①に引き続き、『蜻蛉日記をご一緒に』(田辺聖子)を通して、
蜻蛉日記についての紹介をしたいと思います♪



蜻蛉日記の筆者(藤原道綱母・右大将道綱母などと言われますが、田辺さんは「蜻蛉」としています)は、
宮仕えの経験もないままに、いきなり藤原兼家と結婚して、
その後ずっと家の中で過ごした女性です。


「たくさんの人の中で揉まれたり、心をつかったりするという気苦労を知らない」女性なので、
どうも世慣れていないんですね。

現代で言うと「小学校高学年で学級委員に立候補する優等生女子」がそのまま年をとった感じ。
律儀で真面目で、そうした姿勢を周囲の人間に対しても期待してしまうタイプです。


もちろん悪い女性ではないんですけど、
プライドが高い割にはどこか自信のない人で、
でーんと構える余裕の姿勢を示すことは出来ないで、
夫・兼家の男性らしいいい加減さや大雑把さを詰問してしまいがち。

たまに優しく接してくれても、
「普段はいい加減なくせに今更何ですか!?」
と突っぱねてしまうこともあります。苦笑。




そういう自我が強い女性なんですけど、
この時代、自分から外へ仕事を求めていくこともできないので、
彼女の世界は狭いんです。


持て余したエネルギーを悶々と抱え込んだ彼女は、
兼家との関係性にもやもや悩むことが人生の全て、という状態。

蜻蛉は名文・名歌を残す頭の切れる女性です。
「そんな幼稚に恋愛のことばかりで悩まなくても…」
とつい現代の我々は思ってしまいますけど、
彼女にとっては、世界はそれしかないんですね。


だから、
政争に敗れて出世できないで失意の兼家が家でゴロゴロしているときも、
<何だっていいわ、家にいてくれるんならそれでいいわ>
なんて考えてしまう始末です(笑)




兼家がなかなか通ってこないときには、欲求不満に陥っていたようで、
(もちろん男性です)から膝に水をかけられたり、
男性に足の裏に筆で文字を書き付けられたりするような、
どことなくセクシュアルな夢ばかり見ていますし(笑)
(もちろん本人はそんな風に解釈してはいませんが…)


さらに、気持ちがふさぎにふさぐと、同じく夫が通ってこずに悶々としている女友達と、
物見遊山に出かけますし(笑)


彼女の苛々や寂しさは無性にリアルです。




そこで他の男を連れ込んでしまうような大胆さがあれば、
また違った人生になったんでしょうけど、
蜻蛉は結局、夫の兼家にひたすら一途なんですね。

初めてで唯一の相手である兼家のことだけを想い続けているからこそ、
ヒステリックにもなってしまうんですけど、
傷付くのを恐れ過ぎて、意地を張って可愛げがないのもまた事実で。



何の予告もなく兼家が遊びに来たときにも、
「うちの近くの若い愛人のところに行ったけど、
生理か何かで追い返されてしまって、
それで仕方なくウチに来たんでしょ!?」
というような態度に出てしまうんですねー。

…これは可愛くないですよね。苦笑。





高校のときに「蜻蛉日記」を読んだときと、
少し感覚が違ったのは、このあたりで。

そういう蜻蛉の可愛くなさをひしひしと感じ、
ちょっと夫の兼家に同情するようになりました。笑。



そして、毎日来て欲しいと思う蜻蛉からすれば訪れの少ない兼家だけれども、
仕事も他の妻もある中で、
蜻蛉の母が亡くなったときには駆け付けてお葬式を取り仕切ってくれたり、
蜻蛉の隣家が火事になったときには見舞いに来てくれたり、
病気になって別の妻の家で療養しているところに呼び寄せたり、
息子の道綱の晴れ舞台の様子を逐一蜻蛉に報告してきてくれたり、
結構、まめに蜻蛉のことを愛しているんですよね。


そこにもっと気付いて評価してあげればよいのに…と蜻蛉に言ってあげたい気分になっては、
思わず、自分の恋愛のことを振り返ってしまいましたね。笑。




そんな蜻蛉も、年をとるに連れ、
少し変わっていくんですけど、
長くなってしまったので、また次回に☆彡