本誓寺と、常照院と、臨川寺と、錣山部屋と ~東京都江東区の寺院・史跡 | 九州下町おやじの珍道中

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2019年12月大晦日の江東区白河・深川界隈の続き。

 

霊巌寺」「雄松院」とお参りした後は、「本誓寺」に向かいました。

 

 

霊巌寺(その2)・雄松院のレポ

 

 

 

 

雄松院」から清澄通りを渡り、清澄庭園の北側の道路を進んで行くと、右手に、「村田春海の墓」という史跡案内板を発見。

 

 

 

その横には、由緒書き「村田春海墓」がありました。

江戸時代中期の国学者で歌人。日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として延享3年(1746)に生まれ、父春道、兄春郷とともに賀茂真淵の門人で著名な国学者でした。

 

 

春海は国学者としては仮名遣いや五十音の研究に造詣が深く、歌人としては加藤千陰とともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられました。

門人に、清水浜臣・小山田(高田)与清岸本由流らがおり、江戸の宗匠と称せられました。

琴後集(ことじりしゅう)」「歌かたり」「和学大概」など多数の著書があり、文化8年(1811)66歳で死去。

墓石に楷書で「平春海先生墓」とあります。

 

 

 

矢印の指す方向に進んで行くと、お寺があって…こちらは「本誓寺」。

 

 

 

境内に入ると、覆い屋のある石像があります。

 

 

 

この石像の由緒書き。「石造迦楼羅立像」。

石質は花崗岩。朝鮮・高麗時代の作と推定されますが、その渡来時期などの来歴は不明。

迦楼羅(カルラ)」は「ガルダ」の音写で、インド神話上の架空の大鳥、理想化された霊鳥、四天下の大樹におり、龍を常食とし、羽は金色で両翼を広げると336万里(1344万km)あると言います。

 

 

大乗仏教では、仏法を守る天龍八部衆(二十八部衆)の一つとされ、災害・疫病を除き、幸福を与えると言われ。密教では、娑婆世界を主宰する梵天・大自在天の神々が衆生を救うために化身したものと言い、また文殊菩薩の化身とも言われています。

 

この迦楼羅信仰は、東南アジアを中心に広くアジア各国に広がっており、インドネシア・タイにおいては国章にされています。

「ガルーダ・インドネシア航空」の名称も、これに由来しています。

 

 

 

迦楼羅立像」に近づいて…状態は良さそうですね。

 

 

 

本堂。

 

 

 

境内には、観音様もいらっしゃって…

 

 

 

本誓寺」に向かい合うような位置に、「常照院」があります。

 

 

 

境内を進んで、本堂を…

 

 

 

本誓寺」と「常照院」の北側に墓地があるんですが、その奥の方に、「村田春海の墓」があります。中央の墓石に「平春海先生墓」とありますので、こちらが村田春海墓になるんですね。

 

 

 

村田春海の墓石の周りには、村田家の墓石が並んでいました。

 

 

 

村田春海の墓」のすぐ近くに、立派な宝篋印塔があって…

 

 

 

墓地を出て、更に進んで行くと、「明人呂一官先生菩提所」という史跡案内板を発見。

 

 

 

その横には、由緒書き「呂一官の墓」がありました。

明(中国)に生まれ、日本に帰化した人で、一官は当時の中国事情や、薬種・薬学に精通していた為、天正12年(1584)徳川家康より浜松に屋敷を拝領し、諸事の諮問を受けました。

 

 

その後、家康江戸入国に際し、日本橋通2丁目に御朱印地を拝領。現在の柳屋の地であり、近江商人外池家により継承され、柳屋の業祖とされています。

元和元年(1615)の頃には、同地において臙脂(えんじ)(紅)、白粉等の製造販売店が開かれました。

過去帳によると「元祖唐人辻一官」とあり、5代目から「」氏を名のっています。

元和9年(1623)10月10日に没しました。戒名は「迎誉来相信士」。

一官の墓は宝篋印塔で、本誓寺墓地の左奥角にあります。

 

 

ということは、先程の宝篋印塔が、「呂一官の墓」になるんですね。

 

日本橋の柳屋と言えば、中央通りと永代通りの交わる日本橋交差点に、柳屋ビルディングがありますが、そのビルの敷地が、この御朱印地になるのか~知らなかった…

 

 

 

本誓寺墓地から更に北に進むと、大通りに出るのですが、出た辺りには、「臨川寺」があります。

 

 

 

建物の庇の上に、何やら突起物が出ているので、よ~く見ると…カエルがくっついていました!葉っぱの裏に、蛙がくっついている姿を描いたものなんですね。可愛らしい♪

 

 

 

境内には、「玄武仏碑」という由緒書きがあって…

臨川寺は、承応2年(1653)鹿島根本寺(茨城県)20世の冷山宗仙和尚が草庵を結んだ「臨川庵」に始まり、21世仏頂河南和尚禅師が幕府に願い出て、正徳3年(1713)「瑞甕山臨川寺」という山号寺号が許され、京都妙心寺の末寺となりました。

 

 

延宝8年(1680)深川に移り住んだ松尾芭蕉は、仏頂和尚と親交が厚く、たびたび参禅に通ったと伝えられていて、以来、芭蕉ゆかりの寺として玄武仏碑をはじめ、梅花仏碑・墨直しの碑・芭蕉由緒の碑などの石碑が残されています。

 

玄武仏碑は、美濃派の俳人神谷玄武坊玄武仏)を顕彰する為に門下の白山下連中が建てたものです。

 

 

 

境内を進むと、「芭蕉由緒の碑」があって…

 

 

 

墨直しの碑

 

 

 

玄武仏碑

 

 

 

梅花仏碑

 

 

 

臨川寺」から道路を北側に渡り、路地を入って行くと、レンガ色のビルが見えて来ます。

 

 

 

こちらは、大相撲の錣山部屋。元関脇寺尾関が親方の部屋ですね。

 

 

 

本誓寺」「常照院」「臨川寺」をお参りし、「錣山部屋」と回った後は、「清澄庭園」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

本誓寺

東京都江東区清澄3-4-23

 

 

常照院

東京都江東区清澄3-4-22

 

 

臨川寺

東京都江東区清澄3-4-6

 

 

錣山部屋

東京都江東区清澄3-6-2

 

 

 

 

 

 

 

 

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