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SNSやブログを眺めていると、ときどき見かける意味不明な言い訳。


「これは自分自身や家族の記録のために書いています」「あとで見返す時のための思い出」

とかいう一文。


不思議な言葉だ。

なぜなら、その“記録”は全世界🌏に公開されている。


本当に記録が目的なら、ノートアプリでも日記帳でも十分なはず。


だが、そう指摘すると話はややこしくなる。


なぜなら、この種の人は承認欲求を否定したいのではなく、承認欲求を持っている自分を認めたくないからだ。

人は誰しも誰かに見てもらいたい。

褒められたい。

羨ましがられたい。

共感されたい。

それ自体は別に悪いことではない。

むしろ極めて自然な感情だと思う。


少し厄介なのは、その感情を「私はそんなものではありません」という嘘の包装紙で包みたがることだ。






カフェの写真も、海外生活の写真も、子どもの教育の話も、本人が満足しているなら堂々と載せればいい。


ところが、なぜかその前に

「備忘録として」

「将来の自分のために」

という免罪符が添えられる。


本当に嬉しかったり幸せだったり感じたなら素直にそう発信すれば良い。むしろ本当に幸せだったら、なんで世界に向けて記録の為と言い訳しながら幸せ自慢をアピールする必要があるのかしら。


本当に格好いい人は言い訳をしない。

見せたいから見せる。

書きたいから書く。

共有したいから共有する。

それだけだ。


自己顕示欲も承認欲求も、人間に標準装備されている機能である。

それを隠そうとして、薄いベールを何枚も重ねるから不自然になる。


「私は目立ちたいわけではありません」

と言いながら、一番目立つ場所に立っている人を見ると、少しだけ滑稽だ。


結局のところ、本当に記録だけが目的の人は、自分が記録していることをわざわざ説明しない。


そして、本当に他人の評価を気にしない人は、他人からどう見られるかについて長い前置きを付けたりしない。


「記録のためです」

その言葉を見るたびに思う。

たぶん記録ではない。

少なくとも、記録だけではない。

そして、そのことを正直に認めるほうが、ずっと潔くて格好いい。