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過去のブログを読み返す。
「私は私」 「我が家は我が家」 「誰とも比べない」 と、何度も何度も言葉にする。
一見、とても芯があるように見える。
でも不思議なことに、 本当に芯のある人ほど、そんなことをわざわざ何度も言わない。
比べていない人は、比べていないことを説明しない。
普通でいい人は、普通であることを演出しない。
特別じゃなくていい人は、特別じゃない自分をブログで丁寧に飾らない。
わたしの人生は、いつも誰かの人生に寄り添う形で進んできた。
学生時代の彼と結婚し、 夫の希望で専業主婦になり、 子どもを育て、 夫の赴任先について行き、 ソウル、シンガポールと海外生活を重ねる。
例えばソウルでは、海外生活の大変さをことさら強調し、店員と軽く韓国語で挨拶を交わす様子を「ささやかな日常」として写真付きで投稿したし、シンガポールではコンドミニアムのインフィニティプールのプールサイドで子どもを遊ばせながら、高級コンドに住んでいること(実際は家族5人にはとても狭い)や、日本人ママ友と週に何度もカフェやランチをする様子を繰り返しブログに登場させている。
もちろん、それ自体は立派なことだと思う。
家族を支えることも、子どもを育てることも、決して簡単ではない。 ただ、わたしのブログを読み返してみると、ふと気づく。
そこに出てくるのは、ほとんど夫と子どもと友達とのカフェの話。 主人が出張に行った話。 子どもの成長の話。 お友達とおしゃべりした話。 一時帰国で買った可愛い雑貨やお菓子の話。
例えば「今日は、生き方に芯があってどんどん自身で人生を切り開いている尊敬するお友達とカフェへ」と書かれた記事には、ラテアートの写真とともに「こういう時間が大切」「わたしも見習わなきゃ、全然追いつけないけど」と言い訳をしつつ、その会話の中身やわたし自身の考えはほとんど語らない。
また、一時帰国のたびに「やっぱり日本の100円ショップは最高」と言いながら、同じようなヘアアクセサリーやキャラクターのお菓子を並べて撮影している。一時帰国のお土産も、シンガポールっぽさが安っぽく貼り付けられた、小さなお菓子や雑貨を買いがちだ。
では、わたし自身はどこにいるのだろう。自身の人生なのに常に傍観者?
「家族のため」という言葉は美しい。 けれど、時にそれは、自分で何かを選ばない、そう、何も選ばず、他人任せであることの便利なカーテンにもなる。
何かを始めない理由。 何かに挑戦しない理由。 自分の物語がないことを隠す理由。
わたしが唯一、主体的な人生の証拠として繰り返し語るのが、若い頃の中国語学留学だ。でももう20年も前の話。
大学卒業後、就職して数年目に、1年間上海へ。 留学ではなく語学留学。そのエピソードは、何度も何度も登場させる。中国料理や中国人の友人の話題とともに。主体的に生きたように語れる最後のエピソード。
まるで、人生の履歴書の中に、そこだけ蛍光ペンで何重にも線を引いているように。
最近は中国語の家庭教師もつけている。 それもまた、さりげなく、でも確実にブログに登場させる。
「今日は先生とカフェでレッスン」と語り、ノートとコーヒーの写真を添え、「全然大したことじゃないけど、細々と続けています」と。
「別にすごいことじゃないんだけど」 という顔をしながら、 「でも私、こういう知的な一面もあるんです」 という声が、行間から聞こえるように。
わたしは昔からそういうタイプだったのかもしれない。
「全然テスト勉強してない」と言いながら、 実はきっちり勉強していて、 ちゃんと良い点を取る人。
今も同じだ。
「私はガサツだから」 「スキンケアも化粧も適当」 と言いながら、実はちゃんと整えている。
例えば「今日はノーメイクでスーパーへ」と書きながら、写真にはきちんと整えられた眉とツヤのある肌が写っている。
「太った」「もう若くない」と匂わせながら、 本当は“そう見えない私”を見てほしい。
何も狙っていないようで、全部少しずつ狙っている。 何も自慢していないようで、全部うっすら自慢している。
そして、その自慢はいつも小さく、遠回しで、主語がない。
はっきり言えばいいのに、言わない。 言わないことで、逆に伝えようとする。 これがわたしの得意技なのだと思う。
匂わせる。 隠す。 でも気づいてほしい。
すごいと言われたいわけじゃない。 特別と思われたいわけじゃない。 普通でいい。
そう書きながら、 その「普通」を、誰よりも丁寧にラッピングして差し出す。
チープで可愛い雑貨。 女子高生が喜びそうなお菓子。 若い頃の感性をそのまま持ち続けているような買い物。 そこにも、少しだけ痛々しさがある。
例えば、キャラクターのついたポーチや、期間限定のカラフルなグミを並べて「つい買ってしまった」と投稿し、「かわいー、シンガポール限定」とアピール。
可愛いものが好きなのは悪くない。 安いものが悪いわけでもない。 ただ、それを「私らしさ」として無邪気に掲げ続ける姿に、年齢相応の厚みや深みが感じられない。
料理も同じだ。
家族のために毎日作っている。 それは本当に偉い。
けれど、写真に並ぶ料理は、どこかいつも同じ顔をしている。 具材を同じようにゴツゴツと切り、同じ形で同じように並べ、同じように仕上げる。 きちんとしているようで、どこか不器用。 家庭的なようで、どこか発展がない。
それは料理だけの話ではなく、わたしの人生そのものにも見えてくる。
整っている。 大きな失敗はない。 家族もいる。 海外生活もある。 友達もいる。 日々も穏やか。
でも、物語の主人公がいない。いつも他人の話。
夫の赴任。 子どもの学校。 家族の都合。 友達とのランチ。 中国語の勉強。 一時帰国。 カフェ。 手土産。
素材はたくさんあるのに、本人の輪郭だけがぼんやりしている。
人から何か言われると、わたしはきっとこう返すのだろう。
「私は私」 「我が家は我が家」 「誰とも比べない」 「比べるのは過去の自分だけ」 「特別じゃなくていい」 「普通でいい」
でも、その言葉を盾のように使っている限り、たぶんわたしは本当の意味では自由ではない。
普通でいいと言いながら、普通に見られることを恐れている。 特別じゃなくていいと言いながら、特別ではない自分を受け入れきれていない。 誰とも比べないと言いながら、誰かの目をずっと気にしている。
だからこそ、ブログはいつも匂わせで終わる。
核心は書かない。 でも、何かがあるように見せる。 平凡な毎日に、少しだけ意味深な影を落とす。
それは、主体的に何かを選んできた人の余白ではない。 自分の物語を持てなかった人が、日常の端切れを集めて、それらしく見せている余白だ。
わたしの人生を一言で言うなら、 「誰かの物語の中で、丁寧に脇役を演じ続けてきた人」 なのかもしれない。
そしてわたしはたぶん、こう言いかえす。
「それで幸せなら、いいじゃない」
もちろん、その通りだ。
でも、もし本当にそれだけで満たされているなら、 今日もまた、ブログで、 “私はこれでいい”と自分に言い聞かせる必要はないはずだ。