2019年11月25日の愛媛県松山市歴史散策の続き。
「義安寺」「日切大師」をお参りし、「明治24年銘の道標」を見学した後は、「石手寺」に向かいました。
義安寺・日切大師・明治24年銘の道標のレポ
「明治24年銘の道標」から東に道路を進んで行くと、次の目的地「石手寺」の案内石碑が見えて来ましたので、路地を入って行きます。右手奥に見える塀は、雰囲気的にお寺さんですね~ここから「石手寺」の境内になるようです。
路地を道なりにしばらく進むと、石段が見えて来て…
石段を上ると、句碑がありました。
斜面には、たくさんの石仏が並んでいて…
向かいの道路側にも…「石手寺」の寺域に入ったようですね。
こちらは…?
小さな御堂もあって…
ここにも句碑もありました。
この句碑は、「葉桜の 中野無数の 空さわぐ」。
篠原梵の句集「皿」にある昭和12年の作。伊予市の出身で東大卒業後、中央公論社を経て中央公論事業出版社長になりました。
俳句は、臼田亜浪に師事し、独自のデフォルメで迫力ある斬新なリズムを編み出し俳誌「石楠(しゃくなげ)」全盛期の花形として活躍しました。
昭和50年、家族とともに郷里松山に帰省中、肝硬変発病、わずか一週間の入院生活で松山の病院で死去しました。
山側に石段がありますので、上ってみると…
愛媛県ビルマ戦没者慰霊塔がありました。
その中の様子。
天井には、孔雀でしょうか、火の鳥でしょうか、色彩鮮やかな鳥の絵画が描かれていました。
境内を進むと、右手に物置のような御堂がありますが、軒下には鮮やかな彫刻が!
更に進むと、鐘楼が見えて来て…
梵鐘に近づいて…「仕合せの鐘」とあります。
鐘楼の前には、「伊予の秋 石手の寺の 香盤に 海のいろして 立つ煙かな 晶子」と刻まれた石碑がありました。与謝野晶子の歌が刻まれているようです。
境内を進み、御堂。
立派な三重塔もあるのですね♪
こちらに堂宇があって…
その御堂に近づきます。
中には、古そうな仏像が並んでいました。
この御堂の脇には、祠があって、中には閻魔大王でしょうか、赤い仏像が安置されていて…
境内には、石仏がいくつも安置されているんですよね。
石碑も…
「同行二人」というお遍路姿の石像もあって…
楼門が見えて来ました。こちらが正面になるようです。また脇から境内に…笑
それにしても、大きくて立派な楼門です♪
楼門横の御堂。
三重塔。
おお!大きな金剛杵が!弘法大師像が手に持っている三鈷杵(さんこしょ)のようです。
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石手寺(いしてじ)は、愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第51番札所。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。
(中略)
沿革
寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)領主・河野息利に生まれた長男・息方が当寺で祈祷を受けると握っていた手から「衛門三郎再生」と書かれた石が現れたという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。
河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。(後略)(ウィキペディア「石手寺」)
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「その2」に続く。
石手寺
愛媛県松山市石手2-9-21
お遍路。四国八十八ヶ所巡り
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