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熊本地震という、多くの方が大切な人や日常を失った出来事を題材にしながら自分語りをする人たちが世の中に一定程度存在する。


地震について語っているようでいて、「自分は働かず家族に奉仕しながら静かな暮らしを大切にしている」「平凡な一日こそ尊い」という、自身の生き方の正当性を語るための材料にしていることに強い違和感を覚える。


一見すると被災地への追悼や共感を述べているように装うのだが、その内容の大半は自分の日常や価値観、自分がいかに「日常のありがたさ」を理解しているかという話に終始。


熊本地震は、その自己語りを引き立てる舞台装置では決してない。


「ブログに何を書いても、ブログでお祈りしても力になれるわけではない」とか予防線をいくら張っても(言い訳をいくら書き連ねても)、自身とは関係のない地域で起きた大地震を材料に自分の人生観を語る記事を書き、それをブログのコンテンツとして公開する以上、結果的には震災を自分の発信や記事のネタとして利用しているという事実は消えない。


本当に被災者への思いを伝えたいのであれば、被災地や被災された方々に焦点を当てるべきであり、自分の生活や価値観を語ることが主題になる必要はない。


「地震があったから私は今日の平凡な一日に感謝できた」という構図は、被災者の悲しみを自分の人生を美しく見せるための対比として使っているだけ。そこに被災者への想いはない。


震災は、その被害の外側で安全に暮らしている部外者である自分の生き方を肯定したり、美談として消費したりするための題材ではない。


大きな災害に触れるのであれば、その出来事そのものや被災された方々への敬意を第一に据えるべき。少なくとも、悼んでいるような書き出しから始まり、結局は自分語りと自己肯定で締めくくられるような文章は、不快感や違和感でしかない。


「日常に感謝する」というメッセージ自体は否定しない。しかし、その気づきを発信するために熊本地震という悲劇を持ち出し、自身の価値観やライフスタイルを語る記事へと仕立てるのは、被災地への配慮という観点からは配慮不足でしかない。


ただ、そう思った。