2020年1月4日の太宰府歴史散策の続き。
「大宰府政庁跡」を見学し、「仏心寺」をお参りして、「月山東地区官衙」を見学した後は、更に東に向かって、歩いて行きました。
大宰府政庁跡・月山東地区官衙跡・佛心寺のレポ
「月山東地区官衙」から、東に、太宰府天満宮方向に進んで行くと、石碑が2基並んでいます。
こちらは、「史跡 大宰府学校院跡」。
もう一つの石碑には、「学業院址」と刻まれているようです。
「学校院跡」の由緒書き。西国の役人を養成する機関で、大宰府政庁の東側にあるこの地区は、小字名を「学業」ということから、学校院があったと考えられています。
「学校院」では、博士を教官として、中国の「五経」「三史」等の書物を教科書に、政治・医術・算術・文章など、役人として必要なことを学びました。
古代の教育システムでは、通常は国(ほぼ現在の県にあたる)毎に国博士が置かれますが、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の六国には博士は置かれず、学生は大宰府で修学しました。
学生は、所定年内に必要な科目を修得した後に、試験に合格すれば役人として採用され、天応元年(781)には、約200人の学生が大宰府に集まったとの記録があり、大宰府が学問の中心地としても機能していたことが分かります。
「学校院跡」を今一度…
学校院跡は、以前レポしますよ。
学校院跡のレポ
「学校院跡」から更に東に進むと、一つ目の路地の角に、石碑を発見。
その石碑には、「高橋紹運公墓道標」と刻まれているようです。この路地の先、四王寺山の中腹に「岩屋城跡」に、「高橋紹運の墓」があるんですよね。
高橋紹運(じょううん)は、戦国時代、豊後大友氏の家臣で、吉弘鑑理の子、立花宗茂の実父に当たる人物。勇猛果敢な武将で、島津氏との「岩屋城の戦い」では、岩屋城を守って、城兵とともに、玉砕。島津氏の足止めに成功…
そういえば、「高橋紹運の首塚」が、ここより南の二日市に、ありますね。
高橋紹運の首塚のレポ
更に東に進むと、「戒壇院」があります。
「戒壇院」の由緒書き。「戒壇」は、正式な僧侶になるための授戒を行う場所で、唐から渡って来られた鑑真和上により、天平勝宝6年(754)東大寺に設けられたのが始まりです。
天平宝宇5年(761)下野薬師寺とこの観世音寺に「戒壇院」が置かれ、「天下の三戒壇」と呼ばれました。
ここ西戒壇では、西海道諸国(九州)の僧尼を対象とし、天文23年(1554)まで授戒が行われた記録が残っています。
江戸時代、黒田藩家臣鎌田昌勝、博多の豪商浦了無(うらりょうむ)等によって再興され、本堂を始め、現在に伝わる鑑真和上像、本尊脇侍、梵鐘、鐘楼等も新造され、元禄16年(1703)藩命によって観世音寺を離れ、博多禅宗四ヶ寺の管理となりましたが、現在は臨済宗妙心寺派の寺院になっています。
本尊盧舎那仏は平安時代の作で、国の重要文化財に指定されています。
「戒壇院」の山門。
山門をくぐって…
本堂内部のご本尊と、脇侍。
「戒壇院」は、下町おやじの好きな場所の一つで、何度も訪問しているんですよね。
戒壇院の以前のレポ
「戒壇院」の東隣には、「観世音寺」があって…この堂宇は、講堂。
講堂に向かって左手には、金堂があります。
「観世音寺」も、下町おやじの好きな場所の一つなので、何度も訪問しているんですよね。
観世音寺の以前のレポ
「観世音寺」からは、北東の方向に路地を暫く進んで行きます。
すると、広場のような空間に、石碑があるのを見かけました。
石段を上って、その石碑に近づくと、「崇福寺毘盧庵跡」と刻まれていて、お地蔵様がいらっしゃいました。この地に、「崇福寺」の庵があったんですね。
石碑のある広場のようなスペースの周囲には、お地蔵様がいくつも並んでいて…
かなりの数のお地蔵様です。
どのお地蔵様にも、真新しい前掛けがかけられていました。
更に奥に進んで、途中、右折して路地を進むと、今度は左手に空き地があるんですよね。
その空地にも、石碑があって…
その石碑は、「崇福寺法堂跡」と刻まれています。隣には、お地蔵様が!
石碑の横にある由緒書き「横岳崇福寺跡」。
「太宰府崇福寺」は、臨済宗のお寺で、山号はその地名から「横岳山」といい、創建は仁治元年(1240)湛慧禅師によって開かれ、翌年、帰朝した聖一国師が開堂演法し、寛元元年(1243)官寺となりました。
天正14年(1586)島津兵による岩屋城攻めにより全山が焼失したとされ、境内推定地内で、正平22年(1367)銘の武藤資能のものと思われる供養塔が出土し、筑前守護職の武藤少弐氏が背景となり成立した初期禅宗寺院で、室町時代には五山十刹に位置づけられる重要な禅寺でした。
昭和42年の発掘調査により、この地に中心建物であった礎石建ちの法堂(または仏殿)と僧堂がL字に配された計上で確認されました。
そうそう、博多にある「崇福寺」は、元々、太宰府横岳にあった寺院で、慶長5年(1600)に福岡藩初代藩主黒田長政公によって、移されたんですよね。
なるほど!ここに「崇福寺」があった訳か~
崇福寺のレポ
それから、武藤資能のものと思われる供養塔も、以前レポしているんですよね。
武藤資頼・資能の墓(供養塔)のレポ
その由緒書きの横には、「太宰府横嶽山諸伽藍図」元和4年(1618)と、昭和42年(1967)の発掘調査風景の写真が掲示されています。
「横岳崇福寺法堂跡」を今一度…。周辺は、住宅地になっています。
「学校院跡」「高橋紹運公墓道標」「戒壇院」「観世音寺」「崇福寺毘盧庵跡」「横岳崇福寺法堂跡」と回った後は、「瑞雲寺」に向かいました。
その様子は、また後日。
学校院跡
福岡県太宰府市観世音寺4-1辺り
高橋紹運公墓道標
福岡県太宰府市観世音寺5-8-7付近
戒壇院
福岡県太宰府市観世音寺5-7-10
観世音寺
福岡県太宰府市観世音寺5-6-6-1
崇福寺毘盧庵跡
福岡県太宰府市観世音寺6-1
横岳崇福寺法堂跡
福岡県太宰府市観世音寺6-13
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