2020年4月10日の三重県津市散策の続き。
「塔世橋」を渡り、「津観音」をお参りした後は、「寒松院」に向かいました。
津観音(観音寺大宝院)・塔世橋のレポ
「津観音」の参道を南に進んで行くと、大通りに出るんですが、中央分離帯には、大きなフェニックスが!たくさん並んでいますね~ここは南国か?という感じです(^^)
参道から一本東側の路地を歩いていると、民家の前に「旧町名 大瀬古町」という石碑がありました。「せこ」という言葉は、小路や横町を指す言葉で、寛永元年(1624)の津町二十二町の中に「大せこ」とあります。町名の由来は明らかではありませんが、「せこ」の中心であったと思われます。
その路地の先には、「旧町名 山之瀬古町」という石碑もあって…
14・15世紀頃に栄えた津興にあった旧津町の町名で、その地の牟山神社にかかわると言われ、16世紀の津城下形成時に津興から現在地へ移転させられできた町です。
寛永12年(1635)の津町三十一町の中には「山之世古」の名が見えます。
今度は東に路地を進んで行くと、大通りに出るんですが、その角にも石碑がありました。
「寺町百八灯」。大阪冬の陣・夏の陣で戦没した藩士を偲んで、7月15日の夕べ、寺町堀川沿いに百八の高張提灯が灯されるお盆の名物行事でしたが、戦中の灯火管制で取止めとなり、堀川も後に埋められていました。
その大通り沿いに、大きな石塔が並ぶ空間があるんですよね。
こちらが「史跡 津藩主久居藩主歴代墓苑」。この地を治めた藤堂家の墓所になります。
大きな五輪塔がこれだけ並ぶと、壮観だな~!
由緒書き「津市指定史跡 藤堂家墓地26基」
「寒松院」は津藩主藤堂家の菩提寺で、津藩と支藩の久居藩の藩主の墓が並んでいます。
津藩の初代から10代まえでの藩主とその家族など15基が本堂の西側に、久居藩は津藩主となった藩主を除いた藩主とその家族の墓など11基が本堂の北側に並んでいて、形は五輪塔と板石の2種類あり、久居藩の墓はやや小ぶりで、元の位置から移転されています。
「寒松院」は、2代藩主藤堂高次公が創立した「昌泉院」が始まりで、後に藩主の菩提寺となってから初代藩主藤堂高虎公の院号を取って「寒松院」と改められました。
本堂、書院の他、位牌堂があり、寺領も400石が与えられ、末寺も18寺を数え、藩の費用で寺の維持が行われ、藩主が毎月参拝し、歴代藩主の命日には法要が営まれました。
明治時代になって藩の保護を失いましたが、明治12年(1879)には第1回の県議会が開催されるなど、この地方の中心的寺院でした。
昭和20年(1945)戦災を受けてすべての建物が焼失、藤堂家墓石も破損。
戦後、寺の敷地も小さくなり、西側にあった堀川も埋め立てられ、現在は道路に変わっています。
この由緒書きの右側には、配置図があって…これは分かり易い(^^)
まずは、入口の傍の墓石は、津藩6代藤堂高治公の子藤堂高般(たかかず)公のもの。院号は本寂院。
その隣は、津藩9代藤堂高嶷(たかさと)公の子藤堂高崧(たかとし)公のもの。院号は謙光院。
その並びには、津藩6代藤堂高治公の墓石。久居藩4代藩主だったのですが、本家津藩主になりました。
こちらは、津藩初代藤堂高虎公夫人松壽院のお墓です。一部欠けちゃってしますが、大きいですね。
その隣には、初代藤堂高虎公の墓石が!院号は「寒松院」。
高虎公の墓石に近づいて…
その横には、津藩2代藤堂高次公の墓石があります。ここ「寒松院」を建立された御方です。院号は大通院。
その隣に、津藩3代藤堂高久公の墓石。院号は了義院。
そのまた隣には、津藩4代藤堂高睦(たかちか)公の墓石。院号は大享院。
高睦公の前には、津藩5代藤堂高敏公の墓石があって…。院号は大輪院。
高敏公の横に、津藩7代藤堂高朗(たかほら)公の墓石。院号は孝譲院。久居藩5代藩主でしたが、津藩7代藩主になりました。久居藩主の時の名は、藤堂高豊公。
その隣には、津藩9代藤堂高嶷(たかさと)公の墓石があります。院号は祐信院。久居藩7代藩主で、本家津藩を継ぐことになりました。久居藩主の時の名は、藤堂高敦公。
「その2」に続く。
寒松院(津藩主久居藩主藤堂家歴代墓苑)
三重県津市寿町5-24
藤堂高虎と言えば、主君を渡り歩いた人物で、築城の名手ですよね。
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