2020年6月下旬、仕事で、町田に出かける用事があったので、仕事の合間に、遺跡を見学して来ました。
JR横浜線町田駅から成瀬駅方面に、駅前通りを進み、三塚交差点を真っ直ぐ通り過ぎ、成瀬街道との交差点付近の左手に公園のような空間が見えて来ます。
石碑には「史蹟 高ヶ坂石器時代遺蹟」と刻まれています。
「高ヶ坂石器時代遺跡」の由緒書き。
牢場遺跡、稲荷山遺跡、八幡平遺跡の3つから構成され、大正14年(1925)牢場遺跡の調査が実施され、石が敷き詰められた遺構が確認され、炉を伴うことから住居跡(敷石住居跡)と考えられました。
牢場遺跡に隣接する稲荷山遺跡では、土器片・石が露出している状況が確認された為、調査を実施し、石がまとまって確認されました(配石遺構)。
住民からの報告により、八幡平遺跡の調査も実施され、石を敷き詰め炉を伴う遺構(敷石住宅跡)が確認されました。
敷石住宅とは床面の一部また全面に石を敷き詰めた住宅で、縄文時代中期から後期にかけて東北地方南部から関東・中部地方に見られ、一般的な住宅とする説、祭祀に関する特殊な建物とする説があります。
牢場遺跡には上屋がかけられ見学できるようになり、稲荷山遺跡と八幡平遺跡は埋め戻され、大正15年、国の史跡に指定されました。
指定から年月が過ぎ、埋め戻された稲荷山遺跡、八幡平遺跡の正確な位置は踏め格となり、牢場遺跡の上屋も老朽化が著しくなり、遺構の再調査などを行い、遺跡の再整備を実施。
牢場遺跡は発見当時のまま本物の遺構を見ることができ、稲荷山遺跡、八幡平遺跡は埋め戻した上に石を使って、遺構を再現しました。
由緒書きの地図によると、牢場遺跡と稲荷山遺跡は、この場所にあって、八幡平遺跡は離れた場所になるんですね。
敷地の中に入ります。
すると、左手に石が敷き詰められた空間があって…
由緒書き「稲荷山遺跡(配石遺構)」。
大正14年(1925)の調査では、6.67m×4.23mの範囲に石が敷き詰められているのが確認され、土器片多数、磨製石斧1点、打製石斧2点、敲石1点が出土。
これらの遺物は帝室博物館(現東京国立博物館)に収蔵されましたが、現在では所在が不明になっています。
2014年に再調査を実施し、大正時代に調査した遺構を再確認しましたが、隣接する道路で一部遺構が消失。
遺構が住居かどうか確認する為、柱跡や炉跡を調べましたが、確認できず、周辺からは、縄文時代後期・晩期の遺物が出土しました。
発見された遺構は保護の為、埋め戻され、現在は石を使って遺構を再現したものを見ることができます。
なるほど。再現されたものなんですね。道理で、無造作に置かれていると思いました(笑)
敷地の奥、一段低い場所に、建屋があります。
建屋に近づいて、中を見ると…おお!石が敷き詰められていますね~
移動して、向きを変えてみると…キレイに並べられているのが、よく分かります。
こちらが、牢場遺跡(敷石住居跡)。高ヶ坂石器時代遺跡発見の端緒となった場所で、大正14年(1925)の調査では、5m×3.85mの不整楕円形の平面形態を持つ敷石住居跡と報告されていて、住居のほぼ中央に石囲いの炉が確認され、炉を覆うように大形の土器片が出土しています(縄文時代後期堀之内式期)。
調査後、この遺構は現地で保存されることとなり、1966年の整備では、竪穴住居の壁の崩落を防ぐ為、コンクリートで固められました。
2015年、再整備の為、コンクリートを除去し、住居跡の再確認を行い、円形の住居ではなく西側に柄部を持つ柄鏡形である可能性が出て来ました。
敷石住居周辺から回収された土器片は、縄文時代後期堀之内式期のものが大半を占めます。
由緒書きの横には、柄鏡形である形状を示した説明書きもありました。
別角度から、牢場遺跡を今一度…
高ヶ坂石器時代遺跡の見学を終え、稲荷山遺跡の辺りから牢場遺跡の上屋を眺めて…
この後、仕事先に向かったので、この日の散策はこれにて終了です。
また後日、町田を散策しましたので、その様子もアップしますね。
その様子は、また後日。
高ヶ坂石器時代遺跡 (牢場遺跡・稲荷山遺跡)
東京都町田市高ヶ坂2-43
にほんブログ村 福岡(市)・博多情報
https://localkyushu.blogmura.com/fukuoka_town/ranking.html?p_cid=10197823
↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!
人気ブログランキング
https://blog.with2.net/in.php?819555
↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!
Trip-Partner [トリップパートナー]
ぷらたび