術ベース』で判断され運用されていってほしいと願っています。
つづく