二回目のセッションは、雨の日だった。
誠は傘を畳みながら、エレベーターに乗った。
先週と同じビル。
同じ三階。
同じ木のドア。
でも今日は、先週より少しだけ、足が軽かった。
自分でも、不思議だった。
あれから一週間。
神代先生の言葉が、頭から離れなかった。
「欠点ではないかもしれない」
「まだ出会ったことのない自分がいる」
信じると決めたわけでもないのに、
その言葉が、夜中にふと浮かんできた。
通勤電車の中でも。
会議の合間にも。
怖くはなかった。
それだけは、確かだった。
「先週、何か気づいたことはありましたか」
神代先生は、前回と同じ椅子に座っていた。
温かいお茶が、テーブルに置かれた。
誠は少し考えてから、正直に言った。
「気になって、ずっと考えてました。『まだ出会ったことのない自分』って、どういうことなんだろうって」
「どんなことを思いましたか」
「……正直、半信半疑です。でも、なんか、否定もできなくて」
神代先生は、小さく頷いた。
「それで十分です。では今日は、資料を一緒に読んでいきましょう」
テーブルの上に、先週と同じ資料が置かれた。
神代先生は、ページをゆっくりと開きながら話し始めた。
「立花さんの特性を、素質論の観点から読むと——まず、非常に強く出ているものがあります」
先生の指が、資料の一点で止まった。
「『計画力』と『論理的思考力』。この二つが、突出して高い」
誠は、その数値を見た。
確かに、高かった。
でも——
「それって、つまり、計画を立てるのが得意ってことですよね。でも俺、仕事遅いって言われるんですけど」
「そうですね」
と神代先生は言った。
否定も肯定もしない、静かな声だった。
「では、少し聞かせてください。立花さんが計画を立てるとき、どんなことを考えますか」
誠は、少し首を傾けた。
「……抜け漏れがないか、確認します。関係者全員が困らないように、順番を考えます。あと、何かイレギュラーが起きたときのことも、一応考えておいて」
「誰かに頼まれましたか、そこまで」
「……いえ、自然に」
「そうです」
と神代先生は言った。
「それが、立花さんの計画力の本質です。
速さではなく、網羅性。
自分だけが動くための計画ではなく、
全員が迷子にならないための設計図を、自動的に描いている」
誠は、黙って資料を見つめた。
「でも……それって、仕事が遅くなる原因じゃないですか」
「遅くなることもあります」
と先生は言った。
「でも考えてみてください。立花さんが設計した計画で、大きなミスが起きたことはありますか」
誠は、少し考えた。
「……あまり、ないかもしれないです」
「プロジェクトが途中で崩れたことは?」
「……崩れそうになったことはあります。でも、事前に気づいて、手を打ってたので」
「誰かが気づいて、手を打っていた」
と先生は静かに繰り返した。
「それは、誰でしたか」
誠は、何も言えなかった。
「スピードは、目に見えます」
と神代先生は続けた。
「でも、崩れなかったことの価値は、目に見えない。
起きなかった問題は、誰も覚えていない。
だから評価されにくい。
でも——なくてはならない力です」
「次に」
と先生は言って、資料の別の箇所を指した。
「『交渉力』という項目があります。立花さんの数値は、決して低くない」
誠は、その数値を見た。
確かに、低くはなかった。
でも——
「交渉力って、俺、苦手なんですけど」
と誠は言った。
「押しが弱いって、よく言われるんで」
「押しが弱い、というのは」
と神代先生は言った。
「どういう場面でそう感じますか」
「相手が納得してないのに、押し切ることができないんです。
全員が腑に落ちるまで、なんか進めたくなくて」
神代先生は、少し間を置いた。
「立花さん」
「はい」
「それは、押しが弱いのではありません」
先生の声が、少しだけ、温度を持った気がした。
「相手を言い負かすことが交渉だと思っている人は、確かに押しが強い。
でも立花さんの交渉力は、そういう種類のものではない。
全員が腑に落ちるゴールを探す力。
誰も置いていかない合意を作る力。
それは——
より高度で、より希少な交渉力です」
誠は、資料から目を上げた。
「……俺、ずっと、それが弱点だと思ってたんですけど」
「知っています」
と神代先生は言った。
「でも、弱点ではなかった。
強すぎる力が、今の環境では少し窮屈に見えていただけです」
誠は、何か言おうとした。
でも、言葉が出なかった。
喉の奥に、何かが込み上げてきた。
泣くような場面じゃない、と思った。
でも、止められなかった。
十年間、言われ続けてきた言葉が、頭の中を流れた。
もっとスピード感を持って。
積極的に動いてほしい。
押しが弱い。
丁寧すぎる。
そのたびに、
そうか、俺が足りないんだ、と思った。
足りない部分を埋めようとした。
でも埋まらなかった。
埋まらないのは、意志が弱いからだと思った。
でも——違ったのか。
誠は、視線を資料に落とした。
目が、少し、滲んだ。
「そんなこと」
と、誠は言った。
声が、わずかに震えた。
「そんなこと、誰にも、言われたことがなかった」
部屋が、静かだった。
雨の音だけが、窓の外から聞こえていた。
しばらく沈黙が続いた。
神代先生は、何も言わなかった。
急かさなかった。
ただ、静かにそこにいた。
誠は、深呼吸をした。
一回。
もう一回。
「すみません」
と言いかけて、やめた。
謝ることじゃない、と思った。
「……続けてもらえますか」
と、誠は言った。
「もちろんです」
と神代先生は言った。
セッションが終わったのは、一時間後だった。
エレベーターを待ちながら、
誠はぼんやりと壁を見ていた。
資料を鞄にしまいながら、
ふと気づいたことがあった。
セッションの間中、神代先生は一度も、
「欠点を長所に言い換える」
ということをしなかった。
「仕事が遅い」を、
「丁寧とも言えます」とは言わなかった。
「押しが弱い」を、
「優しいということです」とも言わなかった。
そうじゃなかった。
「それは、そもそも欠点ではなかった」
と言った。
その違いが、誠にはわかった気がした。
言い換えは、慰めだ。
でも神代先生が言ったのは、慰めじゃなかった。
エレベーターが来た。
誠は乗り込みながら、資料の表紙を見た。
自分の名前と、生年月日が書いてあった。
この数字が、俺のことを知っていた。
俺が知らなかっただけで。
→ 第5話「変わらなくていい、という革命」へ
今度は、宮本さくらのセッション。
「深く考えすぎる」という欠点を、ずっと直そうとしてきた。
神代先生が資料を開いたとき——
さくらは、初めて声を出して泣いた。
📌 あなたへの問い
あなたが「弱点」だと思ってきたことは、
本当に弱点でしたか?
それとも——
強すぎる力が、今の環境では少し窮屈に見えていただけ、かもしれません。


