「2カ国目の海外駐在生活で、かれこれ10年以上になるんです✨✨」


海外に長く暮らす、という事実は、それ自体で深みを保証してくれるわけではない。

それは単に「場所が変わった」というだけの話であって、思考や視線まで自動的に遠くへ連れていってくれるわけではない。


それでも、人はよく錯覚する。

長く異国にいれば、人生も自然と多層的になるのだと。 🌏✨


けれど、ページをめくるたびに立ち上がってくるのは、

どこかで見慣れた会話、安心できる顔ぶれ、そして決まって登場するカフェのテーブル。 ☕️🪑

世界は広いはずなのに、語られる日常はいつも驚くほどコンパクトだ。


そして言い訳。

「友達が少なくたって良い、平凡だって良い、自分が自分らしく生きられれば良いのだ。比べるのは他人ではない、過去の自分だ。亀の歩みでゆっくりゆっくり、でも一歩ずつ、いや、半歩ずつでも前に進んでいれば良しとしよう。」



年齢の節目が来る。体の変化が話題になる。老いという言葉を嬉々として持ち出す。 🕰️


「受け入れている」という語り口をしながら、実は誰よりも気にしている。


一生懸命、髪を伸ばして、若々しい服装に身を包んで若作りして、、、


気にしていない、という自己演出ほど手が込んで見えるものはない。 🪞✨



そして必ず現れる、あのテーマ。人間関係、友人、その輪郭と数。 👥

多い・少ないの話ではない、と言いながら結局そこに戻ってくる。


「少ないけれど大切」「心地良い人間関係だけで良い」という定型句は、人生の問いを静かに棚上げしてくれる便利な言葉だ。 📚


良い大人が「友達」「友達」って。

高校生?



いちばん慎重さが必要なのは、子どもについて語るときだろう。 👧👦

自分と似ている、不器用、友達が少ないタイプ——。

それは理解ではなく、親自身の自己像をそっと重ねているだけかもしれない。

まだ途中の人格に完成済みの物語を与えてしまうことの危うさ。 🧩

子どもに貼るレッテル、子どもにはめ込む枠。

子どもは親の延長線ではない。けれど、その境界はときどき都合よく曖昧にされる。


海外の日本人社会は独特だ。濃密で狭く、入れ替わりが早い。 🌬️✈️

それ自体は事実。だが、それは「わたしたちの世界が狭い理由」にはならない。

むしろ、その狭さの中に留まり続けることを選んだ結果が、今の語りを形づくっている。


何年も国外にいながら、異文化との摩擦や違和感がほとんど文章に現れない。

現れるのは、日本語の安心圏と、日本的な人間関係の微細な温度差だけ。 🇯🇵☕️

あとは素敵な家族の物語📕



節目の年齢。別れの季節。感謝という言葉。 🌸

それらで物語を閉じてしまえば、問い直さなくて済む。深掘りしなくても“いい話”として成立してしまう。


そんな素敵な海外駐妻生活。