わたしは自分劇場な女💐✨
主演を務めるSNS上の「自分劇場」で📱🎬
主人や子供たちを自由自在に動かしながら、
理想的な自分と、理想的な家族を、
観客の前で演じるのが日課✨

今週末の演目は――
「週末、巣立ちの気配」🥺✨

新しい環境でも、素敵なお友達に恵まれている末っ子。
でも、0歳の頃から一緒に育ってきたお友達というのは、久しぶりに会っても、不思議なくらいすぐ昔の空気に戻れる。

前の幼稚園のお友達のお誕生日会に呼んでいただき、久しぶりの再会✨

子供たちは、顔を合わせるなり楽しそうに遊び始める。

そして、その横でわたしは、子供たちより一足先に「人生の余韻」へ入る。

また始まった。
わたしの悪い癖だ。

普通なら、
「久しぶりに会えてよかったね」
で終わる話。

でも、わたしは終われない。

楽しそうに遊ぶ子供たちを眺めながら、胸の奥がほんの少し――

キュッ。

……としたことにする。

いや、本当に少しはしたのだと思う。

でも、その小さな感情を拾い上げ、丁寧に磨き、SNS映えするサイズまで膨らませるのが、わたくし自分劇場な女。

懐かしくて、安心できる場所。でも、ずっと同じ場所にいるわけにはいかない。子供たちは、それぞれの次のステージへ向かっている。

ここで、わたしは気づく。

いや。気づいたように演出する。

子供の成長。過ぎていく時間。
変わっていく家族のかたち。

誕生日会から、いつの間にか人生論。

我ながら話が大きい。

だが、今日はさらにもう一段ある。

わたしは、まだ誰にもきちんと説明していない、来春のわが家の「次回予告」まで、ここに忍ばせようとしている。

「こうして家族みんなで過ごす週末も、いつまで続くんだろう」

……出た。我ながら、実に意味深である。

普通に読めば、
「子供が成長するのは寂しいよね」
という話。

でも、事情を知っている人が読めば、

「ん?」「もしかして?」「いよいよ帰国?」と、なるかもしれない。

そう。

そこまで計算して書いている、わたし。

来春、高校受験を控える娘。
来春、小学校へ入学する末っ子。
そして、シンガポールの日系高校に主人の会社の費用負担で残る長男。

つまり、わが家には来春、それなりに大きな変化がやってくる。

だったら普通に書けばいい。

「来春、本帰国します」

たったそれだけの話だ。

しかし、わたしはまだ書かない。

なぜなら、いきなり本編を公開するより、予告編を一本挟みたいから。

「巣立ち」
「家族で過ごす時間」
「次のステージ」

意味ありげな言葉だけを、そっと散りばめる。

説明はしない。
でも、気づいてはほしい。

むしろ、
「何かあるの?」
くらいは聞かれたい。

これぞ匂わせである。

しかも厄介なのは、わたし自身、これを単なる匂わせではなく、

「今しか残せない母としての気持ち」

くらいに美しく包装してしまうところだ。

そういえば、上の子たちが同じくらいの年齢だった頃も、似たような気持ちになった。

……と、ここで過去の思い出まで投入する。回想シーン。

自分劇場には、伏線だけでなく、過去編まである。

そして、ふと思う。

こんなふうに家族全員が揃って週末を過ごせるのも、あとどれくらいなんだろう。当たり前は当たり前じゃない。

……待て、わたし。

さっきまで誕生日会だった。

子供たちは、昔のお友達と楽しく遊んでいるだけだ。

なのに、わたしの頭の中では、もう長男をシンガポールに残し、娘と末っ子を連れて帰国し、家族の新しい章まで始まっている。

展開が早い。

いや、

演出が早い。

週末は楽しい。
だからこそ切ない。

子供の成長はうれしい。
だからこそ寂しい。

そんな、
「幸せの真ん中にいるのに、少し先の別れまで感じ取ってしまう母」
を、わたしは今日も上手に演じている。


ただの週末を、人生の節目にする。
ただの誕生日会を、家族の転機への伏線にする。

そして、具体的なことは何ひとつ説明せず、

余韻だけはたっぷり残す。

我ながら、実に自分劇場である。

だから最後も、普通には終わらせない。

少し遠くを見る。
未来を想う。


本日の出来事を冷静に一行でまとめれば、

「昔の幼稚園のお友達の誕生日会に行った」

以上である。

それをここまで壮大な話にできるのだから、ある意味、才能なのかもしれない。ありがてぇ。

いや。

そうやって最後に自分を肯定しようとするところまで含めて、

やっぱりわたしは、自分劇場な女なのだ。

こうやってわたしは、
家族の人生を脚本にして、
理想的な生活と、
健気で子供想いな母親を、
今日も観客の前で演じ続ける📱💐✨


そう、
わたしは

「自分劇場」な女🎭💐✨