2019年5月1日の福岡県うきは市吉井町・浮羽町の歴史散策レポの続き。
「鏡田屋敷」の続き。
鏡田屋敷(その1)のレポ
2階の中広間に入ります。
左手には、床の間と天袋・違い棚があって…。
違い棚には、お人形が置かれていました。こけしのようです。
「吉井町のこけし」
吉井町は、こけしの生産地として有名でした。こけしの職人がいなくなって久しいですが、この町で生産されたこけしは全国の観光地に発送されていました。
ここのあるこけしは、吉井町の山下こけし製作所で生産されたものです。
へぇ~うきは市吉井町は、こけしの産地だったのか~それも全国の観光地で売られているとは…
「鏡田屋敷」の2階、中広間からの眺め。おお~♪これは素晴らしい~♪
濡れ縁がありますが、手摺が低いので、注意しないと…(^^;
右手の窓からは、「鏡田屋敷」の1階の屋根と、その向こう見える「光琳寺」の屋根と見えていて…。
こうした濡れ縁もまた、風情があって、いいな♪
遥か向こうの山々も見渡せて、絶景、絶景♪時が経つのも忘れて、見入ってしまいそうになりました(^^)
1階に下ると、床下にこんなものが…火鉢を入れて、炬燵にしたようです。
台所に、移動して…
竈もありますね~♪
こちらは、冷蔵庫!上段に氷を入れて、下段を冷やす方式で…これはまた貴重だこと♪
台所となる土間には、石段があって、外に出られるようになっています。勝手口ですね。
外に出てみると…あら?水路だ…ということは、舟で運んで来た荷物をここから搬入したり、逆に搬出したりしていたということのようですね。
井戸。
土間から座敷に戻ります。
昔の箪笥に…
長持も!
「なぜ大石・長野水道が必要だったか」という説明書きが掲示されていました。
吉井では古くから、耳納山の山場近くに水田が作られて来ましたが、山の谷川を利用した水田で、水の量も限りがあり、沢山の田を潤すことができませんでした。
筑後川に近い所でも、地面に比べて筑後川の水位が低く、直接水を引く方法がなく、ごく一部の湿地帯に水田ができるくらいで、残りの大部分は畑にしかならず、荒れ地や藪になっていたそうです。
日照りが続けば作物は枯れ、大雨が降れば洪水に悩まされ、村人は生活することができなくなることもあったとか。
そこで、筑後川の上流の水位の高い所から水路を通して水を引き、荒れ地を水田にして、村人の生活を安定したものにしようとしました。
古文書も展示されていて…
「大石・長野水道工事を発起した五庄屋と先人の業績」
5人の庄屋たちが久留米の有馬藩に筑後川から水を引き入れる工事の嘆願書を提出。この嘆願書には、「これらの工事に掛かる費用は私共、五人の庄屋が全部受け持ち決してお上(有馬藩)にはご迷惑をかけませぬ」と書かれていました。
寛文4年(1664)1月11日に工事が始まり、長野村(吉井町)の入口には五人の「はりつけ台」が建てられ、これを見た人々は「五庄屋どんを殺すな」とばかりに、老人、女、子どもまでがこの水路工事にかかり、寛文4年3月に人工の川(南新川)が完成しました。
川の新設工事の成功により、この地方が有馬藩有数の穀倉地帯となり、田畑だけでなく、唐臼、水車が造られ、精米、製粉、酒造、青面、櫨蝋、菜種油など、工業・商業の豊かな町づくりの基盤となりました。
なるほど…この散策で見た「南新川」は、人工の川・水路だったんですね。
筑後川に近いので、水は豊富とばかり思っていましたが、河川は低い所を流れますから、地盤の高い所にはなかなか持って来られないですよね…
水路工事を嘆願した五庄屋と、工事に携わった村人たちに敬服です(^^)
「大石・長野水道」の工事に係る古文書・資料も展示されていて…
こちらにも…
たくさん残っているんですね♪スゴい!
「鏡田屋敷」の建物内の見学を終え、外に出て、主屋を眺めて…
敷地の外に出て、今一度、「鏡田屋敷」を…
西のお隣「光琳寺」との間の路地に進み、先程土間から見た水路をじっくりと…
「鏡田屋敷」の東側には、蔵造りの建屋があります。これいらも「鏡田屋敷」の一部のような感じでした…
「鏡田屋敷」。素晴らしい歴史的建造物でした(^^)
「鏡田屋敷」を見学した後は、「清光禅寺」に向かいました。
その様子は、また後日。
鏡田屋敷
福岡県うきは市吉井町若宮113-1
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