第一級の芸能噺でした。特に「花鏡」の老いの至芸の話は、世阿弥の境地が見えた気がしました。
紫の上と並べられる美貌にも興味がありますが、やはり年を重ねて体で得た教訓、言葉には、何ともいえない重みがありますね。
本日の講座内容の一部として、ここでは、二条良基の書状をご紹介したいと思います。
観世座とも親しかった、東大寺の院家尊勝院に送ったものです。当時60歳近い良基が、藤若(=世阿弥)にすっかり魅了されている様子が分かる一通です。
【本文】
藤若暇候はば、いま一度同道せられ候べく候。一日は美わしく心空なる様になりて候し。わが芸能は中々申すに及ばず、鞠・連歌などさえ堪能には、只者にあらず候。なによりも又顔立ち、振風情ほけほけとして、しかもけなわ気に候。かかる名童候べしとも覚えず候。源氏物語に、紫の上のことを書きて候にも、眉のあたりけぶりたると申したるは、ほけて、優のある形にて候。同じ人を物に譬へ候に、春の曙の霞の間より樺桜の咲きこぼれたると申したるも、惚けやかに、しかも、花のある形にて候。歌も連歌もよきと申すは、かかり面白く、幽玄なるを上品にはして候なり。(中略)
将軍様賞玩せられ候も理りとこそ覚え候へ。得がたきは時なりとて、かようの物の上手も折を得候こと、難き事にて候に、逢ひに逢ひて候事不思議に覚えて候。(中略)
相構相構此間に同道候べく候。埋木に成り果てて身の何処にか心の花も残りてんと我ながら覚えて候。此状、やがて火中に入候べく候なり。
【現代語訳】
藤若に暇があったら、もう一度、お連れ下さるようお願いします。先日は、藤若は端正で、私はすっかり夢中で心が空っぽになってしまいました。本職の芸能はわざわざ申すまでもなく、蹴鞠や連歌にまで優れている点を見ると、ただ者ではありません。何よりもさらに素晴らしいのは、藤若の顔立ちや振る舞いの風情は、こちらがぼうっとしてしまう感じで、他よりも格段に優れています。このような名童がいるでしょうとは信じられません。源氏物語に、紫の上のことを書いていますのにも、眉のあたりが美しいと申しているのは、こちらがぼうっと魅了され、優美な容貌であります。同じ紫の上を物にたとえますのに、春の曙の霞の間から樺桜の咲きこぼれていると申しているのも、見ているものをぼうっとして、さらに華やかな風情であります。歌も連歌も素晴らしいと申すのは、風情が面白く、幽玄なのを上品にしてみせるのです。
将軍様(足利義満)が藤若を賞玩しなさいますのももっともだと思います。得がたいのはタイミングでありまして、このような技芸に優れているのも時機があっておりますことは得がたい事でありますのに、ぴったりと重なりに重なっていますのが、不思議に思われます。
どうかどうか、こちらにお連れくださいませ。このような埋もれ木のような年齢になり果てて、一体、自分のどこに、心の花が残っているのだろうと我ながら思います。この書状はすぐに火の中に入れていただきますようお願いいたします。
足利義満の寵童にもなった世阿弥。その美しさや諸芸に、二条良基も夢中であったことがよく分かります。面白い手紙なので、これを受け取った人が「火中に入」れず、今日に受け継がれて良かったと思います。(良基は、あの世で恥ずかしがり、怒っていそうですが……。) これほど言葉を尽くして褒められる世阿弥の若い頃の容姿、ぜひタイムスリップして拝んでみたいものです(笑)
本日はこんなお着物で。観世家の用いる「観世水」という文様が入っている帯を選んだところ、何名かの方が気付いていらっしゃり、さすがでございました。


